第61話          小倉御前の墓          (坂越)


 坂越の本町に、小倉御前の墓といわれる五輪の石塔があります。この石塔には、南北朝の悲話と、赤松一族の哀話とが、からまって伝えられています。


 赤松則村の孫の子である赤松満祐は、嘉吉(かきつ)の乱を起こして、将軍足利義教を殺しました。その後細川・山名氏らに討伐されて、赤松満祐は自殺、家臣もばらばらになってしまいました。

 一族の則繁は、朝鮮に脱出して、清水将軍と名乗る、有名な海賊になりました。満祐の弟、彦三郎は、鹿久居島で赤松再興を計画しましたが、失敗に終わりました。

 それから約十五年たって、満祐の弟、義雅の孫にあたる赤松政則は、残党を組織しなおして、赤松家の再興を計画しました。再興するためには、足利幕府に何か手柄をたてて、取りたててもらわなければなりません。考えたすえ、天皇のしるしである神?(しんじ)(勾玉)を、吉野朝(南朝)の皇胤(こういん)から奪って、北朝の天皇に献上することで、その手柄を認めてもらうことにしました。

 長禄元年十二月二日、雪の降りしきる吉野に入り、その山中で、後亀山天皇の皇子、一の宮・二の宮を殺害して、神?(しんじ)を奪い取りました。それから難波に出て、舟でひとまず坂越に引きあげてきました。そして、坂越から京都の足利幕府に、ことの次第を報告して、返事を待ちました。

 政則は、坂越に滞在している何日間か、毎夜、毎夜、吉野の亡霊にうなされました。そこで政則は、その霊のたたりを鎮めるために、五輪の石塔を作って、手厚く供養しました。

 吉野で殺された後亀山天皇の皇子、良康親王が、小倉御前と呼ばれていたことから、その石塔が、小倉御前の墓といわれるのです。

 赤松氏は、この功績によって家を再興し、応仁の乱を利用して旧領を復興させることができました。

                              (今井啓一氏談)


ちくたく(2004.1.19)書き込み。
○ 「神じ」の字が難しい字でここに打ち出せない?その他にも難しい、読みにくい字が沢山出て来た。スラスラ読める人はすばらしい!私はダメ!でも、何となく筋道は理解した。

 解説リンクページ (嘉吉(かきつ)の乱)参考・・・ http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kakitunoran.html