ユメモノガタリ。 空の境界SS

     その2。 日々の始まり。

/1.朝の始まり。

「おーい、起きろー」
「ん……」
まどろむ意識の中、聞き馴染んだ声が僕に呼び掛けていた。

「起きろったら」
「んー」
凜とした声に、少しずつ焦れたような響きが混じっていく。
それもいつもと同じだったけれど、でも、どこか違和感めいたものがあった。
その違和感に刺激されたのか、意識にかかる眠気のもやが少しずつ晴れていく。

「おーい。コクトー」
名前を呼ばれると同時、体にかかる僅かな重み。
ここまで来ると流石に、まどろみをたゆたっていた僕の意識も形を取り戻していった。

「……ん、起きる。おきるから」
「全然起きてないだろ。意外と寝起きが悪いんだな、お前」
起きる、と言いながら、まだはっきりと目を開けていない僕に業を煮やしたのか、
声の主はぺたぺたと僕の頬を軽く叩き始める。

「ほら、起きろー」
「わかった、起きる、起きるから」
だから叩くのは止めてくれ。
そう呟きながら、僕は重い瞼をうっすらと開いた。その隙間から覗くのは見慣れたはずの「式」の笑顔。
その笑顔に「おはよう」と答えかけて―――感じた違和感に、言葉が止まる。

「……あれ?」
「お、やっと起きたな」
布団の上から僕に馬乗りになっている女の子は、僕が目を覚ましたのを確認すると、嬉しそうに破顔した。

「おはよ、コクトー」
「……お、おはよう」
その邪気のない笑顔に、一瞬、目を奪われて、そして、ようやく僕は感じていた違和感の正体に気がついた。
こんな笑顔は「式」はめったに見せてはくれないし、さっきから彼女……もとい「彼」は僕のことを「コクトー」って呼んでいる。だから、今、僕の目の前にいるのは「式」じゃない。

「君、織だよね?」
「あたり。流石コクトーだな」
自分の鈍さに軽く辟易しながら問いかけると、織は嬉しそうに頷いた。そしてその笑顔のまま……

「それより、ほら、もう朝だぞ。さっさと起きろ」
「うわ、っと」
いきなり織は、僕のかぶっていた布団をはぎとろうとして引っ張り始める。

「ちょ、ちょっと織? 自分で起きるから、待って」
「駄目だ。何回起こしたと思ってるんだよ。コクトーが自分で起きてくるの待ってたら日が暮れちゃうだろ」
「そんなに寝起き、わるくないってば」
「問答無用」
そう言いながら織は強引に布団をはぎ取ってしまった。

「う、寒」
「……あれ?」
ひやりとした外気に、思わず顔をしかめる僕を尻目に、織はベッドをのぞき込むようにしながら不思議そうに小首を傾げる。

「ど、どうしたの?」
「……式は?」
「へ? 式って……?」
「一緒に寝てるんじゃないのか。お前ら」
「ね、寝てないよ?!」
「そうなのか。なんだ、てっきりここにいると思ってたのにな」
僕の返事に、少し不満げに鼻を鳴らしながら、織は、ぽい、と布団を床に投げ捨てた。どうやら、彼は僕と式が一緒の布団で寝ているものだとばかり思っていたらしい。

……ちょっと危なかったかもしれない。万が一、一緒の所を見られていたら―――。
と、そんな事態を想像して、少し目眩を覚えていると、僕はふとある事に思い当たった。

「……ねえ、織」
「何?」
「僕、君に鍵、渡したっけ」
「貰ってないよ」
「じゃあ、鍵、開いてたの?」
「閉まってたよ。鍵なんて面倒くさいモノかけるなよ」、
むす、と不満げに眉を曇らせる織。どうやら彼も式と同じく鍵なんてかけない主義らしい。
それはそれで大変問題だと思うのだけれど、今現在問題にすべきはそちらではなかった。

「……織。君、どうやって部屋に入ったの?」
「ああ、壊した」
「……え?」
平然とした織の言葉。その言葉の内容を理解したとき、僕は眠気を吹き飛ばして一目散に玄関まで駆けだしていた。


「な、なんてことを……」
慌てて向かった玄関。そこには無惨にひん曲がったドアノブが転がっていた。
その惨状に呆然と視線を落とす僕に、織は悪びれるどころかどこか得意げに胸を張る。

「最初は針かなんかで開けようって思ったんだけどさ。
 手持ちがなかったし、面倒くさくなったから、蹴破った。意外と簡単に開くもんなんだな」
「け、蹴破った?」
「うん、結構物音がしたんだけど、気付かなかったんだな。意外と鈍感だよな、コクトーって」
「……まあ、僕が鈍感ということは否定はしないけどね」
でも、今の問題はそこではないと思う。

