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戦地から来た2通の手紙

    その「萬栄丸」は、 門司に集結 して 「ヒ七五船団」という船団を組む事になりました。   

    これらの船はみな油槽船をはじめとして、軍需物資及び兵員などの輸送船で、陸軍徴傭船
であったり海

    軍徴傭船であったわけです。頭にヒとつくのは、門司・シンガポール間を結ぶ船団につく文字です。

    ミ○○船団等というのは、門司・ミリー間を航行する船団、というように暗号のような船団名がつけられ

    ています。七五という番号は日付順に振られているようです。「ヒ七五船団」に参加した輸送船の名前

     は次の通りでした。

「萬栄丸」           十九年十一月   八日雷撃により沈没         
雄鳳丸  十九年十一月二十七日雷撃により沈没
新東邦丸 二十年  六月  十五日空爆により沈没
せりあ丸 二十年  七月二十八日空爆により沈没
あまと丸  二十年  二月二十七日雷撃により沈没
良栄丸 二十年  三月    五日雷撃により沈没
西貢丸  十九年  九月  十八日雷撃により沈没
浅間丸  十九年十一月    一日雷撃により沈没
日栄丸 二十年  一月    六日雷撃により沈没
秋津洲 マニラ湾に沈んでる秋津州を目撃した人がいて
取材をしたいのだが詳しい資料が欲しい、何か
知らないかとあるマスコミの人に聞かれた事あ
りました。  

