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風の翼

第八章 < 真実の瞳 >     第五十四話 < 探し人 >




 男は走っていた。
 気配を殺し、息を殺し、高まる期待を殺して走っていた。
 草が生い茂った森を駆け抜けているというのにほとんど音がしないのは、彼の身のこなしが常人のそれとは違っているからだ。
 男は全てを押し殺して走っていた。

 やっと見つけた。
 これで自分は救われる。
 そしてようやく――全てが、報われるのだ。

 男はひときわ強く地を蹴った。
 か細い鈴のような音が響き、それが消えるより早く男の姿は消えていた。

 ◇◆◇

 エアルマは、ジオン山岳の北方にある小さな町である。
 辺境の村であるサバドよりは大きいが、砂漠の旅人で賑わうレプタや港町として栄えているウォーブルに比べると、格段に見劣りのする町だ。
 しかしエアルマは普通の町とも様子が違っていた。
 まず、町の入り口にある木製の物見台。続いて、大人の背丈ほどの高さまで積み上げられた石の防壁だ。この二つは戦に備えた砦などが持つはずのもので、首都から遠く離れた田舎町には不釣合いだった。
 街道を辿ってエアルマにたどり着いたリリアは、この物々しい町の入り口を見て歩みが遅くなってしまった。
 なにかあったのだろうか。
 リリアは思わず眉をしかめた。
 日差しが強かったので目深にフードを被っていたのだが、一瞬その暑ささえも忘れた。
 そして、無意識の内に背に負った荷物を担ぎなおしていた。そこにはレイから預かった剣がある。ファルが側にいない今、この剣がリリアを支えてくれるような気がしたのだ。
 ふと振り返っても視界に広がるのは道と森ばかりで、優しい目をしたドラゴンも寂しい目をした男も、そこに見えはしなかった。
 もう戻れない。
 リリアは意を決し、町に近づいていった。
 が、そんなリリアを笑うかのように、近づいてみればみるほど物々しい空気は薄れていった。
 遠くからは分からなかったのだが、塀はところどころ崩れ落ちていた。また大半が苔むしていて、手入れもされていない様子だ。入り口には扉があったが、長い間開け放しにされているらしく、口を開いたままの状態で蔓が巻いていた。扉はあっても見張りがいるわけでもなく、すんなりと中に入ることができた。
 リリアは立ち止まって物見台を見上げた。ここにも誰もいない。空に向って伸びる木の支柱は、長い年月を経て変色してしまっている。蜘蛛の巣だけが新しいままで、風に揺れていた。
 足元に視線を落とすと、白い花がいくつも咲いていた。
 思わずふっと笑みがこぼれる。
 それで緊張がとけた。
 この町で過去になにかあったのかもしれないが、今はその名残をとどめているだけのようだ。
 見れば扉の先はごく普通の町だった。通りを行き交う人々は自分の用事に忙しいようで、町の入り口で立ち止まっているリリアを気にもとめていない。
 暑さが戻ってくる。
 少し気負いすぎていたのかもしれないな、とリリアは自分をたしなめた。
 そして、町の賑わいに足を踏み入れた。



 昼になったばかりのエアルマは熱かったので、リリアはフードを被ったままで歩いた。それはほかの人々も同じようで、リリアと同じようにフードを被った女性もいれば、鍔の大きな帽子を被っている男性もいた。
 リリアはまず薬草を扱う店に立ち寄った。
 旅の途中で集めた薬草を売るためだ。ファルと出会った洞穴に生えていた草が意外と高く売れたので、リリアは嬉しくなってその分いい香茶を買った。
 当面の用事を終えたリリアは、町を探索してみることにした。
 歩けば歩くほど、エアルマはごく普通の町だということが分かってきた。
 町の外れで作られた野菜や果物が売られていたり、女たちが刺繍をほどこした織物が店先に並べられていたり、近くの森に住む獣の角や牙が装飾品に使われていたりと、他の町との大きな違いは見られない。
 つまり、特別な思い入れがなければ、そのまま通り過ぎてしまうような町なのだ。
 ウォーブルで出会った女性は、リリアに似た人を見たのはもう二十年も前のことだと言っていた。
 とすると、やみくもに歩いていても仕方がない。
 誰かに訊いてみるしかないだろう。
 しかしいざとなると、リリアは躊躇してしまい、声をかけられなかった。
 何人もの人見送り、いくつもの店の前を通り過ぎた。
 ここまで来て怖気づいている自分に、リリアは落胆した。
 すると急に荷物が重くなった気がして、はっとした。
 背を見ると、物言わぬ剣が自分を見ていた。

『父親に会って、どうする?』

 声が、甦る。
 あの時自分は何を話しただろう? 詳しいことは忘れてしまった。
 そんなことよりも、あの一言のほうがずっと重い。
 レイはそれ以上何も言わなかった。何も訊かなかった。でも側で話を聞いてくれた。
 たったそれだけのことが、どんなに嬉しかっただろう。
 でもそれも、もう彼には伝えられない。
 リリアは小さく息を吐いた。
 せめて、彼と出会ったことを大切にしようと思った。
 忘れろと言われても、忘れられない。忘れられるはずがない。
 出会わなければ良かったなんて言わない。言いたくない。
 共に過ごした時間は、嘘じゃないから。
 傷つけ合うことしかできなかったとしても、側にいるだけで、自分は救われたから――。
 そう思うのは、勝手過ぎるだろうか?
 そう思うことすら、自分には許されないのだろうか?



