はじめに

2001/8/14

私が子供のころには「ADHD(注意力欠陥多動性障害)」なんてことばはありませんでした。というか、精神的な病に関しては、まだまだ世間一般的な認知、理解は低かったと思います。
 もし、私が子供のころに、この障害が認知されていていたら・・・そして診察を受けていたら?・・・私はどんな風に成長してきたのでしょう?

診断を受けたあと、思わずドクターに向かってつぶやいた言葉です。

私は自己紹介にも書いていたように、小さいころからチョロチョロする。言うことは聞かない。騒がしい・・・・おとなしくしてない・・・・。
当時の私を大人たちが評するときに使う言葉です。これらの言葉を思い出すと、われながら情けなくなってくる。
 でも、おぼろげながらの子供のころの記憶をたどり、自分自身を振り返ってみると、彼らがそのように評するしかなかった・・・ということは否めない。自分でもそう思います。チビとんとこは・・・(--)

勉強に関してはどうだったか・・・。義務教育と高等教育の間、自分の好奇心から、自分で進んで学ぶことが出来る科目はだいじょうでした。しかし、そうでない科目、興味が向かない科目に関してはまったく、理解も覚えることもできませんでした。あと、理解がたやすい、答えがはっきりしているものなど・・・つまり理系は好きでしたが、抽象的で行幾通りかの答えがあるようなものは苦手でした。苦手科目は語学・・・しかも、外国語がとても苦手でした。

テストは、小学校のころは大抵のテストは90点以上は取っていたと思います。ただ、担任や親から指摘されていたように、ケアレスミスが非常に多かったと思います。知識は興味のあることに関しては、ちゃんとあるのですが、思ったことはすぐにパパッと書いてしまう。見直ししても、見落としている。一般的に表現すると「うっかりさん」なんでしょうが、私の場合は「うっかりさん」レベルではありませんでした。
 そして、中学・高校になると「好き」「嫌い」、「理解が楽」「理解できない」がはっきり点数に出てきました。
  出来るものは勉強しなくてもできる(点数が取れる)、理解できないものは、どれだけがんばって理解しようとしてもできませんでした・・・。つまり、じぶんなりにがんばっても点数がとれませんでした・・・。

というか、それ以前に、理解が出来ない科目についてはどうしても取り組むことが出来ませんでした。

だから、夏休みの宿題など、毎年毎年、英語だけ未提出・・・という状態でした。

  そうそう、小学校の漢字の書き取りテストのエピソードを一つ。
  小学校5年ぐらいだったと思います。10問ほどの漢字の小テストでした。先生が問題を板書し、それを配布されたわら半紙に書いてゆくのです。その問題の中には、読みの問題が2問ありました。どんな字だったか忘れましたが、私はその読み取りの問題のために書かれた漢字について質問があったので、手を挙げて先生に質問しました。「先生、その○○って書いてるの・・・」
 ギョッとした顔で、先生もほかの生徒もこちらを見ます。私はどうして答えてくれないのか、不満顔で同じように質問しました。すると、先生が非常に不愉快そうな、怒った顔で「シッシッ」というような手振りをされます。
 意味のわからない私はもう一度、大きな声で質問しました。今度はすごい剣幕で先生が迫ってきます。でも、私は理由がわからないのです。
「何で質問に答えてくれへんねんやろ(答えてくれないのだろう)・・・」
 私自身も四度、不満げな声で質問すると、隣の席に座っていたガキ大将が「答えいうなや!ボケが!!」
 彼の一言で、自分のミスに気がつきました。あっ・・・と思って、顔を真っ赤にして手を下げました。
クラスメイト達の聞こえよがしの言葉や、先生の「もう、これ点数にならへんわ(ならないわ)」という言葉がパニックを起こしている私の耳に、心に突き刺さりました。

 先生はジェスチャで示されたときに「なんでわかれへんの。察しの悪い子やな!」と内心イライラとされたと思います。
私のほうは指摘され、自分のミスに気がついたとき、恥ずかしい気持ちもありました。
 そう思いながら、反面「なんで、すぐ傍にきて、そういう風に言ってくれなかったのか?」と教師の対応に不満を覚えました。

 このエピソードでもわかるように、子供のころの私は思ったことはすぐ口にしてしまう。頭の中で考えることが出来ないのです。
気になったら、気になった時点でその考えが頭の中でグルグル回りだし、気になってしょうがないのです。それで、後先考えず発言してしまう。
 これは、大人になってから多少マシにはなりましたが、大学生まではこれが原因で何度か揉めました。
 また、注意を受けるときも、具体的に「何がいけないのか」はっきり言ってもらわないと、何がいけないのか判断できない。ミスをしているときは、はっきり注意、もしくはしかってもらわなければ、その理由がわからないのです。

