ペイデイ
  01|2月25日(火曜日)/彼女    給料日の夜、アパートの玄関でベルが鳴る。二度。僕は慌てず騒がずガスコンロのつまみをひねって火を消し、木べらをトマト煮の鍋に突っ込む。水道の蛇口をひねる。流れ出る冷たい水で手を洗う。蛇口を閉める。手首を振って水を切り、ブルージーンズの太ももあたりで手を拭きながら玄関へ向う。ドアを開けないではない。こんばんは。  ドアの外には彼女だ。彼女もこんばんはと言う。彼女はさっきスーパーマーケットのレジで会った時よりも、一段とキュートに見えるようだ。まあもっとも、スーパーマーケットのよれた薄っぺらな制服の方がキュートに見える女の子というのもいかがなものかと思われる次第なのだが。それはそうと、彼女。他にどう呼べばいいのだろう。うむ。今のところ良い考えが浮かばないので、とりあえず思い付くまでの間、彼女は彼女と呼ぶことにしよう。  彼女、すなわち彼女は、まるで彼女自身が宅配便か何かの荷物のようにじっと立っているのだ。季節遅れのコートを着込み、ぱんぱんに膨れ上がったボストンバッグを無理やり肩に掛けて、赤いプラスチックのちゃちなテレビを両腕に抱えて、それで身じろぎもせず。  僕はドアを大きく開いて肘で押さえ、手招きをする。彼女は僕の目の前を素通りして僕の部屋の中に入る。僕は念のため部屋の外の通路に顔を出して左右を確認してみるのだが、蛍光灯が点滅しているだけで、案の定荷物の配達人は見当たらない。当然サインするべき受領証もない。僕は頭を引っ込め、ドアを閉めて鍵を掛ける。  部屋に戻ってみると、早くもベッドの上にはボストンバッグの中身が広げてあって、彼女はと言うとクローゼットの前で僕のハンガーに見知らぬ厚手のセーターを掛けているところである。 (こうして彼女は僕の部屋に越して来たのだった)     02|昨冬T    昨冬、僕は自動車を走らせていた。夜明け前、誰もいない高速道路だ。側路灯の白い光が闇に浮かび奥へ奥へと、どこまでも並んでいた。対になって並んだ光がフロントガラスの中央から音もなく左右に開き、加速しながら近づいてきては僕の頭上を流れ去っていった。道路の外は真っ暗闇だった。この高速道路は暗く静かな海の上を走っているのだと僕は想像してみた。一方目に見える道路の上では、ある一対の光が流れてしまうと、もう次の対の光が加速していた。ここで起こっている出来事はただその繰り返しだけだった。夜明け前の高速道路ではそんなどうでもいいようなことだけがひたすら繰り返されていた。言ってみればテレビの機器チェックのようなものだった。  ところで、真っ暗で誰もいない高速道路は良い。楽で良い。数え切れない、膨大な、無数のディテールについて遺漏なく言及しようなんていうばかげた試みから開放されるのだから。すなわち暗闇、それだけだ。     03|2月25日(火曜日)/家路、地下鉄    給料日の午後5時半。かち、という時計の針の音と同時に僕はペンを放り出す。僕は仕事を切り上げ、椅子に座ったまま背伸びする。書類を束ねて並べ替えもせず引き出しに放り込む。コーヒーのマグカップは机の手前から奥へ、場所を移すのみ。それからペンだのクリップだのを簡単に片づけて、席を立つ。ボスに(僕は大部分の上役のことを、面と向かっていない時に限りボスと呼ぶのだ。ここでは課長のことだ)一言挨拶したのちオフィスを抜け出す。一目散に社屋も抜け出す。  僕は通りを歩く。数え切れない、無数のディテールの中を歩いていく。マンホールの丸い蓋の模様、錆び具合。ビルの壁に貼ってあるポスターの文字、写真、褪せ具合。足元の石畳の不揃い加減。いちいち気にしていられないから気にせずスルーしていくんだけど、僕の周りには無数の、それこそ無限のディテールがあふれているのだ。それを適当にスルーし続け、僕は通りを歩く。  大まかに見ると、ここはやたらと角張っている。通りに沿ってオフィスビルが並んでいるのだ。スクエアなビル、その次もスクエアなビル、さらにその次も。つまりまあ、何かとスクエアなのだ。僕としては特に困りはしないのだけれど。  通りの中央では青や黄色の自動車がゆっくり行き交う。僕は急ぎ足で歩く人やゆっくり歩く人とすれ違う。  交差点の角に陣取っているあの古臭くてもっともらしい銀行の脇にはキャッシュディスペンサーコーナーがある。若い人とすれ違い、年老いた人とすれ違う。目の前を自動車が通り過ぎる。僕の横で自動車が止まる。横断歩道を渡る。銀行のキャッシュディスペンサーコーナー、なんと入り口は自動ドアである。そこで僕は僕の口座から幾らか引き出す。繰り返すが、今日は給料日なのだ。  自動ドアを出て、すぐ隣の薄暗いトンネルにもぐり込む。奥へ反響する足音を追うように、僕は急な階段を地下へと降りる。階段を降り終え、立ち止まりもせず、狭くて暗いコンコースを進む。壁には誰かがポスターを剥ぎ、貼り、それもまた剥いだような跡が白く重なって残っている。券売機はスルー。改札の駅員に定期券を示す。改札を抜け、さらに階段を降りる。地下のプラットホームで地下鉄を待つ。  僕はまっすぐでフラットな洞窟の奥を覗き込む。すぐそこまでしか見えないんだけれど、この先にもここと同じような駅があるのだろう。おそらくその先にも。しかしさらにその次はどうだろう。摂氏15度きっかりのなめらかな水をなみなみとたたえる地底湖があったとしても、何の不思議もありはしない。  巨大な掘削ドリルなんかと変わらない機械的な強靭さで地下鉄がやって来て、大々的に空気を動かし、停止する。自動扉が開く。僕は最後尾の車輌に乗り込む。自動扉が閉まる。列車が動き出す。最後尾の車輌の、今のところ使われていない無人の運転席越しに後ろの窓に目をやる。さっきまで僕のいたプラットホームの明かりは、やがて周囲の暗闇にテレビ画面のようにスクエアに切り取られ、そしてそのまま縮小していく。縮小しながら、横へスライドしていく。横へ流れていき、やがて、すうっと暗闇に隠れて見えなくなる。そしてその後は暗闇、ただそれだけだ。     04|昨冬U    僕は自動車の速度を緩め、ウインカーを出し、車線を移し、ハンドルを少しずつ切り、高速道路を降りた。  赤信号で自動車を停止させ、信号機のシグナルが青に変わるとアクセルペダルを踏み込んだ。ウインドウの外には、どこを見たって人一人いやしなかった。そういう時間なのだ。ブレーキを三度に分けて踏んだ。ウインカーを出した。後続二輪車を巻き込みはしないか目視確認した。ハンドルを切った。交差点内では徐行。ハンドルを戻しながらほんの少しずつアクセルを踏み込んでいった。そして交差点を抜けるあたりで力強く加速した。やがて再びブレーキ。その繰り返し。我ながら模範的な走行を続ける自動車の運転席で、僕はフロントガラスの向こうに見えるものに対して条件反射的に反応するだけであって、概ね無感覚でいた。  無感覚でいるうち、不意に、夜明けが近いようだと僕は思った。その考えはまるで突然やって来た。薄く開いた窓から流れ込む空気は冷たく、静かで、なめらかで、例えば地底湖のあらゆる成分が沈殿した後の上澄みのような、しかもそれは夜の間になすべきことを全て済ませ、朝を迎える準備ができてしまっていて、今はただほんのひと時の休息だというような、いや、違う。違う、そんなものは例外なく後付けの寝言に過ぎない。けっして、愚かしい言葉で飾り立てられなければならないような直感なんかでありはしないのだ。あらかじめ知っていたという以外に一体どんな方法で僕が夜明けの訪れを察知できたというのだ。誰もいない道路、冷えた空気、そして何より午前5時半、そういう周囲の状況をデータとして受け取り、それをもとに僕の記憶のフォルダ(それらがどのように整理されているのかは知らないが。アルファベット順? 日付順? それとも特有のコード順?)の中から検索され、しかしながらその時すぐには意識されなかった記憶の一クラスタが、遅ればせながら意識の中の思考の層までフィードバックされた結果、あたかも的確かつ詩的な洞察力でもって夜明けが近いことを知覚したというような錯覚、そう、錯覚に陥ったに過ぎなかったのだ。僕は気付いているべきだったし、したり顔を一枚はがせば気付いているようなものだったのだ。時刻からしてもうすぐ夜が終わり、朝になるのだということを。僕は自動車の窓を閉ざした。  自動車のヘッドライトが暗い通りを明るく円形にくり抜くように照らし出した。角の建物の壁、歩道、ごみ箱、石畳。世界はひどく限定されていた。僕が自動車を操作する。自動車が従う。目に見えるものが移ろう。他には何もない。何も聞こえない、何も触れない、何もない。それだけがここにある全てだった。     05|2月25日(火曜日)/スーパーマーケットにて、そして今    職場から帰る途中、近くのスーパーマーケットに立ち寄ることにする。いつものさえない小さなスーパーマーケットだ。まずは店内に入ってすぐ、プラスチック製の買い物かごを一つ手に取る。  店内を二周した結果、僕のかごの中には玉葱、人参、パプリカ、牛の挽き肉、貝殻の形をしたパスタ、あさりの缶詰、カットトマトの缶詰、安物の赤ワインが収まっている。二周したと言っても何も僕はそれら全てについて取捨選択をしたわけではないのだが、それでも僕は僕なりに必要なものを手にできたと思うのである。それで僕は会計の順番を待つ人の列に加わる。  そのうち僕に順番が回ってくる。僕はかごを白い台の上に置いてみる。レジスター係の女の子は僕のかごを引き寄せながら、いらっしゃいと僕に言う。うん、そろそろ帰ろうと思うんだけどね、と僕は言う。  彼女はろくにレジを打とうともせず、僕のために「レジスター調整中、隣へお回り下さい」のプレートを僕のかごの後ろに置くのだ。僕の次に順番を待っていたおばさんがあるいは文句を言ったようにも聞こえたけれど、僕ら二人には聞こえやしない。だって彼女はもうレジ打ちなんかする気分じゃないし、再びレジ打ちに戻るためには幾つかの調整されるべき問題がある。今それをやっているんだ。邪魔はしないでいただきたい。僕たちは互いの部屋の電話番号を交換する(僕は自分の部屋の番号を思い出すために鞄から手帳を取り出さなければならなかったんだけど)。僕は手帳に僕の部屋の簡単な地図を描き、そのページをちぎって彼女に渡す。それから僕たちはウインクを交換することも忘れない。それではレジスターの(係の)調整完了、お待たせしました。  そしてその一時間後、パートタイムを終えた彼女は僕の部屋に越して来たというわけだ。荷物をまとめ、テレビを抱えて。  そして今、僕たちはダイニングキッチンの手狭なテーブルで赤ワインを飲み、あさりとトマトのパエリヤとオニオンスープを食べている。食べながら、僕は彼女に僕がテレビを持っていないことを知っていたのか訊いてみる。もちろん、と彼女は言う、分かるわよ。分からないな、なぜ彼女がそうと分かったのか。確かに僕はテレビを処分していた。なぜって、僕の持っていたテレビではろくでもないことばかりをやっていたんだ。