ヒトラー暗殺未遂事件

 第二次大戦中のナチス・ドイツ総統、アドルフ・ヒトラーは少なくとも43回にも及ぶ暗殺計画に晒された。その中でも反ナチス派のドイツ国防軍の軍人たちが企んだ暗殺計画はナチス政権そのものを揺るがし、成功寸前までいきながらもどれも失敗に終わり、首謀者の大半は処刑されてしまった。

 この中でも有名な暗殺未遂事件(クーデター)をここに紹介する。

 最初のクーデター計画

 最初の反ナチ派軍人によるクーデター計画は大戦前夜、1938年に計画された。反ナチ軍人の中心的人物だったルートヴィヒ・べック陸軍大将やドイツ国防軍情報部アプヴェール長官、ヴィルヘルム・カナリス提督が中心となって行われる予定であった。
 1938年、ナチス・ドイツはチェコ・スロヴァキアを虎視耽々と狙い、欧州は緊張が高まりつつあった。ナチスはチェコ国内のドイツ系住民が多く住むズデーテンラントの領土帰属権を主張し、英仏はこれに反対した。これ以上、東欧の和平を乱し、欧州でも有数の工業国であるチェコ・スロヴァキアを併合してナチスの国力を強めることは到底認めることはできなかった。

 だがヒトラーは弱腰の英仏を恫喝し、武力をちらつかせてついにはズデーテンラントを併合させることを認めさせた。これは第二次大戦前夜における英仏両国最大の失政でもあった。ナチスは同年春にはオーストリアを併合し、これ以上ヒトラーの領土的野心を留めておくことはできなかったと言える。

 ズデーテンラント併合とドイツ軍進駐を認め、ナチスの横暴を許してしまった英仏はナチスとの全面対決を強く意識したのだった。

 反ナチ派軍人による最初のクーデターは、まさにズデーテンラント併合を認めるミュンヘン条約締結直前に計画され、ベルリンにいるヒトラーをはじめとするナチス要人を逮捕・暗殺し、新たに民主主義政府を樹立するというものだった。
 そして、この時のドイツ国防軍の武力をもってすればクーデターは成功する公算が高かった。脅威となると予測されたナチス武装親衛隊(SS)もこの時の国防軍の武力に対抗できる質を持っていなかったからだ。
 しかし、クーデターをまさに決行する直前、ヒトラーと英国首相チェンバレンとの突然の会見がイタリア総統ムッソリーニを仲介者として行われた。ズデーテンラントを巡る交渉で英国はヒトラーとの会見を諦めていたのだが、ムッソリーニが英独の指導者をなだめ、会見を実現させたのである。

 そして、ズデーテンラントだけでヒトラーの領土的野心が満足するだろうとタカをくくっていた英国チェンバレン首相はズデーテンラント併合を認めてしまう。
 これによって英国側が反ナチ・レジスタンスを支援しないという態度を示し、ベック大将やカナリス提督、元ライプヒチ市長ゲルデラー博士ら反ナチ派は大きく落胆し、クーデター計画も決行直前で頓挫してしまうのである。1938年9月のことであった。
 
 しかし、オーストリア、ズデーテンラントを併合したナチス・ドイツは、翌年、チェコ・スロヴァキア全域を武力占領し、さらにポーランドへ進軍。第二次世界大戦が勃発するのである。

 電光作戦

 最初のヒトラー暗殺計画から六年後の1943年3月。次なるヒトラー暗殺計画が実行に移された。東部(ロシア)戦線を視察に訪れたヒトラーの専用機に爆弾を仕掛けるというものだった。

 直接の首謀者は反ナチス派軍人のトレシュコウ将軍シュティーフ将軍であった。トレシュコウ将軍は東部戦線で戦っており、アプヴェールから提供された爆弾をヒトラー専用の飛行機に仕掛けた。

