桜の季節もとっくに過ぎて、間近に迫った連休に浮き足立つ人も多くなってきた頃、僕たちの街に雪が降った。

いくらなんでも見間違いかと、振り仰いだ鉛色の空から舞い散るのは、間違いなく雪だった。
僕も、式も、そして橙子さんも、誰もがその異様な光景に、一瞬息をのみ―――そして、誰もが息をのんでいる間に、あっという間にその雪は止んでしまった。

季節外れの、一瞬の雪。
神様の気まぐれみたいな、幻のような光景。

このときはみんなで顔を見合わせて、珍しいこともあるもんだと首をひねっただけだったけれど。
それが夢みたいな物語の始まりだったということに、その時の黒桐幹也には気づく良しもなかったのだった。


 ユメモノガタリ。 空の境界SS

     その1。 夢の始まり。

/1. 目撃例1

「……式?」
呆然とした声に振り向けば、そこには妹の鮮花の姿があった。
僕、黒桐幹也の勤務先である伽藍の堂。その事務所のドアを開けたまま、鮮花は「狐につままれた」なんて表現がぴったりくるような表情を浮かべて立ちつくしている。
困惑と驚きの混じった妹の視線、その先にあるのはソファーに正座する式の姿だった。

「鮮花?」
「あ、すみません」
僕の呼びかける声に、固まっていた妹は弾かれたように僕の方に振り向いた。

「おはようございます、兄さん」
「うん。おはよう。それよりどうかしたの?」
「え?」
「いや、なにか驚いてたみたいだけど」
「あ、それは……」
尋ねる僕に、鮮花はまた戸惑うような表情を浮かべると、ちらりと目を動かして式の方を見る。
どうやらさっきからの挙動不審は、式に関係があるらしい。その事に、どうやら式も気づいたようで、自分を見る鮮花に露骨に眉をしかめた。

「なんだよ。何か言いたいことでもあるのか、鮮花」
「……そうね、言いたいことならいくらでもあるけれど」
不機嫌な式の問いかけに負けず劣らず、刺々しい口調で応じる鮮花は、
さっきまでの戸惑いの表情から一転、今度は澄ました表情で正面から式に向き直った。

「朝から嫌なものを見たから、ちょっと調子が狂っちゃったのよね」
「へえ」
「こら、鮮花。お前、そんな言い方―――」
「そもそも、せっかく日曜日の朝なのに、なんだって事務所にいるのよ。式」
「何時何処にいようと俺の勝手だ。大体お前だって、何でここに来るんだよ」
「私は魔術を習うっていうちゃんとした理由があるんです。
 あなたみたいに意味もなくふらふらしてる訳じゃないんですから」
「いや、式は僕の付き添いなんだ。ほら、昨日の晩は雨だっただろ? だから、足下が危ないだろって―――」
「兄さんには聞いてません!」
「……お前ね」
鮮花の言葉ではないけれど。せっかくの日曜日の朝だというのに、なんだってこう式に対しては刺々しいのか、僕の妹は。
剣呑な視線をぶつけ合う式と鮮花を前に、口元からは力ないため息がこぼれていく。と、そんな僕の様子をからかうように、一人喧噪を見物していた人物が愉しげな声を上げた。

「鮮花が式に対して刺々しいのはいつものことだろう。式が君に付き添ってきたなんて惚気を聞かされたならなおさらだ。
 その辺り、いい加減に学習したらどうだ? 黒桐」
「所長。そういう問題じゃないでしょう」
あと、「惚気」とかさりげなく鮮花を刺激するのは止めて欲しい。
案の定、橙子さんの言葉に更に視線を険しくした鮮花だったが、何かを堪えるように深く深呼吸すると、
これ見よがしに視線を式からは切ってから、橙子さんにぺこりと頭を下げた。

「おはようございます、橙子さん。すみません、朝から騒がしくしてしまって」
「ああ、おはよう。騒がしいのは確かだが、愉しい分には構わないよ」
鮮花の謝罪を軽く笑って受け取りながら、橙子さんは煙草を取り出した。

「それより、何があった?」
「え?」
「だから、何があったと聞いている 君が理由無くあんなに惚けた表情をするとも思えないからね」
惚けた表情、というのは、ドアで立ちつくしていたときの鮮花の表情のことだろう。
煙草に火をつけながら、弟子の顔を見つめる橙子さんの顔には、いたずらめいた感情が見え隠れしていた。

