小郡 まちかど見てある記


小郡民報 連載中
山口県吉敷郡
小郡町のまちかどにある
さまざまな遺跡、珍しいものを掲載しています。


このシリーズは
小郡百科クラブ・大内文化探訪会の有志による「ふるさと小郡探訪」などを
参考にさせていただいております。


 能美金兵衛の狛犬
            (東津・厳島神社) 


 能美家は東津の旧家で、今も厳鳥神社(猿宮様)には能美金兵衛が献納した高さ2メートル余もある狛犬一対が座っています。金兵衛は人望の厚かった人で文久3年(1863) 小郡の郷勇隊編成にあたっては秋本新蔵とともに尽力しました。
 明治3年、脱隊兵の一部隊が防衛上新町と東津市街を焼き払う計画を立てたことを知り老躯をおして嘆願、これを阻止しました。西郷・勝の江戸無血開城に似た話です。
 明治11年没。73才


孝子・太郎吉の碑
         (仁保津・児童館横)


 仁保津上の佐々木家の先祖で、林勇蔵翁の胸像のそばに碑がある。子供のころから父母によく孝養をつくし、病弱の弟たちの世話をよくした。
 しかも自分より貧しい人たちには救いの手をさしのべるなど、その善行は藩内に聞こえ、25回も表彰されたという。終生妻をめとらず、養子を迎えて家を継がせた。万延元年(1860年)、81才で没。
 碑は明治2年、林勇蔵らの発起で建立された。
 


南向き親子地蔵
           (新町東下)


 柳井田橋から四十八瀬川を少し上ったところ。もと50メートル川下にあったのを昭和46年、川改修のさいに現地に移転。そのとき子地蔵も建立されました。
 側の石碑に「北向きの親子地蔵南向く/ふるさとこいし/薩摩見らるる」と刻まれています。珍しい文言ですが、その由来はわかりません。
 お参りする人が多く、今年も8月24日、ご接待が行われました。 


八方原の朝市


 今では小郡唯一の穀倉地帯となっている八方原。ここで五月から毎週土曜日の朝市が始まっています。
 地元でとれた新鮮な野菜や花が中心で、ナス、カボチャ、ネギなど、どれぞれの生産者の名がつけられています。値段も安く、タマコ1パックで百円。
 道路沿いに朝市用の小屋掛けも出来ており、希望者にはお茶やコーヒーの接待もあります。
 朝七時半ごろから、一度のぞいて見られたら・・・。


ある日の昭和通り


 SL貴婦人号が昭和通りの踏切にさしかかる・・・と見えますが、実はこれ入れ換え作業中で停止しているところ。踏切の両側には延々と車の列がつながっています。
 やがて作業を終えたSLはゆっくりと駅の方ヘパックします。
 国道をふさぐ機関車。かつては鉄道の主役でしたが、今は山口線の観光の目玉。
 こういう光景が見られるのも交通の要衝、国鉄の町であった小郡町ならではのことかも。


信光寺のギンモクセイ
               (津市上)

 信光寺の大伽藍の前に立つギンモクセイ。キンモクセイは多いがギンは珍しいといわれ、秋に白い花が咲き実がなるということです。樹は相当に古く幹が苔むすなど風格があります。
 信光寺は480年の歴史をもち開基・西了は伊予の人。代々・河野氏を名乗りいわゆる「河野水軍」の末裔とされる家柄です。
 寺には弘法大師作と伝えられる地蔵菩薩像や赤松連城垪の梵鐘銘文など宝物、文化財がたくさんおさめられています。


藩主巡覧記念碑


  仁保津の山頂に位置し、そのために日陰になっていた記念碑でしたが、林勇蔵没後百年記念顕彰会の人たちが集めた浄財によって光があてられました。
 林勇蔵が掘削した椎ノ木峠トンネルによって開発された新田。文久3年(1863年)5月、藩主敬親公がこの墾田を訪ね、ため池と耕地を見聞したことを記念して建立されたものです。
 記念碑には、この栄光を忘れずに村人よ。耕作に励みましょう。と刻まれています。


ノースロップの森


 この森は、ノースロップ博士の功続をたたえ、学校造林の推進を自的とした兵庫県の大山林家・久我俊一氏の寄付で、山口農業高等学校の生徒およぴ教職員によって昭和53年に造成されました。
 国道9号線から農校に向かう入口付近に造成されており、七十種類余の樹木が植えられています。
 呼称は、久我氏が最も尊敬する米国の教育者で日米両国における緑化運動普及の功績者であるB・G・ノースロップ博士(1817〜1897)からとったものです。日本にも来日し日本緑化の恩人といわれています。


