
古代において、地震・雷・洪水などの天災は全て神の所業とされてきた。ギリシアでは雷が落ちてきたらゼウスが怒っていると言っていけにえを差し出し、北欧ではシケで船が出港できなければ嵐の神オーディンに祈りを捧げた。中国に至っては、黄河が氾濫したのは河伯(河の神様)が怒っているからだという迷信が強く信じられており、毎月村の家々から一人づつ娘を河伯に嫁がせに行かせた――すなわち、河にいけにえに捧げたということがあった。現在は科学の力でほとんどの天変地異を説明できるが、古代においてそれらをなしえた人物は稀であった。自分の理解を超えたものを、人間は「神」としたのである。
北欧において、地震はロキの苦痛の咆哮とされていた。オーディンの息子のバルズールを殺し、その弟ホズに無実の罪を着せ、ラグナロクの直接の原因を作ることとなったあのロキである。姿を変えてバルズールの復活を拒んだことが発覚した後、ロキは山に小さな小屋を建てて、そこに立て篭もった。その小屋は入口が4つついているので、どこから攻められてもいつでも逃げ出せるようになっていたのだ。ロキは近くの川で自分の作った網で魚を捕らえ、ひっそりと生活していた。
しかし、全知全能の神オーディンをそう長く欺ける者はいない。オーディンはバルズールを殺したのがロキだと知り、全ての神々にロキを捕らえてくるよう檄を飛ばした。神界中の神々が4方向すべてから殺到してきたため、いくら小屋に4つの入口がついていても役に立たない。形勢不利と判断したロキは、サケに身を変えて近くの川に逃げ込むことにした。しかし、オーディンはロキが変身術に長けていることを今回の事件で散々に思い知らされたので、あらゆる可能性を疑っていなかった。ロキの小屋にあった網を川に巡らしたのである。逃げ道を失ったロキは雷神トールにより捕らえられ、神々の前に引き出された。ちなみに、このときトールがサケの尻尾をつかんだためにサケの尾が薄くなったと北欧の伝説にある。
ロキは氷の牢獄に投獄された。しかもただ投獄されただけではなく、神への反逆者としての見せしめとして、死をも超越する厳しい拷問も待っていた。
まず彼は非常に固く冷たい3枚の岩に縛り付けられた。しかし、普通の鎖ではすぐに破れてしまうので、ロキの実の息子の一人ナルヴィの腸を魔法で鎖に変え、再びロキを結びつけた。当然、ナルヴィは死ぬ。
拷問はこれだけにとどまらない。牢獄の天井の鍾乳石には一匹の毒蛇が繋がれ、その牙から焼けるような痛みを引き起こす毒液をロキの頭上に滴らせた。しかもその毒蛇の毒は自らも押さえ切れないほどの毒なので、毒液はやむことなくロキの顔に浴びせられた。善なる神バルズールやその親族を己のやましい心のためだけに殺害したのだから、当然の報いと言えるだろう。
だが、ロキにとっては当然の報いといっても、その妻にとっては少々酷過ぎた罰であったろう。悪神ロキには何人かの妻がいた。巨狼フェンリルと大蛇ヨルムンガンドを産んだ女巨人アングルボダと、ロキの鎖にはらわたを割かれたナルヴィの母親シギュンなどがその代表であろう。気性の激しい巨人のアングルボダと異なり、シギュンは静かで貞淑な妻であった。そして誰よりもロキを愛し、ロキの苦しみを理解できていた。
そのシギュンにしてみれば、自分の息子を無残に殺された挙句、唯一のよりどころの夫までが生き地獄で苦しんでいることに他ならない。シギュンは自分の将来よりも、ロキの苦しみを嘆いた。そして、オーディンにロキの解放を懇願した。主神の息子を殺した罪を簡単に許すわけにはいかないが、この貞淑な女をこれ以上苦しめるのもしのびない。そう思ったオーディンは、シギュンにロキの世話だけを許すことにした。
シギュンはロキの元へ到着すると、早速木製の器を取り出し、毒蛇の前に構えた。こうすることで、ロキの苦しみを少しでも減らそうと思ったのである。結果的に、ロキが毒蛇の毒によって苦しむ時間はほとんどなくなった。ただ唯一、毒で満杯になった器をシギュンが取替えに行っているときだけ、ロキは猛毒の苦しみに叫びを上げなければならなかった。この短い時間のすさまじい叫びによって人間界の地が揺るぐ。――北欧の地震である。
「悪」とは何か。シギュンのエピソードを聞くと、私は何度でもこのテーマを考えてしまう。他人に害を及ぼすという理由だけで、悪を悪と呼んでいいのか。もし本当にそうなら、古代北欧の吟遊詩人たちは、「悪」の性格を植えつけられた神ロキにこのような貞淑な妻シギュンを送らないだろう。私を含めた現代人の感覚では到底捉えきれない「悪」の本質を見切っていた古代人の英知は、背徳者の光となった女シギュンとして顕在しているのではないだろうか。