「どうしよう、これ」
頭を抱えたくなる思いで、残骸と化したドアノブを拾い上げると不意に織が僕の腕に絡みついた。

「そんなの、どうだっていいだろ。放っておいても秋隆あたりがなんとかする」
「いや、そういう問題じゃなくてね」
確かに秋隆さんなら、その辺の処理はしてくれそうだけれど、だからって無条件に頼ってしまうわけにはいかない。
そう言って首を横に振ると、織は眉をしかめて不満げな表情を作る。

「なんだよ。コクトーは。せっかく起こしに来てやったのに嬉しくないのか?」
「いや、起こしてくれたのは嬉しいよ。だけどね」
でもその方法に大いに問題があるというわけで。
と、そこまで考えて僕は「まあ、いいか」と諦めに似た想いに小さく笑った。元々、世間知らずな行動っていうのには、式で慣れているし、織も悪気があってやっているんじゃないってことぐらいは僕にだってわかった。

だから、僕はドアノブを靴箱に置いてから、ぽん、と織の頭に手を乗せる。

「……コクトー?」
「うん。起こしてくれてありがとう。織」
「う、うん」
「でも、次からは鍵を壊さないように起こしてくれると嬉しいな」
「……わかった。次からはそうするよ」
僕の言いたいことは分ってくれたのか、織は少しだけ恥ずかしそうに笑って頷いてくれた。

だったら、まあ、いいか……とりあえずドアについては、管理人さんに謝ってから修理の手配をしよう。
そう考えながら、部屋の方へと踵を返そうとすると、ぐい、と織が僕の手を引く。

「織?」
「じゃあ、俺が朝飯をつくってやる」
「え?」
「だから……、機嫌直せよ? コクトー」
「あ、うん。わかった」
もう怒ってはいないんだけれど、せっかく織が示してくれた謝意だったから、僕は素直に受けることにした。
そうして頷く僕に、織は安堵したようにほほえんで、そして勢い込んで拳を握る。

「よし、じゃあ、さっさと作るか」
「でも、織も料理できるんだね」
少し意外な気がしたけれど、式があれだけ得意なら織も同じようにできても不思議じゃない。
『両儀式は常に一人だ』とは他ならない織から聞いた言葉だから、その辺は心配する必要はないだろう。
そう思ったのだけれど、当の織からは予想に反する言葉が返ってきた。

「さあ? 出来るかどうかなんてわからないけどな」
「……わからないって、なに」
「だから、料理なんてしたことないんだって。まあ、式が作るのは見てたから大丈夫だろ?」
「いや、疑問系で聞かれても困るんだけど」
要するに織の人格の時には、料理なんかしなかったってことなのか。
確かに、式と織は役割分担していた様子もあったし……そういうものなのかもしれない。

「でも、式が料理するところはずっと見てたんだよね」
「いや、ほとんど寝てた」
安心を得ようとする僕の言葉を、元気いっぱいに否定してくれる織だった。

「あ、でも心配しないでも良いぞ。材料を切るところだけはちゃんと見てたから。安心しろ」
「ごめん。全然安心できない」
「なんでだよ。切るのは自信あるぞ。ハモの骨きりだってやってのけてやる」
「残念ながら家の冷蔵庫には、ハモなんて魚は入っていないよ」
「なんで無いんだ」
「なんでって、普通のご家庭には無いと思うんだけどね」
「よし、秋隆に持ってこさせよう」
「だ、駄目だって」
そんなこと頼んだら、あの人は本当に持ってくるだろう。しかも僕が想像しないような最高級な奴を。
流石にそんな事態は避けたいので、僕は電話に向かおうとする織を慌てて引き留める。

「あのね、織。そもそも朝からはそんなに食べられないからさ。簡単な奴でいいよ?」
「だから、骨きりは簡単だって」
何故か骨きりにご執心な織だった。

「えーとそうじゃなくて、うん、もっと軽いメニューでいいかなって」
「じゃあ、コクトーは何が食べたいんだ? なんだって作ってやるぞ」
料理経験皆無のはずの織は、よく分からないけれど自信満々に宣うのだった。
……もはや、「作るな」、とか、「朝ご飯は要らない」、とか言い出せる雰囲気じゃない。
しかしながら今までの会話で織の料理スキルは「切る」ことに特化していることはよくわかったので、流石に一人で台所に立たせるのは不安きわまりない。だったら……。

「あのさ、織」
「うん」
「えーと、じゃあ一緒に作ろうか」
それなら、まだ致命的なものにならないだろうし、なにより、織とそういう作業をするのは、ちょっと楽しそうだった。
だから、そう提案したのだけれど、僕の言葉に織は面食らったように目をぱちくりとさせると、しばし、言葉もなく黙り込む。

