幻影の古代民族史8

 フェニキア人についての古典の記録

 世界史にあらわれてくるはじめの文明はオリエント(メソポタミアとエジプト)である。その中でもアラム系フェニキア人の影響は小さくはなかった。後のギリシア文明もオリエントによるものから発展したとも言えよう。
 ギリシアの神話によると、ヨーロッパの名はギリシアの神ゼウスと結婚したフェニキアの王女ヨーロッペに因むものであった。また、ギリシア神話にはウガリトのフェニキア神話を模倣したものがあると思われている。
 フェニキアを記録したもので、よく知られているのは、先にも述べた「歴史の父」と呼ばれているギリシア人、ヘロドトスによるものである。彼の主著である『歴史』と言う本の書き出しに出てくる民族はフェニキア人である。まず、その文を引用して見よう。

 ……ペルシア側の学者の説では、争いの因をなしたのはフェニキア人であったという。それによれは、フェニキア人は、いわゆる紅海からこちらの海に渡って来て、現在も彼らの住んでいる場所(ツロとシドンなど)に定住するや、たちまち遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったがアルゴスにも来たという。
 当時このアルゴスは、今日、ヘラス(ギリシア)と呼ばれている地域にある国々の中では、あらゆる点で最も強力であった。
 さて、フェニキア人は、そのアルゴスに着くと、積み荷を売りさばいたのだが、到着後、五、六日目、商品もおおかた売り尽くしたころ、女たちが多数海岸にやってきて、その中には王女もまじっていた。
 王女の名は、ギリシアの所伝と同じく、イナスコの娘イオであったという。
 女たちは船尾のあたりに立って、それぞれ、一番欲しいと思う品を買っていたが、このときフェニキア人は、たがいに示し合わすと、女たちに襲いかかった。
 たいていのものは逃れたが、イオは他の幾人かの女たちとともに捕らえられた。
 フェニキア人は女たちを船に乗せると、エジプトを指して出帆して行ったという。……中略……一方イオについては、フェニキア側の所伝はそれと一致しない。つまり、フェニキア人は、イオを略奪してエジプトに連れ去ったのではなく、イオはアルゴスで、例の船の船長と関係を結んでいたのだという。
 ところが女は自分が妊娠したのを知ると、両親の手前を恥じて、自分のことが、露顕せぬようにと、みずから進んでフェニキア人と同船して、出奔したのだという。……
 以上のヘロドトスの記事によると、フェニキア人は紅海側から来たと言っているが、それは初期のころのギリシア人が、地の東の果ては、アラビアで、そことの境にある海は紅海であるという知識しか持っていなかったからであろう。フェニキア人は、地中海のレバノン海岸に来て、そこに定着すると、すぐに貿易をはじめて、古代のギリシアの一番大きい町へ来ていたことが知られる。その町の娘たちは、商品が売り尽くされた頃に、船に来たのだから、買い物にではなく、本当のところ、駆け落ちをするためであったろう。

 フェニキア人の一つの特徴

 或る伝承によれば、フェニキア人という呼ばれ方はギリシア人の側からのものである。意味は肌の黒い人ということである。フェニキアの船乗りたちは熱い夏の間、ほとんど裸で操船していたのだから黒く日焼けをしていた。ギリシア人は白人系だから日焼けをしていても黒くなることはなかった。その違いが大きい特徴としてギリシア人には印象づけられたのだと思う。ではフェニキア人は自分たちをどう呼んでいたのか。それはまだ分かっていない。これもまた自己宣伝をしないフェニキア人の特徴である。

 聖書に非常に賢い民族と書かれたフェニキア人は、また、すこぶるずる賢い民族でもあった
 フェニキア人は、自分たちの貿易の利益を守るために、世界中に嘘の情報を流しつづけていた。
 ヘロドトスは紀元前四百年代の人だから、その時までに、すでに千年以上にわたって、それだけではなく、それ以後もずっと、バスコ・ダ・ガマがアフリカの最南端の希望峰を回ることに成功するまで、或いは、コロンブスがアメリカ新大陸を発見するまで、世界中がフェニキア人に騙されていた。
 ヘロドトスはフェニキア人の嘘の情報をどのように聞かされていたのかを、また、彼の文章より引用してみよう。

