やる気が出る!無料お試し漢字テキスト 

                  
                     加藤 暖彩(かとう のい)

「じゃあ、公園で待ってるからさ、早く来いよ」

「わかった」

小学校の帰り道、ボクは手を振ってユキオと別れた。塾へ行かない子供達が集まって、野球をする約束をしたのだ。ユキオんちは、共働きだからすぐ公園に行けるんだけど…。

ママはボクを塾へ行かせたくて、授業料を払うためにパートで働きたいみたい。でも、「家に居て欲しい」とパパは言っている。

ヘルメットをかぶり、両手に持ったハタで交通整理をしているおじさんに「こんにちは」とあいさつをし、電線工事をしている高所作業車の横を通ってボクの家に近づくと、道路に面した玄関の前をうろうろしている人がいた。黒いとんがった帽子に黒いマント、つえさえあればまるで魔法使いだ。男もボクに気づき、笑顔で

「おかえりなさい」

とあいさつをしてきた。だれかな?と思いながらも、

「ただいま」

とボクもあいさつして、玄関のドアを開けて一人で中へ入り、閉めようとすると閉まらない。外にはさっきの男がドアノブをしっかり握っていて、ずうずうしく入ってきた。

「おじゃましまーす。家の人はいるかな」

と、家の中を見回しているので、ぼくは急いでクツをぬぎすて、ダタダタッと足音をさせてママを探した。そして、奥の部屋のドアを開けると洗濯物をたたんでいるママを発見。

「あら、タカシお帰り。宿題やってから遊びに行きなさいよ」

「それよりママ、玄関に変な人が来てる」

それを聞いたママはあわてて玄関へ、ボクはママが居た奥の部屋のドアを少し開けてのぞいた。

「こんにちは、私はマホウシュッパンのものです。魔法使いが作ったテキストを売っています」

「変わった格好ですね。本当の魔法使いなの? ちょっと魔法を見せてくださいよ」

「すみません、私は普通の人間なので魔法は使えないんです。でも、イメージが大切ですから、このような格好をしています」

説明するのに邪魔なのか帽子を置いて、カバンからカタログを出して開き、ママに説明をしはじめた。マントの下は普通の白いシャツと紺のズボンだった。

「奥様、マホウシュッパンのテキストはぜったいに学力がアップします。魔法テキストで勉強すれば、学習塾に行かなくても家で勉強ができて、塾の月謝より安くすみますよ」

「なぜ魔法使いが、テキストを作ったの?」

「国がベンチャー企業育成のために、今まで存在を秘密にされていた魔法使いの国へ、協力を求めたのです。魔法使いの協力した最初の会社が、マホウシュッパンなのです」

「でも、テキストだと自分にやる気が無いと勉強しないでしょ、親がガミガミ言ってやっと宿題をやるくらいなのよ。その点、塾は勉強するように指導してくださるわ、クラスメートが勉強していると、『自分も勉強しなくちゃっ』という気にもなるし」

「そう、そこなんです。このテキストはやる気が出るんですよ。うちの娘も使っていまして、まじめにテキストをやってますよ」

「どんな風にやる気が出るのかしら…。それに、魔法で頭が良くなっても、魔法が解けたら元に戻ってしまうんじゃないの?」

「魔法で頭を良くするのではなく、魔法でやる気を出させるのです。どんな風にやる気が出るのか、説明しても分かってもらえないでしょう」

と、一冊の本をカバンの中から取り出した。

「この無料お試し漢字テキストを使って、息子さんのやる気が出るところを実際に見てください」

「まあ、無料なら…」

と言って、ママはテキストを受け取った。今すぐ買えとセールスマンが言わなかったのでほっとしたのか、さっきまでの親の敵と話しているようなママの声から、ご近所の奥様と話しているようなおだやかな声に変わった。

「まずテキストに、必ず自分で名前を書かせてください。そして、学校から家に帰ったら、一番にテキストを一日一ページ、必ず自分でやらせてください。そうしないと大変なことになりますよ。テキストが終わる頃にまた来ます」