フットボールのワールドカップ予選では我が国の代表チームは連敗を重ねるし、ニュースキャスターはところでなんて言って笑顔を作るし、飛行機は墜落するし、ニュースキャスターはまたしてもところでなんて言って笑顔を作るし、結局代表チームは敗退するし、昼から夕方にかけてはテレビを見ないけれど夜はそんな具合で、もっと遅くなると、食べ物や女の子や知識人や知識や音楽や、とにかくそういう何かを台無しにしなくては気がすまないようなことばかりをやっていたのだ。そしてそれに飽きるとまたニュースキャスターがところでって言うのだ。その繰り返しなのだ。だから僕はテレビを処分した。去年の冬のことだ。     06|昨冬V    やがて僕はゆったりとブレーキペダルを踏み込んでいった。速度は穏やかに絶え、周りの景色は滑らかに、静かに停止した。夜が明けつつあった。夜の暗闇はほんの気持ちばかり水を混ぜたように、かすかに青く薄まっていた。僕は自動車を停止させ、ヘッドライトも消した。そこが埠頭であって海のそばであることが僕の目に見えた。  僕はハンドルの奥へ手を伸ばし、自動車のキーを回して引き抜いた。ドアロックを外し、ドアを開き、背中を丸めて外に出た。両足で埠頭に立ち、それから背筋を伸ばしてみた。空気は冴え冴えと冷え込んでいて、鼻と胸がかすかに痛んだ。あたりは寒くて、それに静かだった。波が手遊びのように寄せては岸壁を濡らす音、小さな波が崩れて水面に落ち水と水の触れ合う音、一定のリズムで繰り返される密やかな音だけが僕の耳に聞こえた。僕の耳に聞こえるものはそれだけだった。あたりは薄暗いが、どこまでも遠くまで見えるようだった。僕は立ち並ぶ倉庫や岸壁や防波堤、それから海面や水平線、水平線のすぐ上の空なんかを順番に目に映し、ゆっくりと、もったいぶって、時間を費やし、目を凝らした。  そして僕はジーンズのポケットに両手を突っ込み、のろのろと足を運んだ。自動車の反対側へ回り、助手席のドアを開けた。僕は腰を折って助手席にかがみ込み、そしてテレビを抱え上げた。テレビは黒いプラスチック製だった。やはり黒いばかりの画面は対角線の長さが確か14インチで、若干横長の長方形だった。ひと抱えあるくせに、テレビは情けないほど軽かった。抱えて歩くうちに、僕自身まで情けなく思えた。  僕はテレビを持って海の方へ歩き、岸壁の縁で立ち止まった。僕の目の前にあるものはもはや海だけだった。浅く眠る草食動物の群れのように凪いだ、平らな海だけだった。水平線はかすかにふくらみをもった直線を描いて横に伸びていた。夜は急速に明けて、つまり朝になりつつあった。僕はテレビを抱え直し、岸壁のぎりぎりのところから片足を引いて半身に構え、後ろへたっぷりと一度だけ反動をつけ、テレビを海の上に放り出した。  テレビは大きな放物線を描いた。ゆるく回転しながら冴えた空気の中を飛んでいき、回転を終えながら、岸壁から15フィートほど先の海に飛び込んだ。水しぶきが上がって潮のにおいがした。磯くさいしぶきの幾つかは僕のコートにまで飛んできた。僕は大げさにうねってみせる波紋を見下ろした。水面がひとしきり揺れ、波紋が広がって、そして消えていくのを、僕は見下ろしていた。波紋が完全に消え、そこにテレビ状の物体が放り込まれた痕跡が見えなくなるまで、僕は見下ろしていた。     07|2月25日(火曜日)/再び彼女    食べ終えると僕は食器を台所の流しに持っていき、冷蔵庫からカマンベールチーズを取り出してテーブルに戻った。  安物の赤ワインのボトルも空になると、僕たちはベッドに並んで寝そべった。そうして、彼女は新品のファッション雑誌を、僕は『細胞の分子生物学(第3版)』を、それぞれ広げる。彼女が何を読んだって勝手であるのと同様、僕が何を読もうと僕の勝手なのである。  それから15分ほどで彼女は雑誌に飽きたらしく、僕を乗り越えてベッドを降りる。僕は彼女の様子をちらちら見ながら、読書を進める。  彼女はつまらなさそうに僕の本棚から本を引っ張り出しては本棚の別の場所に収め、クロゼットの戸を開けては閉める。食器棚の中のにおいを嗅いでみる。言い遅れたけど、僕の部屋ではベッドからダイニングキッチンや玄関まで一目で見渡せるのだ。つまりベッドが最も奥で、部屋の造りは至って単純な1DKということになる。彼女は冷蔵庫の扉を指でそっと押して閉め、トイレに行く。2秒後、意味もなく水を流してみる。これは音で分かった。簡単な理屈だ。通常、トイレの滞在時間が2秒ということはありえないだろう。僕はページを繰る。  彼女はどこからかチェスの駒とチェス盤を引っ張り出してきた。彼女がテーブルの上にチェス盤を据え、その上に駒を彼女なりに並べて手招きするので、僕は本を閉じてベッドを降りる。  第一戦はあっけなく決着が付いた。決着がついたときには、僕が三つ目のポーンを失ったのに対して彼女はとうとうキング一つを残すのみとなったのである。しかしながら、それで勝負が決したということを説明するのに、僕は大変骨を折らなければならなかった。というのも、ゲームを始めた当初、彼女はチェスに関しては駒の動き方さえ知らなかったからだ。そこで第二戦は、僕が一手動かした後、彼女は二手動かして良い(もちろん彼女が望むなら一手でも良い)、ただし同じ駒を連続して動かしてはならない、というルールでやってみた。僕の熱心なアドバイスの甲斐あって彼女ゲームを有利に運び、ついには僕のキングを見事に捕獲したのである(彼女の名誉のために言い添えておくけれど、少なくとも最後の二手については全く彼女自身の立案・遂行によるものだった)。  彼女は上機嫌で立ち上がって、シャワーを浴びるために手早く服を脱ぎ捨てていく。僕はチェスメンと盤をまとめてベッドの下に押しやる。で、『細胞の分子生物学(第3版)』に戻る。     08|3月25日(火曜日)/ケープペンギン    給料日の夕方、くたくたにくたびれた上でようやく部屋に帰り着く。ポケットから鍵を取り出す。玄関の鍵を開ける。扉を開く。彼女は床に座り込んでベッドにもたれ、真面目くさった横顔をこっちに向け、バニラアイスの一リットルカップにスプーンを突っ込んではすくう。彼女は手許も見ずに、時々機械的に手を動かす。テレビそのものはここから見えないが、多分テレビにでも見入っているのだろう。  僕は部屋に入り、彼女にどんどん近づいていく。上着と鞄をベッドの上に放り出す。彼女のアイスクリームを取り上げ、一口失敬。クリーム色をしたバニラのアイスクリームはほとんど手付かずで残っている。ランダムに抉れたクレーターやカップの内壁に接しているあたりが溶け始めている。テレビはケープペンギンのドキュメンタリー番組をやっている。僕が以前所有していたテレビに比べると、なんて良心的な番組をやっているのだろう。彼女の横顔を見る。彼女の顔に、やけにちらつくテレビの光が映ったり消えたりしている。  僕はアイスクリームのカップを持って台所に戻る。テーブルの上にカップの蓋がある。蓋を摘み上げ、カップにかぶせる。冷蔵庫の上の、冷凍庫の扉を開ける。今のところ僅かばかりの氷が入っているだけだ。アイスクリームのカップを冷凍庫にしまう。さあ、新入りだ。せいぜい仲良くやってくれや。で、冷凍庫の扉を閉める。それで僕は彼女の横に戻る。何でもケープペンギンは、重油を運ぶ大型タンカーの度重なる事故のせいで今まで何度も生存の危機に瀕してきたのだとか。  僕はベッドに腰掛ける。ケープペンギンは胸から腹にかけて白く、白いところに小さな黒い斑点が散乱している。海中では、上からは背中が黒いために、そして下からは腹の白色が太陽の光に紛れて、天敵や獲物から発見されにくいのだという。彼らはペンギンの中でも特に潜水能力に秀でていて、戦闘機のようなフォルムで海中を飛び回るのだ。しかし、いわしの群れに対しては優れた狩人である彼らも、重油に対してはまるで無力だった。彼らは重油を逃れて、ケープ岬を回ったところにある湾内の海水浴場に住み着いた。海水浴場で、彼らは人間を怖れず、ペンギン歩きで歩き回る。彼らの背丈は(体型もだが)ちょうど、海水浴に来ていた一家の子供、ようやく立って歩けるようになったばかりといった子供と同じくらいであるようだ。僕はベッドを降りて彼女の傍らに座り込む。  ペンギン、彼らは大航海時代まで少なくとも北半球の人間にはその存在さえ知られず、しかしペンギンの祖先がペンギンに進化してからこの方、彼らは常識的な意味で絶えず、今までずっと存在し続けてきたのだ。日々よたよたとペンギン歩きをし、海に潜り、羽ばたくように海中を泳ぎ、小魚を捕え、それからあるものは海岸の斜面に巣穴を掘り、あるものは潅木の根元に巣を作り、またあるものは目をつぶって南極の寒さに耐え、あるものは列を作っては順に流氷に飛び乗って遊び、常識的な意味において絶えず存在し続けてきたというのだ。ひと時も、一瞬たりとも絶えることなく。  彼女はあくびをする。そして僕の肩に頭を載せる。     09|昨冬W    テレビ、お前は今海にいる。海に沈んでいるのだ。しかしそのくせ、今や同じ海にいるペンギンを映し出すことさえできないのだ。お前には彼らがどんな姿をしていて、どんな生活を営んでいるのか、想像することもできないだろう。何という貧困、想像力の貧困なんだ。何という貧困、発想力の貧困なんだ。お前にはどうすることもできやしない。終わりなのだ、何もかも。運命的に連続性の欠如したお前にとって、それは、そこにいるその状態は行き詰まりなのだ。手詰まり、膠着、硬直、凍結、何にもなりやしない。お前はそこにいたところで海に加わることもできないだろう。ただの閉じた箱だ。何者も出入りできない閉じた箱だ。何のためにそこにいるのだ、何のためにそこに至ったのだ、それではまるで全くの無意味、無価値ではないか。しかしそれがお前なのだ、テレビ。意義など価値などありはしないのだ、テレビ。それがお前なのだ、テレビ。お前はいつだってそうなのだ。そうだったし、そうであるし、この先も必ずそうだろう。それがお前なのだ、テレビ。     10|4月25日(金曜日)/スカンジナビア半島のちょっと上あたり    給料日の夜。僕たちはそのまましばらくじっと時間を過ごした後、表に出てみることにする。僕はドアを開けて通路に出る。通路の蛍光灯は今夜も水に溺れるように点滅している。ここのところずっと溺れ続けているのだが、なかなかしぶといのだ。外から手でドアを押さえて彼女が出てくるのを待つ。彼女はカーディガンのボタンを掛け終えてから水色のスニーカーをつっかけ、通路に出てくる。僕は手で押してドアを閉め、ジーンズのポケットから西部劇のガンマンのように素早く鍵を出し、ドアに鍵を掛ける。彼女は既に通路を歩き始めている。  僕たちは肩を並べてアパートの外に出る。月の明るい夜だ。僕たちは誰もいない路地を歩いていく。四つ角を曲がって、水路に架かる橋を渡る。ひっそりと水の流れる音だけが聞こえる。彼女は何も喋らない。僕も言うべきことがないので黙っている。橋を渡り、水路に沿って曲がる。自動車の見当たらない車道を渡って向こうの方に、安レストランの明かりが見える。  飛行機、と彼女が言った。僕は夜の空を見上げてみる。月が明るい。雲が出ているけれど、雲のないところには星が見える。飛行機のランプは見付からない。ほら、あの、スカンジナビア半島のちょっと上あたりよ、と彼女が僕に教えてくれる。雲のことを言っているんだろうけど、そんな形をした雲がどこにあるんだ。