(・・・恐らく、これにかんしては、今でも迷惑かけてる(きた)友達いるんだろうな・・・この場を借りてごめんなさい)

 きっと普通の人たちは、相手の表情をみて、すぐに自分の失敗を悟ったり、直ちに対処することができるのでしょう。そして、それが人間の反応としては「普通である」ということなのでしょう。
 でも、ADHDである私にはそれが非常に難しいことでした。

 こういった性質は「反応が鈍い、鈍感だ」「察しの悪い人」などと表現されるのでしょう。状況によっては「なんて思いやりのない人なんだ」とか、誤解されることも多いと思います。

 さっきも書いたように、私はこんな失敗を数え切れないほど(自分で気づいていないものもあるでしょう)繰り返してきました。そして幸運なことに何がしかの形で注意や指摘を受けるチャンスを得る毎に反省し、ほんのわずかですが、失敗を繰り返す回数を減らしてきました。
 それは、非常に遠回りした・・・他人を不愉快にしながら、ようやく手に入れた「人と接するときの常識」という知識・・・といえるのかもしれません。

 もし、私が小学生のころに「ADHDである」と診断を受けていたら・・・

 私はこれほどまでに多くの人を傷つけることはなかったのではないか?
 そして、私も多くのものを失わずにすんだのではないか?
 先生もちゃんと対応してくれたのではないだろうか?

・・・考えずにはいられません。

しかし、どれだけ惜しんでも過去は変えることができません。そして、経験してきたことは覆すことが出来ません。

それよりも、自分のたどってきた道で経験してきたことを、良いことも悪いこともすべて活かして、これからの生活に役立てるように考えることのほうが大切だと思います。

そうは思っていても・・・なかなかそう上手くいくわけはありません。とくに、ADD/ADHDの場合、躁鬱などでなかなか気持ちを向上させることができません。

しかし、きちんとした正しい治療を受け、また周りの人の協力をうまく得られる方法を知れば、失敗の多かった過去の半生での経験を上手に活かして、これからの人生では自分の特性を活かして生きてゆけると思うのです。

もし、この文章を当事者だけでなく、ADD/ADHDのお子さんを持つ、親御さんにも読んでいただけるなら・・・

大丈夫です。あなたのお子さんは、こんなに早いうちにADD/ADHDだということがわかったんですよ。きっと、私よりずっと、ずっと上手に人生を生きていくことが出来ますよ。

そして、大人になって自分がADD/ADHDということに気がついたあなたへ・・・
 私の人生とあなたの人生はまったく同じものではないけれど、「気づきは」自分を変える大切な第一歩です。
「気づき」ができれば、きっとこれからは、自分らしくしなやかに生きていけると思いますよ。
 「気づき」に至る時間は個人によって違うけど・・・きっと・・・気づいて「自分」をきちんと受け入れてることができれば・・・

これからの人生、きっと楽しいことがいっぱいありますよ。

これからも、恐らくADD/ADHDに関することが多くなるでしょうが、いろんなお話をここでしてゆきたいと思います。

これを読んでくださる、すべてのかたがたに、幸せが訪れますように・・・・

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ゼリーのなか

2001/8/25

 小さいころから、友達と一緒にいてもなにか馴染めない・・・少しずれた感覚を感じていました。

そして、それは大きくなるにつれて、はっきりと感じることのできる「違和感」に変わりました。

でも、それがどんなものであるかの説明ができませんでした。それは今も変わりません。
どんなもの・・・というよりも感覚でしかあらわせないのですが、自分だけほんの少し見えない段差でずれた位置に立っているような・・・そんな感覚でした。

もしくは、透明なゼリーの中から、少し不透明な景色を眺めているような・・・・微かな息苦しさと、もどかしさを感じるものでした。

ゼリーの中からは手を伸ばしてみても、はっきりとした感触が伝わってきません。そのものを知りたくても、きちんとした情報を得ることができないのです。

自分でもわかっている・・・自分がこの集団の中では異端者であることが・・・。

そこに存在することが許されていても、私は本当には受け入れられていないのではないだろうか・・・
一人悩み、もがけばもがくほど、どんどんどんどん集団から孤立していっていたような気がする・・・・。

 思い返しても自信が無い。私は中学・高校時代、認められてあの場に存在していたのだろうか?哀れみをもって迎えられていたのではないか?