『隠しても無駄だぞ』と言わんばかりの師匠の態度に、弟子の方も観念したのか。
躊躇うような一瞬の沈黙を挟んだ後、鮮花はため息混じりに首を縦に振った。

「ここにくる途中で、式を見たんです」
「式を?」
鮮花の台詞に、僕は思わず声を上げて視線を傍らの式に向ける。
だって、今日、式はずっと僕と一緒にいた。だから、鮮花が式を見たはずはない。

その事は橙子さんも、そして、今ここで式を見ている鮮花もわかっているのだろう。
自然、みんなの視線は式に集まって行き、それを受けて式の表情がますます不機嫌さを増していく。

「……馬鹿馬鹿しい」
呆れた口調でそう呟くと、式は少し目を細めて鮮花をにらんだ。

「眼鏡かけた方が良いんじゃないのか」
「必要ありません」
「へえ。じゃあ、妄想癖が悪化してる訳か。大変だな」
「あ、悪化って何よ、悪化って! 人に妄想癖があるような言い方するんじゃありません!
 大体、あなたに気の毒そうに言われる筋合いはないわよっ!」
「……鮮花。頼むからちょっと落ち着いてくれ」
再び、言い争いを始めた二人に頭痛を感じつつ、僕はなんとか妹を押しとどめる。

「まあ、とにかく式はずっとここにいたんだ。だから、それは見間違いだよ、鮮花」
「馬鹿なこと言わないでください」
宥めるようにそう告げる僕の言葉を、何故か不満そうに鮮花は切り捨てる。

「いや、馬鹿な事って」
「確かに顔ははっきりと見えませんでしたけど。
 でも、着物の上に赤の革ジャンを羽織っていたのは間違いないんです。そんないかれた恰好をしている人間、式の他にいるっていうんですか? 兄さんは」
「……まあ、何人もいないとは思うけど」
確かに言いたいことはわかるけど、その言い方はあんまりじゃないかな。鮮花。
また式の目つきが険しくなるのを横目で見ながら、僕は胃が痛くなるのを自覚する。
本当に、どうやったらこの二人は仲良くなってくれるんだろうか。

「って、そうじゃなくて! だから、式はここにいるんだから見間違い以外に考えられないだろ」
「いいえ、あんな奇矯な恰好は見間違えません」
「だったら、同じ格好をした人がいたって事じゃないか」
「本気で式の他にあんな格好の人間がいると思うんですか? 兄さんは」
「そりゃあね。ほかに考えられないんだから」
何故か、鮮花は、頑なに見間違いだったとは認めないけれど、でも、ほかに可能性は考えられない。
……あまり良い思い出ではないけれど、式にあこがれてその恰好の真似をする人は、過去に実際にいたわけだから。

「ああ、なるほど。そういうことか」
突そんな僕たち兄妹の口論をニヤニヤと聞いていた橙子さんが、不意に口を開いた。その愉しげに口元をゆがめる様子に、いい知れない不吉な予感が首の辺りをはい回る。

「……何が「そういうこと」なんですか? 所長」
「わからないのか? 割と有名な事象だと思うが」
不勉強だぞ、と橙子さんは僕を蔑んで肩をすくめた。

「式は朝からずっとここにいた。それなのに、同時刻、鮮花は別の場所で式を見たという。
 つまり、式という存在が同時に二つ存在した、ということになる。
 ほら、だったら答えは簡単だ。そんなもの、ドッペルゲンガーに決まってるだろう」
「どっぺるげんがーって……なんですか、それ」
聞き慣れない単語をあたかも常識の様に語る橙子さんに、僕は思いっきり眉をしかめた。
どうせあまり知りたくない「あちら側」の用語だろうと予感したからだが……どうやらその予感はあたったらしい。

「知らないんですか? 兄さん。割とありふれた怪奇現象ですけれど」
「悪いけど、怪奇現象とかにはあまり興味はないの。僕は」
だから、妹が魔術なんてものを習っているのにも反対しているのだ。
だけど、当の鮮花はそんな僕の内心など知らないとばかりに、「では」と何か誇らしげに胸を張ってその怪奇現象についての説明をしてくれた。

「ドッペルゲンガー。元々はドイツ語なんですけれど、日本語にすると「二重の歩くもの」っていう意味ですね。
 現象としては本人、あるいは別の第三者が、本人と同じ姿をした誰かを目撃する、っていうものになります」
「つまり、今日の鮮花の目撃例みたいに?」
「はい」
「……そうなんですか? 所長」
ドッペルゲンガーなんていう怪奇現象が実在するものなのかどうかはわからないけれど、少なくとも橙子さんは本当にそれが現れた、と思ってるんだろうか。
それを確認したくて問いかけた僕に、橙子さんは意味ありげに笑うと、あっさりと首を横に振った。