見当たらない。彼女が具体的に示してくれないのでどの雲のことか分からない。そのうち、残念でしたと彼女がささやく。飛行機、雲の中に入っていっちゃった。それでも僕は、目を凝らして夜の空を見上げてみる。やっと見付けたスカンジナビア半島のちょっと上あたりを。     11|出発ラウンジT(この節は未来時制で語られるだろう)    僕たちはそれぞれにサングラスをかけて、空港の出発ラウンジを早足に通り過ぎるだろう。荷物は二人合わせてハンドバッグ一個だ。スーツケースは預けてある。飛行機の貨物室に載せられ、ついた空港で僕たちの手元に戻ってくるはずだ。でもそんなことよりも今重要なのは、空港の出発ラウンジの風景なのだ。  ラウンジは明るく、透明なガラスが多く用いられて開放的な造りになっていて、それで少しコーヒーの匂いなんか漂うに違いない。それから観賞植物やソファーで部分的に仕切られながらもまるでどこまでも続くような空間に、絶え間ないざわめきが反響し、拡散してはまた湧き上がるのだ。人々はというと、立っていたり座っていたり絵画的なポーズに配置で、あるいは立って腕を組み二、三人で談笑し、あるいはソファーに座り込み雑誌のページをめくるのであろう。ある人は日の当たるガラス張りの壁際で公衆電話の受話器を耳に当てて首を傾け、電話機に肘を掛け、腰をひねるようにしてずらし、片脚に体重をかけ、楽な方の脚は膝を軽く曲げて足首を軸足の足首に交差させて添え、そうしてしきりにコードを指に絡めるだろう。またある人はカフェのカウンターの背の高いスツールに腰掛け、足元に黒いブリーフケースを置き把手に靴の爪先を引っ掛け、湯気の立つ濃いコーヒーやアーモンドのスライスが埋まっているマフィンは脇に押しやり、まるでないものとして新聞に読み耽っているだろう。  それで僕たちはラウンジの外れの喫煙コーナーへ足を伸ばしては煙草を吸い、または出発掲示板の前でチケットを取り出してみるだろう。ソファーに並んで腰掛け、手振りを交えつつ到着地での滞在について意見を交し合うのだろう。  空港の出発ラウンジには僕たちと同じような人たちがたくさんいるはずだ。僕たちとは違うであろう人たちも多くいるはずだ。でもみんな一様に、飛行機へ搭乗するまでの限られた時間をここで過ごすのだろう。     12|5月26日(月曜日)/ヘビー級10回戦    給料日の夕方、僕は帰りにスーパーマーケットに寄ってみる。例のプラスチックのかごを手にぶら下げて、ネクタイの結び目を緩める。結局店内を一周することもせず、安物のワインのボトルだけをかごに放り込んでレジスターの順番待ちの列に加わる。レジスターコーナーに彼女はいない。  そして僕は僕の部屋のドアを開ける。彼女は今日も僕の部屋にいるようだ。今まさに湯気の湧き上がる鍋にスパゲティーの乾麺を入れようとしているところである。彼女は玄関のところまで僕を迎えに来て、赤ワインのボトルの入った紙袋を取り上げる。ボトルの首を掴んで紙袋から抜き出してラベルを読み、僕の買ってきた赤ワインにけちを付ける。月に一度の給料日くらい、もっと上等なやつを買ったらどうなの、みみっちい人ね。なんて具合に。無邪気なもんだ。  僕と彼女は彼女の作った夕食を平らげ、みみっちい僕の買ってきたみみっちいワインを飲み干し、向かい合って床に座り込み、チェスに興じる。僕は二つのルークを初めから外して臨んだのであるが、問題にならない。けどそれも仕方ないと言えば仕方ないことだ。彼女はチェス盤の上では生まれたばかりの赤ん坊も同然なのだ。つまり盤上では当然とも言える摂理のほとんどは、彼女にとっては一々新奇なものに見えるのである。  ふと彼女の方を見ると、彼女はベッドの脇にもたれて床に座っているのだが、その頭の後ろ、ベッドの上に、見覚えのないリモコンが転がっている。僕は手を伸ばしてそれを手に取る。手に取って、いろいろな角度から観察してみる。どうやらテレビのリモコンであるらしい。そこでリモコンを彼女の赤いテレビに向け、電源ボタンを押してみる。ぶん、という音を立てて、テレビの画面が明るくなる。やっぱりテレビのものだ(良かった、未知の装置のものじゃなくて)。テレビではヘビー級のボクシングの試合をやっている。どちらも名前さえ知らない選手だ。クリンチをして、レフェリーがお二人さんを引き離す。で、またクリンチ。テレビのことを彼女に言うと、彼女、昼間は本当に暇なのよ、と答える。テレビなんかでも無いよりはまし。暇つぶしにはなるわ。  だって昼間はスーパーマーケットにいるんだろう? と僕。スーパーマーケット? と彼女、あんなものとっくに辞めたわよ。といった幾つかの質疑応答の後、僕はその数よりは少ないながらも幾つかのことを理解した。すなわち、彼女は二月の内にスーパーマーケットのレジスター係を辞めていたこと、その際辞めることを誰にも言わなかったこと。あら、それじゃ今から店長にでも電話しようかしら、と彼女。いやどうだろう、と僕、もう電話は必要ないんじゃないかな。さらに、僕がいない間は特に退屈なので(何でも彼女によると、僕がいても結局退屈なことには変わりないのだそうだ)とうとう部屋中の本を読み尽くしてしまったこと、何と僕の読みかけていた『細胞の分子生物学(第3版)』まで読んでしまったこと。  テレビによると、ヘビー級10回戦の結果は引き分けなのだそうだ。     13|彼女の希望    旅行がしたいわ、と彼女は言う。そうね、東南アジアあたりがいいわ。東南アジア、すごくごみごみした市場があるの。埃っぽくて野菜くずの酸っぱいにおいがする、薄茶色の朝もやの中で、男たちが屋台に顔を突っ込んで、汗をかきながら、化学調味料がたっぷり入ったヌードルを急いで食べてるのよ。競争みたいに。彼らの後ろでは人々が身動きできないほどひしめいていて、だけどみんな不思議と人波を掻き分けてどんどん歩いていくわ。ぬかるんででこぼこの通りには身動きできないほどたくさんの男や女がぎゅうぎゅうになって、人が人を掻き分けながら、それぞれの方向に進んでいくのよ、少しずつだけどね。それから通りの両脇にはぼろぎれでできた露店がどこまでも並んで、麻のかごには山のように、何だかよく分からない葉野菜だとか根野菜だとか、小さなバナナの房や、派手な模様の魚、地味な模様の魚も積んであるし、それから真っ赤な香辛料、緑色や黄色の香辛料、干した薄茶色の香辛料、古着の山、それに、中には逆さに吊るされた鶏なんかも並んでるの。とにかく、何もかもがごちゃごちゃに混ざった露店。店と店の間の区切りなんて、あってもなくても同じ。ただ売り物を買った人の手から自分の手に、よれよれでしわしわの、かすれた紙幣が手渡されればそれでいいのよ。ごちゃごちゃなまま、どこまでも並ぶ露店。とにかくそういう市場の所々には屋台が何軒かずつ固まっていて、そこでは男たちが見知らぬもの同士、頭を寄せ合って、くっつけ合って、汗ばみながら、肩で押されたり押し返したりながら、ヌードルのお碗を顔で隠すように、急いで口に詰め込んで、もぐもぐ、急いで噛んで、もぐもぐ、急いで飲み込むの。次の一口をかき集めながらね。  彼女はとにかく、喋りつづける。僕は相槌も打たず、ただ彼女の話に耳を傾けている。     14|出発ラウンジU(この節も未来時制で語られるだろう)    あるいは僕たちはすり切れた革のベンチに腰を下ろすのかも知れない。天井では大きなファンがゆっくり回転しているだろう。熱で膨張した空気は何だか果物のような甘ったるいにおいがするのだが、停滞しきって動く気配もないだろう。そこは赤茶けたれんが造りの、すり切れた空港のロビーなのだ。少し小さすぎるくらいの窓からは、大きなやしの木が少し斜めに立っているのが見えるのだ。彼女はハンカチで額の汗をぬぐうだろう。彼女は薄いピンク色のぴったりしたTシャツを着ているんだけど、汗で胸のあたりに貼り付いていて、そこのところがハート型にも見えるんだ。  僕たちはそこで飛行機を待ちわびるのだ。そのうちやがて、古い型の小さな白い飛行機が、ずんぐりとした胴体をがたがた震わせながら、ひび割れたアスファルトの滑走路に降りるのだ。やしの木の向こうにそんな感じの光景が見えるだろう。僕たちはそこでその飛行機の整備も見るでもなしに眺めることになる。だってほかに何もないんだ。だけどそこでどれだけの時間をぼんやり過ごせばいいのか、見通しなんてまるで立たない。飛行機の整備にどれほどの時間がかかるのか、僕に分かるはずもないんだから。もちろん彼女にも分かるまい。そんなこと誰も知らないのだ。でもそのうち飛ぶのだろう、ゆえに僕と彼女はすり切れたベンチに腰を据えて動かず、汗を拭い、水の入ったペットボトルに口をつけ、バナナの皮をむき、交代で居眠りし、待つのであろう。僕たちは、離陸を待つのだ。     15|6月25日(水曜日)/偉大なるチェスチャンピオン、ボビー・フィッシャー    給料日の夕方、彼女はベッドの上に座り込み、左手に持ったチェスの入門書で顔を隠し(表紙、背表紙、裏表紙がいっぺんに見える。以前から僕の本棚の下の段にあったボビー・フィッシャーの本だ)、そうして盤上に駒を展開させている。僕は玄関に入り内側から後ろ手で扉を閉め、部屋に進み、テーブルに鞄を置く。彼女はハローと言うだけで、顔を見せもしない。代わりに白のビショップをつまみ上げ、ためらい、元の地点に戻す。  時のチャンピオン、白スパスキーは6手目、ビショップd3と指した。相対するボビー・フィッシャーは、一考の後、b4のビショップをつまみ上げ、同じ手でc3地点の白のナイトと手の中のビショップをすり替えた。このチェックに対し、スパスキーは眉一つ動かさず、同地点を奪回すべくポーンを手に取りbcとし、同時にbのファイルをオープンにした。  浴室のドアが開く。彼女が髪を拭きながら出てくる。白いタオルで肩まで覆ったほかは裸のまま、まっすぐにベッドまで歩き、駒を載せたチェス盤を持ってやって来る。彼女はテーブルにチェス盤を置き、リングに上がったボクサーがするようにタオルを投げ捨てる。僕は彼女に、まずは服を着るように勧めてみる。  静かに、しかしエネルギーを溜め込んでいくような不気味な展開が続いていた。20手目、黒フィッシャーはg5とし、じっくりとポーンを進めた。21手目、スパスキーはビショップd2。c3の地点を強化する必要があったのだ。一方でフィッシャーは開戦の準備を整えていく。クイーンを一歩後退させ、クイーンe8。盤上のイニシアティブはゆっくりと、しかし確実にフィッシャーが握りつつあった。22手目、スパスキー、ビショップe1。フィッシャーはたっぷり一呼吸間を取った。そしてゆったりとした、無駄のない手の動きでクイーンを手に取った。黒ボビー・フィッシャー、クイーンg6。  僕と服を着た彼女は、彼女の主張により、全く対等な条件でチェス盤を挟み、対戦した。まだまだ時期尚早だろうと思っていたのだが、僕はすぐにそれが完全な思い違いであったことに気付かされることになる。その夜の僕は完全に彼女を甘く見過ぎていたようだ。結局二、三の腑抜けたやわな手が命取りになり、僕のキングは彼女のビショップに仕留められてしまったのである。偉大なるチェスチャンピオン、ボビー・フィッシャー。彼はコーチとしてもまた、偉大な人物だったようだ。  