 トレシュコウ将軍は友人のシュティーフ将軍との賭けに負けて、コアントロ(リキュール酒の一種)の瓶を彼のいる東プロシアのラシュテンブルクに置かれた大本営に届けてくれと爆弾を仕掛けたコアントロの瓶を、ラシュテンブルクへ帰還するヒトラー専用機に乗り込む将校の一人に託したのだ。

 しかし、爆弾は作動しなかった。ヒトラーは無事に帰還を果たす。爆弾は英国特殊作戦執行部SOEの工作員から取り上げたもので、腐食性の酸で信管を作動させるものだったが、雷管に欠陥が見つかり、作動しなかったのだ。

 爆弾は気づかれず、トレシュコウたちによって密かに回収された。しかし、この事件が元で反ナチ派で重要な役割を果たしたアプヴェールの法律家でハンガリー系オーストリア人、フォン・ドナンニー少佐がゲシュタポに逮捕されてしまった。

 外套作戦

 電光作戦の失敗によって、反ナチ軍人たちは新たなヒトラー暗殺計画を立案した。それは外套に爆弾を仕掛け、ヒトラーに接近して爆弾を爆発させるという、自殺的な特攻作戦であった。
 電光作戦が行われた同じ月に反ナチ組織のメンバー、男爵ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ大佐が志願。ベルリンで行われていたソ連軍捕獲品の展示会に訪れたヒトラーに接近したところで自分で爆弾を作動させるという、悲壮極まりない作戦であった。

 しかし、警備が厳重で人も多かったことから作戦は失敗に終わる。後に反ナチ派の一人、エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンジン中佐の息子、ハインリッヒ・フォン・クライスト=シュメンジン中尉が志願したが、この作戦自体が続けて行われることはなかった。あまりにも自殺行為な方法は、さすがに躊躇われたのだ。

 また、反ナチ組織に加わっていたドイツ国民軍(国防軍の予備役部隊)のオルブリヒト将軍はヒトラー暗殺に成功しても、SSやゲシュタポなどのナチスに忠誠を誓う警察組織を制圧することが現時点では困難であると指摘し、計画は再検討されるのであった。
 
 ヴァルキューレ作戦

 ヒトラー暗殺計画の中でも最大規模の作戦にしてこの作戦以降、ヒトラー暗殺が実行されることのなかった事実上最後の反ナチ軍人たちのあがきとも言える作戦である。

 作戦には予備役が集まった国内軍であるドイツ国民軍を動員し、ドイツの国民的英雄、砂漠の狐ことエルヴィン・ロンメル将軍や東部戦線の英雄、エーリヒ・フォン・マンシュタイン将軍などを取り込む予定だった。彼らを味方につければ軍全体を掌握することが可能となり、軍主力部隊を用いてナチス武装親衛隊やゲシュタポを武力制圧し、またヨーゼフ・ゲッペルスやヘルマン・ゲーリング、ハインリッヒ・ヒムラーなどのナチス要人を捕らえ、暗殺するというものだった。

 作戦の中心的人物となったのは伯爵クラウス・フォン・シュタウッフェンベルク大佐。彼は革新的貴族で、ドイツの社会主義者ユリウス・レーバー博士と接触し、ドイツ国内の社会・共産主義者たちにも協力を要請した。
 1944年7月、連合軍がフランス・ノルマンディーに上陸し、進撃を開始してから一ヶ月後、かくしてヴァルキューレ作戦は実施された。

 ヴァルキューレ作戦は二段階で行われた。第一段階は東プロシア(バルト海沿岸にあるドイツの伝統的な飛び地で、現在はロシア連邦の領土となっている)にあるラシュテンブルクの大本営にいるヒトラーを爆弾で暗殺。
 第二段階は、総統暗殺はナチス内にいる反動者グループの犯行であり、その首謀者たちはヒムラーSS長官、ゲッペルス喧伝相、ヘルマン・ゲーリング空軍元帥といった政府高官として断定した後、彼らを逮捕・拘束する大義名分を掲げて軍を動員して首都ベルリンを国民軍で制圧。ナチス政府を解体するというものであった。