「いや。今回のはただの見間違いだろうさ」
「そうですよね」
「だから、私は見たんです!」
「……鮮花。腕の良い眼医者なら秋隆に探させるぞ」
「私の目は悪くなんかありません。って、なんでそんなに気の毒そうな顔をしてるのよ、このバカ式!」
「いいから、無理するな」
「だから、同情するような目をするなっていうのよ、この!」

結局の所、ドッペルゲンガーなんていう発言は僕たちをからかうために橙子さんが引っ張り出してきた言葉だった見たいだけれど。

「まあ、一応は気をつけておくんだね。式。
 ドッペルゲンガーは何時しか本物と入れ替わる、なんて説もあるぐらいだ。
 鮮花をして「本物」と勘違いさせる輩だ。君の前に現れたのなら、本当に入れ替わるかも知れないぞ」
鮮花に絡まれる式に、橙子さんが煙草の煙と一緒にはき出したこの台詞は、少しの間、僕の頭の片隅に引っかかったままだった。


/2.目撃例2

「―――ふむ」
取引先に出かけていた橙子さんは、事務所に入ってくるなり小さく唸り声を零して立ち止まった。
そんな彼女に気づいて、僕はにらめっこしていた書類から顔を上げて彼女の方に向き直る。

「お帰りなさい、所長。何か問題でも起きたんですか?」
「いや、取引は滞りなく終わったよ。
 非常に残念きわまるが、今月は黒桐に給与支給が出来てしまいそうだ」
「……冗談で言ってますよね?」
「うん? いや、給与支給は冗談じゃないぞ。冗談にして欲しいのならそうするが」
「しないでください。残念きわまる、ってあたりが冗談ですよね、って聞いたんです」
「いや、そこは至って本気だ。そんなことよりも―――式」
恐ろしいことに真顔のままで僕の抗議を「そんなこと」と切り捨てた橙子さんは、ソファーに正座しながらコーヒーをすする式に声をかけた。

「確認するが、君はずっとここにいたか?」
「いたよ。もうぼけたのか、トウコ」
「いや、一応確認しただけだ」
心底嫌そうな式の返事に、橙子さんは顔色を変えない。

……そういえば、さっきからずっと橙子さんの表情は変わっていない。
冗談を言うわけでもなく、皮肉を言うわけでもなく、ただ淡々と……事実を確認しているように。

そんな橙子さんの態度に、ざわり、と胸の中に不安めいた感覚がうずくのを感じて僕は思わす席を立っていた。

「何か、あったんですか? 所長」
「まあ、何かあったと言えばあったな。別にたいしたことじゃないがね。
 先週末の鮮花の様子を覚えているか?」
「先週の……って、え?」
先週の鮮花。その言葉の内容を思い出して、僕は橙子さんの意図に気づく。

「まさか。所長?」
「そのまさか、だよ。珍しく察しが良いね、黒桐……という程でもないか」
肩をすくめながら答えると、橙子さんは自分の席に乱暴に腰掛けた。

「事務所までは先方の車で送ってもらったんだね。車中でみた、という訳だ」
煙草に火をつけながら、橙子さんはその視線を僕じゃなくて、式に向ける。
つまり、先週の鮮花と同じように……ここにいるはずの式を、外で見たのだと、そう告げながら。

「……見間違いじゃないんですか?」
「そうかも知れないな。服装や背格好が一致していていた、というだけのことかもしれない」
頑なに見間違いだと認めなかった鮮花とは正反対に、あっさりと僕の指摘に頷くと、橙子さんは紫煙をはき出しながら笑った。

「ふふ、着物に革ジャン、ね。意外と流行っているのかも知れないな、式」」
「……ばかばかしい」
橙子さんの揶揄に、式は吐き捨てるように答えながら、ソファーから降りた。

「俺はずっとここにいた。なら、どれだけ似ていようがお前や鮮花が見たのは、知らない他人だろ」
「ああ、その通りだ。だから、君がムキになる必要はないな」
「……っ」
刺々しい式の言葉を、橙子さんは微塵も動じることなく受け止める。その彼女に式は刺すような目でにらみつけたかと思うと、荒々しい足取りでドアの方へと歩き出した。

「式。帰るの? まだ仕事終わらないけど」
言いながら僕は机に置いた時計に目を向ける。定時に帰るとしても、まだ終業の時刻には一時間ほど間がある。
だから、今帰られると僕は彼女にはついて行けないことになる。言外にそう告げる僕に式は振り返らないままに頷いて、ドアに手をかけた。