スパスキーは追い詰められていた。彼の27手目クイーンc2は、屈辱感と共に彼の記憶に残ることになったであろう。フィッシャーはしばしの瞑想の後、音もなく、ポーンを退け、ビショップをa4に運んだ。表情を変えることのないスパスキー、しかし額にはうっすらと汗がにじんでいた。彼は視界が回る感覚に捕らわれながらも、幾つかの言葉を吟味し、その中から一つ選んで声に出し、投了を告げた。     16|7月25日(金曜日)/あまねく運動が瞬間移動、すなわちワープであるということ、それから彼女が聡明な女の子であることについて    例えば、考えてごらん、ある日君がモスクワからブエノスアイレスまで旅行したとする。あるいはそんな大掛かりな移動でなくても、例えば君がこの部屋で、ベッドから浴槽まで歩いたとしても構わない。ちょっと考えてごらん、その時君はモスクワとブエノスアイレスの間の、あるいはベッドから浴槽の間の、つまり運動の始点と終点の間の、ありとあらゆる全ての点にもれなく存在したのだろうか。ありとあらゆる、それこそまさに無限に存在する、全ての点に。答えは否だ。分かるかい、君はブエノスアイレスや、あるいは浴槽に至るまでに、その間の全ての点をたどってやって来たわけじゃないんだ。何と言っても数学的には、ある二点間には無限の点が存在するんだからね。例えば、どんなに小さなものでも、その半分というものが考えられる。どんなに小さなものでもだよ。その半分も、それからさらにその半分も、またさらにその半分も。無限なんだ。そして、数限りのないものを一つ一つ乗り越えていき、そうやってそれらの全てをもれなく乗り越え終えることは不可能だ。どんなに急いだとしてもね。だから必然的に、それらの幾つかは踏み、そして残る大多数は(それもまた無限なんだけど)無視して飛ばしてスルーしてやって来たわけだ。まるでワープしたみたいに。そうでもしなければ、君はスーパーマーケットからここへ来ることもできなかったはずなんだ。分かるかい?  彼女はクイーンを右隣へ一歩だけ動かす。  時間を過ごすことについても、同様のことが言えるはずだ。例えば5時と6時の間には5時半がある。5時と5時半の間には5時15分がある。5時7分30秒、5時3分45秒、5時1分52秒5、どの時間の間にも、無限の瞬間があるんだ。でも僕たちはその全ての瞬間を見ているわけではない。聞いているわけでもない。幾つかの瞬間は認知しておくけれども、大多数は無視だ。スルーだ。そうじゃなきゃ、誰も人生のうち一分間だって進めやしない。分かるかい? つまり、僕たちはこんなにも疎らな世界を生きているんだ。  あなたは何も言ってないわ、と彼女。何だって? と僕。彼女はスタンプでも押したみたいにもう一度同じ言葉を繰り返す。そう、まるでスタンプと伝票の間には一つだって数学的な点などありはしなかったように。  彼女は続けて言う。だって、数学的には点が無限にあるって言っても、その点というものには大きさというものがないじゃない。無限ではあるけれど、でもゼロなのよ。ゼロは幾つ並べたってゼロだわ。百個並べたって。誰かがどこかへ動くってことを言うのにそんなものを持ち出して何になるっていうの?  その通り、僕は何も言っちゃいない。僕の言うことに意味なんてありはしない。彼女はとても、実に聡明な女の子なのだ。     17|昨冬X    テレビはゆっくりとあたりを見回しながら、高らかに、一続きの放物線を描いた。朝もやに煙る海を背景にして。その時それは完璧だった。テレビは間違いなく軌道上の全ての点の上を移動していったのだ。あらゆる、全ての点をだ。少なくともその時僕の目にはそれがそう見えたという事実から、僕はいつまで目を背け続けることができるのだろうか。  とにかくテレビは僕の知らない方法で、無限にある軌道上の全ての点を一つずつ(あるいは、幾つずつかまとめて。案外そうすることが無限を乗り越えるこつなのかも知れない)乗り越え、そして確かな一筋の、一続きの曲線を描き出した。それはそれ以外のラインではあり得ないという意味において完全に唯一の、それゆえ完璧な、確かな軌跡だった。テレビのゆったりした回転の中心点はシンプルで無駄のない、力強い放物線を描いた。そして中心の放物線が描かれるのと同時に、その周りを、やや丸みを帯びた立方体の八つの頂点がそれぞれ等間隔に螺旋を描き出し装飾していった。  やがてテレビは画面を空に向け、後部から水面に触れ、水面を裂き、海にもぐり込んでいった。例の冠状の水柱が立ってテレビを取り囲み、崩れ落ち、テレビの上に降り注いだ。  立ち上がった水柱からは外側へもしぶきが飛び散った。それらはやはりそれぞれに放物線を描き、多くはさらに水面に落ちて小さな波紋を作った。だが幾つかは僕の足元を少し濡らした。それから、あるものは僕に至る放物線をたどった。  全てが済んだその後には元通り何の意味もない波の音だけが繰り返され、辺り中に満ち満ちた。単なる波の音が、ありとあらゆるものの間に、連綿と。     18|7月26日(土曜日)/翌日    給料日の次の日の朝、僕は目覚める。で、彼女がいなくなっていることに気付く。ベッドの上はもちろん、ダイニングにも台所にもいない。僕はベッドを降り、トイレのドアを開けてみる。いない。浴室のドアを開けてみる。いない。ベッドの方に引き上げ、クローゼットのドアを開けてみる。いない。彼女はどこに行ったのだ? この部屋にはいない。僕は彼女の持ち込んだテレビに腰掛け、考える。何せ彼女がいなくなったのだ。考えないわけにはいくまい。  でも何を考えたらいい? 彼女がいなくなった理由? 彼女の行方? ひょっとしたらスーパーマーケットへ買い物に行っただけなのかも知れない。散歩かも知れない。そりゃもちろん家出かも知れない。失踪かも知れない。仮にそうだとしたらなぜ、どこに行ったというのだろう。分からない。何せ彼女の行き先については手掛かりがまるでないのだ。  僕はミルのハンドルをゆっくりと一定の調子で回転させながら、何となく二月のことを思い出してみる。二月のあの日は、そうだ、その時は気にもしなかったけれど、あの日は素晴らしく良い天気だったのだ。はるかに青い空にけしの実のような飛行機が高く飛んでいるのが見えた。多くの人はコートを腕に抱えて歩いていた。真珠のように光る雲が飛行船のように浮かんでいた。  ケトルに水を汲む。水を汲んだケトルに小さな蓋を載せてやる。蓋をしたケトルをガスコンロに置く。ガスコンロの火を点ける。結局今僕に言えることは、彼女がいなくなったってことだけなのだ。それ以外に確かなことなんて、一つだってありはしない。考えてみた。僕は僕なりに考えてみたんだけど、確かに言えるのはそれだけなんだ。そして今のところ僕にできるのは、二人分のコーヒーを淹れることだけだ。  そんなわけで僕はいつもの倍の量のコーヒーを飲み、それから土曜日を一人で過ごすことになるのだ。どうやって過ごしたものだろうか。とりあえず外に出よう。部屋で待っていればすぐにでも彼女が帰ってくるかも知れないが、それよりも僕が待っている限り彼女は帰らないような気がするのだ。そういうわけで外に出るとしよう。そして、どこに行けばいいだろう。まずは大通りに出て、手近な喫茶店に入ってそれを思案するべきだ。例えば軽はずみで北へ向かう地下鉄に乗ってしまった後で、南へ向かうべきだったと気付いても、もう遅いのだ。だからこの後どこへ行くべきかといった類いの命題は、まずは移動を止め、それから考えるのが基本的な手順と言えよう。そうして一人でコーヒーを飲みながら、雑誌でも眺めてみるのだ。コーヒーをもう一杯頼んだって良い。何ならホットチョコレートでも構わない。それで何か良い案を思い付くのであれば。  さて、競馬場へ行って芝生の上の馬の競走を五レースほど観戦した後、シネマコンプレックスで映画を観て(もしも15分ほどでつまらない映画だと気付けば、すぐに映画館を出ても良い)、地下鉄でこの近くまで戻り、安食堂で夕食にするのも良い。あるいは、ウインドウショッピングをするふりをしてウインドウショッピングをする女の子を眺めに街へ出ても良い。ぱさついたファストフードで腹ごしらえをして、目的もないのに早足で歩き、エスカレーターに乗り、エレベーターに乗り、服売り場の店員の話を聞いてあげたっていい。それからミニシアターで短編映画を観ても良い(もしも五分ほどでつまらない映画だと気付けば、すぐにシアターを出ても良い)。でも、まあ差し当たって、とりあえずテレビをつけてみよう。彼女が僕の部屋に持ち込んだ、例の赤いテレビだ。     19|彼女を再び見付けたのは給料日ではない日だった    彼女を再び見付けたのは給料日ではない日だった。空港のロビーで、彼女はつばの長い黒のキャップを深くかぶり、足を組んでソファーに腰掛けていた。カラー写真ばかりの雑誌のページをめくりながら、ヘッドホンのリズムにあわせてほんの少しだけ頭を動かしていた。  彼女は僕を見付けると、雑誌を閉じて膝の上に置き、両手を広げて歓迎した。     20|出発ラウンジV(そしてこの節もまた未来時制で語られるだろう)    彼女は黄色の、ばかみたいにつばの広い帽子をかぶるに違いない。もちろん帽子には真っ赤なレース生地でできた花の飾りなんかが付いているだろう。そしてごく淡い黄色のウエストの締まったノースリーブのワンピースを着た彼女はとても華奢で、スカートのすそは彼女のほっそりとした白いふくらはぎに軽くまとわりついたり、ぱっと広がったりで、それから薄く化粧をした顔は帽子の広いつばの陰に隠れがちで、もう少し背が高ければ完璧なんだけれど、白い長手袋で肘まで隠して、指も細くて長くて、そう、まるで貴婦人みたいな格好をするのだ。その時の彼女は完璧なのだ、背丈を除いては。  それで彼女はカフェのカウンターの、背の高いスツールにちょっと腰掛け、コーヒーを一杯だけ頼むだろう。白くて厚ぼったいカップの縁を爪で弾いて、深く黒い波紋を眺めるでもなく眺めるのだろう。あるいはミルクをたらして白い渦の広がりをぼんやり目に移すのだ。彼女の心は既にそこにはなく、空港のどこにもなくて、飛行機なんかよりもはるかに自由に真っ白な雲の海原の上を当てもなく、でもまっすぐ、急ぐこともなく、滑っているのだ。夢も見ずに眠るような表情の彼女を空港のラウンジのカフェに残して。  僕はここではっきり述べておこうと思う。今僕の思うことをだ。すなわち僕は今、彼女を愛している。たとえ僕が愛の何たるかを知らない、知ることのできない人間だとしてもだ。     21|8月25日(月曜日)/職業安定所    給料日の朝、僕はネクタイを締める。結び目を調節しながら電話の受話器を手に取る。人差し指でプッシュボタンを順に幾つか押していき、受話器を耳に当てる。呼び出し音が聞こえ、僕はふうんと思うのである。  で、受話器を置いて電話を切る。彼女は手早く化粧を終えている。僕たちは腕を組んで表に出る。外はとてもよく晴れている。アパートの前の道では、若い女の人がベビーカーを押してゆっくりと歩いている。  僕たちはさっさと歩いて大通りに出る。大通りの歩道を腕を組んで歩く。地面の日向の部分は太陽の光を受けて眩しいほど光っている。