レイテ海戦の実録    秋田県 澤木

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父の最期の戦地、フィリピン、ボルネオ島の港周辺で、連合艦隊の給油艦として、
万栄丸と常に行動をともにした雄鳳丸の生存者でいらっしゃる澤木様より、
情報を頂きました。ホームページ開設以来、父の最期の海に一番近い所に
いらした方からの情報だと思います。

(本文はご本人の了解を得て掲載しています)

     
自分は現在78歳であり、昭和19年のレイテ海戦当時、特設給油艦雄鳳丸に乗船していた信号手であった。
当直は、4−8であった。雄鳳丸の沈没は昭和19.11.3の旧明治節である。 当時の行動概要は次のとおりである。

昭和19年10月21日にボルネオ島bフ北部のタウイタウイに到着。
このとき既に連合艦隊数十隻は集結していた。
艦体は連合艦隊の別部隊の第一波であり、戦艦(旗艦)山城であった。本隊の戦艦は武蔵、大和、扶桑、榛名、金剛、長門であった。輸送鰍フ八紘丸はその後に到着(はっきりしない)した。本船は直ぐに巡洋艦の麻耶に横付けし一時間位給油した。
その後、武蔵に横付けし10時間位給油した。以後、他の船にも給油した。
ボルネオ島のミリに燃料油搭載のため向かい、搭載後はまたタウイタウイに帰り他の軍艦に給油を繰り返した。また、タラカンに向かって他の艦隊にも給油。また、大和の艦上で海軍に編入された。
レイテ戦闘には同行していないが、海戦は10月24日、25日であったと思う。

その後、10月26日頃、タウイタウイ沖で錨泊していたところ、大和が右舷前部のウインドラスを爆撃でやられ錨を下ろせず、大和が錨泊中の本船に横付けするとの無線連絡があった。
通常であれば、本船が左舷側に防舷物を用意し出向き、大和の右舷側に横付けすることになっていた。
この連絡を受け、急遽、防舷物を右に移動し、大和の左舷側に接舷し給油した。このとき見た大和の艦首右舷部に大きな損傷があり、その付近にはキャンパスが架けられていた。 鉄板厚さは5寸(15センチ)位であった。
今に思えば、接舷側の変更は右舷側の損傷を見せないためだったかもしれない。大和の船側下部には、ふくらみがあり4畳半位の木枠で作った防舷物をはめ込んで横付け給油した。大和は、本船の出港前に出港した。
後にセレタに行ったときに聞いたところによると、大和はシンガポールのセレタに修理のため向い、大和は浮きドック(5万トン)に前部半分程度を入れ船首部のウインドラス付近を仮修理したとのことだった。
その後、大和は呉に帰った様子。大和はこの年の正月は内地で過ごした模様。

本船は、大和出港後に燃料搭載のためミリに向かい、翌日の27日に潜水艦基地のマニラのキャビテに給油のため向かった。キャビテには、伊号200何号か忘れたが潜水艦と駆逐艦に給油した。

11月3日、本船はボルネオのミリに燃料搭載のため向かう途中、ミリ沖30マイルにて潜水艦の魚雷3発により雷撃された。
当日は、お汁粉を食べ終わり、当直交代の午後4時の6分位前に前当直の大嶋(先輩)と交代。彼が後部の居住区に入るか入らないか位で魚雷があたった。
船全体が大きく揺れ、水柱の後には後部が水没し見えなかった。
船橋横の信号所のところは電気溶接された鳥かごであり振動で壊れるほどであった。
残った船首部は海防艦千振と19号にミリまで曳航され、自分も含め残った乗員で投錨作業を行い、陸上の兵舎で休息した。
次の4日には、利用できる両舷の四門の機銃を全て取り外し陸上に移動し、陸上の兵舎に帰った。
その夜に航空機の空襲で船首部もやられ沈没した。しばらく陸上の兵舎で過ごし、艦艇(船名は不詳)でミリからクチン経由でシンガポールのセレタに移動した。
セレタには巡洋艦(高尾か愛宕か妙高の一隻)が船尾をやられ修理中であった。上陸後は軍港警備隊に編入され、25ミリ機関砲の要員として玉運びをしていた。

昭和20年2月1日にセレタ大空襲で米軍グラマンらしき飛行機の機銃で背中に2発撃たれたが、自分の足で101海軍病院までたどり着き同病院に入院した。担当医は高木軍医で、後に宮内庁の侍医となり、昭和天皇の手術の執刀を担当したとのことである。

昭和20年3月下旬頃、見舞いに来た同僚が、ミドリ十字船の阿波丸に乗船し内地に帰ると言っていた。自分は傷が癒えなかったことから乗船できず、3月下旬頃に寝たきりのまま、病院船氷川丸に乗船し横須賀に到着し、野比海軍病院に入院した。その後、長野県諏訪海軍病院に転院し、昭和20年11月に退院した。

特設給油艦雄鳳丸は、昭和18年10月進水し、昭和19年11月3日までの間に給油活動を行いながら、パラオ、サイパン、グアム、パレンバン、リンガ、セレタ、シンガポール、パリックパパン、タラカン、ミリ、タウイタウイ、ダバオ、サンボアンガ、マニラ、キャビテ、テニアン、サイゴン、サンジャック、高雄に寄港した。
平成19年2月3日記録  澤木