「今日は、先に帰る。……それから、気をつけろよ、幹也」
「気をつけるって、何に?」
「莫迦は伝染るんだ。あまりトウコに近づくな」


荒々しくドアが閉められる音。
その音の名残が消えると橙子さんは軽く肩をすくめてから煙草を灰皿に押しつけた。

「やれやれ、つれないね」
嘯くように言いながら、橙子さんは組んだ両手にあごを乗せて僕の方へと視線を向ける。

「止めなくて良かったのか? 黒桐」
「……大丈夫ですよ」
意味ありげに目を細める橙子さん。その視線と言葉に込められた意図を感じ取りながら、僕は小さく首を振る。

「今のところ変な事件は起こっていませんから」
「なるほど。とっくに気になって調べた、という事か」
「少しだけです」
そう、少しだけ。
鮮花があまりにも頑固に「式を見た」と言い張るものだから、ほんの少しだけ気になって調べただけだ。

「少しだけ、ね。なるほど、最近眠そうだったのはそういう事情か」
「だから少しだけですよ。それより橙子さん。どの辺りで見かけたんです?」
「ん? ああ、いつぞやの集団飛び降り自殺のことは覚えているか?」
「巫条ビルの一件ですか?」
「そうそう、その巫条ビル。あの辺りだよ」
「……」
ある夏に起きた、連続飛び降り自殺。
僕はほとんど関わってはいないけれど、橙子さんと式が関係していたらしいその事件の名前に、ちくり、胸のどこかが刺激される。

そんな感情は顔に出てしまっていたのか、橙子さんはニヤリ、と口元をゆがめたが、しかし、その笑みをすぐに消して、今度は少し物憂げにその表情を少しだけ陰らせた。

「さて、またぞろ面倒なことが起きなければいいがね」
紫煙をはき出しながら呟く橙子さんの声には、相変わらず揶揄するような。

それでいて、少し、戸惑うような感情が揺れてる……そんな気がした。


「……ドッペルゲンガー、か」
仕事を終えて事務所から出る頃には、すっかりと日は沈んでしまっている。
雲の間から顔を出す月を見上げながら、僕は先週鮮花から聞いた言葉を一人、口に乗せていた。

橙子さんと鮮花に毒された訳じゃないけれど、少し調べてみた限り
「ドッペルゲンガー」という言葉は、確かに怪奇現象としてはポピュラーな部類に入るようだった。

曰く、それは、もう一人の自分。
曰く、それを見たものには死期が訪れる。

「……縁起でもない」
頭をよぎる暗い考えを振り払うように、僕は頭を軽く横に振った。
先週、鮮花は「ドッペルゲンガーを見たものは死ぬ」なんていう説明はしなかった。それはいくら式に向ける言葉にしても行き過ぎだと自制してくれたからだろう。

「もう一人の自分、か」
そう呟いて、心に重いものがのしかかってくるような気がした。
別段、僕が気にかかっているのはドッペルゲンガーという怪異じゃない。僕が気になるのは怪異じゃなくて……人間。

式の周りに、式の恰好をした誰かが現れる。
それは―――どうしても「あの事件」を連想させてしまうから。

僕たちの街を襲った連続殺人事件。
式に憧れて、足を踏み外してしまった人が引き起こしてしまった、あの事件を。

そして多分、式も脳裏にあの事件のことを思い起こしてしまっているのだと思う。
僕が引き留めているから夜の外出はしなくなっているけれど、鮮花の話を聞いてからというもの、昼間に僕が書類仕事をしているときに式はちょくちょくと事務所の外に出かけるようになっていた。

そして……多分、今日は夜になってもまだ、街を歩いているんじゃないだろうか。
自分に似た―――あるいは、自分を騙る誰かの姿を探して。

そんな式を無理矢理にでも止めていないのは、式よりも先にある程度の情報を掴んでいるからだ。
橙子さんに見抜かれたとおり、僕は大輔兄さんをはじめとして何人かの人たちから、「その手」の情報をかき集めた。
そして、橙子さんに言ったとおり「今この街で殺人事件は起こっていない」という結論を得ている。

……そう、殺人事件は起こっていない。それは分っているのだけど。

「誰なんだ、一体」
そう。いろんなルートの情報をかき集めた結果、猟奇殺人の情報は手に入れられなかったけれど、でも、式に似た誰かの目撃情報は『あった』。

しかも、集めてみれば一件や二件じゃない。

この一週間の『和服の上に赤い革ジャンを羽織った、人形みたいにきれいな女性』の目撃情報は15個。
時間帯が昼間のものは、本当に式を目撃したのかもしれないから除外しても、それだけの数があっさりと集まった。