「……」
「織?」
「コクトー」
黙り込む織に、我ながら日和った提案だったかな、と少し不安になったけれど。

「それいいな!」
そんな不安は、あの頃と同じ、本当に心の底から楽しげな笑顔にあっさりと吹き飛んだのだった。

……本当に、屈託のないその笑顔。
  ひょっとしたら、まだ夢を見て居るんじゃないのかって思ってしまうような、そんな懐かしさを胸に、
  僕の脳裏には、昨日の出来事が浮かんでいった。


/2.再会の時


それは僕と式が「織」との出会った翌朝のこと。


昨晩、『織』は、「また会える」って言っていたけれど。
まさか、翌朝、それも仕事先でその彼と再会するなんて、誰も想像なんてできるはずもなく。

「な? すぐ会えただろ?」
「……」
「……」
だから、僕も式も、ソファーに腰掛けてカラカラと陽気に笑う織に、しばし言葉を失っていた。

何故、彼がここに―――?
文字通り絶句する僕たちに声をかけたのは、しかし、視線の先にいる織ではなく、本来、この部屋に一人で居るはずの人物だった。

「その様子だと、『昨晩出会った』、というのは本当のようだね」
「橙子さん」
織が腰掛けるソファーの背後。窓を背後にした事務机に片肘をつきながら、橙子さんは、立ちつくす僕たちから織に視線を移すと、大きくため息をつく。

「まったく……あれほど、勝手に出歩くなと言っていただろう。織」
「勝手じゃないよ。ちゃんと書き置きして置いただろ」
「そういうのを勝手と言うんだ。
 まあ、言って聞くような君じゃないのは承知していたけれどね」
橙子さんの咎める声にも、織は悪びれた様子は見せない。
そんな彼に小さく肩を竦めてから、橙子さんは僕たちに視線を戻した。

「ま、遅かれ早かれこうなるだろうとは思ってたがね」
「しょ、所長!」
「トウコ!」
いつもと変わらない橙子さんの声、それにようやく僕と式は我に返って、同時に声を上げていた。

「どういう事なんですか、これは!」
「なんのつもりだ、お前……っ!」
事務所に居る織。そして、ごく平然とその織と会話を交わしている橙子さん。
まったく飲み込めない事態に、自然、橙子さんに詰め寄る僕たちの声は大きくなる。
だけど、当の橙子さんはと言えば、平然としたまま、軽く肩をすくめただけだった。

「どうもこうもないよ。ご覧の通りだ。『織』の身柄は私が保護している」
「保護しているって……一体、いつからですか?!」
「先週、鮮花が「式を見た」と言っていただろう? あの直ぐ後だよ。もう一週間ほどになるか」
「せ、先週……?」
予想外の返事に、再び僕は言葉を失う。要するに、昨日、橙子さんが「式を見た」と僕や式に告げたときには、既に彼女は「織」を保護していた、という事になる。

……そうか。
あれは、橙子さんが外で見かけたのが、保護しているはずの「織」だったのかどうかを確認するための問いかけだったのか。そういえば、あの時の橙子さんはそれほど驚いた様子を見せていなかった気がする。

「……どうして、言ってくれなかったんですか」
「あのな、黒桐。こんな面倒な事態、おいそれと君に話せるわけがないだろう」
「どうしてですか?」
「君は式が絡むと箍がはずれるからだ」
「たががはずれるって」
「トウコ。そんな事、どうでもいい」
僕と橙子さんの会話に突如割り込んだのは、冷たい響きの言葉。その声に首を回せば、何かの感情を堪えるように表情を引き締めた式の顔が目に映った。

「お前の事情は、どうだっていい。それより、あいつは何だ」
「見たままだよ。彼女……もとい彼は『織』だ。少なくとも彼自身はそう名乗っている」
「巫山戯るな!」
橙子さんの返事に、式は声を荒げてますます怒気を強めた。抜き身の刃物のような式の視線。それを受けても橙子さんは、怯むこともなく、むしろ僅かに口元を歪めて見せた。

「残念だが巫山戯ては居ない。正確に言えば、巫山戯ようにも巫山戯ようがないんだ。この場合は、ね」
薄く笑いながら橙子さんが式に返した声には、自嘲する響きが籠もっている気がして僕は少し驚いた。

「……橙子さん?」
「本音を言えば、私も頭が痛いんだ。彼が本当に何者なのか、正直、見当も付いていない」
珍しく陰鬱な表情でそう言うと、橙子さんは煙草を取り出しながらため息を零す。