あのころ・・・こういう言葉を誰かに対して発したことを覚えている「(私と感覚を共有できる)本当の友達がほしい」

「親友」というものができなかった私の心からの願いだった。

 あのころ、不思議に思っていたことの一つに「どうしてみんなそんなに簡単に親友というものを作ることができるんだろう?」

中学・高校のころに読む漫画や少女小説の主人公の少女達には必ず「親友」がいる。そして、主人公はおっちょこちょいで泡展望なのだけど、しっかり物の親友が彼女をフォローし、常に何かと心の支えになってくれる。おたがいに秘密を打ちあけ行動を共にする。

 そういった読み物ばかり読んでいる少女達は「親友」という存在に憧れ、そして、本の中の友人関係のようなものでなくても、やはり中の良い友人を得ていく。

 私にはできなかったことでした。
 今にして思えば、そんな風な友達でなくても良かったんだ・・・ということはわかりますが、それでも当時は他の皆みたいな親密な友人関係を築くことが難しく・・・というか、まったくできませんでした。

 ちゃんとお弁当を食べたり、修学旅行で一緒の班になって行動する友達はいましたが、「心の友」のような存在はできませんでした。

私にとってそれはとても悲しく、どれだけ渇望しても得ることができない・・・身近なものであるはずの、誰でもがもっている宝物を自分だけ得ることができないような・・・そんな寂しさを感じていました。

でも、大人になるにつれ、なぜ、私にはそういった友達がなかなかできなかったのか、おぼろげながらもだんだん理解していくことができました。

周りの皆はちょうど良い、他の人との距離を上手にとり、なおかつ相手の立場を理解したり思いやったりすることができるのです。その中で、お互いを理解しあり、支えあい、助け合って友情を深めていったと思うのです。
そして、それを当たり前にみんな行うことができるのです。

私は自分のことしか見えていませんでした。相手の立場や気持ち・・・そういったものをわかってあげることができなかったのです。いつも「どうして、私のことをわかってくれないの?」非常に自己中心的な考え方しかできなかったのです。
私としては相手のことを思いやっているつもりでも、それは中途半端で、相手にたいして誠意の無い思いだったのだと思います。

それを誰も注意してくれませんでした。いえ、注意してくれたのでしょうけれど、中学・高校生だと、それを表現するだけの豊富なボキャブラリがあるわけではありません。おたがいの意思疎通が上手くいか無いままで終わったこともあるのでしょう。

どんどんどんどん、すれ違い、思いが離れていくようなもどかしさ。
私がどれだけ、その相手のお友達のことを好きで大切で、傍にいたい・・・と思っても、その正しい方法がわからなかったのです。

もがけばもがくほど、心にまとわりついてくる透明なゼリー・・・
私を捕らえて、心を絡めとり、まとわりつくゼリー・・・
でも、中学・高校のころの私は、そのゼリーに覆われていることすら気がつかなかった・・・

もし、この苦しんでいるときに、適切に私を導いてくれる人がいてくれれば・・・皆が当たり前にできること、理解できることがわからない私にちゃんとそれを教えてくれる人がいてくれたら・・・。私の心は少しはゼリーから抜け出せることができたのかもしれない・・・。

「それを教えてくれる人がいてくれたら・・・」こんなことをいったら、「それは甘えてる」と言われるかもしれない。でも、本当に私はそれを人から注意されるまでわからなかった。大学院でとある人から注意を受けるまで、はっきりと理解することができなかった。

それ以降も失敗は繰り返したけど、それまでほどの分厚いゼリーにからめとられることはありませんでした。

今はもう、過去の話で、このころの自分のことを後悔しても取り返すことはできないけれど、今ならその原因が何なのか、どういうことなのか・・・自分を包んでいたゼリーの正体がわかりつつある今・・・

自分自身が同じ過ちを繰り返さないように・・・正しく人と接することができるように、自分が今、大切だと思える人たちを正しく愛せるように・・・自分の足元に目を取られてばかりでないように、気持ちを外に向けて日々を過ごせるように心がけていくことが大切であると思っています。

 

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シシー

2001/8/27

 小さいころから活発で、堅苦しいことが苦手で、乗馬や狩猟、ブランコ遊びが大好き。いつも自由を求めて空想にふけっている。大人になっても自分の思ったことを曲げない・・・。窮屈を逃れてあちこちを旅する・・・・。

 これは誰のことだかわかりますか?

 この女性は、ハプスブルク家最後の皇妃エリザベートのことです。

ヨーロッパ一の美貌・・・と謳われた女性・・・私が惹かれて止まない女性です。ヨーロッパの歴史に若干なりと知識のある方はお分かりいただけるかと思いますが、彼女は偉大なるオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の皇后でした。そして、その人気は未だ衰えることが無い・・・といわれるほど、ヨーロッパでは有名な女性の一人です。

 彼女との出会いは、数年前、宝塚でミュージカルで演じられる・・・という話を聞いたときです。しかし、そのときはさしたる興味は持ちませんでした。ただ、ミュージカルのうたい文句にある「ヨーロッパ一の美貌と謳われた、ハプスブルク家最後の皇妃」「暗殺されて命を落とした」・・・これくらいの認識しかありませんでした。