僕たちは街路樹の陰をたどって歩く。地下鉄の駅に続くひんやりした下り階段に入る。手をつないで階段を降りていく。階段を最後まで降りると僕は上着の内ポケットから財布をつまみ出し、硬貨を四枚選り出し、そのうち二枚を彼女に手渡す。彼女は小走りで券売機の方へ向かう。僕もその後について行く。  年代ものの券売機の上の方には丸い時計がかけてある。埃まみれで文字盤が曇っているが、10時を指している。午前10時だ。通路の人通りはまばらだ。全く誰も歩いていないってほどじゃないけど、でも眼鏡を掛けた人は一人もいない。ヘッドホンを耳に当てた人はいる。子供はいない。犬を連れた人もいない。帽子を被っているのは駅員だけで、これから駅の中へ改札口をくぐろうというのは僕と彼女の二人だけだ。改札を通り抜け、振り返ってみる。僕たちのほかは出口の方へと歩き去り、公衆電話の受話器を耳に当て、売店で何か売り買いしている。  僕たちはさらに進んで階段を降り、プラットホームに立つ。ベンチに並んで腰掛ける。彼女がe4と言うので、僕はe5と返す。ナイトf3と彼女。  やがて僕たちはやって来た地下鉄に乗り込む。その車輌に乗っているは僕たちのだけだ。僕たちはシートの隅に並んで座る。すぐに地下鉄は動き出す。いつ見ても地下鉄はもくもくと仕事をしているのだ。ごくろうさま。僕が前の会社に行くのにいつも降りていた駅もやり過ごす。ええ、ええ、ごくろうさま。  さらに二駅行ったところで、僕たちは地下鉄を降りることにする。階段で駆けっこし、通路で腕を組み、僕らは駅の外、すなわち地上に出る。8月の強烈な太陽の光が辺りを照らしている。それから10分か15分ほど、僕たちは二人して肩を並べて通りに沿って進んでみたり戻ってみたり、靴を鳴らしてすすけた路地に入ってみたり戻ってみたり、それぞれに建物を見上げてみたり、肩をすくめたり首をかしげたりしてみる。結局目的の場所が見つからないので、僕たちはオープンテラスのカフェでひと休みすることにする。顔を寄せ合って通りを眺め、自動車の品評会をする。ウエイターが我々審査員のためにサンドイッチとアイスコーヒーを運んでくる。通りを行き交う自動車について幾つか意見を交し合った結果、出た結論はこうだ。彼女は角張った形状の自動車を好む傾向にあり、僕は丸っこい形状の自動車を好む傾向にあるらしい。  僕たちは席を立つ。カウンターの女の子に目的の場所を尋ねてお礼を言ってから外に出る。  僕たちは通りを歩く。もと来た地下鉄の駅を過ぎたあたりで、出し抜けに彼女が僕に何か言う。突然だったし、声も小さくてよく聞こえなかったので、僕は彼女が何と言ったのか聞きそびれたんだ。なので訊き返してみる。ぶっ殺してやるって言ったのよ、と彼女。穏やかじゃないね。この、色気違い、彼女は声を押さえて言う。色情狂、変態で色情狂のごくつぶし。僕だっていつまでもごくつぶしのままでいたくないから、こうして職を探しに行くんだろう? 返事がない。おや、アイスクリームでもどうだろう。返事がない。  僕は祈る、心の中で。職業安定所の受付が男であることを、老婆でさえないことを。  それから職業安定所を後にして、僕は銀行に入る。彼女も後からついて来る。それからレンタカーの代理店に入る。彼女も後からついて来る。彼女は僕と口を利かないことにしたようだ。頬をつまんでも何も言わないのだ。まあいいさ。機嫌はそのうち直るであろう。     22|神を失った状況としての地獄    僕は隣に彼女を乗せ、小さな自動車を運転している。彼女は両足のかかとを座席の縁に置き膝を抱え込んだまま、横の窓から外を見ている。自動車に乗った時からずっとこうだ。僕は緩いカーブに合わせて少しハンドルを切る。彼女の目に見える窓の景色は郊外を抜け、平野を抜け、もうそろそろ山道に差しかかっているはずだ。  どこに行くの、と彼女が言う。やっと口を利く気になってくれたようだ。良い所だよ、と僕は答える。彼女はどこ、と繰り返す。地獄さと僕は答える、それはそれは良い所さ。  何を待つこともせず、何を望むこともせず、何を祈ることもせず、しばらくの間、そうやって過ごそう。僕は口にすることなく、彼女に話し掛けてみる。彼女の横顔をちらりと盗み見る。彼女はまっすぐに前を向いて、自動車の行く先を見つめている。さっきの言葉が彼女に通じたのか、通じなかったのか。それは僕には分からない。     23|アーモンド    僕らを乗せた自動車の行く道は、谷あいをたどっていった。濃い緑色をした山が迫って見えた。それからちょっと開けた場所には麦か何かの畑が青く広がっていた。時々、ただ積み上げられた赤土のれんがや、れんがで組んだ納屋のような小屋や古臭い家も見かけた。僕は茶色の紙袋に手を突っ込んではアーモンドを一粒つまんで取り出し、口に入れて噛む。  僕は茶色の紙袋に手を突っ込んではアーモンドを一粒つまんで取り出し、今度は彼女にあげようと思って手を差し出してみた。彼女は手を伸ばして、アーモンドではなく自動車のハンドルを掴む。それも思いっきりだ。思いっきり掴んで、思いっきり引っ張った。すると自動車は何かの間違いのように(という感想はあくまで僕が凡庸な精神しか持ち合わせていないことを示すのみなのだが)畑の方へ急激に進路を変え、そして畑に突入した。  自動車は青々と茂る麦を掻き分け、得意面をしていたのかどうかは知らないが、自動車なりに雄叫びを上げ、やけに生き生きとした走りを披露した。地面のでこぼこに応じて飛んだり跳ねたりしてみせ、左右に小刻みなステップを踏み、ぬかるみの泥を挑発的に跳ね飛ばし、または前輪を空転させては麦をちぎって宙にまき上げた。アーモンドを一粒つまんだままの僕の手は彼女に取り押さえられて、僕と、たぶん彼女も、目の当たりにしたのは飛び去る緑であって青であって、それはそう、スペクタクルであって、認識よりも密な流転、スペクタクル、スペクタクル、アーモンド! 僕たちは大しけの海に放り出されたみたいに、ないしはそんなアミューズメントみたいに、うねるスピードの波にもまれていた。  やがて自動車は道路交通法上自動車が走るのにより好ましい道に乗り上げた。僕は彼女の手の甲をつねって、ハンドルを奪い返した。彼女は茶色の紙袋に手を突っ込んで、掴めるだけのアーモンドを掴みだした。二粒、三粒、彼女の指の間からこぼれ落ちたアーモンドが僕や彼女の足元に転がった。     24|昨冬Y    シャツに跳ねたしぶきが少しにじんで広がるのが分かった。それは真ん丸でもなく、ましてやスクエアでもなく、どうにも言いようのない形をしていた。強いて言えばチェスの駒の、そう、ナイトのような形と言えなくもないだろうか。それだってずいぶん無理があるのだが、ほかにどう呼んだらよかっただろう。海水のしぶきがシャツに小さなしみをつけた、僕の観点から確かに言えるのはそこまでだ。  右の方、湾を隔てた対岸のほとんど水平線に近いあたりに岬が突き出ていて、その先端にミニチュアのように小さく、白い灯台が立っているのが見えた。灯台が見える方角から強く冷たい風が吹いてきて、吹き抜けていった。シャツのしみが氷みたいに冷たく感じられた。風が僕の影を吹き飛ばしたような気がしたけど、もちろん気のせいだった。僕の周囲には依然前もあり、後ろもあった。僕はある面では至って正常な状態にあったのだ。それは確かだ。  その時僕の足元には海があった。緑色の波は眠気を呼び覚ますようなテンポで岸壁を叩き続けていた。海の広がりに合わせて、緑色の波はそこかしこで立っていた。海のどこを見渡しても、見える限り波が立っていた。水平線のあたりまで見えるような感じ、そう、錯覚を、見えてしまうような感じさえした。向こう側へ緩やかに弧を描く海面のそこら中で波が立っている、それが見える、そんな感じだった。僕はもうそろそろ自動車に戻って、来た道を引き返そうと思った。  テレビは、僕の足元のすぐ下に沈んでいた。15フィートやそれくらい向こうだと言ったって、結局すぐ下なのだ。僕たちはそこにいたのだ。  繰り返しになるけど、去年の冬、僕たちは埠頭にいた。よく晴れた、空気の冴えた朝だった。  僕は自動車の内側からドアを、音を立てて閉めた。それからここに来る途中そうしてきたように、それと同じようにアクセルを踏み込んで、停まっていた自動車を動かした。     25|湖畔、ホテル    僕たちの自動車は森の中のわだちの深い道を進んでいる。全開にした窓からは空気が濁流になって流れ込み、彼女の髪をまき上げる。窓から流れ込む空気は土や木の葉や木の幹や下草のにおい、そんなとても新鮮なにおいがして、そのせいだか何なんだか、僕は何だかとても上機嫌なのだ。きっと彼女もそうだろう、何かわめいているようだ。アーケードのように茂った木の葉の間をすり抜けてきた太陽の光が、彼女の膝やハンドルや彼女の胸の上やサイドブレーキの上に無数の光る斑点を落とす。光る斑点はどんどん流れてきては滑るように流れていく。  やがて立ち並ぶ木の幹の間に、湖が見え隠れする。それからすぐに自動車と僕たちは森を抜け、湖畔へ降りていく。それは願ってもないような、実に素晴らしい眺めなんだ。どう素晴らしいかって? 湖があって、山があるんだ。空が青くて、雲が白いんだ。湖の青緑色をした、まっさらなスケートリンクのように平らな水面には山の形が黒くくっきり映っているし、山肌の尾根や谷あいの陰影がすごく鮮やかなんだ。とてもなだらかな傾斜で、横に長い形をしたとても大きな山なんだ。空には山の向こうのずっと遠くまで、ある高度でまばらに並べられた綿雲が広がっている。それから湖面には、よく見ると雲の形が映っている。  湖の水面を吹き抜けてきたと思われる風が少しばかり冷たくて心地良い。彼女はもう怒っていないはずだけど、一言も口にすることなく、ただ湖の方ばかりを眺めている。僕は今、何かに感謝したいんだけど、そう、とても感謝したくてたまらないんだけれど、誰か、僕は誰に感謝したらいいのか教えてくれないだろうか。または、誰か僕に感謝をさせてくれてもいい、感謝されてくれないだろうか。  僕たちの自動車は白い建物に近づいていく。わだちは枝分かれして片方はそのまま湖に沿って伸びていき、もう片方は作為的に進路を取ってより湖の方に、建物のすぐ手前に向かっていく。湖の方へ寄っていくわだちの先には捨ててあるのか止めてあるのか、とにかく年季の入った軽トラックが見える。そしてその向こうには深い色合いの、硬そうに見えるほど平らな湖面が広がっている。僕は自動車を徐々に減速させ、白い塗装が所々剥がれてしまっている軽トラックの脇に静かに停止させる。目の前は白い建物のすぐ手前であって、かつ運転席側の窓の先はすぐに砂地がある。ちょうど僕たちの自動車の下で下草が途絶え、砂地がちょっとした傾斜をつけて湖まで滑らかに続く。キーを回してエンジンを止める。彼女は助手席のドアを開く。僕はキーを抜く。  あたりの雑草や地面や空気は太陽にあぶられて、まとわりつくような熱を帯びている。僕は僕のスポーツバッグを肩に掛け、彼女の例のボストンバッグを手に提げ、彼女の後を着いていく。彼女は振り返りもせず、僕のことなんかお構いなしにどんどん歩いていく。建物の角を曲がって見えなくなる。僕は彼女よりもずいぶんゆっくり歩いて、そのうちようやく角を曲がる。