『彼女』が目撃されている時間帯は夕方と深夜12時ごろに集中しているけれど、
時間帯の集中よりも、僕が気になっているのは『彼女』が目撃された場所だった。

繁華街、学校、病院、崩落したブロードブリッジに、小川マンションの敷地。そして、橙子さんによれば巫条ビルがこれに加わる。
更に言うのなら学校は僕と式が通った高校だし、病院は式が入院していたあの病院だ。

つまり―――そのどれもが、僕や式が関わった場所。

そんな場所を、式と似た誰かが訪れている。
流石にこれを「ただの偶然」とすませられるほどに、僕の神経は太くない。

一体誰が、何の目的で、式の格好を真似て、式の過去を訪れているのか。
その思惑は全く分らないけれど―――僕は、彼女を見つけたいと思うようになっていた。

できれば、式よりも先に。

見つけて、その「彼女」をどうにかしたい訳じゃない。
多分……ただ、安心したいだけ。
あんな哀しい事件が、もう起こらないって事を、確認したいだけなんだって思う。

だから―――僕は、アパートに帰る道じゃなくて、その場所に向かう道に足を踏み出していた。

『彼女』がまだ訪れていない場所。
でも、『彼女』が僕と式の過去を巡るのなら、必ず訪れるであろう場所。

つまり、あの事件が終わった場所。
港にある倉庫街の一角へと向かう道に。


/3.倉庫街

春とはいえ、流石に夜風は冷たい。
潮の香りを含んだ風の冷たさに首をすくめながら、僕は辺りに視線を巡らせる。

倉庫街の中でもとりわけ人気のない一角。
ジリジリ、と壊れかけの外灯が頼りなく明滅を繰り返すような場所に、やはり人の姿はない。

「……まあ、そう簡単に見つかるわけ無いか」
居るわけ無いだろうな、なんて思いながら狭い路地を覗きながら、苦笑とそしてわずかな安堵を込めて呟いた言葉。
それに、

「へえ、捜し物?」
「っ?!」
背後から、誰かが、答えた。

耳に届いたのは、女の人の声。
いや、それどころじゃなくて、はっきりと聞き覚えのある響きの声だ。

「し、式?!」
そうあまりにも耳になじんだ彼女の声。それが聞こえた方向に振り返った僕は、

「よっ」
そこに赤い革ジャンのポケットに両手を突っ込んで笑う「彼女」の姿を、見た。


「こんな時間に、こんな場所で捜し物? 随分と仕事熱心なんだな、お前」
雲に陰る月明かりと頼りなげな外灯の下、式の表情はよく見えない。
だけど、どこか笑いを含んだその声は、聞きなじんだ式のものであることは間違いなかった。
無かったのだけれど……なんだろう。この違和感は。

「それとも散歩か? でも、あまり散歩したくなるような場所じゃないぞ、ここ。
 少なくともお前には合わないよ」
「……君、式だよね?」
「? 当たり前だろ。他の誰に見えるってんだ?」
僕の質問に、少しむっとしたように声をとがらせて『式』が一歩、足を踏み出した。

その刹那、風に雲が流れて、月の明かりに彼女の顔が浮かび上がる。
白銀の下、照らされるその顔は間違いなく式のもので……でも、やっぱり少しだけ、なにか違和感があった。
ほんの少し。例えば、パズルのピースが一組だけ間違ってはまっているような。そんな些細な違和感が。

「ほら、どこから見たって俺だろ?」
「あ、うん……そうだね。ごめん」
でも、その違和感の正体がなんなのか。あるいはただの勘違いなのか。
それが分らなくて、僕は式の言葉に首を縦に振ってしまった。

だって、本当に。
彼女はどこからみても、式以外の誰でもなくて。
誰かがなりすましている、なんてことは決してない―――はずだって思えたから。

でも、同時に。目の前の彼女に感じる違和感が、ぬぐえなくて。その原因に気づけない。

「まあ、その目じゃ仕方ないけどさ。
 でも俺のこともわからないぐらいだったら、こんな夜に出歩くなんて危ないだろ」
「あ、うん。そうだね、ごめん」
「……」
危機感が足りないよ、と諭す彼女に、僕は思わず素直に頭を下げる。そんな僕に、式は何故かきょとん、と目を開くと、次の瞬間、小さく吹き出して、笑った。

「……くっ」
「え?」
「くく……あはは、いや、ごめん」
なにがおかしいのか、くつくつと堪えきれない笑いを零しながら、彼女は僕に「わるい」と手を挙げる。

「いや、馬鹿にするつもりはないんだ。ただ……相変わらずだなって思ってさ」
「相変わらず?」
「ああ。変わってないんだな。安心したよ」
「変わってないって―――」
なんで。
つい数時間前まで、一緒にいたのに、まるで何年も合わなかったような言葉を、式は笑顔で口にするのか。
それが、ますます僕の中の違和感を助長して。

