6.岩田さん達の事  TOPへ
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佐賀県鳥栖市飯田町
のお宮に建立されている慰霊碑
飯田部落の戦死者19名の 名前が刻まれている
高尾沖三さん達の計らいで建立されたそうである。

    
    ここで度々出て来て下さる岩田久視さんについて、やっぱり書いておく事にします。  

    昭和十八年一月、佐世保第一海兵団に入団された岩田さんを、最初にお迎えしてお世話を

    させて頂いたのが、当時教班長だったあなただったんだそうですね。

    岩田さんはあなたの事、五十年後の今日までずっと覚えていて下さり、いつか一度あなたの

    お墓参りをしたいと思いながら生きてきて下さった方です。

    あなたの事について調べ始めた時、戦争について何の知識もなく、理解出来ない事だらけ

    だった私が、最初に海軍の事等をお聞きしたのが岩田さんなのですよ。 

    私の突然の手紙に、便箋十四枚に達筆でのお返事をびっしり書いて下さいました。
          
    あなたの軍歴簿を同封して、海軍の初歩的な事をいろいろお聞きした後、

第一海兵団、第二海兵団と在籍しているようですが、岩田様はどこでの父をご存知なので

しょうか。その頃の父について何か印象に残っているエピソード等、ご記憶の事がありま

したらお願いします。

    これに対し、直ちに下さった岩田さんのお返事の一部は次のような内容でした。

  平成六年二月七日消印

謹啓 冷夏暖冬と言っておりましたが、今年は昨年より寒いような感じがします。

前々より原教班長の娘さんが、 東京でお暮らしとのこと、 高尾沖三さんから聞いておりま

した。立派なお母さんになっておられる事を想像しておりましたが、今日お便りを頂き、何

から書いていいのか戸惑っている様な訳です。

昭和十八年一月十日、佐世保海兵団に入団しまして桑原分隊原教班長に配属されまして、

厳しい軍律の中で海軍々人としての勉学と訓練に励み真の人間形成の教育を受けました。

海兵団の教育過程を修業しまして四月五日軍艦出雲乗船を命ぜられました。私が新兵当

時佐世保海兵団原教班長の時の、佐世保鎮守府指令長官が南雲忠一中將でした。

                              中略

原教班長の思い出は律義な人で典型的な海軍々人でした。私達班員を弟のようにかわい

がり叱られた事はありませんでした。軍服の似合う好男子でありました。

海兵団の教育を修業し、戦地へ出発する時の茶話会で、原教班長が誰か故郷を思わざる

の歌を歌って送ってくれた事を今でも忘れません。

親元を離れ海兵団に入団した時、今でいうホームシックで、ハンモックの中で故郷が恋しく

なり涙を流しました。只頼りになるのは自分の教班長だけでした。     

海兵団を卒業し、上海の出雲に行く時、これからは自分の身の振り方を誰に頼ればいいの

か不安になりました・・・。

    とあなたの人柄と、海兵団での様子を書いて下さっています。

    海兵団での厳しい体罰の話が書かれた本を読み、軍律とはいえ教班長と言うのは、こわい

    存在の人という印象を持っていましたが、写真のあなたはそんなにこわい人とはどうしても

    思えず、きっとやさしかったに違いないと想像していたんですが、予想どうり、あなたは特別

    やさしい教班長さんだったんですね。

    いつの時代にも、リーダーの中には気短じかな人とやさしい人とがいるわけで、軍隊、横暴   

    と言うイメージでしか考えられなかったのですが、現在の人間関係にはない、ほほえましい

    暖かい軍隊生活の一部をかい間見たようでした。
 
    又、出雲の艦内で、数学の得意な高尾沖三さんから問題を出されて苦労して勉強した、解け

    なくてインチキをやったらこっぴどくしかられた・・・・と思いがけないお話が聞けて印象的でした。

    岩田さんからは、度々電話いただきましたが、その都度おっしゃる事には、海軍は軍隊と言う

    よりも人間としての基礎をたたき込まれた学校だったと思っていらっしゃる事も意外でした。

    岩田さんの他にも海兵団でのあなたを、よく覚えていて下さる方がいらっしゃいます。
 
     平成六年春、泰子おばさんが故郷基山での同窓会に出席された折、同級生の方が突然

    おばさんの所へわざわざ来られて、このようにおっしゃったそうです。

五十年前、佐世保海兵団であなたのお兄さんにお世話になりました。
                                                         
大変良くして頂いて、海兵団ではつきものの体罰をうけた事は一度もありませんでした。

休暇には女の赤ちゃんのいらっしゃる御自宅に泊めても頂きました。

あの赤ちゃんはどうされましたか・・・・・・と。
  

    泰子おばさんは同窓会の席で突然あなたの話が出て、思わず涙を流してしまわれたそうで

    すよ。「女の赤ちゃん・・」というのは私なんですね。

    ちょうど同じ時期の平成六年春、私は東京でコツコツと図書館に通いながら、あなたの事を調