角を曲がってすぐのところに、おや、犬がいる。小さくて黒くて、ちょっとばかり毛の長すぎるみすぼらしい犬と、人もいる。汚れたシャツを着た痩せた少年が、犬を抱き込むようにしゃがみ込み、犬に、手荒にブラシをかけている。彼は僕に気付くとちょっと顔を上げて僕を見上げ、きっちり一秒でまた顔を伏せる。僕が通り過ぎる瞬間、どうやら彼はこんにちはと言ったようだ。  彼女はホテルの入り口から中に入っていく。僕は別に急ぐこともせず、ただ普通の調子で入り口に向かう。そうしてそのうち、彼女から遅れること数十秒にして、僕もホテルの入り口をくぐる。それにしてもひどく簡素な建物だ。外が明るかった分、建物の中は地下のワイン倉庫か、そういった何かのように薄暗い。建物に入ると、正面からちょっと右手にフロントがあって、真正面には上り階段、左手にはこじんまりとしたロビーがある。ロビーのソファーで彼女は何やら写真付きの雑誌を広げている。フロントは薄暗くて誰もいない。僕はしばらくそこら辺を見回し、カウンターの上の案内文やら料金表やら、フロントの後ろの張り紙やらに一通り目を通す。それから少々控えめに声を上げてみる。すみません、誰かいませんか?  痩せた背の高い老人が建物の入り口から入ってくるのが僕の目に入る。一歩一歩吟味して歩くような足取りで、老人は建物の中に入る。僕は彼に簡単に挨拶をする。老人は返事もしないが構わない。僕も彼から目を離す。さっきの僕の声はホテルの従業員に聞こえなかったのか、誰も来ないのだろうか。もう一度フロント係を呼んでみるかどうするか、思案する。老人がカウンターの向こう側に回り込み、のろのろと料金表を指差す。  幾つかの言葉をやり取りした後、僕と老人とは軽く握手をする。それから老人は相変わらずのペースでフロントを離れる。僕もそれに続く。階段の手前のところで立ち止まり、ロビーの彼女を呼ぶ。老人は僕たちに構わず階段を上っていく。例によって、一段一段吟味するように。彼女は立ち上がり、雑誌をソファーの彼女が座っていたところに放り出して僕の方に駆け寄ってくる。僕は老人の後を追って階段を上り始める。窓のない、薄暗い踊り場で僕は老人に追いつき、彼女は僕に追いつく。僕は踊り場の着き当たりの壁に手を当ててみる。所々小さく欠けたりへこんだりした白いコンクリートの壁だ。手のひらにひんやりとした何となく柔らかな感触を覚える。この壁を隔てて向こう側は湖なんだろう、一瞬、頭の中で間近に波の音を聞いた気がした。もちろん気のせいだ。壁から手を離す。  老人と、それから僕と彼女は階段を一段一段吟味するように上っていく。三人分の、意味のないリズムの意味のない足音を僕は聞く。ねえ、と出し抜けに彼女、ボートはあるのかしら、とささやくように僕に聞く。どう? と僕は老人に聞く。もちろん、と老人、私同様ずいぶん老いぼれてはおりますけれども。僕は彼女を見る。彼女も僕を見る。  階段を上ってすぐ左側、一つ目の部屋のドアを老人は開く。大きく開いて、僕たちに道をあける。僕たちは部屋に入る。テラスへ続く窓は開け放たれていて、カーテンが大きくそよぐ。風が吹き込む。水と草の、何だか良いにおいがする。  彼女は部屋を横切ってまっすぐにテラスへ出る。僕はベッドの脇に彼女のボストンバッグと僕のスポーツバッグを置く。老人は外からそっとドアを閉める。彼女はテラスから身を乗り出して、湖に向かって何か叫んでいる。僕は浴室のドアを開けて中を覗いてみる。彼女はひとしきり叫んで満足したらしく、満足げな顔でテラスから戻り、そのまままっすぐに部屋を横切ってドアを開ける。彼女は部屋を後にする。僕は溜息をついて、でも結局彼女について行くことにする。だってそうするより仕方ないじゃないか。  彼女は階段を降りていく。階段を降りて、降りたところで僕を待つ。僕はわざとゆっくりと階段を降りていく。ねえボートよ、ボート、と彼女。僕はフロントに足を向ける。フロントで、支配人の老人に話し掛ける。僕がボートを借りたいことを老人に告げると老人はまたも緩やかに歩き出す。老人はロビーに入り少年を手招きする。それから少年に耳打ちをして、フロントに戻っていく。一方耳打ちをされた少年は早足でロビーを出てエントランスに向かう。彼女が少し駆け足で少年の後を追うので、僕もそれに従うことにする。  少年と彼女と僕は降り注ぐ日差しの中に入り、水際を目指す。少年は湖へ続く下り斜面の手前で立ち止まり、ボートを指差す。なるほど、白い砂浜に一隻の手漕ぎボートが横たわっている。手漕ぎボートは横たわって、まるで波の音を聞きながら、眠るでもなしに惰眠をむさぼっているようだ。それはまるではるか昔からそうして過ごしてきたようだ。彼女は砂の斜面を駆け降りて、ボートの横で僕を手招きする。それから片方の手でボートを指差し、もう片方の手で湖を指差すのだ。彼女には湖がどう見えているのだろう。彼女は何かわめいている。分かった、分かったよ。  僕と彼女はボートを湖に押し出し、水面に浮かべる。僕は水際で靴を湿らせながら、ボートが押し出された勢いで岸から離れすぎないように、ボートの端に手をかけて腰を落として引っ張る。それで、もう片方の手を少し挙げ、手の甲で砂をならすようにして彼女にボートを示す。彼女は僕の膝に足をかけてボートに乗り込む。彼女に続いて僕もボートに乗り込む。舟底に寝かせてある二本組みのオールの一本を取り出して、それで水際の砂を押す。オールの先が少し砂をえぐったが、ボートは少し岸から離れ始める。これでは僕はまるで、あたかも彼女を乗せてボートを沖へと漕ぎ出そうとしているかのようじゃないか。僕は力を込めてオールの柄を引き寄せる。オールを水面からわずかに持ち上げる瞬間には、簡潔な水音が聞こえる。彼女は言葉を忘れたみたいに何も言わず、ただあたりを見回している。僕からするとホテルや岸は彼女の背景なんだけど、それがだんだん遠ざかっていくものだから見ようによっては彼女が勝手に前に進んでいるようで、何だか変な気分でもある。  ボートは沖へゆっくりと、少しずつ進んでいく。湖の上は強い日差しが注ぐんだけど、時々冷えた風が吹いてきて、何だか心地良いのだ。彼女は緑がかった水に手を浸したり、手で水をかきあげたり、僕がボートを漕ぐのを手で水を掻いて手伝ってみたりする。それから彼女は後ろを向き、背筋と首を伸ばす。僕も岸に目をやる。ホテルからはまだそれほど離れていない。何だか少年が駆け回っているのが見える。よく見ると彼の足元では黒い犬が駆け回っているようだ。少年と犬は水際をぐるぐる駆け回っている。彼らは僕たちが見ていることなんかいつまで経っても気付かないだろう。僕はオールの柄を僕のへそのあたりまで大きく引き寄せる。  僕たちはボートをさらに沖へ出す。少しずつ、ゆっくりと、でも確かに、ボートは湖の真ん中へ進んでいく。小さな航跡を曳きながら。そして僕たちはオールを舟底に戻し、舟底に寝転んでみる。舟底に寝転んでみると分かるんだけど、目に見えるのは空だけなんだ。彼女も寝転んだままじっと動かずにいる。僕たちはとうとうここまでやって来たのだ。ここなら、例えば、そう、例えばの話なんだけど、例えばたった今雨雲が出てきてこの突き抜ける空を覆い隠して、雨を降らせてもいい。何なら大粒の雨だって構わないんだ。     26|湖畔での日々、俯瞰    湖畔での日々はまるででたらめなペースで、そう、まるで幼子が日めくりカレンダーをちぎって遊ぶように過ぎていった。雨が降り、雨が止み、激しく降り、また止んだ。雲間から光の筋が差し込んだりもした。空が青く輝き、とてもよく晴れたりもした。そんな日にはテラスから見下ろす湖面に丸くなって眠る羊のように見えなくもない白い雲が映っていた。夜中には星が瞬いたりもしたし、湖面に映し出された大きな月がさざ波で小刻みに揺れたりもした。僕たちは朝目覚めることもあったし、昼に目覚めることもあった。  朝はヨーグルトを食べ、昼にはチーズ、夜にはバターを食べた。朝には雑穀のシリアル、昼は小麦のパン、夜はパスタ、そういうものだった。テーブルにはだいたい僕と彼女の二人だけで、言葉はあったりなかったりだった。笑ったり笑わなかったりした。彼女はピクルスをかじり、僕は白いソースだけが残った空の皿を少し押しやった。  黒い小さな犬が部屋に駆け込んできてベッドの下にもぐり込んだり、僕の荷物をひっくり返したり、ぐるぐる駆け回ったり、ひとしきり暴れまくった後、来た時の巻き戻しのように駆けて去って行った。そういうこともあったということだ。何のたとえでもない。その同じ日、犬のことがあった後にはこんなこともあった。ロビーでテレビ映画を眺める彼女の横顔を眺めて僕がぼんやりしていると、少年が遠慮がちに、つまりちょっと遠回りしてみたり、誰もいないテーブルの上のパンくずを払ったりしながら僕の席に歩み寄り、それから僕に曜日を尋ねたのだ。僕は彼を従えて階段を上り、二度ノックをした後、僕と彼女の部屋のドアを開けた。床に脱ぎ捨ててあった彼女の下着を爪先で蹴ってベッドの下に隠した。少年は開いたドアを手で支え、ちょうど部屋と廊下の境界線上に立っていた。僕は僕の鞄を開いて、手帳を取り出した。すばやくページをめくって、その日の曜日を少年に告げた。これも、何のたとえでもありはしない。こういうことがあった。そしてそれは特別大したことでもなかった。こんな風にして僕や彼女の日々は過ぎていった。そういうことだ。  彼女はと言うと、彼女は概ね泣いたり笑ったりした。または僕にしがみついたり、僕を突き飛ばしたりした。まだ空気が冷たい朝に部屋中をさっさと歩き回りながら素早く髪を束ね、あるいは日差しが明るい昼下がりにベッドの上であぐらをかいて寝癖に手を当てた。夕暮れ時に真っ赤に輝く湖が見える窓の前で背中に手を回してブラジャーのホックを留め、真夜中には冷たい風がそっと忍び込む窓の前で背中に手を回してブラジャーのホックを外したりした。それから時間や場所に関係なく、彼女は時々、愛って何? だとか、人生って何? なんて、そんなことばかりを僕に尋ねた。その度ごとに僕は彼女にキスをした。  ついでに僕はと言うと、僕は概ね平気だった。何ともなかった。本当に、何でもなかった。     27|湖畔での日々、晴れた日    晴れた日は、例えばこんな調子だった。  テラスには一組の四角い椅子と円いテーブルがあった。どちらも木製なのだが揃って朽ちかけた、かつては白いペンキにむらなく包まれていたのだろうが今となってはその痕跡を残すのみの代物だった。僕は先週の新聞と先の丸いちびた鉛筆を持ってサンダルをつっかけ、テラスに出た。テラスは日向と日陰の境界線によって斜めに分断されていた。境界線は丸いテーブルを、時計盤で言えば1と9を結ぶラインで横切っていた。手前側の広い方が日陰で、奥が日向だ。僕はテーブルの日陰側に新聞を放り出し、そのまま歩いていったん日向に出た。腕の毛が焦げてくるんと丸まるような、強い日差しだった。椅子が太陽の方へ背を向け、日陰側、時計盤の11のあたりにあった。僕は椅子の背もたれを掴んで持ち上げ、日向側から日陰側へ移動させた。そして僕自身も日陰に戻り、そうして椅子に涼しく腰掛けた。太陽に熱せられた椅子の感触も悪くなかった。僕は新聞を広げ、クロスワードパズルに取り掛かった。