セールスマンは自身満々の様子で、玄関から出て行った。ママは早速テキストをボクが居る部屋へ持ってきて、

「ここに名前を書いて」

と指さした。名前の記入欄の下には「マホウシュッパン」と印刷されていた。

ママの見ている前で名前をマジックで書き終えると、自分の部屋へ行きテキストの一ページ目を開いた。問題は大きな文字で「水道」と一問だけ。その下に「上のかん字の読みを書いてください」とある。一日ひとつの単語の読みを覚えるようだ。宿題でさえやりたくないのに、こんなのやる気にならないね。なにも書かずに勉強机の上へ放り投げ、バットとグローブを持って、ママに見つからないようにそっと家から出て公園へと急いだ。

 

太陽も沈み、玄関の戸を開けて「ただいま」と言って帰ってきたボクに気づいたママが、大声で叫んだ。

「タカシ、おふろの水が出ないのよ。汚れて帰ってくるお前のために、お風呂を沸かそうと思ったのに」

「今日はシャワーだけでいいや」

「シャワーの水も出ないわ」

と、怒って言った。トイレに晩ごはん。水が出ないと困ることばかり、ボクの大切な亀のすいそうの水もかえてあげられない。水が出なけりゃ水道じゃないよ。そうだ、テキストの漢字の問題、水道だった。そういえばあのセールスマンが、「大変なことになる」って言っていたのはこのことなんだ。急いで勉強机の所へ行き、テキストに「すいどう」と書いた。すると、ジュアーという音がキッチンのほうから聞こえてきた。

「水が出るようになったわ」

と、ママの大声も聞こえてきた。

 

次の日、学校から帰ると、真っ先にテキストを開いた。今日の問題は「電柱」こんなの簡単だ。今度は書かなくても、間違えても電気が使えないことはない。ボクの住んでいるところは駅の商店街をまっすぐつきぬけたところにあり、町の美しい住宅地推進モデル地区に選ばれていて、地下のケーブルから電気が来ている。そして、使われなくなった電柱が、ちょうど今日全部なくなるって話だ。ボクは、サラサッと書いて外へ飛び出た。

アレッ、少し前まで青空が見えていたのに…。今にも雨が降り出しそうな曇り空の下、ちょうど最後の電柱をクレーンで引っこ抜いているところだ。玄関で立ち止まり、バットとグローブを抱えて、野球へ行こうかやめようか迷いながら見ていた。今まで身近にあった物が無くなるのはさびしいな。クレーンは引っこ抜いた電柱を、トラックの荷台にゆっくり置いた。すると、空の雲がどんどん落ちてきて、スポンと雲が地上におおいかぶさった。まるで濃い霧の中にいるみたいだ。水っぽい空気に慣れてないからか、呼吸をすると苦しく感じた。怖くなって急いで家に入ると、雲が開いていた窓から家の中に入ってきていた。そして、バジャーと音をたてて雨を降らしはじめ、床に水たまりができた。こりゃ大変だ。ボクはあわてて、戸や窓を閉めて回った。ママは気が動転して、ただ走り回っているばかり。こんなおかしなことがおこるのは、あのテキストのしわざに違いない。急いで自分の部屋へ行き、テキストを開いてみると、電柱の読みを「てんちゅう」と間違えて書いてあった。すぐエンピツで点を二つ書きくわえると、家の中の雨音が止んだ。「てんちゅう」と書いたので、天の柱が無くなったということになって雲が落ちてきたんだ…。

 

三日目からはママと二人で、ただ読みを書くだけなのに長い時間をかけて、間違いが無いか辞書で調べ、何度も確認してテキストに答えを書いた。問題には日光、森林、風車などがあり、もし間違えたらどうなるんだろうと怖くなった。

 

やっかい物の漢字テキストが終わった次の日、あのセールスマンがやって来た。ボクはまた奥の部屋から、ドキドキしながらのぞいていた。ママ、もしかしてテキストを注文するのかな? 今までのボクとは別人になり、一所懸命テキストをやった自分の姿を思い出して心配になった。

「いかがでした『お試しテキスト』は?」

「お断りすることにしました」

「えっ、しっかりやる気が出ましたでしょ」

「ええ、十分過ぎるほど。でも、いらないものは、いらないの。タダでもいらないわ」

セールスマンはおかしいなという顔で、

「そうですか、また、テキストが欲しいと思われましたら、いつでもお気軽にお電話ください」

と言ってすんなり引き下がった。ママが断ってくれて良かった。これで平和な日々が戻ってくる。セールスマンが玄関から出て行くと、ママはボクのところへ来て、ニコッと笑ってこう言った。

「ちゃんと勉強しないと、マホウシュッパンのテキストを買うわよ」

それがママの口ぐせになった。