 そんな彼女に興味をもち、惹かれるようになったのは、新婚旅行で彼女の終焉の地となったスイスジュネーブに偶然立ち寄ったことがきっかけでした。

 九日間のスイス旅行の最終日に訪れたジュネーブ。それまでスイスの山の中ばかり回っていたので、ジュネーブは久しぶりの都会でした。ジュネーブに到着してすぐ、私たちはすぐ街へでました。中世からの歴史と現代が不思議な取り合わせで同時に存在する街、ジュネーブ・・・・。それまで過ごしてきた山の中とはまた違った色彩が感じられました。ツェルマット(マッターホルンのふもとの村)やグリンデンワルドなどといった村が爽やかで、透明なブルーグリーンと言ったイメージであれば、ジュネーブはくすんだオレンジ色・・・?
やはり、都会独特のくすんだにおいがしています。

 そんなジュネーブの街で、レマン湖のほとりを歩いていたとき、一軒のホテルの前で見覚えのある女性の肖像画が看板に描かれているのを見かけました。その女性が誰なのか、思い出せずにいると、たまたまそのホテルの前で会ったツアーの添乗員さんが(フリータイムで自由行動だったので、添乗員さんとも別行動だった)「次のツアーの下見です。ヴォー・リバーシュ・・・有名なホテルなんです。」そういって彼はホテルの回転ドアをくぐってさっさと中に入っていってしまいました。

 彼の後姿を見送って、私は再び看板に目を移しました。そこにはフランス語(だったとおもう)で「シシー」と書いてありました。この「シシー」とはエリザベートの愛称です。
「ああ・・・エリザベートか・・・」思い出した私は彼女の名前をつぶやきました。わずかながら頭の片隅に残っていた記憶をたどり、彼女のデータを思い出そうとしました。が・・・「エリザベート」「有名な歴史上の人物」とまでしか思い出せず、頭をひねりながらホテルに戻ったのでした。

 さて、帰国後、私は自分の新婚旅行の体験談を13回にわたってまとめたものをお友達にメールで配信しました。あまりにもハプニングの多かった楽しいこの旅行のことを、そのまま頭の中で色あせさせるには惜しいと思ったのです。

 そして、あまり知られていないスイスの事情を知ってもらったうえで読んでもらった方が面白いと思い、旅行中に遭遇したいろいろな事象のことを調べ始めたのです。

 そう・・・その調べた事象の中に、「エリザベート」のことももちろん入っていたのです。

 再度見直したガイドブックには、甚だ簡単にしか書いてありませんでした。「失意の中で晩年をすごしたエリザベートは、ここレマン湖のほとりヴォー・リバーシュの前で、アナーキストのルイージ・ルキーニに刺殺された。エリザベートの死はヨーロッパ中に深い悲しみを悲しみを与えた。」
 たったこれだけでした。でも、私の興味を引くには十分な文章でした。

 どうして、エリザベートは失意のうちに死んでしまったのだろう・・・。どうして、彼女は皇后という、富も名誉も約束された存在でありながら、すべてを放棄するかのように旅から旅へと、一所に落ち着くことなくさまよい続けたのだろう・・・?

 私はそれから、ハプスブルク家の歴史やシシーに関する本で目に付くものは片っ端から買っていきました。

 読めば読むほど、宮廷と言う規則や義務でがんじがらめの場所にはふさわしくない、気分屋でわがままな・・・でも自分の居場所を求めて放浪する哀しみを背負った女性・・・というイメージがどんどん膨らんでいきました。

 しかし、これほどまでに惹かれながら、私は彼女のことを好きになることができません。ヨーロッパ一の美貌と謳われた彼女の肖像画、ポートレート、きれいな人だな・・・とは思っても、私が好意を抱くような人ではないのです。そして、それは調べれば調べるほど、自分の好意に値しない人という思いが強くなるのでした。

 では、どこに惹かれたのか・・・・?

 それは、自分自身の居場所、自由、あり方・・・そういったものを模索し続け、結局、その人生の終わりのときまで見出すことができずさすらい続けた彼女の心の哀しみ・・・、そして孤独・・・。そういったものに、私は同調したのでした。

 私はシシーのように美しくもないし、富も権力も持っていません。でも、根っこのところでシシーとはつながっているような気がします。
シシー・・・あなたはきっと本当の理解者がほしかったのね・・・。一緒にいてくれる・・・心からあなたの支えになってくれる人が・・・。

 小説やミュージカル「エリザベート・Aシシーがルイージに刺殺されるシーンを読むたび、私は彼女と同調し、この世のあらゆる思い煩いや、しがらみから解き放たれる、なんともいえない至福の思いを感じることができます。

それは・・・息を止めて、もがく苦しむ暗い水中から、ようやく水面の明るく薄い光が見えてきたときのような・・・そんな感覚です。

彼女の人生を本などで追体験することによって、彼女との気持ちの同調を何度も何度も行ってきました。

 彼女は今・・・歴史上の人物となり、さまざまな作品で甦りました。そして、甦ってきた彼女は「悲劇のヒロイン」として扱われています。こんな風に表現されている、彼女の姿を、もしシシーが見ることができたらなんと思うのでしょう?