    そして敵潜水艦の攻撃から船団を守りながら航行してくれた護衛艦は

千珠               
 
三宅   
夕月 十九年十二月 十三日 沈没                
卯月 十九年十二月 十二日 沈没  
神鷹   十九年十一月 十七日 沈没 

    このうち神鷹は飛行機を搭載した空母で、船団を空からも守ってくれたんですね。

    当時シンガポール方面からの石油やゴム等は、どうしても安全に日本へ運ばなければならない大事な

     物資だったので、途中で撃沈されて日本まで運べなければ、戦争は続けられなくなる、国民生活は困

     窮してしまう、従って船団の護衛はとても重要な事だったので、こうして船団を組み、護衛艦をつけて、

     敵の攻撃を交わしながらの航行だったんです。

    船に対して直角に襲ってくる魚雷を船腹に受けると、たちまち爆発して船は沈没してしまうので、まとも

     に魚雷を受けないよう、常にジクザク運動を続けながら、しかも十六隻もの船が一団となって隊列を組

     み、お互いの衝突をさけなければならない航行だったようですね。

    「ヒ七十五船団」は、十九年九月八日、一一時、門司を出港しました。

    記録によると、その日伊万里港にも立ち寄った事になっています。

    そしていよいよ門司を発ち最初の寄港先である高雄(台湾)に向かって航行が開始されました。

    早速九月十一日朝九時、敵潜水艦が現れましたが、護衛艦神鷹の飛行機と、夕月が共同作戦を展開して、

     攻撃してくれました。

    この様に常にこの航路には、アメリカ軍の優秀な潜水艦がたくさんひそんでいて、一日たりとも安心して航海

     を続ける事は出来ませんでした。

    九月十四日零時、高雄に着くまでずっと、対潜攻撃を繰り返しながらの航行でした。

    この船団は、すべての船がシンガポールへ行くわけではなく、途中船団から離れマニラ港へ向

    かった西貢丸は、九月十八日一〇時四八分、マニラ湾口を目前にして、被雷沈没しました。

    この時の西貢丸は、機雷七百個、爆雷百個を搭載、これは潜水艦が近づいて来たら、爆雷を投下して、威嚇

     するという自衛の為だったそうですが、全然役に立たなかった、探知能力が全然なかったという事でしょう。

     殆んどの船がこういう目に合っています。

    又途中から船団に加わった船

       大邦丸                  
  富士山丸   
  黒潮丸 二十年 一月二十一日空爆により沈没  
護衛艦 第二十八号海防艦  
   
  倉橋  

    上記の船が一緒にシンガポールを目指す事になりました。航行中の敵は潜水艦ばかりでは なくこの船団は

     シンガポールに着くまでに、仲間の船の故障には相当悩まされたようです。

    高雄出港時、あまと丸の機関故障が治らず、そのまま残しての出港。

    雄鳳丸の機関故障による脱落。   

    九月十六日天候不良の為視界が狭くなり旗艦千珠の、舵機故障によるせりあ丸との接触、隊列の乱れ。

    九月十八日せりあ丸の舵機故障により、船団に加わった富士山丸と接触。            

     九月十九日から二十日にかけて黒潮丸、大邦丸、日栄丸、富士山丸、空母神鷹が相次いで舵機、機関の

    故障。

    そんな中で、航行中の「萬栄丸」の故障の記録は全くありませんでしたよ。

    このような困難な航行の末、やっと九月二十二日夕方四時、シンガポールに到着しました。

    数多い船団の中でもこのように、次々と故障を起こした船団は珍しく、操船する者にとって頭痛の種であった

    ろうと、記録に書いてありますよ。

    けれどもマニラ湾で撃沈された西貢丸を除いて、どの船も撃沈されなかったのは、敵の潜水艦は、往路の空船

     は撃沈しても効果がないので見逃しておいて、物資や増強兵員を載せた船だけを、確実に狙って攻撃したのだ

     そうですから、何とか目的地まで無事に行けたと言う事の様ですよ。

    そうそう、この航海中にあなたは、母に宛てて手紙を書いてくれましたね。

    私の想像では台湾の高雄から投函したのじゃないかと思います。

    次の手紙はその一部です。

 母宛てに     投函年月日記載なし                                    

海上生活の第一報を送る。

内地もぼつぼつ秋風が身にしみる頃だろう。

明けても暮れても大海の最只中、今日は何日頃やら又何時頃この便りがお前の元に届く事

やら計り知れないのだが、やっぱり海上生活はいいものだ。 

何者にも行く手をさえぎるものもなく油を流した様な海面を、或は怒涛逆巻く暴風雨を乗り切って

進む海上生活は真に男の生甲斐を感ずるよ。 長年海に鍛えた我々はやっぱり海が恋しい、

限りない満足を感ずる。その後元気益々旺盛大いに奮闘致して居る。

変わった事と言えば鼻の下の髭が大分伸びた位のことだろう。

あまり前置きが長くなったが、佐世保の自宅はどうかね。

  無事片付いたこととは思うが、お前が何時も恋しがっていた里に帰りついて誰ることなく大いに     

手足を伸ばしている事だろうと想像して苦笑している。美恵子のその後の状況はいかが。

顔の腫物快くなったことと思うが、この便りが着く頃には一人でヨチヨチアンヨしている事だらう。

御母上様始め、御祖父様、御祖母様、妹達にも呉れぐれもお前から宜しく。尚隣近所の方にも。

お前も海軍々人の妻であるという事を充分覚悟してどんな事があっても立派に善処する様に。

第一報終わり。

シト枝 様     佐世保気付 萬栄丸   原 政助

    内地もぼつぼつ秋風が身にしみる頃だろう」という所から考えて、高雄到着日の、九月十四日頃投函したも

     のと思われます。

    途中潜水艦の出没に胆を冷やしながらの航海だったというのに、随分余裕のある航海の様子が書かれてい

     ますね。

    他の船団の航海記録等を見ると、日に何回となく「敵潜発見!戦闘配置用意!」の号令に休む間もなく、ゆっ

     くり食事を取る時間もなく、くたくたに疲れる航海の日々であった・・・・・とあります。

    最後の一行に「どんな事があっても立派に善処するように」とある事がそれを思わせます。

    但し、この手紙にあるように、海が好きで本当に限りない満足を感じていたのなら、せめてものなぐさめであり、

     あなたの死に 一筋の光明を見る事が出来ますからね。

    満一歳の私は、当時赤ちゃんによくある顔のおできがひどかったらしいので、その事を気使ってくれているんですね。  

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