「姿形はごらんの通りいうに及ばず、言動、記憶、思考の方向性。そのどれもが、私の知りうる「両儀織」という人物像に一致する。それがこの一週間での私の出した結論だ」
「そんなはずが、あるもんか」
目の前の彼を織だと告げる橙子さんの言葉を、式が押し殺した声で遮った。

「織が他にいるはず、ない。」
「その通り。少なくとも「式」の中にいた「織」は消えた」
にらみつける式に、事も無げに頷きながら橙子さんは、指に持った煙草をくるり、と回した。

「つまり、ここに矛盾が発生している訳だ。
 両儀織は消え、その体の所有権は両儀式のみが保持しているという事実。
 それにもかかわらず、消えたはずの両儀織がこうして実体をもって、再びその姿を見せている、という事実。
 この二つの事実を矛盾無くつなぐ解が今のところ私の手元にない、という訳だ」
そこまで言うと橙子さんは一旦言葉を切って、その視線をソファーに座る織へと向けた。

「当の本人がもう少し当てになれば良いんだがね。残念ながら、まったく当てにならないときている」
「なんだよ、それ」
僕たちの様子を黙って見守っていた織は、橙子さんの台詞に不満げに唇をとがらせる。

「俺が悪いって言うのか?」
「せめて件の事故から今までの空白の時間、君が何処で何をしていたかをきちんと説明できれば、あまり問題は起きないんだがね」
「わからないものは仕方ないだろ」
「……わからない?」
織の言葉に不穏な物を感じ取って、僕は織の目を見つめて問いかけた。

「わからないって、記憶がないってこと?」
「ああ。「あれから」の事、イマイチ……というか、全然、分かってないんだ。気づいたら、街にいて、そこの魔術師に捕まってた」
「保護した、だ。それはともかく、そういう事だよ、黒桐。彼の話によれば、両儀織の記憶は例の事故から、ほんの数日前まで断絶している」
数日前。それはつまり鮮花が式……じゃなくて、織を目撃した頃、ということだろうか。

「織も式と同じように昏睡状態にあった、と考えられなくもない。しかし、彼が意識を取り戻した場所は、何処とも知れない街の中だ。そんな場所で二年以上もたちぼうけで昏睡していたわけでもないだろう。そもそも「例の件」で、いきなり両儀式の体が二つに増えたりしていなければ、昏睡すること自体できないがね」
「……それって、どういうことなんです」
「だから、言っているだろう。お手上げだよ。まあ、一つの人格に対して二つの体を用意すること自体は不可能じゃない。
 巫条霧絵の二重体のような例もある。しかしね、黒桐。私の見るところ、彼の体は基本的に式のものと同一の可能性が高いんだ。仮に織の体が誰かが用意した「人形」のだとしても、今現在「両儀」を再現できるような人形師はいない。勿論、私を含めて、ね」
少しだけ悔しそうに唇を歪めながら、橙子さんは織の事情をそう説明してくれた。

つまり、本当に橙子さんにも目の前の織が本物なのかどうかわからないし、今になってひょっこりと体を以て現われた理由も見当が付かない、ということらしい。

「さて、少し前置きが長くなったな―――、式」
語るべき事は語った、という表情で橙子さんは一度頷いて、表情を改めて式の顔を見つめる。

「という訳で、君に聞きたい。君の目の前にいる人物は、本当に「織ではない」のか?」
「……そんなの」
『そんなの当たり前だろう』
おそらくはそう続くはずだった式の言葉は、しかし、ほんの少しの迷いに揺れていて。
そして、橙子さんもその感情の揺れを見抜いたのか、釘を刺すように、式の言葉を遮った。

「『彼は織じゃない』と、本当に君の目で見て、断言できるのか?」
「……っ」
橙子さんの指摘に、式が目に見えて言葉に詰まった。
その顔に浮かぶのは昨晩、彼女が見せた物と同じ迷い。

目の前にいる姿は、式であり、織であったあの頃のまま。
そして、僕や式に語りかける声は表情は―――やっぱり、あの時のまま。

正直、僕には「彼」が「織」にしか思えなくて、そしてきっと式の眼にもそう映っているのだと、思う。

でも、同時に、そんなはずはないってわかってる。
だって、式と織は『同じもの』だったから。
例え、意識は別であっても『両儀式は絶えず一人』だから、式の目に織が映ることなんか決してない。

でも、それが分っているのに……、やっぱり彼のことを織としか思えない。
それは、昨晩から、式の―――そして、僕の頭の中で繰り返されて解けない、矛盾。

突きつけられたその葛藤に、式は答えを出せないまま、ただ目の前の「彼」を震える瞳で見つめていた。
対する「織」は、そんな式の視線を黙って受け止めたまま、表情を動かそうとしない。