 ミュージカル「エリザベート」は作品としては、非常に良いできのものですが、「シシー」の人生・・・というものを考えると、あまりにも美化されすぎているのではないかと思います。
(断っておきますが、私はミュージカルの「エリザベート」が大好きです。歌も良いし、演じている役者さんも素敵です。特にエリザベート役の一路真輝さんは最高です。CDだって、ダイジェスト版と東宝講演版(内野聖陽版)を買ってしまいました。・・・これに関してはまた別の機会に・・・)

 一人の女性としてのエリザベート・・・シシーの哀しみを思うと、心が切なく狂おしく感じます。

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Comingout

2002/1/24

最近、カミングアウトで悩んでいる人の書き込みを良く見かけます。
確かに・・・カミングアウトは怖いです。だって・・・受け容れてくれるかな?とか、嫌われないかな・・・とか・・・いろいろなことを考えて不安になります。

私も「もしかして・・・受け容れてもらえなかったらどうしよう。」と考えなかったわけではありません。言い訳にとられるかな・・・とも思いました。
でも、それ以上に言わずにはいられなかった理由は・・・

「このことを黙っていることの方が、みんなに肝心なことを話さないままに、私のことを解って、そして仲良くしてください。」と言っているみたいで・・・私には黙っていることができませんでした。

でも、そのときに気をつけたことが一つあります。 「自分で決め付けたような言い方はしない。」でした。

例えば「私、ADHDなの。そういう本をみたら症状が当てはまるから、病気だったの。」とは絶対言いませんでした。
未診断の段階にも二人ほど友達にADHDのことは言いました。
そのときには「最近、ADHDという発達障害があることを知ったの。その症状のいくつかが私に当てはまるし、本についているチェックシートも試してみたらかなり当てはまるから・・・・。だから、もしかしたら困っていることを改善できるかもしれないから、それをはっきりさせるために病院に診断を受けに行くの。」決して、自分がかってに思い込んで「ADHD」と決め付けてるわけではなく、改善したい。科学的根拠に基づいて、ちゃんとした診療機関に受けに行くこと。をきちんと伝えました。

それでも、「それは学術的にも一般的なことなのか?」(というような発言をしたのはつとむん)「思い込みすぎて、違う診断が出たらどうするの? そうしたら、また落ち込むわよ。」といろいろ、苦言を言われました。(結構言われたと思うけど、もう覚えてない。)

正直・・・一番、手ごわかったのはつとむんです。彼は診断が下るまでは「断言的な言い方をするな!」とかなり不機嫌そうに言い続けました。(私が言葉足らずで断言的な物言いだと思っていないときにも言われたので、かなりへこみました。)

でも、私は「ADHDの診断が欲しいんじゃないの。いままで辛かったことの原因が、もしもこの病気が原因だったら、どうにかできる手立てがある・・・ということだから、それを確かめに行くの。もし、ADHDじゃないっていう診断が出たらそれはそれで、原因は他にある・・・って事がわかるから・・・また別の道を探すことができる。先に進むことができる。」といい続けました。

きっと・・・「前に進みたい!」という気持ちが解ってもらえたと思います。

そして・・・カミングアウトは自分自身にも思わぬ効果をくれました・・・。
それは、人目を変に気にしなくなったこと。(そりゃ、多少は気になるんですが・・・)そして・・・無理をしなくなったこと・・・自分自身を精神的に解放できたような・・・自分の感情に、本当に素直になれたような気がします。

みんなのカミングアウトが上手くいくようにお祈りしています。

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Comingout

2002/7/25

捨てたもんじゃない・・・そう思うことが最近多くなりました。

このサイトをはじめてもうすぐ1年になります。
最初、続くかどうか心配でしたが、なんとか続きました。
途中、鬱になって、更新が途絶えたり、最近も引越しやその他のごたごたで、なかなかサイトに手を加えることもできなかった。
飽きたわけではないんですよ・・・。
忙しかったんです。いっぱい・・・私にとっては一度にしなくてはならないことが多すぎて・・・ちょっと辛かったです。ここ数ヶ月。
でも、それも今となっては・・・乗り越えてきた今となっては、過去のことなので、あまり感情の中に残っていません。