柳井田風景図


 柳井田区年間最大のイベント「ワイワイ柳井田まつり」の文化会場に展示された、手作りの絵図。
 時代は大正15年から昭和10年を再現。当時のまち並みや地形、生活の様子などをあたたかいタッチで表現しています。絵図は柳井田区在住の山内素彦さんが平成9年に描かれたものです。
 子どもや若い人たちに当時の柳井田区を知ってもらおうと、当時を知るお年寄りが集まって作成しました。
 皆さんも一度、絵図をのぞいて当時にタイムスリップしてみませんか。


白髭社


 新丁、小郡饅頭の金子老舗の工場脇に白髭(しらひげ)社の小石祀がある。
 白髭明神は滋賀県の琵琶湖畔の崎に鎮座する白髭神社の祭神で、長寿・祝福の神として崇敬を集めている。
 大火事の時、金子家の直前まで火が来た折り急に風が変わり、類焼をまぬがれた。これは白髭様のお陰だと、毎年秋に中領八幡の宮司を呼びお祓いをしている。
 また藩政時代、緊急な情報を速達するため火煙を立てる狼煙場であった場所でもあり、御茶屋との連格を密にしていた。


小郡高女跡


 新丁ふれあいセンター近くにある小郡高等女学校の跡。同校は大正9年(1920年)創立され、小郡町ほか11ヶ村の共同経営として組合立小郡実料高等女学校と称して大正15年まで存続しました。
 昭和2年(1927年)に高等女学校令にもとづく四年制の高等女学校に昇格し、吉敷郡南部の女子教育に大きな役割を果たしました。
 太平洋戦争に入り、学校の統廃合が相つぎ、本校も昭和19年(1944年)閉鎖されることになりました。


一里塚


 元橋・大聖院の下にこの一里塚が立っています。
 この石碑を横切る県道は昔の街道で山陽道でした。
 この山陽道は、現在から400年前に豊臣秀吉が朝鮮征伐の際つくったものです。
 この石碑には「安芸境小瀬川まで二十二里、赤間関まで十四里」と刻まれており、当時の旅人の思いが伝わってきます。
 小郡町は古くから地形に恵まれ交通の要衝として栄え、現在の津市、田町、新丁あたりは旧山陽道沿いで、元橋には船で渡っていました。


秋本新蔵屋敷跡


 東津橋手前の用水路にそって並ぺられた石垣に屋敷の面影を見ることが出来ます。
 秋本新蔵は、東津出身の庄屋格で、農業のほかに醤油・呉服商を手広く経営していました。しかし幕末には、宰判内屈指の尊皇討幕派として奔走し、諸国の動向を探るため、自宅に宿泊所を設け、有志者を宿泊させていました。
 また新蔵は、下郷村内の強壮な者をもって東津隊(150人)を組織、自宅に撃剣道場を建て、武器を提供していました。


品川神社


「オヤ、こんなところにお宮があった」。長谷の県農協敷地にある「品川神社」。
 祀られているのは品川弥二郎。松陰神社、大村神社、木戸神社などと同様、明治維新での功績を称えたもの。
 創建は比較的新しく昭和43年。これが農協によって建てられたのは品川が維新後、農商務大臣などを歴任、ドイツにも公使として赴き、協同組合の草分け的提唱者となったからです。
 神になった品川は、いまの農業をどう見ているだろうか。


黄幡社(おうばんしゃ)
                    (矢足)


 矢足、其中庵の登り口にあります。
 このいわれは、山内資彦さん(柳井田)の創作童話″黄ハダと「おうばさま」″に描かれています。
 昔、海が入り込んで「津の市」といわれる港のあるころ、心やさしい猟師が仙人から悟されて猟師をやめ、いただいた「黄ハダ」という木の種によって村が栄えた。仙人の恩を忘れまいと建てたのが黄幡社という童話です。
 今も毎年12月8日には付近の人たちが祭りをして、山を大切にしています。


