水無月


 10日ほどのあたたかな日差しにだまされているうちに、テレビの天気予報は梅雨入りを告げる。

 雨は嫌いでも、毎年のように、「恵みの雨、恵みの雨」と言い聞かせたりする。
「夏の渇水はいやだもんねぇ。」という世間話に相槌を打つ。そうねってつぶやきながら、ぼんやりと灰色の空を見上げている。
もう少し待てば、夏。
ノスタルジアが働かないように、私は予防線をはる。

 北の地方の梅雨は涼しい。涼しいなんていうよりむしろ寒い。
でも冬の寒さとは違う。
 しっとりと、まるで灰色の雲がそのまま降りてきたのかと思うような寒さ。
閉ざされた窓の中で人肌に焦がれる。開放的な夏なんかより、よほど官能的なんじゃないかと思ってしまう。
雨を含んだ室内で、自分より少しだけ高い体温と交じり合ってしまいたい、、、、

 ここ2年で変わったことといえば、飲めなくなったこと。
延々と続く素面の世界は、ごまかしも、いいかげんも、なりゆきも、いきおいも許してはいない。
よいことだとは思う。誤らなくていい。
もちろん、すべてをアルコールのせいにするほど恥知らずでもないけれど、要は負けないということだ。
逃げも隠れもせずに受け止めるということだ。

 酔うことについて思う。
 
 世間的なことはとりあえず考えない。
アルコールを潤滑油にして動くコミュニケーションも否定しない。むしろ好ましかろうと思う。
素面の本音は緊張感高いでしょうから。いいんです、そういうの、楽しいと思う、多分。
 
 独りきり、飲みつづけていたお酒は、蜘蛛の糸のようにやさしく包んで、捕らえて、わたしをとどまらせていたように思う。
耽溺というのに近い。センチメンタリズムよりも密度の濃い、そう、湿度をました梅雨の夜に似ている。
 
 かなしみやさみしさは乗り越える方向性ばかりを強要するものではないのだということを、アルコールはささやいている。
 
 口当たりのよい、ドイツの白からはじまり、南米の赤を探すようになった時点で、もう、そろそろ事の本質は変容しているということに気付くべきだったのかもしれない。でも、本当のところ、そればかりでもなかったのかもしれない。

  振り返ることは、真実を告げない。
 
 本当は、さみしくてさみしくて仕方がないくせに、お酒の力を借りて、本当に話したい話をするような人たちもいる。
 ひさしぶりに出会って、その口から出た話はキルケゴール。
早口のその素面の言葉に、「でも、絶望はそんなものじゃあ、きっとないよ」ってこころで呟く。
 全然違う頭の回路が、やはり、お酒もかなしいとはじきだす。
そうねって思う。許して欲しいのよねって。神にひざまづくことがなければ、そうならざるを得ない。それは、みんな同じ。

 からだが、アルコールを受け付けなくなっていて、良かったと思う。

 飲み込んでも、すべて気化してしまうほどの夏を待っている。
 そうしたら、少しだけ、おいしいお酒を飲んでみよう。