「……」
「……」
殺風景な事務所に降りた張り詰めるような、沈黙。それを押し破って、口を開いたのは『式』じゃなくて『織』だった。

「いいよ、別に」
織は、少し強ばっていた表情を崩して、労るような口調で、そう言った。

「……いいって、何が」
「ん? だから、別に無理して俺を「織」だなんて思わなくていいって事だよ」
織の意図がつかめずに、式は貫くような視線を彼に向けたまま問い掛ける。それを正面から受け止めて、織は口元を緩めた。

「昨日も言ったけどさ、そもそも俺は、お前の知っている織じゃない。だから、お前が俺のこと「織」だなんて思えないのは当たり前」
「だから、それ……どういう意味だ」
「だって、そうだろ? お前の中に俺がいないみたいに、俺の中にだってお前はいないんだ。
 だから、もう、俺たちは式と織がいた『両儀式』じゃありえない。それに、まあ、俺だって自分がどうしてここにこうして居られるのか分らないしさ。
 俺は「俺が織だ」って思ってるけど、その証拠はどこにもないんだ。だから、そんなこと他の誰かに信じろ、なんて言わないよ」
だから、式が自分を「織」だと認めなくても構わない。そう言って微笑む織に、

「……っ」
式は身を強ばらせて、僅かに唇を噛んだ。

  まるで、織を怒鳴りつけたいのを、堪えるように。
  まるで、溢れてしまいそうな涙を、堪えるように。

自分が自分である証拠がどこにもない。そんな冷たい事実を、微笑みさえ浮かべて口にする「彼」に対して、式がどんな感情を抱いているのか……僕にも、少し、わかる。

だから―――。

「……織」
だから、二人の会話に口を挟んではいけないって思っていたけれど、僕は堪えきれずに式の肩に手を置きながら、織に向かって声を向けた。

「君自身にも、橙子さんにも、当然、僕や式にだって、君がこうして目の前にいられる理由はわからない」
「……ああ、そうだな」
「でもね、少なくとも僕は、君が織だっていうのは―――信じようって、そう思ってる」
「……、コクトー」
抑えた声で、でもはっきりと「織」の目を見つめながら、僕はそう告げる。
そんな僕の言葉に、他の三人は三者三様の視線を向けて、その真意を測るように黙って、僕の言葉を待った。

「難しいことはわからないんだけどね」
そう、何もわからない。
織にも、式にも、そして橙子さんにも分らない理由に、僕が思い当たれるなんて、思わない。
だけど、一つだけ、言えることはある。

「織がこうして生きていてくれているのが、夢じゃないんだったら。
 僕には……理由なんて、どうでもいいって、思えるから」
そう。
本当に、彼が彼として今、ここにいるのなら。
例え、かつての織じゃなくて、違う織としてここにいるんだとしても。
織が、こうして目の前にいて、あの時みたいに笑ってくれるのなら、それで、いいって思えるから。

「……幹也」
そんな想いを口にした僕に、式が戸惑うような、そして縋るような感情の籠もった視線を向ける。
その彼女の眼差しに、僕は小さく頷いて、そっと手に触れた。

「僕は、そうしようって思う。でも、式は答えは急がないで良いと思うよ」
「幹也」
きっと誰よりも織を大切に思っているのは、式だから。
だから、答えを急ぐ必要なんて無い。それは二人にとって辛いことかもしれないけれど……それでも、迷いの残ったまま、相手を認めてしまえば、きっとそれは織と、そして式自身を傷つけてしまうから。

だから、僕は織を信じようって思う。簡単に信じるわけにはいかない彼女の代わりにも。

「……やれやれ」
そう言って頷く僕に、橙子さんが呆れたような声をあげた。

「相変わらず、底なしのお人好しだね、黒桐。よくもまあ、こんな得体の知れない話を信じようと言う気になるものだ」
「まったくだ」
あんまりな橙子さんの物言いだったけれど、何故か、織が頷きながら同意している。
軽く頭を掻きながら、なんだか非難するような眼差しを僕に向けて、織は大きくため息をつく。

「コクトー。前からそうだったけど、危機感が無いにも程があるぞ」
「危機感って、あのね。君はちゃんと自分が織だっていったじゃないか」
「……それだけで信じるって言い切るのがどうかしてるって言ってるんだ。ほんとに莫迦じゃないのか、お前は」
さんざんな物言いだったけれど、別に怒っている訳ではないようだった。
その証拠に少し気まずげに視線を逸らした織は、改めて僕の方に向き直ると―――

