file 15 寡黙なる神ハデス

 ハデスは、ギリシャ神話の中でも結構名前が知られている神である。英語では『プルート(プルトン)』。冥王星の英語読みと同じであることからこちらも親しみやすい。

 暴神クロノスが追放されたとき、世界を兄弟の間で分割することにゼウスが決めたとき、ハデスは地下に存在する黄泉の国を統治することになった。ちなみにゼウスが天空の神の住まいを、ポセイドンが恵みある海の世界を統治することもこの時決まった。以来ハデスは、妻のペルセポネとともに地下の国を支配し続けてきた。

 ペルセポネは、豊穣の女神デメテルの娘である。豊穣の女神と言えば、春を呼び、穀物を育てる恵みの神であるはず。なぜその娘が、冥界でハデスの妻となっているのか。実は、ペルセポネはハデスがむりやり奪ってきた花嫁だったのだ。
 ハデスは、一輪の美しい花に目を奪われていたペルセポネをさらい、そのまま地下の国に住まわせてしまった。母親であるデメテルは怒り狂い、主神ゼウスに娘を返してもらうよう懇願した。ゼウスも頼みを聞き入れ(道理はデメテルにあるのだから)、ハデスにデメテルを返すよう命令した。しかし、時既に遅し。ペルセポネはハデスのことが気に入ったのかどうか、死者の国の食べ物を口にしてしまっていたのだ。生きる者は決して口にしてはならない死者の食べ物を口にしてしまったため、もはやペルセポネは黄泉の住人となってしまったのだ。

 しかし、これではあまりにもデメテルがかわいそうだ…ということで、ゼウスは救済措置として、一年のうち半分の期間は母親の元にだけ帰れるようにした。黄泉の食事をとっても、どうやら半年という比較的短い期間ならば地上に出れるようなのだ。ハデスもデメテルもこれにしぶしぶ応じた。こうして、ペルセポネは、一年のうち半分を地上で、残りをハデスの元で暮らすことになったのだ。
 しかし、デメテルは娘がいない間はずっと泣き続け、豊穣の仕事を怠ってしまった。仕事をするのは、娘が戻ってくるときだけ…これが、ギリシアにおける収穫・種まきの期間と重なっているというのは非常に面白い。

 このようにハデスは寡黙であってもやるときは強引な神であった。しかし、この豪胆な神も、一度だけペルセポネを奪われそうになったことがあったのだ。

 今日の『C2EX・カードの由来』で登場した、ミノタウロスを一撃で屠った英雄テセウスの友人に、ペイリトスという男がいた。ペイリトスは軽い一面があるものの、テセウスとは親友の間柄であった。いや、そんな言葉で表すのは生ぬるいかもしれない。ペイリトスがテセウスに、
「君は何か欲しいものがあるかい?」
と聞けば、
「君との永遠の友情があればいいさ」
と答えたほどなのだ。100%お互いを信頼した仲であった。「君が欲しい」といったわけではないので、決して怪しい仲ではない。

 そんなペイリトスは、おそらく豊穣の季節・秋に見かけたのだろう、ペルセポネに一目ぼれしてしまった。黄泉の女王といっても、北欧神話の冥界の女王ヘルのように醜悪な顔はしていない。もともとは恵みの神なのだ。ペイリトスは心奪われ、仕事に手がつかなくなってしまった。
 テセウスは呆けた顔をしているペイリトスが気になり、どうしたのかと心配した。するとペイリトスは意を決し、
「テセウス、頼む! 俺と一緒に黄泉の国までついてきてくれないか!?」
と、ペルセポネを奪いに行く計画をテセウスに打ち明けたのだ。もちろん黄泉の国へ行くといっても、一緒に無理心中をしようということではない。黄泉の国は地下にある、というのが当時の通説であった。日本の「地獄」を想像してもらえればよいだろう。
 テセウスは迷った。相手は神である。神に懸想することすら冒とく罪に問われかねないのに、あまつさえ奪いにいくとは。しかし、他ならぬ無二の親友の頼みである…。
 結局テセウスは、信仰心よりも友情を取り、ペイリトスとともに冥界へ旅をすることにした。

 黄泉の国でペルセポネを発見したペイリトスたちは、ハデスがいない隙にペルセポネをさらった。しかし、冥界の住人は全てハデスのしもべである。たちまち妻が奪われたことを知り、ハデスは怒りに我を忘れて二人を追いかけた。よほど好きだったのであろう。
 実行犯のテセウスは黄泉の国からなんとか脱出することができたが、計画犯のペイリトスはハデスに捕らえられ、冥界の岩の近くに縛り付けられた。これは、たとえ死んだとしても永久に魂が解放されることがない刑罰であったという風に私は解釈している。しかもペイリトスにとっては、愛しのペルセポネが間近にいるにもかかわらず身動きが取れないのだ。まさに魂の拷問であった。

 ハデスについてのエピソードは、不思議なことにこのくらいしか残っていない。彼が他に登場する場面があったとしても、大半の活躍を妻のペルセポネに奪われてしまっている。これはおそらく、古代ギリシアの人々が、「死」というものを忌むべき存在だとしてハデスを遠ざけた結果であろう。その証拠として、神話の登場人物(主に人間)は、自分の身内が今わの際にあるときは、
「おお、ハデスよ。今しばらく、この者の命を取ってくれますな!」
と祈っているのだ。ハデスは敬遠こそされるものの、信仰されることは決してない神だったに違いない。  


file 14へ
file 16へ
神話辞典へ戻る
トップへ戻る