20×20マスで、四つある二重枠のマスの文字からできる言葉をはがきで送ると、抽選でレターセットなんかが当たるというやつだ。言うまでもなく締め切りはとっくに過ぎていた。  クロスワードパズルは思っていたよりも難解だった。二重四角の位置も良く考えてあった。半分近くのマスが埋まった時点で、二重枠は四つのうち一つまでしか埋まっていなかった(mだ)。二重枠のあるマスに狙いを絞って四方からアプローチするのだが、肝心なところで僕をはぐらかすように、思い出せそうで思い出せないヒントが行く手を阻むのだった。つまり状況は膠着していた。  突然何かがクロスワードパズルの上に降って来て、衝突し、跳ね、僕の視界を掠めていった。新聞紙にはパズルを中心につまんでねじったようなしわができ、膠着していたパズルには力学的な変化の跡が残されていた。降ってきたのはサンダルだった。それはまあ、サンダルだって降ってくることもあるだろうし、そんなことがあっても悪くはないだろう。とにかくサンダルはクラッシュしたF1マシンのようにスピンしながらコンクリートの上を滑り、そのまま部屋の中へと転がり込んだ。観衆に怪我人が出ていないか気掛かりです。  僕は新聞紙のしわを伸ばし、立ち上がり、部屋に入り、ベッドの足元でひっくり返って止まっていたサンダルをつまみ上げた。小さなサンダルだ。僕は溜息を吐いた。テラスに戻って、裸足なのも足の裏が熱いのも構わず日向に出た。手すりに体重をかけ、下を見下ろしてみた。まさか雲から降ってきたわけではあるまい。案の定、テラスの真下には彼女がいた。彼女は僕の顔を見ると、何だか嬉しそうに手を大きく振ってみせた。二階から見下ろしたせいか、彼女はことに小さく見えた。僕は小さなサンダルを左の方へ軽く放り投げた。小さな彼女はサンダルを追って駆けていった。  僕はスポーツバッグを肩に掛け、彼女は手ぶらで、僕たちは水際に沿って歩いた。そんなことがあったとしても誰も構わないだろう。彼女は繰り返し寄せる小さな波と戯れ、腕を広げて水際の白い砂地にでたらめな足跡を残した。小さな波は、寄せる時にはちらちらと銀色に輝き、崩れて引く時には白く細かく泡立った。それからひんやりした風が彼女の髪をそっと流した。そんな水際が、僕たちの目の前にはずっと続いていた。湖の色濃い水面が向こう岸までずっと広がっていた。太陽の光は彼女や水面や遠くの山並にパラレルに注いでいた。そして僕たちはずっと歩いた。僕はちょっと立ち止まって、湖に背を向け、後ろを顧みた。ホテルが思ったよりも少し大きく見えた。僕は向き直り、少し先を歩いていた彼女に目を戻した。彼女も立ち止まって振り返り、こちらを見ていたようだった。でも僕が向き直ったのを見ると、彼女は翻って砂を蹴り走り出した。  僕たちは砂地の斜面をちょっとよじ登って、草の生えているあたりに並んで腰を下ろした。彼女は僕のスポーツバッグを抱え上げて膝の上に引き寄せた。ジッパーを開け、中から水の入ったペットボトルを取り出し、ペットボトルのふたを外した。僕は彼女の膝の上のスポーツバッグの中から布の包みを掴み取り出した。僕がそれを開くと、彼女が僕の手元からサンドイッチを一つつまみ上げた。僕もサンドイッチを一つつまんだ。ツナフライのサンドイッチだった。湖は僕たちにとっては途方もなく広くて大きくて、これがもし全部サンドイッチだったら僕たちが二人して一生を費やしても食べきれないほどで、つまり僕たちにはまだまだ足跡をつけるべき砂地が残されていた。     28|湖畔での日々、雨の日    雨の日には、彼女は一つの事をずっと続けた。例えばある雨の日には一日中歯磨きをし続けた。また別の雨の日には一日中浴槽にこもっていた。あるいは一日中違う、違うと言い続けた。  僕はと言えば、例えばある雨の日、僕は傘を差してテラスに出てみた。湖面は細かな雨で霧のように煙って見えた。向こう岸に見えるはずのなだらかな山も何だかかすんでぼんやりしていた。冷たい風が吹いた。細かな雨は降り続いた。湖も山もあるのかないのか、ぼんやりして見えた(または、ぼんやりしていて見えなかった)。目にはっきり見えるものはテラスの手すりや真下の水際や、傘の柄を持つ僕自身の手、そんなところだったが、僕にはそれで十分だった。あとは見えるんだか見えないんだか、何となく見えていれば、それで十分だった。僕の背後で窓が閉まる音が聞こえた。振り返ると歯ブラシをくわえた彼女が窓を閉めたところだった。彼女は歯ブラシを左右に動かしながら、僕に向かって小さな手を小さく振った。窓の向こうで。  細かな雨はその日中降り続いた。だんだん小さくなっていくように、しかしいつまでも消えてしまわずに、そんな風に僕の耳に聞こえ続ける雨音に、僕はずっと耳を傾けていた。ずっと。  粒の大きな雨が窓ガラスを打つ音が聞こえた。雨が降り出したのだ。僕はベッドに寝転んで、頭の後ろで手を組み合わせ、窓ガラス越しに雨雲を見ていた。雨雲は僕の目が回るほど熱心に流れていた。真っ黒だったりちょっと薄い黒だったり、雨雲はひしめいていて、雨でかさを増してどんどん流れる川の水面ようにうねりながら去っていき、新たにやって来たものも去っていき、その次も去っていった。ずっと流れていく雨雲だけを見ていると、僕は目が回るような感覚にとらわれた。それで僕はちょっと目を閉じてみた。するとたちどころに、ここがここであることの絶対性は失われ、つまり僕が今いるここが実はどこだって構わないんじゃないかという、まあよくある考えが浮かんだのだった。ここが流れの底であって、さっき見ていた雨雲の流れが実はどんどん流れる川の水面であっても、僕としては何ら構わないのだ、息さえできるのであれば。彼女は化粧台のスツールに座って鏡の前で頬杖をつき、まだ辞書を読んでいた。  分厚い雲が垂れ込めて、空気がひんやりしていて、そうして風のない日暮れには、湖は世界のどこからも切り離された地底湖のように見えた。僕はテラスで傘を差し、湖が世界から切り離されていくのに立ち会っていた。あたりはだんだん暗くなりつつあった。山と雨雲が溶け合い、闇を流すのだ。きっと懐中電灯の光を当てれば鍾乳石のぬらりとした岩肌が見えるはずだ。そして僕には足の先からそっと地底湖の水に体を浸し、摂氏15度きっかりの水に潜り、湖に水を供給する水路を探し、その水路に潜り込むことだってできるのだ。それなりの装備が必要だとしても。  そして僕は完全に水没して上も下も水面もない、水と暗闇だけの細いトンネルを手探りで進んでいくのだ。その先に何がある? 鍾乳洞の別のホールがあってもいい。別の地底湖があってもいい。地下鉄のプラットホームだっていい(下水道はごめんだけど)。あるいは何もなくったって構わない。でも僕は当面、進んでいく。手探りで、上も下も水面もセオリーもない細いトンネルを。     29|12月22日(月曜日)/早朝    給料日の朝早く、僕はとても早く目覚め、すぐにベッドを抜け出す。吐く息が白い。カーテンの間の僅かな隙間は真っ黒だ。彼女は横を、つまり僕が寝ていた方を向いて眠っている。そのわきの下のあたりで、まるで彼女とフラクタルな格好で猫のゴダールが眠っている。  僕はまっすぐにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開く。水のペットボトルを取り出して、コンロの上のやかんに少しだけ注ぐ。水のペットボトルを冷蔵庫に戻し、足の指で冷蔵庫の扉を押して閉める。ガスコンロのつまみを二度ひねる。青い炎が一瞬噴き出した後、それよりもいくぶん小さな炎が小刻みに震えながら燃え続ける。蛍光灯がキッチンの上だけで灯っている。コンロの周りだけ、ガスの温かさが漂う。僕はこんな狭い舞台で既に何かを演じているような錯覚に捕らわれたんだけど、すぐに気を取り直してやかんの底が炎の輪に収まるように把手をつかんで微妙に動かす。熱くない。背の低い冷蔵庫の上の、インスタントコーヒーの瓶を手に取る。冷たい。凍ったように。プラスチックの蓋を開ける。不必要に濃いコーヒーのにおいが鼻につく。そこにおいてあったマグカップに瓶の口を当てて瓶の粉末を適当に注ぐ。瓶の蓋を閉めて冷蔵庫の上に戻す。やかんの中で湯が沸いている。やかんの湯をマグカップに注ぐ。コーヒーの黒い水面を白い湯気が覆う。  彼女はまだぐっすり熟睡している。邪魔がなければ僕が帰る時間まで眠り続けるかも知れないほどだが、えさをねだる猫のゴダールが彼女をきっと起こしてくれるだろう、あらゆる手を尽くして。  まだ部屋を色濃く満たしている眠りの空気を乱さないように、僕は静かにコーヒーをすする。やがてコーヒーを飲み終えると、僕は新しく買ったばかりの地味なネクタイを締め、前の職に就いた当初からずっと使っている鞄を持って、部屋を出ることにする。     30|デスクワーク    朝、まずはじめにすることはデータベースの端末コンピューターを起動させることだ。デスクの引出しから鍵を取り出す。デスクの横に設置されている本体が待機状態になっているのを確認し(赤色のランプだ)、鍵穴に鍵を差し込む。一度左へoffのところに回してから右へ回し、onにする。デスクの上のモニタの電源を入れる。コンピューターは旧式なので、起動にしばらく時間がかかる。その間に前日の夕方以降の伝票を整理する。  立ち上がって後ろの、ファックスの土台になっている木製の棚の引出しを軽く引く。中から伝票の束を取り出す。たまには引き出しごと取り出して、奥に伝票が挟まっていないか確認もする。伝票の束を持ってデスクに戻り、伝票を発行日ごとに分ける。一枚一枚すばやく目を通して、確認しておくべき重要そうなものを抜き出す。たいていは全く重要ではない紙くず同然のものばかりなのだが。それからデスクの下段の大きな引出しをあけ、フォルダを取り出す。確認しておくものを抜いた伝票はそのままいつでも取り出せるようにファイルしておく。フォルダをしまう。これらは一定期間以上経過したものは中の束を廃棄処分にし、フォルダはまた新たな伝票を綴じていくことになる。  コンピューターが起動しているのを確認して、鍵をonとoffの中間に戻す。鍵を抜いてデスクの引き出しに戻す。先ほど抜き出した伝票の発行番号を入力し、手垢で黒ずんだキーボードのエンターキーを押す。真っ黒な画面上に白い枠線と緑色の文字が現れる。そうやって過去の履歴と照会した上で、伝票には「重要」「保留」「一定期間後に破棄」のいずれかのスタンプを押す。言ってみれば僕のここでの仕事は、こうやって三つのうちどれか一つのスタンプを選んで押すということに集約されるのだ。  伝票は次から次に送られてくる。直接僕のデスクに届けられたりファックスで送られたり、電話でことづけられることもあるし、電子メールで届くこともある(データベースの端末の他にノートパソコンが一台あるのだ)。それらについても、データベースの端末で履歴に照会し、その結果重要なものであれば「重要」、そうでなければ「一定期間後に破棄」、有効な履歴がなければ「保留」のスタンプを押す。  「重要」な伝票はすぐにしかるべき部署へ回すために透明なプラスチックのカプセルに入れる。デスクの向こうの、黒ずんだ打ちっ放しのコンクリートの壁に埋め込まれたチューブの操作盤を見る。