
文月
今年は、雨が降らない。
雨が嫌いな私としては喜ばしい限りではあるが、こうまで梅雨がないがしろにされたような夏は、少しだけ心配になる。
恵みの雨は緑を育てる。
外に出るのがめんどうだとか、靴が濡れるなんていう些細な理由で、雨を厭うのはなんだか傲慢な気もする。
昨日は久しぶりに空のショウを見た。
ほんの半時ばかりのことだったが、すばらしい演出であった。
正午を過ぎたあたりから、空は一面、宵闇のような群青色に包まれ、はっとするほどに突然、嵐が現れた。
雷鳴のオーケストラ。
窓を開け放つと、思い切り吹き込んでくる風雨。
満身で木々が喜びを表現しているかのように、辺りは密度の濃い植物の息れに満ち溢れていた。
雨が上がった後の空は、まるで、一度に洗濯をした白いシーツのようなすがすがしさだった。
私は夏を愛している。
連日の猛暑でじわじわと体の力が吸い取られているような気がしても、
「今日も暑いですね。」が挨拶になるような日々も、
日傘を差したおうなや、白いハンカチを握り締めた女性の手を眺めていると、訳もなくうれしくなる。
決してスタミナに満ち満ちていて、暑さなんてまったくこたえないような健康な体ではないくせに、
朦朧とするほどの暑さの中、時折、至福とも思えるような気分になることがある。
それに反して寒いのはまったくの苦手。
じりじりと照りつける太陽の下にいると、音や映像が曖昧になる。
にぎやかに行き過ぎる人並みの、声も姿もアクアリウム越しの風景だ。
それでいて、その熱に反応して私の体中の血液が勢いよくめぐる感覚。
そのギャップの心地よさに酔ったような白昼夢。こんな季節は、どこかに行きたい。
定番の海や、花火大会やイベントでもいいけれど、もっと何でもないところ。
日常が十分に染み付いているようで、それでも夢の中を彷徨えるような場所。
移動について思う。
映像も音も、限りなくリアルに近づくことが求められ、しばしば現実すらバーチャルという究極性を目指しているように見える現代。
でも、多分、人は旅することをやめないだろう。
通勤電車の車窓越しに、流れ行く景色を眺めながら、ふと、そんなことを思った。
旅には移動がつきものだ。
もちろん、テクノロジーが進んで、みんな自宅で仕事ができるようになって、通勤地獄から開放される、
なんていう話が、実はすぐそこまで来ているのかもしれないとかいうことは、確かに便利なことだと思う。
新幹線も早くなったし、航空路もこんな狭い日本の中で張り巡らされているし、
100年前の人とは確実に距離と移動の感覚は隔絶したものがあるだろう。
でも、いずれ、瞬間移動なんていうものが実現したとして、それでも、人は旅をするのではないだろうかと思う。
ここではない場所を求めて。私は常に夢想の中でそう思う。
そこでなければ買えないものや、食べられないものは確かにあるが、現代それも少し危うい。
そういう意味でしか旅が存在しないのだとしたら、いつかそれは廃れてしまうような気すらする。
しかし旅は、必ず時間軸をはらんでいる。
ドアを開けたら、すぐパリやメキシコに繋がってしまうとしたら、それを旅と呼ぶかはあやしい。
たとえ、現代がいかに時間を短縮させるかの方向へ突き進んでいるとしても、移動するためにはある一定の時間を必要とする。
旅の醍醐味が旅程にこそあるとまでいうことは、はばかられるものの、
やはり、私は、その移動の中に大切な何かがあるように思えて仕方がない。
電車に乗って出かける。
駅までの道のり、車窓の風景、見慣れぬ駅の改札を抜けて、その街の空気に触れる。
それらすべてが愛しい。
観光スポットになんか行かなくてもいい。
その過程に宝物がつまっているような気がする。
なぜ、こんなに、移動そのものが魅惑的なのだろうと考える。
欲望の根源が目的地に無い。
しばらく思いを巡らせた後に、あることに気づく。
人生の目的だって同じようなものだということに。
死ぬまでに何をなしえたかということは、確かに大事かもしれない。
でも、私はもっと、道辺の草に思いを馳せるように生きてみたい。
難しい、とても難しいことかもしれないが、でも、そこに、少しだけ幸せになるためのエッセンスがあるように思う。
明日の休みは、どこへ出かけよう。
目的地へ着くまでの間、私の幸せな夢想は続く。