大石先生とみたままつり

東京は7月13日〜16日がお盆に当たります。

亡くなった人の霊が帰ってくるというお盆と提灯はつきものですが、246万人の

御霊が祀られる靖国神社では、30,000個という膨大な数の提灯が灯され、

戦死した人達の霊を慰めるというおまつりがあります。

この提灯は、遺族をはじめ、戦友会、企業、政治家、各種団体、商店会等

からの献灯によるもので、提灯には献灯者の名前がひとつひとつ書かれています。

私は数年前から、父へのせめてもの娘の気持ちを表そうと、2,000円也の小

さな提灯を捧げてきました。

広い境内に30,000個という数の中から自分の名前の提灯を見つける事は

容易ではありません。

境内備え付けのパソコンで検索し、場所を教えてもらえる仕組みになっています。

数年前のみたままつりでの事です。

パソコンに教えてもらった自分の提灯の場所に行き、目で追っているとほぼ同

じ場所に、見覚えのある名前があったのです。

高校2年の時の担任大石先生の名前で、住所も佐賀県となっているし、直

感的に間違いないと思いました。

30,000個の中に、私と大石先生の提灯がほぼ同じ場所に掲げられていた

事は単なる偶然でしょうか。

私は懐かしくて先生の提灯の写真を撮り、うろ覚えの住所に「父への手紙」と

一緒に送りました。田舎ではうろ覚えの住所でも届くものです。

卒業後30年以上もたって、その間一度も年賀状も出さず、音信不通のご無

沙汰をしていたのに、すぐに返事が来て、「あんた、私が乗っていた軍艦出雲の

事をどうしてこんなに詳しく知ってるね?」との事。

「父への手紙」には、父が佐世保海兵団で教員をしていた時の教え子、岩田

久視さんが、海兵団を卒業して最初に乗られた船が「出雲」であった事、出雲

は20年7月呉停泊中に爆撃され沈没した事などが書かれています。


先生こそ何で出雲の事を?と私の問いに「私は戦争中海軍に居て出雲に乗っ

ていた、靖国神社に献灯しているのは兄が戦死してるからです」

高校時代ユーモアたっぷりで教室を爆笑の渦にして、時には厳しく、誰かが不真

面目をやると連帯責任として全員を暗くなるまで教室に残し説教をされた、あの

英語の大石先生が海軍軍人だったなんて、その時始めて知りました。

今思えば、心から生徒の事を思う熱血で優しい一番印象に残ってる先生であ

りました。こんなエピソードがあります。

私の親しかった級友のIさんは、家庭が複雑で悩んでいました。

家庭がばらばらになり、彼女は住む所に困り、担任の大石先生に相談すると、

「じゃ家へきなさい・・・」と言う事になり、彼女は卒業するまで大石先生の家族

と一緒に暮らし、そこから通学したのでした。

今思うと、普通ではなかなか出来ない先生のご厚情と奥様の献身に敬服する

ばかりです。

授業中しょっちゅう話が横道にそれ、佐賀弁丸出しでの漫談に爆笑した事が度

々だったけれど、海軍に居た事は一言も触 れられなかったと思います。

そして、高校3年生になり担任は変わり、大石先生は隣のクラスの担任になられ

ました。

高校を卒業して一日も早く就職して働きたかった私は、大学進学なんて全く考え

ていませんでした。

当時進学する女子生徒は全校で10数名くらいのもので、女子は高校を卒業し

たら近くの職場に就職が普通でした。進学生徒が受験勉強に励む秋の事です。

大石先生が突然私の家にやって来て、「就職はやめて是非進学させて下さい」と

両親に頼むのでした。

私には3人の父親違いの妹弟がおり、公務員の義父に負担をかけたくない、一日

も早く働いて自由になりたかった私は、せっかくの大石先生の言葉に聞く耳を持たず、

断ってしまったのです。

その時義父は「あなたが行きたいなら進学してもいいよ」と言ってくれました。

大石先生は担任でもなく隣のクラスの先生です。

私に特別の目をかけて下さり、わざわざ自宅を訪ねて両親に頼み込むなんて、あれは

いったい何だったのかと、時々ぼーっと思う事はありましたが、 私の将来を真に思っての

事だったのだと今解りました。

父が戦死してた事を、当時先生がひそかに知っての事だったのか知る由もありません。

40年後の今思う事は、あの時の先生の助言は正しかったと言う事です。

海兵団時代、父から人として基本を教えられたと言う岩田さん、父に別れを告げて

「出雲」に行った岩田さん、行っ た先
の「出雲」に乗ってた大石先生。

命拾いをして帰ってきた大石先生が、私の一番大事な青春期に出会い、助言をして

下さった事は、私に対する父の声だったのだと思うのです。

何せ、戦死した父は母の元に婿養子としてきた人で、旧姓を「大石」と言いましたから。

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