    べていました。

    泰子おばさんとはあなたの戦死以来音信は途絶えており、おつきあいは皆無、あなたの事

    聞きたくて電話番号を調べ、おそるおそる連絡をとったのは子供の頃以来40年ぶり、あな
          
    たの話を聞きたい旨お話ししたのは、同窓会での出来事の直後の事で、偶然とは思えない
          
    まるで私の願いが通じた様な出来事でした。

    同窓会の席で泰子おばさんに声をかけて下さった方は、あなたの生家の近所の飛松利男さ

    んでした。

    飛松さんが昭和十九年二月、相浦海兵団に志願兵として入団される事になった時、お父さん

    がつき添って佐世保まで来られ、入団前夜の一晩をあなたは自宅へおつれして泊まって頂い

    たのだそうですね。きっとその夜は、わずか十八才の息子さんの、海軍入団というお父さんの

    不安と心配を考えて、海兵団の生活の様子等お話ししたのじゃないでしょうか。

    入団された飛松さんには、いつも目をかけてあげて、休憩時間には他の幾人かの人と一緒に、

    自分の部屋に呼んで歓談したのだそうですね。その他にもあなたの生家の近所の方が入団さ

    れると、皆さんに細かい気づかいをしてあげたようです。又新兵さんに与えられた、外出と称す

    る僅かな自由時間には、やはり飛松さん達数人の方を自宅へ来て頂いたんだそうですね。

    親元を離れて厳しい訓練ざんまいの新兵さん達に、少しでも家庭の味を味わってもらおうと言

    う配慮だったのでしょう。

    そして訓練を終えた飛松さんは、横須賀の工機学校に入られる事になって、汽車で横須賀に

    向かわれる事になったのですが、その時もあなたは飛松さんの実家に電報を打ち、鳥栖駅を

    通過する時間を連絡しておいたらしくて、「鳥栖駅におやじが来ていて、再会する事が出来ま

    した。いつの間にかそんな手はずを整えてもらっていたんですね・・・。」とおっしゃっていました。

    飛松さんはいつ戦地へ送り込まれるかわからない、二度と家族と合えなくなるかも知れない身

    ですから、たとえ一分でも親ごさんに合わせてあげなければならないとあなたは考えたのですね。

    復員後の飛松さんは、厳しかった海兵団での出来事が思い出されて、戦後しばらくの間眠れぬ

    夜があり、布団の中で泣いていた、あなたのお父さんにお世話になった頃の事は忘れられない

    です、とおっしゃいました。

    あなたはこの後間もなく、不運につきまとわれるように、激戦の地フィリピンの海に沈み、何ひと
 
    つ救われる事のない運命を辿るのですが、こうして今も、心の奥に留めていて下さる方がいらっ

    しゃる事は、本当に嬉しい事です。

    話しは少し元に戻りますが、岩田さんの手紙の中に出てこられる高尾沖三さんは、母の実家

    の近所の方で、現在八十七歳、岩田さんがあなたに送られて佐世保海兵団から上海へ行き、

    戦艦出雲の中で高尾さんと出会われ、二年数ケ月も一緒に過ごされて、その後もずっと戦友

    会で親しくされている、同じ村のあなたの大先輩ですよ。あなたが無事戦地から帰る事が出来

    ていたら、海軍のよしみでどんなにか親しくして頂いたか知れませんね。  

    高尾沖三さんと岩田久視さんは出雲が呉に停泊中、二十年七月二十八日、呉停泊艦船群に

    対する、敵機二百七十機に続く二百機もの大爆撃に合い出雲は沈没、江田島まで泳ぎ着か

    れました。 そして八月六日の広島原爆投下による、閃光と爆音と熱風を体験され、復員途中

    列車の窓から広島の様子を目にされ、絶望的な気持ちになられた事を克明に覚えておられま
 
    す。横須賀の所で登場いただいた宿輪米太郎さんは、岩田さんの叔父様で昭和三年から昭

    和二十一年の復員まで、海軍生活を十七年送られた大尉の方で、やはり海軍の事、大東亜

    戦争の開戦に至る理由等話して下さった方です。

    この宿輪さんも長い海軍生活の中で、一緒に戦っていた戦友の方が数メートル先で敵弾に

    当たり、飛び散った肉片が宿輪さんの服に十数ケ所にわたり付着していた事がずーっと脳

    裏に焼き付いて、八十二歳の今日までずっと重く携えていらっしゃいます。

    又、高尾さんは戦地へ行く時、村の人に見送られて神社を出発する際、御自分のなさった別

    れの挨拶の言葉を今もすらすらと言われるのです。

    戦争を体験された皆さんが、一様に五十年以上も昔の事をとても鮮明に覚えておられて、せ

    きを切ったようにお話されるのは、青春時代が戦争一色に塗りつぶされていた、戦争を知ら

    ない私達には想像もつかない壮絶な体験であった、またその壮絶な体験を話す機会もなく、

    青春時代のシンボルだった軍歌を歌う事もはばかられる様な世相の中で戦後を生きてきた

    無念さ、体制ががらりと変わり、戦時体験はすべて悪と評価されてきた屈辱などがほとばし

    るのだろうと思います。

    

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