僕の、記憶を、刺激する。

「あ、なんだよ、難しい顔して。
 ちょっと笑ったぐらいで怒ること無いだろ」
戸惑う僕の表情を、怒っているものと勘違いしたのか、
式は、不満げに頬をふくらませて、また一歩、僕の方へと踏み込んだ。
そして、下から見上げるように、僕の顔をのぞき込こんで、彼女は不意に破顔した。

「ふふん。そういう意外と狭量な所も変わってないんだな」
「え?」
懐かしむような、その台詞。その態度。
そして―――懐かしい、その声の響きと、台詞。

目に映る式の姿。
耳に届く式の声。

そのどれもが、今の式と同じはずなのに、そのどれもが今の式とは、ずれている。
つまり、式がまとう雰囲気すべては、今の式を感じさせない。

そう、今の式は、まるで、あの頃に戻ったみたいで。
まだ「彼」と「彼女」がいた頃みたいな、そんな印象を僕に抱かせる。

「……式、君は」
「何?」
巫山戯ているのか。それともお酒にでも酔っているのか。
そう問いかけようして、僕は小さく首を振った。
幾分、気持ちが高揚しているようにも見えるけれど、でも、目の前の彼女からは、お酒の気配は感じない。

「君、どうしてここに?」
「んー。どうしてって言われてもな」
内容を変えた僕の質問に、式はがりがり、とやや乱暴に頭を掻いて月を見上げた。
そして、腕を組んで考え込むことしばし、こくり、と小首をかしげて僕に向き直った。

「どうしてだって思う?」
「……わからないから、聞いてるんだけどね。僕は」
「なるほど。そりゃ、道理だね」
愉しげに口元を緩めるその笑顔に、屈託はない。
本当に屈託のない笑顔。最近の式が見せてくれる笑顔ではなくて、本当に無邪気な―――織が見せてくれた笑顔の形。

懐かしい、その笑顔に、僕は思わず思考を止めて見入ってしまったけれど、でも、それは長くは続かなかった。

「まいったなあ」
不意に、式が再び僕から視線を逸らして空を仰ぐ。
困ったように腕を組みながら、でもどこか愉しげに声を揺らした。

「なあ、やっぱり、俺がここにいる理由って知りたい?」
「え? あ、うん。それは勿論」
「リハビリ」
「リハビリ……?」
「ああ、どうにも、いろいろ欠けちゃったからさ。
 慣れるなり、埋めるなりしないといけないんだってさ」
そう言いながら、式は視線を僕に戻して、肩をすくめて笑う。
邪気のない笑顔。でも、その瞳が、少しだけ、なにか熱を持ったように揺れた。

「だからさ。まだ「会うな」って言われてたんだけどな」
「会うなって……誰に言われたの?」
「口うるさい奴。お前もよく知ってる奴だよ」
と笑いながら、また一歩、彼女は僕との距離を詰めた。
もう、僕と彼女との距離は零に近い。目と鼻の先、互いの息づかいもわかりそうな距離に立って、式は口元を緩める。

「こういうところも、相変わらずだね」
「え?」
「だから、危機感が足りないってこと」
そう言いながら、彼女は僕の頬に手を伸ばした。
夜風に冷えた指先が、ひやりとした感触を僕の頬に残す。

「ほら、こんなに間合いに他人を入れるなんて平和ぼけも良いところだ。
 これじゃ襲われたって文句は言えないよな」
からかうような、戒めるような。そんな口調で言葉を紡ぎながら、式はそっと僕の目を覆う傷跡をなぞった。

「ふうん……聞いてたけど。こんなの、付けられたんだな」
「……!」
彼女が呟くように零した言葉。
その台詞に、僕の中の違和感は決定的になる。

目の前の式は、式じゃない。その確信に、僕はわずかに身を固くした。

式が、織を想って、こんな行動に出ている可能性を少し考えていたけれど、その考えをこの場で捨てる。
だって、式が、この傷のことを知らないわけがない。式が「その中」に居るのなら、絶対、この傷のこと知らなかったような台詞、言うわけはない。