 この作戦の肝とも言える部分は、総統暗殺の罪をナチス高官に被せることで彼らの拘束・処刑を正当化させ、クーデターに加担していない軍上層部や将軍たちの同意を得るというものであった。

 その後、ドイツの英雄であるロンメル将軍を指導者にドイツを講和に持ち込み、戦争を終わらせる。SSやゲシュタポは反ナチ派によって掌握された国民軍と国防軍の精鋭部隊によって制圧する予定だった。
 この時、新生ドイツ政府の首相には元ライプヒチ市長カール・ゲルデラー博士が就任する予定でもあったという。

 しかし、まさにヴァルキューレ作戦発動直前の1944年7月18日、ロンメル将軍は西部戦線で連合軍戦闘機の機銃掃射にあい、頭部を負傷し本格的なクーデターに関与することができなくなってしまう。

 1944年7月20日、シュタウッフェンベルク大佐は爆弾を仕掛けたアタッシュ・ケースをラシュテンブルク大本営に持ち込み、ヒトラーがいる作戦室に置いた。作戦室には各軍の参謀が集まり、ヒトラーが軍の作戦の指揮を下していた。
 シュタウッフェンベルク大佐はヒトラーがいる側に爆弾を置くと、用事がある素振りを示して作戦室から退室し、そのままベルリンへ戻った。後はラシュテンブルクの作戦室が爆発し、ヒトラー死亡がベルリンへ伝達されるのを待つだけだった。

 作戦室ではヒトラーが東部戦線の地図を指して周囲の将軍らに指示を与え、作戦を検討している頃、シュタウッフェンベルク大佐が置いた爆弾(アタッシュケース)を机の下に発見したブラント大佐が邪魔に思い、その爆弾を机の柱の外に移動させてしまった。
 この机の大きな柱が遮蔽物となり、ヒトラーの命を救うことになる。爆弾は爆発し、ブラント大佐、シュムント将軍、空軍総参謀議長コルテン将軍、速記者ベルガー記者ら四人が爆死した。

 そして、会議室が爆発するのを確認されると、ヒトラー暗殺成功の通信がベルリン、パリへと飛んだ。ヒトラーの死とともに、ベルリンではオルブリヒト将軍率いるドイツ国民軍、そしてパリでも反ナチ派であるパリ軍政長官シュルツプナーゲル将軍が動き出した。かくして、ヴァルキューレ作戦の第二段階であった。

 パリではシュルツプナーゲル将軍の命令によってSSやゲシュタポの隊員がドイツ国防軍兵士らによって突如、一斉に逮捕・拘束された。
 ベルリンでも、反ナチ派の巣窟となっていたドイツ国防省に反ナチ派が集結し、バリケードを築いた。また、ベルリン警察長官のフォン・へルドルフ伯も、部下を集めてクーデターの支援準備に入った。

 また、直接この陰謀に関与しなかった武装SSのフェリクス・シュタイナー大将も、もしクーデターが反ナチ派優勢に動き、ロンメル将軍による新政権が発足した場合は反ナチ派を支援する約束を交わした。
 一見して、ヒトラーやナチスに忠誠を誓っていると思われているナチス武装親衛隊の中にもかなりの反ナチ派がいたことが分かる。これらは戦線後方でユダヤ人や占領国民を虐殺、掠奪の限りを尽くして抑圧した一般SS(秩序警察)やクリポ指揮下の特別行動隊(アインザッツグルッペ)のゴロツキではなく、常に戦場の最前線で損耗を繰り返していた武装SSの将兵が大半だったという。