 ……次ぎに、南方では、人類の住む再末端は、アラビアで、乳香、没薬、カシア、シナモン、レダノンの生育するのは世界でこの地方のみである。没薬を除いて、すべてこれらの香料の採取には、アラビア人は容易ならざる苦労をする。
 アラビア人は乳香を採取するのに、フェニキア人がギリシアへ輸出している高価なステュラス香をたく。乳香を採取するのにステュラスをたくというのは、何故かと言えば、乳香を産する木は、そのどの株にも、形は小さいが、色はとりどりの有翼の蛇が無数に群がっていて、これを守っているからで、これはエジプトを襲う蛇と同類であるが、これを木から追い払うには、ステュラスの煙をもってする以外に、方法がないのである。……
 ……アラビア人が乳香を採取する方法は右のとおりであるが、カシアは次ぎのようにして採る。両眼だけを残して、全身および、顔を牛皮や、その他の獣皮で覆いかくした上で、カシアを採りに行く。
 カシアはあまり深くない湖の中に生じるが、湖の周辺および湖中には、なにか蝙蝠に似た翼のある動物が巣くっていて、これが不気味な鳴き声をあげ、また恐ろしく手強いのである。この動物を眼から払いながらカシアを採らなければならない。
 アラビア人がシナモンを採集する方法は、右の場合よりも、さらに驚くべきものである。この香料がどこに生じるのか、どこの土地がその産地であるのかを彼らは知らないのである。ただ、昔、ディニュソスが養われていた土地が、その産地であるという説をなす者があるが、これはもっともらしいふしもある。
 その説によると、われわれが、フェニキア人から教えられたことばで、シナモン(キナモーン)とよんでいる乾いた棒切れは、巨大な鳥が運んでくるもので、鳥は人間の足の及ばぬ山の断崖に土で作りつけた巣を仕上げるために、この棒切れを運ぶのであるという。そこで、アラビア人の考案した工夫というのは、死んだ牛やロバやその他の荷引用の獣の四肢をなるべく大きく切って、その場所まで運び、これをなるべく巣の近くに置いて遠くに離れる。鳥は舞い降りてきて、獣の肢を巣へ運んで行くが、巣はその重みに耐えかねて地上に崩れ落ちるのである。アラビア人はそこへ行って、シナモンを集めるという。そして、このようにして採取されたシナモンは、そこから他の国々へ輸出されるのである。(シナモンとカッシアの産地はセイロンと中国とベトナムであった)
 子午線が西に傾いている方向では、エチオピアが人の住むところが、世界の果てになる。この国は多量の金、巨大な象、さまざまな野生の樹木と黒檀を産し、この国の住民は世界で体躯が最も大きく、容貌も美しく、寿命も最も長い。以上がアジア、およびリビアにおける最末端の国々である。……
 ……西の方、ヨーロッパの果ての地域については、私は確実な知識をもたない。
 少なくとも私は、琥珀の原産地であると伝えられる北の海に注ぐ河があって、異邦人たちが、その河をエリダノスとよんでいるというごとき話しを信じることはできないし、わが国に渡来する錫の原産地であるカッシテリデス(錫の島)の実在することも知らないのである。(その頃は、今日のイングランドで錫が産出されていたようである)
 第一にエリダノスは、その名自体が、異国語ではなくて、ギリシア系で、誰か詩人によって造られた語であることをしめしている。
 また、私の努力にもかわらず、ヨーロッパの彼方(北方)に海があることを、これを実見した者の口から聞くことができないでいる。
 もっとも、われわれの入手する錫や琥珀が、地のはてから渡来してくることは事実であろう。ヨーロッパの北方には、他と比較にならぬほど多量の金があることは明らかである。その金がどのようにして、採取されるかについても、私は何も確実なことを知らないが、伝えられるところでは、一つ目のアリマスポイという人種が怪鳥グリュプスから奪ってくるのだという。
