弥生

3月はあっという間にすぎてしまう。別に恨みごとを言うつもりもないが、桜の開花に、毎日のように一喜一憂し、横目で通りすぎている間に、無情にも葉桜を見上げる季節になっている。毎年のことだ。かといって、様々なことが始まる季節の、慌ただしい日常のためばかりでもないだろう。何か、もっと、時間軸がゆがんだような、不思議な日々の流れ方を感じる。
 日曜日は晴れていた。家中の窓を開けて、風の通り抜けるのを感じてみた。外は、暖かな日射しがいっぱいに満ちて、窓枠で区切られているだけなのに、別世界のような明るさを示していた。昨日の疲れが体から出てゆかず、金曜日と隔絶されてしまった時間に、一瞬、気の遠くなるような不安を感じた。でも、それもほどなく色を変えて明日のことを考え始めた。
 約束について思う。  未来へのビジョンと言い換えてもいい。大なり小なり、社会生活を送っている以上予定というものからは逃れられない。明日の仕事、来週の集まり、来月の休日。それは誰かとの約束。いつ、どこで、何をしましょう、という了解。守られることを前提とした、取り交わされた了解。じゃあ、守られことを前提としない約束の意味はあるのだろうか?「どうせ守られるはずなど無い」と思いながら取り交わされる約束。確かにそういうものは存在しているかもしれない。けれど、それは例え諦めのニュアンスを含んでいたとしても期待というベクトルを内包している。もちろん「もしかして本当にそうなるかもしれない」という期待もあるが、そう信じている自分に対する期待という二重構造を生み出している場合もある。結局、人は自分自身に期待しなくなった瞬間、未来へ進む勇気をなくすものだ。流行歌のタイトルも、匿名性の出会いに関する膨大な情報の流れも、そこに存在しているのは、いつも「期待」であるような気がする。