雪の四十八瀬川


 14日夜半から16日にかけて降りつづいた雪。
 小郡町での積雪は公式発表がなかったのでわかりませんが、ある町職員が計ったところによると、10センチメートルは超えていたとのことです。
 泉福寺橋から見た雪の四十八瀬川です。なんと川の表面には薄い氷が張っています。めったに見られない光景です。真っ白な雪におおわれた川原のスキ間を流れる四十八瀬川の姿は、思わず田舎の冬景色を想起させ、自然豊かな小郡町を再認識させられます。


山上社
             (仁保津下)


 芸術短大敷地の奥の山麓に石を積み上げた珍しい形の社があります。前に鳥居がありますが、これは神仏混淆(こんこう)の名残りで、実態的には紀伊山脈(奈良県)の主峰山上ヶ岳にある龍泉寺の分霊を祀ったものです。
 山上ヶ岳は役(えん)の行者によって開かれた修験道発祥の地といわれ、日本における山岳信仰の中心になったところ。
 新町の19名が講をくみ、毎年5月の第二日曜にお祭りを行っています。


今井六郎墓
               (元橋)

 急斜面の元橋墓地の八合目あたり、まことに簡素な墓石がひっそりと建っています。風化した表面をよく見ると、やっと今井六郎と読みとることができます。
 今井六郎は維新当時の諸隊の一つ、鋭武隊に所属した兵士で、もともと東津の農民の出身。その名が残ったのは、明治3年のいわゆる脱隊事件に反乱兵の側で参加したことから。
 維新戦争に勝利した長州諸隊は次つぎに帰ってきましたが、そこに待っていたのは冷たいリストラの通告でした。
 兵士の多くが反乱を起こし、小郡がその激戦地となりました。
 結局、反乱は鎮圧され、今井六郎も捕らえられ、明治3年10月6日、厚狭郡妻崎で斬首されました。享年31才。


淋洸堰
           (椹野川)


 柳井田の堤防から見える淋洸堰は全長137メートル、取水口は東に1ヶ所、西に2ヶ所あり、それぞれ用水路で名田島の開作500ヘクタール、小郡、嘉川の開作200ヘクタールに水を供給してきました。
 歴史は古く、江戸期の初めごろ時の代官、東條九郎衛門によって築造されました。
 その後、明治の椹野川大改修にあたり林勇蔵が水位の調整をふくめて改築を行い、さらに一昨年転倒板故障のため5億8000万円を投じて修復が行われました。


三原屋本陣跡
                 (南本町)


 文久3年(1863)に起こった幕府使節殺害事件の現場で現吉南信用金庫本店前におかれた説明板です。
 この事件は、長州藩が馬関海峡で外国船を砲撃したのは行きすぎだとして幕府が派遣した詰問使中根市之丞らが、ここ三原屋本陣に泊まっていたところを奇兵隊士らが襲ったもの。中根はこのときルスをして難を逃れましたが、随員の鈴木八五郎ら3名が暗殺されました。中根も翌々日、中関沖で殺害。
 鈴木ら3名の墓は山手下に建てられています。


二宮金次郎像
                      (小郡小)


 小郡小学校に建つ二宮金次郎の石像。後の二宮尊徳で江戸時代の後期、農村の開拓や復興に努めた農政家として知られる。
 幼い頃から働きながらよく勉強もしたとして戦前の修身教科書には欠かせぬ存在だった。教育勅語を奉ずる文部省が設置を指導したかに見えるが、実際には昭和の初めごろから愛知県の石材屋が全国的にセールスしたものらしい。
 背景には深刻な不況もあった。「勤倹力行」を教えた金次郎像を見て、今の子どもはどう思うだろう。


山頭火立像
         (小郡駅新幹線口)

 種田山頭火の句碑は町内だけで20ほどもあるが、県外から来た人でまず眼につくのは新幹線□に建つ立像であろう。
 これは山口中央ライオンズクラブが結成20周年を記念し、平成3年3月24日に除幕されたもの。
 まったく
  雲がない
   笠をぬぎ
 山頭火が小郡矢足の其中庵主になったのは昭和7年51歳のとき。当時の小郡駅付近はまったくの泥田ばかり。今の変貌を見たらどんな句をつくるだろうか。


カモ遊ぶ
           (四十八瀬川)


 水ぬるみカモの動きもいちだんとよくなったようにみえます。放流してまもなく8年に。何回もの大水に姿が見えなくなっても、いつの間にか現れる。野生の生き物は強いなあと感心します。
 しかし残念ながら昨年オス一羽が行方不明になりました。そのかわり別のカモやカイツプリなどがやってきた柳井田橋から泉福寺橋あたりはにぎやかです。
 散歩がてら餌をやりにこられる人もあります。