 私は、他の点では普通の人間と変わらず、ただ、目だけは一つしかないという人間のいることは信じないが、他の地域を内に包んで、その回りを取り囲んでいる世界で、最も貴重とし、珍稀としているものが、蔵されていることは確かなようである。……
 (実際の金の産地はアフリカであったと思われているが、フェニキア人はヨーロッパの北方と宣伝していた)
 フェニキア人が乳香や、シナモンなどの産地をアラビアの南の地の果としていたのは、現在も乳香を産するイエメンの人たちと、それらを運ぶようになったアラブ人の三者が、自分たちの利益を守るために結託して作り出した話しであろう。
 ソロモンが王座に着く以前から、フェニキア人はペルシア湾のバーレーン島にも拠点をもっていた。バーレーン島はフェニキア人が東洋に進出するためのツロやシドンのような位置をしめていたと思われる。だが、そこに集められた商品をどのようにして、地中海側に運び入れたのか。また、それをどのようにして、他の民族に知られないように隠しておれたのかについてはわかっていない。コースはアフリカの最南端を回るものだったのか、今のスエズ近くに水路があったのか、それとも一部は陸送によるものであったのか等は不明である。
 一つのヒントはフェニキアのタルシシュの船団は三年をかけて、金や、インド産でなければならない孔雀や、セイロンや中国産のシナモン、カッシュなどを運んできたと聖書に書いてあることである。
 三年かかると言うことは、バーレーンを出たタルシシュの船団が、アラビア半島のイエメンを経由してから、アフリカを一周して地中海を通り、レバノンの港に帰ってきたと考えられる。そして、アフリカを回遊中のところどころで金を取ってきたのではなかろうか。(途中で上陸をし、農業をして食料を確保したとも言われている)
 聖書には「彼らはオフル(現在のソマリア付近か)から純度の高い金を取ってきた」と書かれているが、金は転がっているはずはないし、金脈を掘って、それを精練してから持ってきたとも考えられない。
 それらは、現地人から騙し取ってきたのに近かったのではなかろうか。現地人のほしがる品物と物々交換したと考えられるが、その手段は想像して見るほかはない。
 そのことについてヘロドトスが書いておいたことに、さらに具体的に想像をしてみたことを書き足すと、次ぎのようになる。
 多分、彼らは、その方法を四こまマンガのようなイラストをもって船のマストなどに掲げたのではなかろうか。
 彼らがギリシアへ行って、商売をしようとした時には、取り引き条件のイラストを描いた板を体の前後につけて、つまりサンドイッチマンのようになって、まず、町中を歩いたという記録がある。
 現地人に提供された商品は、彼らが得意とした小間物類が多かったようである。
特にガラス細工の装身具や壺など。(レバノンのアッコ付近にはフェニキア人のガラス工房の跡が発見されている)それに陶器と青銅器の器物類。青銅器や真鍮の器物は新しいと金ピカに輝き、固くもできているので、金で作られたものよりも実用性のあるものと思われたであろう。
 記録によるとウザル産の銑鉄の斧やハンマー、ナイフ、ハサミ、スコップなどもあった。それらの中には、エジプトやギリシアのデザインの模造品が多かったというが、その方が販売しやすかったからであろう。
 彼らは、それらの品物を船の前の砂浜に並べて、それより数歩先の地面に線を引いて、そこに、相対する商品の交換条件に満ちるまでの金や象牙を置かせることを指示した。その後、現地人をさらに十メートル以上はさがらせたところで、その金を取りに出た。もし、現地人が条件を満たさないままに、フェニキア人の雑貨を持って行こうとするなら、その者は弓矢で撃たれるであろうというようなことは、例のイラストか何かで知らせてあったのであろう。次にタルシシュのことを説明しておこう。