「ほんとにどうかしてるって、思うけど。
 でもさ、やっぱり、お前のそういうところ、好きだよ。コクトー」
そう言って、嬉しそうに微笑んでくれたから。
その微笑みは、あの時のものと寸分違わず同じに見えて、僕は抱いた思いは間違っていないって信じて、織に手を差し出した。

「これから、よろしくね。織」
「ああ、よろしく。また世話になるよ。コクトー」
はにかみながら織は、僕の手を握り返してくれて、そして、そんな僕たちの背後では橙子さんが「呆れた」と呟きながら、式に声を向けていた。

「まあ、黒桐のこういう命知らずな行為は今更だが……君としてはどうなのかな。式?」
「……知るもんか」
「知るもんかは、無いだろうに。彼がここにいても構わないのか? 君は」
「……」
何となくからかいを込めた橙子さんの言葉。
最早、答えに見当をつけているような表情の橙子さんに、式は忌々しげに一瞥を投げてから、吐き捨てるように、言った。

「勝手にしろ」と。
そういって、苛立たしげに橙子さんから背を向けた式は。

「……ふんっ」
事務所を出て行くのではなく、織の横に腰掛けたのだった。


それがつまり。

僕と式との日常に、「織」が加わることになった日の朝の出来事だった。


/3.朝食

結局、朝食のメニューは簡単なパスタとサラダ、というメニューになった。
テーブルに並べたそれらの料理に視線を落しながら、織は「納得いかない」、と不満げに頬を膨らませている。

「和食のつもりだったのに、なんでこうなってるんだ」
式が得意で、織も得意なはずの和食にならなかったことがお気に召さなかったらしい。

「まったく、コクトーのせいだぞ」
「あのね、なんでそうなるのさ」
「だって、せっかく味噌汁作ったのに」
「あんな塩分過多なお味噌汁は飲めません」
先ほどまでの悪戦苦闘の結果、織の料理技能はまったく当てにならないことが判明した。
流石に塩と砂糖を取り違える、なんて真似はしなかったけれど……、織の調理方法は、もの凄くおおざっぱなのだ。
味噌をお玉で山盛りえぐり取って、そのまま鍋に投入したのを目撃した時は、我ながら目を疑った。
当然、その味噌汁は飲めた物ではなくて、勿体ないけれど破棄する羽目になったのだけれど、それがまた織の機嫌を損ねているらしい。

「コクトー。男なら、ああいう時は「おいしいよ」って我慢してでも飲むもんじゃないのか?」
「そうかもしれないけれどね。でも、限度というものがあります」
体をこわしちゃうよ、と肩をすくめると、織はますます不機嫌そうに眉をしかめて腕を組む。

「変だ。式に出来るのに、俺に出来ないなんて、絶対変だ」
「しょうがないよ。いつも料理していたのは式なんだから」
「それはそうだけどさ。おかしいじゃないか、式と織は意識は別でも記憶も経験も共有してるのに。
 やっぱり中に式がいなからか? くそ」
「ともかく冷めない内に食べよう。ね?」
「……絶対、リベンジしてやる」
「楽しみにしてるよ」
「絶対だからな」
よっぽど悔しかったのか、織は固く再起を近いながら座布団に腰を下ろした。
その織の対面に、僕も腰を下ろして、二人同時に「いただきます」と手を合わせる。

「へへ」
「……織?」
いただきます、と言った後も、織は何故かフォークを握ったまま、動かない。
先程までの不満は何処へやら、並べられた料理をやけに嬉しそうに見つめたままだ。

「随分、嬉しそうだね。織」
「そう見えるのか?」
「うん」
「そっか……うん。そうだな、確かに嬉しい。コクトーと一緒だしさ」
「? ご飯なら何度か一緒に食べたじゃないか」
織とご飯を一緒に食べるのは初めてじゃない。
初めて「織」として出会ったときもそうだし、その後も何回か遊びに行っては一緒に飲み食いしている。

……ひょっとして、その辺りの記憶も曖昧なんだろうか。
思わず、そんな不安に駆られる僕に、「大丈夫だよ」と織が笑いながら手を振った。

「ちゃんと覚えてる。でも、そういうのじゃなんだ」
「? じゃあ、どうして」
「だって、ほら、こういうのなんだか新婚さんみたいじゃないか」
「ぶっ……?!」
直球過ぎる織の台詞に、僕は思わずむせかえった。

「し、織?!」
「なんだ、照れてるのか? コクトー」
「て、照れてなんか居ません」
動揺に、何故か敬語になる僕だった。そんな僕の様子が心底楽しいのか、織はにこにこと屈託無く笑う。