自分にできること・・・。この1年はそれをいろいろ探していました。

今まで「自分は本当にこの世の中に必要なのか?」「生きてる意味はあるの?」「私なんて何の生産性のない、無駄にこの世の中のエネルギーを消費しているだけの存在じゃないの?」
とても自己評価の低い人間でした。物心ついて四半世紀・・・ぱっと見には何の悩みもなく、朗らかで明るくパワーあふれる私(らしい。自分の評価ではなく、あくまでも他人様の評価だから。)・・・。でも、心の中では自分の生きている意味を見出せずに、その時、その時をただ生きてきただけの存在でした。

確かに・・・「私はこの道で生きてゆきたい」と思った事柄も幾つか見つけました。でも、途中でどのようにすればいいのか、方法というか・・・その道をどのようにたどっていけばいいのかが判らなくなり、気がつけば道のど真ん中で動けずに立ち止まっていました。

考古学、古代史、歴史地理学・・・中学生の頃から博物館学芸員になりたくて、なりたくて・・・でも、その夢も自分では当時「このままの自分じゃダメだ」と、努力で自分の夢を掴み取ろうとしている人たちが私の脇をすり抜けて走り抜けていく姿を見ながら、「どうして・・・私にはできないの? 何が人と違うんだろう。」と・・・。
酷いときには「自分の進む道」「方向」さえ見えずに、「絶望」すら感じることも忘れて・・・だから「自殺」とか「出奔」などそういったことも考えられないくらい、どうしていいのかわからなくて途方にくれていた。

確かに表層的には上手くいっていたように思える部分もあった。でも、思い返せば、そのいくつかは目の前に現れた事象に気を取られ、そしてその事象の流れにただただ乗ったまま・・・、気がつけばその時々の現状にたどり着いていたような・・・。
「自分でその事象を選んでいる。」ことには変わりないけれど、でも、先々までの展望を持って事象を選択してきたかどうか・・・はわからない。
・・・などというと、他人は「でも、それはあなたに必要だったのよ。だから偶然ではないのよ。」とか「でも、自分で選んできたことなんだから自信をお持ちなさい。」などの言葉をくれるのだろうけれど・・・。
でも、その時その時の事象に対峙していたときの自分を思い出すと、どうもしっくりこない・・・違和感、万華鏡の中に立って、少しずれた風景に翻弄されていたような・・・めまいに似た感覚を思い出す。

「本当に・・・ここにいていいの?」

でも、そういった道を辿ってきたからこそ今の自分の存在があることも知っている。
今の自分の生活の中でも当然、「ああ・・・失敗した!!」と落ち込むこともある。けれど、いろんな人と知り合ったことや、自分にできること・・・というのが少しずつ見えてきた今は「捨てたもんじゃないやん。私の人生も・・・」と・・・心の中で斜に構えながら苦笑いを浮かべている、そんな自分がいることに気がつく。

それから、ある一時期までは自分のことしか見えず、自分が人のためにしている・・・と無意識にしていることの多くも結局、「自分かわいさ」「自分中心」でやっていたことに気がついた。もちろん今でも「自分中心」で物事を考えることは当然ある。
でも、まったく気がつかなかったときに較べれば、「自己中心的な考え」がどれほど周りを傷つけることが多いのか・・・ということを知ると、本当の「やさしさ」を身に付けたくて、それを「知る」努力もできるようになってきた。

人に構うことよりも、放っておくことの方がやさしさになるときもある。また、自分の身に過ぎた物まで背負うことは、自分のためにも・・・何よりも相手にも却って負担をかけることがあることも知った。
見ていて不安になること、頭に思い浮かんで、すぐに手を出してしまうこと・・・これを堪えることはとてもパワーがいることだけど、でも、引き受けたり、手を出したりして後でより多くの労力を背負う辛さ。何よりも「人」が絡んでいるときに、自分が取り返しのつかない責任を負うべきことになったらどうする?・・・それを思い浮かべたら手が出なくなる。
(それでも、浅はかにも手を出すこともいまだにあるけれど・・・)

あんなこんな・・・多分、人より脳みそを使っている分、いろんなことを考える・・・それはなかなかない経験だから(疲れるけれど・・・)、それは私に与えられた得分として楽しむことにしている。

特別な気分・・・というわけではないけれど、他の人が経験できないことを経験できている分、楽しもうと・・・そう思うとこれも「捨てたもんじゃない」と思える。

・・・でも、その分、うちのつとむんを初めとする、身近な人には迷惑をかけていることも多いんだよね・・・。

・・・みなさま・・・感謝です。
ありがとう。それから・・・大好きです。



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浪花の根性

2002/11/11

私の中の大阪 〜浪花の根性〜

私は大阪生まれの大阪育ち。結婚するまで本籍も大阪でした。それ以外の地域には住んだことがありません。
だから、私は「大阪」しか知らない。・・・でもだからといって、大阪のことなら何でも任せて・・・と胸を張って言えるわけでもない。四半世紀以上住んでいる大阪でも、まだまだ知らないことがいっぱいある。

