02.【あ】『青菜(あおな)に塩』 (1999/11/08)
『青菜に塩』 
青菜に塩を振り掛けると萎(しお)れてしまうことから転じて、人が、元気を失って萎れたようになっていることを表す。
類:●蛞蝓(なめくじ)に塩●青菜を湯に浸(つ)けたよう
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熊五郎と八兵衛は旋風(つむじかぜ)のような勢いで搬入を完了し、大家たちのところへ戻ってきた。

>八:大家さん、あいつぁあいけねえな。上がりっ端(ぱな)の床が抜けそうになってる。
>熊:それによ、棚が傾(かし)いじまってる。あれじゃあ鼻紙を載せただけでも落っこっちまうぜ。
>甚:手が空いた時にでも直しといておくれ。御足(おあし)はあたしが払うから、今度店賃(たなちん)を持ってきた時にでも相当の金額をお言いなさい。
>八:店賃なんかいつ持っていけることやら。
>熊:いっそのこと店賃を棒引きにして呉れるとか。
>甚:そいつは幾らなんでも吹っ掛け過ぎですね。
>2人:やっぱり。

これまでに何度も交(か)わされたであろう馴染みの会話を、あやはにこにこしながら聞いていた。

引越しの騒動を聞き付けて、長屋の面々が顔を出す。
建具屋の半次、飾り職人の松吉、傘貼りの六さんと娘のお咲、丁稚(でっち)の定吉と姉のお杉、野菜売りの与太郎、などが次々集まってくる。

>半次:熊さん、八つぁん、朝っぱらから何の騒ぎだい? おや、大家さんまで。
>熊:こちらの方(かた)が引っ越して来なすったんだよ。
>あや:初めまして。あやと申します。
>甚:みんな揃ってしまったみたいですね。折角(せっかく)だから紹介しておきましょう。
>あや:縁あって、ここに住まわせていただくことになりました。宜しくお願いいたします。
>半:へぇ〜、別嬪(べっぴん)だねえ。独り身ですかい?
>甚:これこれ、無粋(ぶすい)なことを聞くもんじゃありません。
>あや:良いんですよ、大家さん。・・・何分にも女の独り住まいですので、皆さんにはお世話を懸けると思います。
>松:こんな別嬪が独り身とはねえ。あ、あっしは松と申しやす。あっしも独り身です。よしなに。
>八:なに自分ばかり売り込んでやがる。ここの男は大家さんも含めてみいんな独り身じゃねえか。
>半:甚兵衛さんと六さんまで一緒にするこたぁねえじゃねぇか。
>六:こら半次、見縊(みくび)って貰っちゃ困る。わたしだってまだまだ捨てたもんじゃない
>咲:お父っつぁん!
>甚:六さんもお咲坊がお目付けじゃぁ適(かな)わないね。
>咲:大家さんも!

一同がどっと笑い出し、お咲は恥ずかしそうに頬を染めて父の後ろに引っ込んだ。
そんな和(なご)んだ空気の中で一通りの紹介が済み、朝餉(あさげ)を一緒にどうかと話が纏(まと)まり、女たちはそれぞれの部屋に食材を取りに戻っていった。

>甚:八つぁん、熊さん、ちょいと。

呼ばれた2人は、住人たちの輪の中から抜け、長屋の外れまで大家に付いて行った。

>甚:実はね、2人を見込んで、ちょいと頼みたいことが有るんですが、聞いて貰えますか?
>熊:なんだい改まって。物騒なことですかい?
>八:人を殺(あや)めろとかそういうことじゃないんだろうな。
>甚:真逆(まさか)。
>熊:じゃあどういうことだい、大家さん?
>甚:お前さんたち、「だるま」という縄暖簾(なわのれん)を知ってるでしょう?
>八:知ってるも何も、もう殆ど常連でさあ。
>甚:あやさんはそこで働くことになったらしいんですよ。
>熊:ははあ。そこで、贔屓(ひいき)にしてやってくれと、そういうことかい?
>八:なんだ、そんなことだったら、なにもこんなとこでひそひそやんなくたって・・・

>甚:その話もそうなんですが、本題はこっちの方です。あやさんを親方に娶(めあ)わせたいと思うんですが、力になって呉れませんかね?
>熊:へ? お、親方に?
>八:娶わせるぅ?
>熊:あの鬼瓦みてぇな源五郎親方に、あの綺麗なあやさんをですかい?
>八:こんな不釣り合い、聞いた試(ため)しもねえ。
>甚:駄目(だめ)ですか?
>熊:そりゃあ、大家さんから頼まれちゃあ、無下(むげ)にはできないけどなあ。
>八:しっかし、あの鬼瓦にあやさんをねえ。
>甚:じゃあ、頼みましたよ。

これでもう肩の荷が下りたという風情(ふぜい)の大家の後ろ姿を見送ったあと、2人は、暫く何も話せずにぼうっと突っ立っていた。
美貌の女性とお近付きになれる、あわよくば自分にも機会が巡ってくるかも知れない、と上気していたところに、親より怖い親方の名前を出されて、一瞬にして熱が冷めてしまった。
高望みは叶うものじゃないからと諦めも付く。だけれど、親も同然の大家は、店子(たなこ)の機会を奪った上に、婚儀の片棒まで担がせようとしているのだ。

>八の母:これ、八に熊、さっさと食うもん食って、明日の餌代(えさだい)稼ぎに行っといで。これ、八兵衛。聞こえてんのかい? 熊五郎!
つづく