「やっぱりコクトーは面白いな」
「あのね。からかわないでよ」
「嫌だ。からかう」
「……あのね」
「よし。楽しいから新婚さんごっこしよう」
「へ?」
「ほら、コクトー。あーん」
目の前に突きつけられるのはフォークに刺さったキュウリ。
それをどうしろっていうのか、その意図は明白だったけれど……相手が織といえど、それを実行するのは恥ずかしすぎる。

「い、いいよ」
「あーん」
「いや、だから」
「あーん」
「……」
全く僕の拒絶を受け入れる気配のない織は、満面の笑みを浮かべたまま、フォークを僕に差し出している。

……こ、これはもう、やるしかないのだろうか。
まあ他に誰もいるわけでもないし、相手は織で、その、要するに男同士な訳だから、そんなに意識なんかする必要はないわけで、思い切ってやってしまえば、織も飽きてくれるかもしれない。

なら、ここはそんなに恥ずかしがらすに……

「……へえ、新婚、か」
「―――っ?!」
まるで僕の覚悟を見越したかのようなタイミングで、もの凄く底冷えする声が、僕の背後からかけられる。
大慌てで振り向けば、腕組みしたまま、感情を消した面持ちで僕たちを見下ろす式の姿があった。

「おもしろいことやってるじゃないか、『お前ら』」
「し、式?! いつから、そこに―――?」
そう問いかける僕に、式は「さっきから」と冷たい声で呟いた。

「ずっといたよ。お前が、デレデレでれでれデレデレでれでれデレデレしてるから、気付かなかっただけだろ。幹也」
「デ、デレデレなんかしてないよ?!」
「……何が「あーん」、だ」
「し、してないよっ?!」
「よっ、おはよう。式」
動揺しまくる僕とは対照的に、まったく動揺していない織は、ぱくり、とキュウリを口に放り込みながら式に笑いかけた。

「ちゃんと朝起きてるんだな」
「……何してるんだ、お前」
「ん? 朝ご飯」
食べるか? とフォークを左右に振って問いかける織に答えずに、式は視線を食卓に並んだ料理に投げかける。

「これ、お前が作ったのか」
「うん。コクトーと一緒に」
「…………へえ」
何故か、織ではなく僕の方を睨みながら式が目を細めた。

「仲いいんだな? 幹也」
「いや、うん。まあ……」
一緒に料理しただけなのに、
式がなんだか、ものすごく怒っている気がするし、こう罪悪感めいたものを感じてしまうのは何故だろう。

そんな僕たち二人の雰囲気を感じ取ってか、あるいは気付いていないのか、
相変わらず織は楽しげな声で、式に向かって語りかける。

「でも、料理って難しいんだな。見ている分には簡単そうなのに」
「……そういう習い事の時はいつも寝ていたでしょう。あなたは」
ぽつり、と凄く小さな声で式が何かを呟いた気がしたけれど、それははっきりと僕の耳には届かなかった。

「……式?」
「なんでもない。それより、玄関のアレ、何だよ」
「壊した」
あっさりと答える織に、式は頭痛を堪える表情で目を閉じて、額に手を当てた。

「……お前な。鍵ぐらいもっと綺麗に壊せないのか」
「最初はそのつもりだったけどさ。面倒くさくなった」
「少し叩けば開くんだ、あんな鍵」
「そうなの?」
「そうだよ」
……あの、どうして「鍵を壊すこと」が前提の会話をしてるんでしょうか、二人とも。
こういう所は間違いなく「同じ」なんだな、と少し安堵しながらも、頭痛を覚える僕だった。
いずれにせよ、式と織は「鍵の壊し方」という共通の話題を見つけて、しばし互いに言葉を交わしている。
昨日は結局、あれからほとんど式と織は会話らしい会話をしていなかったから、そんな二人の様子に、僕は自然と口元がゆるむのを自覚した。

……と、僕がそんな暖かい想いに浸っていたのもつかの間、不意に、織が何かに気付いたように少し大きな声を上げる。

「あ、そうだ、式。確かめたいことがあったんだ」
「……何だよ」
織の言葉に、式は戸惑うような、訝しむような表情を浮かべる。でも、そんな式の拒絶の感情をものともせずに、織は立ち上がって、式に向かって踏み出した。
そして、織はしばし、じっと、式の顔……じゃなくて、着物の胸の部分を見つめる。