 考え込んでいても仕方がないので、リリアは気分を変えることにした。
 少し空腹だったのでひとまず何か食べることにして、一度来た道をゆっくりとした足どりで戻っていく。
 お店で何か聞けるかもしれないし、と誰にともなく言い訳をしながら、緑色の看板を掲げた小さな店の扉を開けた。
「いらっしゃい」
 若い男の声と涼しい空気が、リリアを迎えてくれた。
 十人も入れないほどの小さな店だった。長細いカウンターテーブルが一つと、二人で使う大きさのテーブルが二つ、あとは椅子が数脚あるだけだ。
 リリアはフードを取ってカウンターに座り、簡単な食事を頼んだ。
 短い髭を生やした店主らしい男のほかには誰もおらず、窓が小さいので薄暗かったが、落ち着いたいい店だった。
「お客さん、珍しい色の髪してますね」
 慣れた手つきで野菜を皿に盛りながら、店主が話しかけてきた。
「あ、はい。生まれつきなんです」
 急に話しかけられて少し驚いたが、店主の声が気さくだったので、リリアは気軽に答えることができた。
「へえー、そうなんですか」
 店主は旅人慣れしているらしく、そう言っただけで料理に向き直ったので、店の中は再び静かになった。
 さほど時間もかからず、リリアの前に料理が並べられた。
 煮込んだキノコのスープと、山菜のサラダ、そして麦のパンだ。
 決して少ない量ではなかったのだが、リリアはそれらを黙々と口に運び続けたので、食べ終わるのに大した時間はかからなかった。
 すると食べ終わるのを待っていたのか、店主が声をかけてきた。
「そういえば、聞いたことありますよ」
「え?」
 リリアは首を傾げた。
 思ったよりも食事がおいしかったのと、空腹が満たされたのとで、ずいぶん気分が落ち着いていたのだ。
 しかしそれはつかの間の休息だった。
「なんだったかな、うちのばーちゃんが言ってたんですけど、青い髪のなんとかってのが、昔この町にいたことがあるらしいですよ。もう十年以上も前の話だったかな……」
 リリアは思わず立ち上がりそうになった。
「そ、その話詳しく聞かせてもらえませんか?」
 すると店主は申し訳なさそうに、顔の前で手を振った。
「あー、すんません。自分ここの生まれじゃないもんで、詳しくは知らないんですよ。つい最近引っ越してきたばかりなんで」
「あ、そうなんですか……」
 肩を落としてリリアに気を使ってくれたのか、店主は優しく言葉を続けた。
「でも、その辺のじーちゃんばーちゃんに聞いたら分かると思いますよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 リリアは気を取り直して、町の人に話を聞いてみようと思った。
 その時だった。
「なあ、ちょっと隣いいか?」
 すぐ近くで声がしたのは。
 あまりに突然だったので、リリアは驚いて振り返った。
 いいも何も、すでに隣に座っている男がいた。
 いつの間に店に入ってきたのだろう。
 日に焼けた小麦色の肌をした、若い男だった。リリアよりは年上だろう。あちこちにはねた褐色の短い髪と活発そうな茶色の瞳が、彼の性格を表しているように見える。袖なしの服を着ていて、右の上腕には白い布が巻かれていた。布の厚さからして、怪我をしているわけでないようだ。とある国では手首に布を巻く習慣があると聞いたことがあるので、その類なのだろう。右の耳にはピアスが二つ並んでいて、少し動く度に揺れるのがリリアの目を惹いた。
「おっさん、キツイのあるかな?」
 男はリリアの返事を待たずに、店主に言った。元から返事を期待していなかったのかもしれない。
「昼間から元気ですね、お兄さん。ここの地酒は強いんで、それなんかどうです?」
 店主は笑いながら、リリアに話しかけたのと同じ口調で男に答えた。
「いいね。じゃそれで」
「はいよ」
 呆然とするリリアに、男は間髪を容れずに声をかけてくる。
「姉ちゃん、人探してんの?」
「あ……はい、そうです」
 気圧されながらリリアは頷いた。
「じゃ一緒。俺も探してるから」
 男は自分を指差し、歯を見せて笑った。
 日に焼けた頬に細い傷跡が走っていて、そこと歯だけが白く見えた。
 リリアは戸惑っていた。
 初対面なのに馴れ馴れしく話しかけられたからではない。男の笑顔にひどく違和感を覚えてしまって、その場を逃げ出したくなるほど居心地が悪かったからだ。
 エルムも最初に会った時リリアをからかって笑っていたが、この男のそれは全く別のものだった。エルムに笑われた時は、少し困った程度だった。その後は普通に話すことができた。しかし、この男は違う。物陰から狙われているような、見えない何かに観察されているような、嫌な感じがした。
「誰を、探してるんですか?」
 なんとか気を取り戻そうと、ゆっくりと言葉を返すリリアに、男はまた笑った。
「いや、人じゃないんだ」
 嫌な予感がした。
 聞きたくない、とリリアは思った。耳を塞いでしまいたかった。
「へえ、人じゃないなら何を探してるんですか?」
 すぐそこにいるはずの店主の声が、遠く聞えた。
 男は意味ありげに目を逸らし、店主から酒の入った杯を受け取った。
 小さな杯だった。
 リリアの視線はそれに釘付けになった。
 男は見せつけるようにゆっくりと酒を含んで飲み干し、大げさに息を吐き出した。
 そして、もう見つけたと言わんばかりの口調で言った。

「――ドラゴンだ」

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