主   旨   
  
本文「父への手紙」は、戦後50年にあたる年に書いた物です。
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松本武仁画伯による父の肖像画と、終戦記念日に展示の絵画に見入る人々 (靖国神社参道にて)

昭和18年生まれの私は、戦後学校であの大東亜戦争の事を習った覚えが全然ありまん。

父は戦死していたのですが、家族もなんだかその事に厚い鉄の蓋でもしているような風を装

い、誰からも父の事を聞いた事が有りませんでした。

小学校入学の昭和25年頃は、今から思えば進駐軍による占領中で、終戦からたった5年

しか経っていなかった訳で、そこかしこに戦争の傷跡があってもよかったはずなのに、その記憶が

ほとんどなく、すっかり戦争から立ち直ったかのように穏やかで平和な子供時代を送りました。

たったひとつ思い当たる事は小学校に通う道すがら田圃の中に不自然に大きな池があり、

子供同士で「爆弾が落ちたらしい・・」と話していた事位でした。

そんな風にして50年間も父の事にふれることなく、生きてきました。

しかしこれが絆と言うものでしょうか。整理魔の私がどうしても整理出来なかったもの、それは

タンスの底に忍ばせた父の残した手紙と一緒に撮った写真と赤い着物でした。

時はちょうど戦後五十年という事で、記念の行事や慰霊祭も多く行われ、私の故郷の鳥栖で

は、市民の協力で映画「月光の夏」が製作され、大変な反響を呼んでいました。

その映画「月光の夏」は、その後の私の人生を変えるような激しい衝撃を受けるものでした。

父が関わったと言うあの戦争はこういう事だったのか、とはじめて戦争と父に向き合って見る気持

ちにさせられ、映画館から飛んで帰り、タンスの底の手紙と写真を取り出して見ました。
       
子供の頃そっと見た父の手紙はわけが解らず、こわいものでも隠すように再びタンスの奥にしまい

込み、そのまま夢中で暮らしている内いつの間にか四十年も経っていたのでした。

五十才になって読んだ父の手紙は、子供の私の無事な成長を願う手紙でした。

そんな父の思いには全く気付かず、父を身近かに感じる事もなく生きてきた私は、申し訳なさで
       
一杯になり、父の生きた時代の事が無性に知りたくなり、父の気持ちに少しでも近ずきたいと思
   
うようになりました。

その時から父の戦跡を辿る毎日が始まり、厚生省や防衛庁、靖国神社、図書館に度々足を運
       
びました。又生前の父を知っている方に手紙や電話で話をお聞きして、その作業には一年を費

やしました。それまでに家族に知らされていた事は、当時の戦死者は皆そうであったように、

十九年十一月八日戦死、南シナ海で の一言でした。

わかった事を記録しておきたい、何ひとつ知らされずにいた家族に知らせたい、私の熱意が父
       
に届けられたら、と書き始めこのような形にしました。 まだまだ不完全で、納得はしていません。

これを父の慰霊とします。        
       
永遠の平和を願って。
                       
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