 タルシシュの船団

 前に、タルシシュとは地の果てに近いスペインの南部にあった港町のことであると書いておいた。(アナトリア、つまり今のトルコの南岸にも、もう一つタルシシュと呼ばれる港町があったようである)そのことから、タルシシュとは遠洋航海による貿易のことを意味するようになったのである。従って、タルシシュの船団といえば、外洋を航行する大型船の集団ということであった。
 紀元前900年の頃、イスラエルの王ソロモンは、フェニキアの王から大量の金の提供を受けたが、さらにソロモンは、フェニキアの王ヒラムと協定して、タルシシュの船団を持つ事業を興している。イスラエルとフェニキアの船員を乗せた船団は、現代のイスラエルの南端にあるエィラート港から紅海に出て、アフリカ沿岸を就航した。とくにオフルからは、大量の金や財宝を得て帰ってきたと書かれている。
 このことによって、フェニキア人は、ペルシア湾のバーレーン以外にもう一つの紅海側の拠点を持つようになったと言えよう。
 その後、イスラエルが南のユダと北のイスラエルの二つの国に分離して数代を経てから、ユダの王ヨシャパテはもう一度、エィラートでタルシシュの船団を組んで出帆しようとしたことがあった。そして、バアル信仰者になってしまっていたイスラエルのアハブ王の子のアハジャと組んで外洋船を建造した。しかし、乗組員はユダヤ人だけに限定した。このことで主の預言者がユダの王ヨシャパテを非難して「あなたはアハジャと同盟したので、主は、あなたの計画を打ち壊す」と預言した。ヨシャパテ王は、アハジャが申し込んだ「わたしの国には、フェニキア系の操船に詳しい船員がたくさんいる。その人たちを乗せて行くのでなくては、外洋に出ることはとっても危険なことだ」という意見を振り切って出帆した。だが、ものの見事に、エジオン・ゲべル(現、エィラート)の港を出るやいなや難破して、その計画は挫折してしまった。
 しかし、イスラエルだけではなく、ユダヤもフェニキア人との混血が進んできた紀元前200年の頃になると、海に強くなって、エジプトのアレキサンドリアには大船団と大埠頭と大倉庫群を持つ一大商社を構えるまでになったのである。
 紀元前1000年頃のダビデが王国を建てるまでは、イスラエル人は海というものを、全く知らない民族であった。彼らが知っていた一番大きい海は、魚一匹住んではいない「塩の海」と呼ばれる死海のみであった。何故か、ガリラヤ湖のことは一言も触れられてはいない。魚を取った記録もない。
 ペテロやヨハネがガリラヤ湖で漁をするようになったのもフェニキアからの影響があったからと思われる。ユダヤが海を知らなかった理由は、地中海海岸の北側にはフェニキア人が住んでおり、南側の海岸は、ペリシテ人に占拠されていて海岸に接するところが少なかったからであろう。その海を知らないユダヤ人が、預言書や詩篇の時代になると、海のことをしばしば書くようになっている。ヨナがヨッパからフェニキアの船に乗ってタルシシュへ行こうとしたのは、その一例である。
 筆者は、詩篇や預言書に書かれている海についての記録の多くは、ユダヤ人となったフェニキア人によるものであると思っている。
 バアル信仰のフェニキア人が、偶像ではなくて、真の神を信じるようになったのは、外海を航行することによって与えられた試練からのものであるとも思っている。
 人間は自分の力では助かる見込みがないと悟った時に、はじめて、神を求めるようになる。ローマ行きのパウロが乗った船の遭難の記録がそのことを物語っている。
次に、ユダヤ人となったフェニキア人が書いたものなのか、または、フェニキア人から聞いたことを、そのままユダヤ人が書いたものなのか、その詩篇の一部を引用しておこう。

 「船に乗って海に出る者、大海で
  商いする者。
  彼ら主のみわざを見、
  深い海でその奇しいわざを見た。
  主が命じてあらしを起こすと、
  風が波を高くした。
  彼らは天にのぼり、深かみにくだり、
  その魂はみじめにも、溶け去った。
  彼らは酔った人のようによろめき、
  ふらついて分別が乱れた。
  この苦しみのときに、彼らが
  主に向かって叫ぶと、
  主は彼らを苦悩から連れ出された。
  主があらしを静めると、波はないだ。
  波がないだので、彼らはよろこんだ。
  そして、主は、彼らを
  その望む港に導かれた。





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