「君は、一体―――」
だから、自然に声は強ばって。
そんな僕の態度に気づいたのか「彼女」はわずかに瞳を細めて、笑った。

そして僕の傷跡に当てた指の力を、少し、強めた。まるで、挑発するように、ゆっくりと、でも確実に。

「いいのか? 逃げなくても。傷、開いちゃうぞ?」
「君は」

君は、誰だ。

挑発する声と、瞳に、そう言いかけて、

「……っ」
喉まで出かかったその言葉を止める。

目の前の彼女は、式じゃない。それは、分ってる。
でも、僕は彼女を知っている。それも―――もう、分ってるんだ。

俄に信じられる事じゃない。
簡単に信じて良い事じゃない。

藁にすがるように、縋ってしまって良いような、夢じゃ、ない。

でも、感じる雰囲気は、「彼」そのもので。
僕に笑いかけてくれる声の響きは、「彼」そのもので。

今、自分を「誰だ」と問おうとした僕に向けたその瞳は。

あの時、僕を殺せなかった「彼女」と「彼」が見せた、その瞳、そのままだったから。

「織、なのか……?」
信じられないと言うよりも。
まるで夢を見ているような、そんな感覚で零した言葉。
その言葉に、

「……ふふ」
『彼』は、やさしく微笑んで。

「やっぱり、俺。お前のそういうとこ、好きだよ。コクトー」
懐かしい響きで、そう、僕の名前を呼んでくれた。



「幹也!」
「式?!」
織が僕を「コクトー」と呼んでくれたすぐ後、今度こそ僕が知っている「今の」式の声が夜に響く。

「あ、マズい」
鬼気迫る式の声に「織」は小さく呟くと、あっという間に僕から距離を置いた。
瞬間、その織と入れ替わるように式が僕の前に駆け寄った。

「幹也、無事か?!」
「あ、うん。大丈夫」
式は僕の手を引いて下がらせると、僕を護るように「織」を前に身構える。
敵意と殺気をむき出しにする式に、織はばつが悪そうに頭を掻いて唇をゆがめた。

「せっかく良い所だったのにさ。まったく、間が悪いったら無いな。式」
「お前の都合なんて知ったことか。
 誰だか知らないけど、こいつにおかしな真似するな」
「なんだよ。誰もおかしな真似なんてしてないだろ」
「巫山戯るな、こいつに―――」
と、そこまで感情の激するままに言いつのっていた式は、そこで不意に言葉を止めた。
多分―――彼女も、目の前の人物が誰なのか気づいたんだろう。

「―――あなた」
月明かりの下でもはっきりと分かるほどに青ざめて、まさか、と絶句する式に、

「ふうん。やっぱり新鮮だね、こういうの。
 自分の顔なんて見慣れてる筈なんだけど、鏡で見るのとは違うんだな」
と、目の前の「織」は、感慨深げに……そして、愉しそうに目を細めて息を漏らした。

「まあ、お互いそもそも中がもう違うからな。
 これじゃ、気づくのに時間がかかるのも無理ない、か」
『織』が一人こぼす言葉、その意味は、ほとんど意味不明―――の筈だったけれど。
僕も、そして多分、式も。
ある仮定の下に、『織』が零す言葉の意味を、きちんと理解できてしまっていた。

つまり、本当に目の前にいるのは「織」だけ。
式の中から居なくなった織が、中に式が居ない状態で、一人、立っている、という仮定。

「……巫山戯ないで」
でも、一瞬の沈黙の後、そんな考えを振り払うように頭を振って、式が目の前の織をにらみつけた。
目の前の光景を見極めようとするように、彼女はその目に力を込める。

「あなた……あなた、誰」
「……へえ。聞かなくちゃわからない?」
「巫山戯るなっ!」
叫んで、式はナイフを抜いた。
僕の目には映らないほどの早業で抜かれ、そして織に突きつけられた刃の切っ先は、恐らく怒りのために、揺れている。

「織がっ、織が生きているはずなんてない!」
「なんだ、ちゃんと俺が織だってわかってるんじゃないか。安心したよ、式」
「黙れ! 勝手に織を騙るなんてなんのつもりなんだ、お前!」
「式! 駄目、待って!」
激昂する式の声。その声に、僕は慌てて彼女がナイフを突きつける腕に手をかけた。

「幹也?! 邪魔するな、こら、おい、放せ!」
「放すよ。放すけど、ナイフは駄目だ」
「うるさい! そんなの、あいつが―――っ」
腕にとりついた僕を振り払おうとして、でも、それが出来ない式の声が揺れる。

「お願い。落ち着いて、式」
「だって、あいつは―――っ」
「あのさ。取り込み中悪いんだけど」
「え?」
「―――っ」
手を握ってもみ合う僕たちに、なにか本当に申し訳なさそうにかけられた声。
その声に慌てて振り向くと、路地裏の入り口に移動した織が、肩をすくめながら笑っていた。