まったく知らない人から大阪のことを教えてもらうことも多い。 というか、他人の大阪に対する評価を聞いて初めて知る「大阪」の姿もある。 当たり前に受け止めていた「大阪」の特徴などを、人からその評価を聞くことで改めて目を向ける。
そして、「大阪」のいいところ悪いところ・・・知っていたはずの新発見がとても楽しい。

遊び場、ご飯・飲み屋・・・人柄、土地柄、そして歴史・・・。自分にとっての大阪の新しい面を知ると、それは私の宝物になる。 その宝物は私だけの、胸の中にある小さな宝箱に収めていく。

最近、あるBBSに書き込まれた書き込みをきっかけに、私はまた新たな「大阪の宝物」を見つけた。

「大阪の根性」・・・この言葉について考えてみた。

ただの「根性」という言葉だけなら、これは私にとってとても辛く、痛い言葉です。 この「根性」という言葉だけならば、それは私にとって「気合」と言う言葉と同じ意味となります。
「根性すわってへんからや」(「根性がないからでしょう。」)
「気ぃ入れてへんからへこむんや」(「気合を入れて物事に当たらないから落ち込むことになるのです。」)
この言葉を聞くたびに私は心の中で「でも、その方法がわからないの。」と叫んできたような気がします。「気がする」という表現を使うのは、そういう風に考えることもできないほどのパニックに陥っていたので、そんな感情があったのかすら・・・あやふやなのです。
ただ、今でも同じようなことを言われることがあり、そのときに「その方法がわからないの」と心の中で悲鳴をあげている自分がいることが今はわかるので、きっと以前からもそうであったのではないか?と思っています。

でも、「大阪人のど根性!みせたるわ〜」・・・・こういう表現で使われるときの「根性」はとても好きです。

「大阪の根性」・・・この言葉は「大阪の人間としてのプライド、心意気」をあらわしているように聞こえます。だって・・・私も「大阪の人間」だから。

これも先日実際にあった話なのですが、自分の担当している受講生から「先生、お笑い好き?」と聞かれたときのことでした。
一瞬、私は考えた。 嫌いではない。でも、お笑いが好きで好きでたまらなくて、あけてもくれても松竹や吉本の劇場に入り浸ってしまうほど好きではない・・・でも、やはり興味はある・・・よな・・・。さて、どう応えたものか・・・と一瞬考えをめぐらした後、口をついて出た言葉は
「関西人のたしなみとしての程度」
でした。 言った後、我ながら「いい表現方法だな」と満足してしまった。(笑)

私の生活の中には常に笑いがある。 多分、どんなに落ち込んでいる日でも「笑う」ということをしなかった日はないと思う。 辛い中では辛いなりに、多分反応はいつもと違うけれど、口の端を上げてなけなしの「笑い」に対する感情を表してきたような気がする。 涙に暮れながらも、テレビから流れてくる巨人阪神の漫才に反応し「あはは・・・」と上げた笑い声が、そのまま大泣きの声に変わってしまうことだってあった。
こう考えてくると、私の中には感情である「笑い」以外に「本能の笑い」があるのかもしれない。

これを書いていて思い出したけれど、結婚する少し前・・・あるお友達から「とんとこちゃんたち関西の人って脊髄に『笑い』が染み付いてるよね。」といわれたことがある。 この言葉を言った友達は関東の女性だった。
 言われたこの言葉は私にとって「ほめ言葉」だと思った。

どんなときでも「笑い」を忘れない。 これも「大阪の根性」のひとつではないか? と思う。狙って笑いを取るのではなく、「笑いが取れそうだ!」と深層意識レベルで嗅ぎ取ると、狙って笑いを取るのではなく反射的に笑いを取ろうとする。
素敵なことだと私は思う。

ただ、この「笑いの反射神経」はすべてにおいて、良い結果をもたらしてばかりいた・・・わけではない。悲しいかな・・・私はADHDで、そのために「笑いの反射神経」で反応してはいけない場面で反応してしまうことが何度も何度もあった。
当然のことだけれど、こういった行動の数々で私は友達を失ったこともある。そう振舞えるようになるには、自分自身で少しの訓練が必要だった。
今では、そういう場面に遭遇したときは、反応しても口からそれを漏らすことはなくなったけれど・・・。そんなときは、一人気まずい思いと、笑いの思いを心の中で押しとどめる。