使用可の青ランプが点灯しているのを確認する。椅子から立ち上がって手を伸ばす。操作盤の横の、緑色をした文庫本くらいの大きさの扉を開く。扉は鋼鉄製で、塗りむらのひどい緑色のペンキは縁のあたりから剥がれ始めていて、剥がれた部分は赤黒く錆びている。カプセルを入れ、しかるべき部署の二桁コードを入力し、コードを指差して確認し、転送スイッチを押す。これでカプセルが空気圧を利用してチューブをたどり、しかるべき部署へ飛ばされるというわけだ。  「保留」は磁石付きクリップに挟み、デスクの脇に留めておく。別の手がかりになりそうな伝票が来れば、それと照らし合わせて重要かそうでないかを見極める。手がかりが来なければ足下のごみ箱にそのうち捨てる。  「一定期間後に破棄」はデスクの奥のトレイに放り込んでいく。一日の最後にデスク下段の引出しのフォルダに綴じることになる。  結局のところ、僕の一日はこの繰り返しであって、三種類の中から選んではひたすら伝票にスタンプを押し、それからあとは自動的に、あるものはカプセルに詰めてチューブで転送し、あるものは磁石付きクリップで留め、あるものはかごへ。その繰り返しなのだ。  時間になればコンピューターに鍵を差してoffに回す。システムが終了したら鍵をonとoffの中間に戻して抜き、そしてまた引き出しにしまう。それで僕は家路に就くことになるだろう。     31|12月22日(月曜日)/猫について    部屋のドアを開ける。猫のゴダールが玄関先までやって来て僕を出迎える。台所には彼女がいる。片手に黄色のミトンをつけている。オーブンの扉を開く。天板を引きずり出す。天板を戻して扉を閉める。猫のゴダールは僕の足首に体をなすり付けながら、僕の脚の間を通り抜ける。彼女はしばらく考慮した末、(チェスの次の手を指すように)慎重にタイマーを数目盛り分ひねる。すばやくオーブンに火を入れる。  僕はネクタイを放り出し、ベッドに寝そべって『神経科学の基礎』を開く。繰り返すが、僕が何を読もうがそれはあくまで僕の勝手なのである。とは言え分厚い本で、ページを開くだけでもひと仕事なのである。本を開くとゴダールが忍び足でやって来て、本のページの上にあがり込もうとする。お前の魂胆は分かっているんだ、ゴダール。そうやってページの上に寝そべってみせて、人間を無知の堕落へ追いやろうとしているんだ。そんな手には乗らないぞ。なんて僕は、結構本気で考えているんだけど、とにかく猫のゴダールには本の上から降りていただく。するとゴダールは寝そべっている僕の体の上に登り、何ヶ所か吟味し、結局いつも通り、腰の上に居座るのである。  僕はあえて、猫について説明してみようと思う。猫って何なのか知らない人たちのために。だからどうか、猫が何なのか知っている人たちには、僕の説明に不手際がないか見張っていてほしい。例えば猫や猫以外のものに対する個人的な偏見が折り込まれていないか、ある面を誇張しすぎてはいないか、もしくはある面を故意にあるいは無意識のうちに無視してはいないか。  猫って、そう、小さな生き物だ。驚いたり恐れたり好いたり嫌ったり欲しがったり遊んだり飽きたり眠ったりする、小さな生き物だ。意味もなくあたりを歩き回り、意味もなく壁を見上げてみたり、人間の膝を乗り越えたり人間の膝に居座って眠ったりする、小さな生き物だ。彼らは人間に何か言いたいのかも知れない。でも特に言いたいことなんてないのかも知れない。そんな素振りでにおいを嗅ぎ、身を隠し、すり寄り、駆けて逃げる、とにかく小さな生き物だ。  では、ある小さな生き物が猫か猫でないかを見分けるにはどうしたら良いだろう。これはあるいは完璧な分類法ではないかも知れないし、例外もあるだろう。でもこんな分類の方法もある。試験装置として準備するものはテレビ。すなわち、彼/彼女がテレビでやっているフットボールの試合を不思議そうに眺め(時折首をかしげ)、そのうち小さなボールや小人の選手を手で押さえる行動を見せたら、それは彼/彼女が猫である証拠だ。  オーブンのタイマーのベルが鳴り、彼女が僕を呼ぶ。     32|昨冬Z    昨冬、僕はどうかしていたのかも知れない。いや、きっとそうだ、どうかしていたに違いない。でも、間違ってはいなかったと思う。それはたぶん確かだ。だけどどうにかしていた。これもまた確かなことだ。どうかしていた。どこか間違えていたのだ。     33|1月20日(火曜日)/普遍的な時刻に    ペイデイ。実質的には、僕の話はここで一つの区切りとして終わりを迎えることになる。というのも、これ以上ペイデイについて何を喋っても、後はどうせ似たりよったりだからだ。これ以上は同じことなんだ。だから実質的には、ここで終わりということになると思う。  この先の僕や彼女の生活が知りたい人は、もしもそんな人がいたなら、7節あたりから題に日付の入った節を選んで順に、ただし僕だって毎年仕事を代えるわけではないのだから8月は飛ばして、読んでみて下さい。きっと面白くも何ともないでしょうけど、この先もおそらくそんなものなのです。  それではどうか、この先(これまでと同様に、あるいはこれまでとはうって変わって)あなたがあなたの望む日々を送れますように。     34|化石    言い忘れていたけど、僕たちがホテルに到着した翌日の朝、ちょうどホテルを引き払う人がいた。  僕たちがホテルに到着した日の夕食の前、僕はホテルの支配人(例の老人だ)に近い内にホテルを発つ人がいないか尋ねてみたのだ。老人は僕を連れ、例のごとくのろのろとフロントまで歩いて漕ぎつけ、すり切れた台帳を開いてくれた。それで僕はホテルでの最後の食事を楽しんでいた彼を、失礼ながら少し邪魔することにしたのだ。彼(その人はちょっとした紳士だった)は表情も変えず、僕たちに席を与えた。僕は彼と彼の細君に礼を述べた後、遠慮なく席に就いた。相席をするのだから邪魔なくらいがちょうどいいのだ。席に就くと僕は少年を呼んだ。少年はメニューの紙を持ってやって来た。僕は彼のためにワインを一本持ってきてくれるように頼んだ。  そういうわけで、次の朝、彼と彼の細君は僕からレンタカーの料金を受け取り(もちろんこの場限りの私的な割増料金だ)、僕たちの乗って来たレンタカーで帰ることになった。確かに運転は面倒かも知れないが、僕としては彼らのタクシーを呼ぶ手間と運賃が省けたと思うのだが、どうだろう。  ホテルの食堂の壁には1枚のモノクロ写真が掛かっていた。飛行機か何かで、高いところから湖を撮影した写真だった。その写真の湖は強いて言えばチェスの駒の、そう、ナイトあたりを縦に引き伸ばしたような形をしていた。もちろんその見方さえある程度のディフォルメを経ているのだが。  僕はある晩の夕食中、彼女の頭の上にその写真を見付けたのだ。僕はドリアの表面をスプーンで撫でながら、何故こんなところにこんな写真があるのか考えてみた。だいたい、こんな写真の下には撮影年月日や場所の名前(ここでは湖の名前がそれに該当するはずだ)なんかが記されたプレートが貼ってあるものだ。それなら僕だって美術館での悪癖をここでも発揮することになるだろう。すなわち絵そのものよりも説明文を目にする時間の方が長いという傾向。とにかく、そういった但し書きがないばかりに僕の目はその写真のうわっつらでふらふらさまようことになったのだ。支配人の老人がそういう説明を付けるという発想を持ち合わせていなかったのか、あるいは何かの特別な思惑があったのかは僕には分からないが(おそらくその中間にある何らかの理由だろう)、差し当たって僕は、説明がないな、とだけ思った。クリームソースのドリアには茹でたブロッコリーが入っていた。  それが僕たちが毎日見ている湖の写真だと気付いたのは次の日の朝だった。僕は何となく、僕たちが見毎日見ている湖は円形なのだと思い込んでいたのだ。でも実際には、湖はひょろりとしてくねりとした形をしていた。他に何て言えばいいのだろう、誰か教えてくれないだろうか?  それからこれも言い忘れていたんだけど、ホテルのフロントの脇には渦を巻いた貝の化石が置いてあった。化石は赤いぺらぺらした布切れの上に安置されていた。何かに立て掛けるでもなく、渦を巻いた貝のレリーフが真上を向くように置かれていた。少しでも離れたところから見ると、ただの小さな石ころにしか見えなかった。僕としても、チェックインの時に何気なくそのあたりに近づいて、それで初めてそれがどうやら貝の化石だと分かった次第だったのだ。 それで、夜、彼女がロビーのテレビで三文映画なんかを観ている間、僕はテレビの画面や彼女の横顔を時折ちらちらうかがいながら化石を手に持っていろいろな角度から眺めたり、渦を人差し指の先でなぞったり、ちょっと宙に回転をつけて放り投げ、落ちてきたところを片手で、あるいは両手でキャッチしたりを繰り返したりした。そこでは様々なものが果てしなく連続しているようでもあったのだが、あいにくテレビ画面は少しちらつきすぎていた。  まだまだ言い忘れていることはあるはずなんだけど、それらの全てを思い出し、そして喋ることなんて僕にはできやしないようだ。僕が言うのを忘れている、今となっては思い出せないディテールのほとんどには、不要のスタンプが押されているのだから。     35|1月20日(火曜日)/最後に、彼女    給料日の夜。僕はベッドに寝そべっていて、読みかけていた『無限級数の理論と応用』を閉じる。彼女はベッドの脇にもたれて床に座り、眠り込んでいる。彼女の腿の上では猫のゴダールが丸くなって、前足で顔を隠して眠っている。僕はそっと手を伸ばし、そっと彼女の頭に触れてみる。  テレビがついている。テレビは航空会社だか旅行代理店だか分からないけれど、コマーシャルを流している。よくある、青すぎるほど青い、真っ青な空を、スマートなシルエットの飛行機が飛んでいるというやつだ。飛行機は少し機体を傾け、速度を一定に保ち、天球をなぞるカーブを描くように、誠実で安定した飛行を続けている。そしてカメラが引いていく。みるみる引いていく。飛行機は小さくなっていく。みるみる小さくなっていき、圧倒的な青さの空に掻き消されてしまう。  画面が次のコマーシャルに切り替わる前に僕はテレビの電源を切る。今、彼女が目を覚まそうとしている。  もう一度、はっきりと述べよう。今さらなぜって、もう僕には喋るべきことなんてそれ以外に残されていないのだから。だから僕はもう一度ここではっきりと述べようと思う。僕は彼女を愛している。そしてたぶん、今のところ僕が僕の形を保っていられるのはそのおかげなのだろう。固く、僕はそう思う。  轟音、そう何もありはしないただの轟音の中、透明な炎の揺らめくようなアスファルトの滑走路に向かって、飛行機は機首を持ち上げ、翼や胴体でいっぱいに空気を抱え、押さえ込むように、そして機体をじりじり下げていき、機尾で滑走路を削りそうな姿勢を保ち、その小さな車輪で地面にそっと触れ、それからすべての重みを預け、ちょっと弾むように機体を揺すり、着陸するのだ。猫のゴダールは起き上がって彼女の膝を降り、精一杯前足を前に突き出し、背中を反らせ、床の上で背伸びする。彼女は座ったまま腕を高く掲げて背伸びをし、大きなあくびをする。
esp..に戻る