「そろそろ潮時かなって。ほら、流石にそろそろ抑えが効かなくなりそうだし、式の方は実際、押さえが効いてないだろ?
 場所も時間も悪すぎることだし、ここは一度、仕切り直そうぜ」
「っ?! 待て!」
「待たないよ」
立ち去ろうとする織を引きとどめる式に、織は背を向けながら片手を上げた。

「あ、でも、心配すること無いよ、式。どうせすぐにまた会うんだし」
「あ、待て、待って―――っ」
「織!」
「じゃあな、コクトー。また会おうぜ」
僕と式がそれぞれにあげた声に、織はもう振り向くことはなく。
春の夜の月明かりの下。あっさりとその姿を消してしまった。


まるで、僕たちが夢を見ていたかのように。



「……なに、あれ」
織が消え去った後、その背中を呆然と見送っていた式は、少し声を震わせて、そう呟いた。
その手には抜き身のナイフが力なく握られたまま、冷たい光を夜の中に落としている。

「一体、なんなの―――これ」
「……式」
興奮が抜け落ちた反動なのか、目の前で起こった事態をまだ把握し切れていないからなのか。
力なく呟く彼女の手を、僕はそっと握りしめた。

式が激高した理由。
それは僕にはわかっているつもりだった。

だって、式はずっと「織」を護ろうとして、その言葉さえ変えてきた。
だから、織を騙る存在なんて……それこそ、自分を騙られるよりもずっと式には耐えられない。

でも、同時に、式は気づいてしまったんだと思う。
彼女だから、いや、彼女だからこそ、僕なんかよりもずっと強く。

目の前にいた「彼」が、あまりにも織という存在に似ているって事に。
本当に……織が織として、僕たちの目の前に現れたって信じてしまいそうになるほどに。

偽物なら、許せない。
でも、本物なら……どうしたらいいのか、きっとわからない。

その二つの気持ちに、きっと式の気持ちは溢れてしまったんじゃないかって、僕にはそう思えた。
だから、僕は出来るだけ優しく、彼女の手を握って、言った。

「式。帰ろう」
「……幹也」
弱々しく僕を見上げる式の瞳。その眼に、ほほえみかけて、頷いた。

本当に彼が織なのか。
もしそうだとしたら、どうして式とは別の体を持っているのか。
一体、どうやって―――彼は再び、その意識を取り戻すことが、できたのか。

僕には、全く見当もつかなくて、式に答えを返してあげることなんか出来ないけれど。

「きっと、大丈夫だから」
彼が何者で。
一体、何を考えているのか分らないけれど。

彼が見せてくれた笑顔に、悪意なんて感じなかった。
そして、彼が零したほんの少しの不安に、嘘なんて見つけられなかった。

だから、もう何があっても、二度とあんな出来事を繰り返させたりしない。
式に。そして、織に。あんな哀しい笑顔、させたりなんか、しない。

そう誓って、僕は式の手を握った。

「……うん。帰ろ、幹也」
その想いが伝わったのか、分らないけれど。

「そうだな。大丈夫だよ、きっと」
大丈夫。
それは自分に言い聞かせるように。あるいは―――彼に届けるように。

式は、僕に手を握られたまま、体を寄せて、頷いてくれた。




『すぐにまた会える』

それは「織」の残した言葉。
その言葉を嘘だって感じた訳じゃなかったけれど、このとき、僕も式もそれがすぐに現実になるとは思っては居なかった。

だから―――

「な? すぐ会えただろ?」
「……」
「……」
翌朝。
事務所のソファーに腰掛けながらパタパタと足を揺らしてして、カラカラと陽気に笑う織の姿に、僕も式もしばらくは声も出せずに。

「よろしくな、式。コクトー」
だから、このユメモノガタリのような始まりを、まるで夢を見ているような面持ちで迎えることになったのだった。

(続く)





須啓です。

らっきょ劇場版をみて以来、燃え上がっていた「織を書きたいよ熱」がこんな形になりました。
コンセプトは「織にいじられる幹式を書こう」ということで。って、そのわりには全然、まだ書けていませんけれども。
(続く)表記でおわかりのように、続き物になります。まあ、黒幕ほど長くはならないです。中編程度かなーって思ってます。

さて、現れた織は本当に織なのか。いったいどういう理由で伽藍の堂にいるのか、などなど突っ込みどころは次回以降に
書いていくつもりですが……こういうネタ、受け入れてもらえるかちょっと不安だったりもします。でも、織が書きたいから踏み切ったのでした。

ということで、突然の自体に翻弄される幹也たちの物語。少しでも楽しんでいただければ幸いです。
メールや、BBS、下記メールフォームなどでご指摘・ご感想などでいただけますと非常に嬉しいですので、
よろしくお願いいたします。

2008年2月24日。須啓。



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