話がそれてきたけれど、「笑いをとることにかけてしまう。」そんな関西人の気質を表すときの「大阪の根性みせたるわ」という言葉はとてもいい言葉だと思う。

それから、良いものをどれだけ安く買えるか? ということにも気合が入ってしまう・・・。
たとえば・・・
「なぁなぁ・・・このズボン、いくらで買うたとおもう?」
「う〜ん・・・そないに言うからには・・・イチ・キュ・ッパ?」
(「う〜ん・・・そんな風にいうからには、1980円(税抜き)?」)
「ざぁ〜んねぇ〜んでぇ〜したぁ〜(このときは勝ち誇ったように)、税込み1000円やでぇ。」
こんな具合のやり取りをする。しかも、この答えに対して、
「ええっ!うそっ!まじで?・・・それどこの店なん?」
と食いつかれると、よけいにうれしくなってしまう・・・。
こんなことも、大阪人もしくは関西人の「根性」だと思う。

私はこういった大阪の根性を、「浪花の根性」と表現する。 「浪花」は「なにわ」と読む。「大阪」や「関西」と同じ意味で使われることがある言葉だけど、語呂もいいし、なんだか「はなやか」な気持ちになる。
「浪速」でも「難波」でも「浪華」でもない・・・。 どれも「なにわ」と読めるけれど「浪花」の字を当てるのが一番好き。

「浪花の根性」は関西人の気質そして、プライドを表す言葉だと思う。

私の中にある大阪は、「根性」という私にとって凶器となる言葉をも自分のプライドを表すための素敵な言葉に変えてくれる。

まだまだ私にとっての「大阪」については語りつくせない。またの機会に私の中の大阪を披露していきましょう。

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夏の花火

2003/8/3

夏の夜空を彩る花火を見ていると、切なくて・・・切なくて・・・

夜空裂き、駆け登る火の子、
  己が命が露ときへ逝くを知らず、
    そのはかなさ、そのせつなさ
      誰が知るや

夏の夜空を彩る花火を見ていると、切なくて・・・切なくて・・・
気がつかないうちに涙が流れます。
澱んだ夏の夜に次々と打ち上げられる花火。

空気の抵抗のため、わずかに揺らめきながら・・・
それでいてまっすぐと虚空を目指す火の子ども。
大きな音がして、千々に飛び散るさまはなんとも言えず切なくなります。

科学的に考えれば、なんてことのない・・・当たり前のことかもしれない。
でも・・・本当は・・・あの花火の子供にも心があり・・・
手練の職人によって、ただの火薬が花火の玉と生まれていく過程で、
心を持ち、自分が打ち上げられる日を心待ちに待ちながら・・・
自分が打ち上げられるその瞬間、何かになるのだと・・・思い描いているのでは・・・
と考えると・・・
打ち上げられた後、華やかな姿を見せたわずか・・・ほんの瞬きの後・・・
もうこの世には存在しない・・・虚空の世界に消えていく・・・
火の子たちの命を考えると、華やかな花火を見ていても涙がこぼれてきます。

周りから聞こえてくる歓声も・・・子供たちの歓喜の声も・・・
遠い・・・遠い・・・どこか違う世界の音に聞こえます。

  むせる呼息、夜空に開く大輪の花、
      彼岸の方に手向けるにふさわしく・・・



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ゆがんだ視界

2007/2/3

まず、新が3年半ぶりということにびっくりします・・・
どんだけ放置プレイやねん!!!!!・・・・わはははは〜〜〜

未だ読んでくれている人いるのかしら???
なんて思ってしまうけど・・・書きたいから書いておこう!

もちろん・・・3年半の間・・・いろいろあったわけで・・・
正直、サイトを閉じてしまおうかと思ったこともありました。
正直、続けることがつらいぐらいの精神状態になったこともあったし、
「このタイトル(AD/HDを掲げている)で私がやっている意味があるんやろか・・・・」とか悩んだりもして・・・

でも、続けることにしました。 はい・・・
で・・・「またサイトの運営をがんばるぞ〜!」と思った矢先・・・・、それが2006年春のことなのですが・・・・・
(3年半の間の心の葛藤についてはまた場を改めて書くことにして・・・)

掲示板にも書きましたが、網膜剥離になってしまいました。

というか・・・その前に2006年のゴールデンウィークごろから白内障を患ってしまったんです。
アトピー性白内障です。

まず、症状が出たのは右からでした。

ちょうどそのころ、関東の夫(つとむん)の友達の家に、遊びに行ったのですが、行きしなの新幹線の中でひどく”眼の霞み”が気になりました。
車両入り口の電光掲示板がとても見難くて、何度も眼をしばたたかせていました。

その次の日、友達の家の近所にあるスーパー銭湯に行ったときのことでした。

スーパー銭湯なんで(?)眼鏡をかけたまま

 

 

「透明なゼリーのかなたに世界が観える」・・・といっていました。
本当にそう見えるんですよ。 

でもね・・・網膜剥離になったら、透明なゼリーよりももっとゆがみました。

歪んだガラス板を通して観ているような視界になりました。
(右眼だけですが)