秋本嘉之助墓
           (元橋墓地)


 秋本嘉之助は明治3年の脱隊事件に脱隊兵として参加した東津の人。
 鎮圧され罪により見島に流されたが後に許され、陸軍に入り日清戦争で戦病死した。陸軍大尉。
 嘉之肋は秋本新蔵の道場で鍛えた剣術家で、脱隊事件のさい鎮圧側の二刀流の侍と一騎打ちをし危ういところを勝ったというエピソードがある。
 墓は藪に覆われていたが近年東津の有志や年金者組合によって清掃された(一番左側・右は妻の墓)。


弁財天池
           (柏崎)


 柏崎には多くの神祠や仏跡があるがその一つが弁財天社。県農協ビルの下の能力(のうりき)というところの溜池の奥に小さな社がある。
 弁財天は七福神の一つとされる女神で音楽の神とも弁舌の神ともいわれている。天明2年の鳥居があり創建は相当に古いと旧町史にある。
 地元の人の信仰は厚く、いまも十数軒の人が毎日もち回りで常夜灯にロウソクをともしているということである。


栄山公園の桜


 いまさら説明するまでもなく栄山公園は小郡で唯一ともいってよい桜の名所。高い建物の少なかった昔は遠くからも咲き誇る姿が眺められた。
 傾斜地が多いが、うまく場所をとって賑やかに花見の宴をひらくグループも多かった。
 公園は大正年間に町内有志によって整備され、秋にはもみじも美しい。写真はそのもみじ谷付近で、友沢聖志の「あたらしき傘のにほひや花の雨」の句碑が建っている。


古林家の墓
            (津市上)


 信光寺墓地内にある古林家歴代の墓。
 古林家は小郡町の名家・地主・大資産家で小郡の発展に貢献した。西岐波出身だが四代重治郎は秋本新蔵の次男、五代兵吉は仁保津林秀一の弟で、何れも下郷村戸長を勤めた。
 六代目の新治は小郡町長、小郡銀行頭取、衆議院議員などを歴任。この間、小郡農学校の移設、上水道の敷設、機関区の誘致など大きな業績を残した。
 邸宅は津市の元寿座のところにあった。


金比羅・妙見・秋葉大権現
           (柏崎)


 原住宅上の墓地をさらに上がると三神様が並んでいる。左が金比羅大権現で海上の守護神。真中は妙見菩薩で国土を守り人の福寿を増すといわれる。
 右が秋葉大権現。防火、鎮火の神様で昔からひろく農村社会で信仰されていたようだ。
 拍崎のある班で毎年4月上旬にお祭りをするが、そのさい嘉川の浄福寺の住職がお経を読み、かしわ手をうつという。神仏混淆の名残りだそうで、こういう風習は珍しく貴重である。


ぼたんのふすま絵
     (新町東上・海善寺)


 桜につづいてぼたんの季節。ぼたんといえば、海善寺のふすま絵が見事。ご本尊をはさんで左右6枚ずつの大作である。
 描いたのは日本画家の葛原輝(くずはらてる)さん。新町東出身の著名な実業家・葛原猪平氏の次女で大正4年生まれ。戦前は木村荘八、戦後は伊東深水に学び、舞子や花を得意とした。
 ぼたんの絵は海善寺が最初で1964年に右側(写真)が描かれ、80年までに完成した。
 いまなお鎌倉市にご健在で、このほど文化資料館が3点のシベリアシリーズを購入。秋には特別展が開催されることになっている。


淡島様
              (長谷)


 祭神は少彦名命。女性の腰から下の病気に効能ありというので、昔は遊郭の女性もよく参詣していたそうだ。今でもお参りの人が絶えず、神様であって線香をあげるというところは、やはり神仏混淆の名残りか。
 8月13日がお祭りで、子ども角力や盆踊りが盛大に行われる。明治のころまでは巨大な松があったと旧町史に記されている。
 今はすぐ後ろをバイパスの道路が建設されている。
 淡島様は柳井田にもあり、やはりそのお祭りとして盆踊りが行われている。


日限地蔵
                    (津市下・光明寺)