「な、何だよ」
一体何をしているのか、その意図がつかめなくて困惑の声を上げる式だったけれど、式はそれに応えずに。

「ふむ」
そう、小さく呟いたかと思うと、おもむろに手を伸ばしたかと思うと、その手のひらを式の胸に当てていた。

「……え?」
「……うん」
「……」
「……へえ」
いったい何をしているのか。

……いや、何をしているのかは、分っているのだけれど、あまりに突飛な行動に、
その意図がつかめずに、僕もそして式も言葉が出せずに、硬直していた。

ぺたり、ぺたり。
何度も手のひらを押しつけて、式の胸の感触を確かめていた織はやがて、
片手だけを自分自身の胸へと当てて……そして、なんだか哀しげにため息をつく。

「……二年経っても、このくらいなのか」
「っ?!」
落胆するような織のつぶやきと同時、式がはじかれたように胸に当てられた手を払いのけた。

「お前っ!それ、ど……、どういう意味だっ!」
「いや、深い意味はないんだけどさ」
羞恥のためか、あるいは怒りのためか。
胸を隠しながら、顔を赤く染めてにらみつける式に、織はなんだか気まずげに頬を掻く。

「あー。いや、安心したよ。うん。別に俺の所為じゃなかったみたいだよな」
「だから、それ、どういう意味……っ」
「だからさ。中に俺みたいな男が入ってたから育たなかったのかなって思ってたんだけど
 ……そうでもなかったんだな」
「………………殺す」
あはは、と笑う織に、小さく、しかしはっきりと呟いて式が懐に手を伸ばす。
と、その式の行動を、僕は慌てて押しとどめた。

「って、ちょ、ちょっと式、落ち着いて」
「邪魔するな、幹也。こいつは殺す」
「だ、駄目だって」
「五月蠅い。殺すったらぜったい殺す」
淡々とした声が、却って式の怒りの深さを示している気がして、僕は必死で彼女を宥めすかす。
そんな僕たちの様子に流石に織も悪いことをしたと思ったのか、織は頭を掻きながら小さく頭をさげてくれた。

「悪い悪い。そんなに怒るなんて思わなかったからさ。
 じゃあ、俺の胸さわるか? だったらおあいこだろ。まあ、さわってもおもしろくない胸だけどな」
「……わかった。ホントに死にたいんだな、お前」
「だから、ストップ! 織も、とにかく挑発するような真似はやめてくれ」
「なんだよ。謝ってるのに」
それは「火に油を注ぐ」と言います。
しかし、当の織にその自覚は無いのか、なんだか非難するように目を細めて僕をにらんだ。

「大体、悪いのはコクトーだぞ」
「……はい?」
織が式の胸を触って、それで悪いのは僕だっていうのは一体どういう了見なのか。
疑問符を浮かべる僕に、織はどこか得意げに指を立てて、のたまった。

「だからさ。女の胸って言うのは男が揉んだら大きくなるもんなんだろ?
 だったら式の胸が育ってないのは、コクトーの所為じゃないか。ほら、俺はあんまり悪くない。だろ?」
……どんな理屈なんだ、それは。
理屈になっていない理屈に、僕は一瞬、目眩を覚えてよろめいた。

だけど、織はそんな持論を信じて疑っていないらしい。
だから―――、顔を赤くして、怒りを堪えている式に、満面の笑顔でこういったのだ。

「だから、式。今はちっちゃくても、大丈夫だぞ。きっと」

「殺す」
そして、最早なんの躊躇いもなく、式はナイフに手をかけていた。ほんのうっすらと、目の端に涙を浮かべながら。

「だから、駄目だって!」
「五月蠅い! 放せ、幹也!」
「ナイフを置きなさい、ナイフをっ」
「あいつが織でも、織じゃなくても、絶対に殺す! 大体、幹也が悪いんだろ!」
「なんで、式までそんな理屈になってるんだよ!」
「うるさい、知るか、この―――莫迦!」 


……ひょっとしたら、まだ僕は夢の中に居るんじゃないだろうか。
  朝から始まったこんな騒々しい喧噪に身を浸しながら、僕は少し現実逃避気味にそんなことを考えて。

それでも―――式と織の引き起こす騒動を、どこか暖かい気持ちで楽しみ始めていたのかもしれなかった。

(続く)



須啓です。

織かわいいよ織。というコンセプトの元にお送りしますユメモノガタリ第二話です(おい。
更新遅くなって申し訳ないですが、ようやく本格的に織と幹也と式の日常を書き始めることができました。

いやー、書いていて楽しかったです(笑。考えると、らっきょには「直球」なヒロインっていないんですよね。
幹也を埒した霧絵あたりは直球と言えなくもない気がしますが(多分違う。

ということで、気ままな織に振り回される幹也たちを少しでも楽しんでいただければ幸いです。
メールや、BBS、下記メールフォームなどでご指摘・ご感想などでいただけますと非常に嬉しいですので、
よろしくお願いいたします。

2008年4月7日。須啓。



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