108.【か】 『華胥(かしょ)の国に遊ぶ』 (2001/12/17)
『華胥の国に遊ぶ』
好い気持ちで昼寝をすること。
参考:華胥の国 (「列子−黄帝」にある故事で) 中国古代の天子、黄帝が昼寝の夢に見たという理想郷。人々は自然に従って生き、物欲、愛憎なく、生死にも煩わされることなく良く治まっていたという国。
出典:
列子(れっし) 中国の道家の典籍。8巻。列子の撰と伝えられるが、実際には前漢の後半に初めて出現し、現行本は、さらに六朝道家の手が加えられている。戦国以来の伝説的道家思想として、情欲を去り心を虚しくして自然に従うべきことを説く一方、六朝の思想である快楽主義、神仙思想、仏教思想の影響の見えることが特色である。「沖虚真経」。
人物:列子(れっし) 中国戦国時代の道家の思想家。名は禦寇(ぎょこう)。虚(きょ)の道を得た哲人として伝えられるが、その伝記は明らかでなく、「荘子」によって虚構された人物と思われる。唐代に「沖虚真人」の称号を贈られた。
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柿本猪ノ吉が師範代をしているのは「千場(ちば)道場」というところで、金杉水道町に在り、大層な数の門弟を抱えていた。
看板と門構えを見上げて、八兵衛は「はあーっ」と、感嘆の声を上げた。

>八:思ったより随分立派なところだな。こんな凄いところで先生をしてるのか?
>熊:おいらも知らなかったよ。なんだか入り難(にく)いな。
>八:そうでもねえさ。お大名屋敷に比べたらちょろいもんさ。

八兵衛は構わず、ずんずん進んでいった。
が、掃き掃除をしていた2人の若者に、直ぐに、咎(とが)められた。

>男1:こら、町人がずかずかと入り込むような場所ではないぞ。
>男2:下足売りとかそういうことであれば、裏へ回るが良い。
>八:あいや、そんなことじゃあねえんですよ。ちょいと・・・
>男1:ちょいとなんだ? 押し込みの下見か?
>八:滅相もねえ。おいらたちはただ・・・
>男2:盗賊の類(たぐい)でないとしたら、なんだ? 大道(だいどう)踊りでも見せて小銭をせしめようとでもいうのか?
>八:腹踊りくらいならできやすが、そんなことじゃねえんですよ。見とくんなさいな、半纏に書いてある通り、おいらたちは大工ですよ、大工。
>男1:して? その大工たちがこの名立たる「千場道場」になんの用件があるというのだ。
>八:師範代の猪ノ吉さんに話があって・・・
>男2:おまえらごとき大工に、師範代がお会いになる筈はなかろう。とっとと失せるが良い。

すったもんだしているところに、「まあ良いからこちらへお連れしなさい」という声が掛かった。
初老の男が、膝に猫を抱いて、縁側に座っていた。温厚そうな面立ちだった。
若い男たちはどうしたものかと顔を見合わせたが、結局、八兵衛たちを縁側の傍まで、迷い犬でも引き立てるようにして、連れて行った。

>千:ようこそお出でなさったな。わたしが千場です。
>八:ってことは、ここの大先生様で?
>千:そんなご立派なものじゃあない。師範といえば聞こえは良いが、只の隠居の身分だよ。・・・それで? どんな用かね?
>八:話せば長くなりやすが、市毛大路郎様というお武家様がいらしてですね・・・
>熊:そんなことは後でゆっくり話せば良いの。あの、申し遅れやしたが、おいらは、熊五郎という大工なんですが、猪ノ吉さんとは昔馴染みでして。
>千:おおそうかい、婿殿のお友達かね。もうちょっと待ってなさい。間もなく一休みの時間になるから。・・・あれは好い男だ。腕は立つし年寄りの扱い方も心得ておる。
>熊:そんなお年には見えませんが。
>八:それもそうなんですが、大先生はなんで縁側なんかで猫を抱いていなさるんですか?
>千:いやあ、稽古の方は任せっ切りで構わんからな。今日みたいな小春日和(こはるびより)は縁側で舟を漕いでるに限るよ。
>八:舟なんかどこにもねえんですけど。
>千:ものの喩えだよ。こっくりこっくりと頭を前後に揺すってだな・・・
>八:するってえと、皆が痛(いて)え思いをしてるってときに、大先生は日向で居眠りですかい? これから道場破りが来るってえのに。