 二体あったうちの一体で高さは約1メートル。かなり古びていたものを平成元年、本堂改築のさい合わせて修復され、極彩色の美しい姿に生まれ変わった。本堂に安置されている。
 旧町史によると天保年間(1834〜)に尾崎に相当なお堂があり、一時山口へ移転されたが明治25年に元の場所に戻り、さらに同42年に光明寺に祀られるようになった。
 地蔵菩薩は衆生を救うために必ず旅姿で全世界を行脚しているという。


元若林製糸の守衛所
          (中央通り)


 町の真ん中に日本有数の製糸工場があり、その一部が昔の姿のまま残っている。中央通りの旧丸信本部跡。
 若林製糸は戦前の1926年(昭和11年)操業を開始、まゆから生糸を製造した。これに必要な水が小郡は豊かで、四十八瀬川の柳井田側土堤に大きな導水管が設けられていた。
 一時は約200人が働いていたというが、1952年(昭和27年)原料不足から廃業した。
 今も古びた守衛所には屋根までツタがからみついている。


平景清祠
            (東津)


 東津の猿宮様境内にある小さな祠。ここにある平景清の顔貌を接写したもの。
 景清は平安末期の武将で体躯巨大、豪力の持ち主として知られた。源氏に敗れた平家の落人の象徴的な存在で、源頼朝を37度にわたって襲撃したといわれる。
 のち自首して厳重な牢獄につながれたが牢破りをした。そして頼朝への復讐心を捨てるため、自ら眼をくり抜いた。写真はその様を示す。眼病平癒の信仰があり、謡曲などに取り上げられた伝承の人。
 秋吉にも景清がひそんだという景清洞がある。


十王地蔵尊
          (仁保津・多聞寺)


 仁保津上の高台にある多聞寺に安置している十王地蔵尊。どっしり重厚な感じの仏像。裏に朱筆で応永33年作者順阿などと記してあるので1436年、575年前のものか。
 当時、真言宗永福寺と称していたが、小鯖禅昌寺から住職が来て多聞寺と改めた。文禄年中、小早川隆景が秀吉の朝鮮出兵にさいして参詣、軍装を映して見たという姿見の池が残っているが、今は道路が出来て小さく草の生い茂ったままになっている。
 本寺も長い歴史にもまれながら今日に至っている。


堀家の鬼瓦
            (津市上)


 写真は津市上の日本キリスト教団の教会に保存してあった鬼瓦で、掘真五郎で有名な堀家のもの。
 堀家は元もと大正上の向土(むかいど)というところ(現ヤナイグループ)にあったが、後に津市上に移転。戦後取り壊され、後に教会が建った。
 その際、堀家の門の紋所は町が収集したが、鬼瓦は残されていた。大内菱と飾り藤の紋が一致する。
 これを知らせて下さったのは教会の隣の坪井豊子さんで、坪井家も先祖が小郡の教育に貢献した旧家である。


さい様
              (柏崎)


 柏崎の縄田定氏方すぐそばの山林の中にある石の祠で賽(さい)の神という。御神体はすさのおの命といわれ、いわば交通安全の神様。「ごほんごほん」のせきにも効能があるということでそのときはメダカをとってあげていたという。
 昔はやしろらしきものがあり、12軒の組内で集まり農作業のことなど相談していた。竹の一節に酒を入れ、縄でぶらさげお参りするならわしもあった。
 このさい様の前を最も古い上道という街道が通っていたということである。


タキギに囲まれた郵便受け
             (鍛冶畑)


 鍛冶畑で見かけた風景。タキギに囲まれた郵便受けは現に使われているもの。
 風呂などをわかすのに天気のよい日は温熱器を使うが、ふだんは昔ながらにタキギが主役。軒下いっぱいに積み上げられている。
 環境をこわすようなエネルギーは使わない。かつては名田島あたりから馬車でタキギを買いに来ていた。それもあって月に一度は道つくりをするのが地区の共同作業であった。
 小郡町にもこういうところが残っているとは懐かしく心安まるものがある。


もう一本あった四十八瀬川
              (金池)


 四十八瀬川といえば上下郷をへだてて椹野川に注ぐ清流のはず。ところが不思議なことに小郡駅近くの金池にかかる橋の欄干に「四十八瀬川」と刻み込まれている。(写真)
 この川はいわゆる都市排水路が下ったところ、長谷川と合流し駅南へと流れている。
 役場の古参も首をかしげたが、調ぺるうち昔の住宅地図には四十八瀬川と書かれていることが分かった。
 元を辿れば泉福寺橋のところで四十八瀬川から取水分流していることからこの名が付いたのであろう。


   


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