皐月

新緑がまぶしい。
五日と言わずに色を変えてゆく草木の生命力に、少し気後れさえしてしまいそうな日々。
植物でさえ、こんなにも生き生きと変化を遂げているというのに、動物の私はじっとその様子を、ある種の苛立ちすら覚えて見つめている。

でも、思えばそんなものなのかもしれない。

土砂降りの雨が降ろうと、炎天下が続こうと、何一つ文句も言わずどっしりと根を張っている木々のほうが、高等であるのは当たり前なのだ。

 十日も続いてしまう休日に、皆、この島の閉塞感に堪えかねたように海の向こうへ飛び立ってゆく。
毎年のようにテレビのニュースが告げる空港の様子を聞きながら、
ああ、でもまだ、この星を飛び出すことはできないのだなぁとぼんやりと思う。

画面に幼い少女が映る。
これからバカンスに出かけるというのに、すでに疲れきったような表情の両親のそばで、彼女は白い帽子をかぶってはしゃいでいた。

笑顔が新緑のようだ。

子供のこころがすべて純真無垢であるなどとは思わない。
でも、それは常に一定の生命力をたたえていると思う。

どうにでも転ぶことのできる可能性。
だからポテンシャルが高い。
年をとることのせつなさは、ある面、このポテンシャルの減少にあるのだろう。
その意味で、母親のお腹の中にはぐくまれる命は、究極のポテンシャルといえる。

 誕生について思う。
それは、南の海の神秘的な産卵から、都会の産院で出産費用に悩む女までのレンジをもっている。
テレビのドキュメンタリー番組を見ながら、ああ、生命はすばらしいと感動するのはそれはそれで美しいと思うが、
少なくとも、今の日本で生活している以上、もっとせつないことに目を向けないではいられない。
 
出産やら、子育てやら、コメンテーターやえらい先生が話していることを、別に批判めいた気持ちで眺めているわけではないが、
あまりに遠い世界の話のようで、よく分からない。
多分それは対象を客体化してしまいかどうかの違いだとどこかで聞いたような気がする。

そうかもしれない。
 
子供を産むことに反対の男が、おろすことをためらっている女に、
「胎児が命の可能性なら、避妊だって同じ事だ。」
と言ったという、乱暴な話を聞いたことがある。
堕胎に反対するアメリカの団体なんかが聞きつけたらそれこそ殺されそうな話だが、
そういうことを言う人間がいるのも事実だ。
もうすでに何十年も生きてきた自分たちの生活、それこそ可能性の優先ということになる。
それぞれに事情はあるだろうから、別に私自身は、絶対に反対の立場にたっているわけではないが、
この思考方法は興味深いと思う。

 単に可能性の量だけでは、その価値を測れないということを突きつけられる。
当たり前のようだが、生まれてきてしまった以上、その命は自分のより良い生活を目指しつづける。
では、生まれてこなかった命は何を目指していたのだろう。

性交がすべて、誕生を望んでいるなどと美しいことを言えるとは思っていないが、
その周辺で繰り広げられたドラマを安易に忘れるべきではないと思う。

 生まれてくることは正しい。
たとえどんな理由であっても。
そして、力強く行き続けてゆくことも、やはり限りなく正しいことなのだと思う。