>千:なんですと? 道場破り? この千場道場にかね?
>八:そうなんですよ。早けりゃ明日にでも来やすぜ。
>千:ほほう。面白いことを言い出すお人がいらっしゃるね。お知り合いのお人かな?
>八:へい。昨夜知りあったばっかりなんでやすがね。
>千:こてんぱんにしちゃっても良いのかな?
>八:そんなこと言いやすが、大先生ってお強いんですかい?
>千:はっは。これだけの門弟を抱えている道場主に「お強いんですか」はなかろう。こんなところで油を売ってはいるが、直心影流(じきしんかげりゅう)の中でも評価されている道場なんだよ。
>八:なんですかそれ。おいらたちは鋏(やっとこ)は使いやすがやっとうの方はからっきしですんで。
>千:素人でも「新陰流」くらいは聞いたことがあろう? 江戸の武士の半分は新陰流、もう半分は一刀流だと言っても過言(かごん)ではない。わたしの生国の上総一宮(かずさいちのみや)藩も直心影流だ。
>八:そんな難しい話は分かりませんが、強いんなら良いんですよ。更に、お弟子さんで、腕が立って見目が良い人が居たら尚のこと良いんですけどね。
>千:剣術に見目は関係なかろう?
>八:それが大有りなんですよ。
>千:どういう訳があるんだい? 婿殿に話す前に、ちょいと教えちゃあ呉れんか?

そこで、田原の父つぁんが聞き入れてしまったという話の顛末(てんまつ)を話して聞かせた。
千場師範は、「ほほう」と言ってにっこりすると、先程の若い2人を呼び寄せた。

>千:これ、弓山、中谷。ちょっとこっちへ来なさい。
>弓:は。矢張り摘(つま)み出しますか?
>千:それには及ばぬ。こちらの方々は師範代の友人でいらっしゃる。大事な話を持ってきてくださった。
>中:それでは、直ぐ取り次ぎましょう。
>千:まあ、そう慌てなさんな。その前に、銚子を呼んできては呉れぬか?
>中:竜之介殿をでございますか?
>千:わたしが呼んでいると伝えなさい。師範代には、一先ず、内緒にしておいて構わん。

弓山と中谷は、不思議そうに首を傾げながらも、言われた儘(まま)に、銚子竜之介を呼びに行った。

>八:大先生。その銚子っていうお人をどうなさるんで?
>千:年は若いんだが、とんでもなく強い。もしかすると、猪ノ吉とわたしが束になって掛かっても敵わないかも知れん。
>熊:道場の有望株じゃねえですか。もしそんな人がやられちまったら。大変ですよ。
>千:はっは。負けやせんよ。3回合もすれば相手の太刀筋と間合いを読み切ってしまう。一種の天才だな。
>熊:ですが、嫁とかそういうことになっちまうと、好き嫌いというものもありましょうし・・・

>千:それはそうだ。こればっかりはなんともならんな。しかし、なんとかしてしまうことはできる。
>八:大先生が命令しちまえばってことでやすか?
>熊:そいつは横暴ってもんですぜ。

>千:真逆(まさか)。わたしだって、そんな無理強いが通るとは思ってはいないよ。だがね、偶然なんだがね、市毛さんとはお手合わせしたことがあるんだよ。それに、市毛さんの妻女やそのお父上とも、一度だけ顔を合わせたことがある。
>八:ご存知だったんですか?
>千:あちらはわたしが何者なのかは知らんだろうがね。
>熊:いったい何があったんですか?
>千:別に大したことじゃない。もう25年も前の話だしね。若気(わかげ)の至りというやつさ。・・・同じ女子(おなご)を取り合ったのだよ。
>熊:へ? 大したことじゃねえですか。
>千:逃げちまったのだよ。その頃わたしは別の女子を好いていたからね。
>熊:じゃあ、なんでお手合わせなんかしたんですか?
>千:腕試ししたかっただけさ。主旨も良く知らずに飛び入りしてしまったんだ。
>八:それで? 勝ったんでやすね?
>千:確かに先に1本取ったが、それで十分だったから、逃げた。決勝戦が行われている頃には、ここで、こんな風に昼寝と洒落(しゃれ)込んでいたよ。
>八:するってえと、かれこれ25年もここで舟を漕いでなさるんですかい? ほんとに海に出てりゃ、お伊勢様くらいなら、もう10遍もお参りしてるでしょうにねえ。

つづく