 しかしヒトラーはまだ生きている、という情報が入ると反ナチ派は動揺した。ヒトラーが生きている場合、反乱を起こしたはずであるナチス党員を拘束・処刑する正当性が失われてしまうからだ。そして総統に忠誠を誓っている軍の将軍たちの支持も取り付けられないことを意味していた。
 また、ナチ宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスはドイツ国防軍将校で、ベルリン守備隊を率いていたオットー・エルンスト・レーマー少佐にクーデター部隊の鎮圧を命じた。
 レーマー少佐は当初、クーデター支持派である上司、パウル・フォン・ハーゼ中将にナチス高官の拘束を命じられたが、命令に疑問を抱きゲッペルスと電話会談後、ヒトラーが生存していることを知り、クーデター鎮圧を命じられた。

 また、クーデター派に加担していたがクーデターに対して消極的で、打算だけで動いていたフリードリヒ・フロム国民軍総司令官は反ナチ派によって軟禁された。彼はヒトラーが生きていることを知るや弱腰となり、国民軍動員を拒否した。

 ベック大将やシュタウッフェンベルク大佐は、ヒトラーが生きているのか、死んでいるのか、またドイツ国民軍がベルリンのどこで行動しているのか、混乱した情報を整理するための情報収集に追われた。反ナチ派であるベルリン警察長官フォン・へルドルフ伯、刑事警察クリポ長官アルトゥル・ネーベやスイスのドイツ領事館官員ハンス・ベルント・ギゼフィウスも情報集めに必死になった。

 そして、もしヒトラーが生存していた場合、クーデターは速やかに中止せねばならない、という考えが反ナチ派の中で広がった。一転して弱腰になったドイツ国民軍はベルリンの大半を制圧することができず、レーマー少佐率いる鎮圧部隊によって制圧、武装解除されていった。

 そして、軽い火傷で済んだヒトラーはラシュテンブルクからドイツ国内に向ってラジオ演説を行い、健在であることを証明し、ベルリンで起こっているクーデターを非難した。
 ヒトラーは新しいドイツ国民軍総司令官にハインリッヒ・ヒムラーSS長官を任命し、ベルリンに向わせた。また、前年、イタリアでのクーデターで失脚し、ローマ郊外に軟禁されたイタリア総統ムッソリーニを救出した武装SSのオットー・スコルツェニー中佐もヒムラーに呼び出され、ベルリンでのクーデター鎮圧を命じられた(しかし、スコルツェニーは休暇中で現場に向かうのに時間がかかったため、彼が直接クーデター鎮圧に関与することはなかった)。

 クーデター派はヒトラーが生きてると聞いた途端に弱腰になり、クーデターは失敗に終わった。

 パリでも軟禁されていたSSやゲシュタポの隊員たちを解放するために、テオドール・クランケ大佐指揮のドイツ海軍の陸戦部隊が出撃準備に入った。ドイツ海軍は陸・海・空の三軍の中で一番ナチ化が遅れていた軍だが、クーデターに積極的に荷担した海軍部隊は存在しなかった。

 海軍の陸戦部隊が救出作戦に突入するという噂を聞いたパリの反ナチ派は、クーデター失敗を知るとSSとゲシュタポ隊員らを解放せざるおえない状況に追い込まれた。
 
 反ナチの大物、ベック大将は銃で自決、シュタウッフェンベルク大佐はベルリン・ベントラー街にあるドイツ国防省の中庭で銃殺刑に処された。軟禁されたフロム国民軍総指令官は反ナチ派軍人や民間人らを次々と処刑することで立場を取り繕い、ナチスに忠誠を誓ったが、後に彼も処刑される。

 海軍総司令官、カール・デーニッツ提督もヒトラーに忠誠を誓うためにラシュテンブルクに急いで駆けつけた。

 そして、ラインハルト・ハイドリヒ亡き後の国家保安本部部長、エルンスト・カルテンブルンナー博士が暗殺未遂事件の捜査を一任され、反ナチ派軍人や政治家、民間人が次々と逮捕された。オットー・ヨーン、ハンス・ベルント・ギゼフィウスといった反ナチメンバーはスペイン、スイスに亡命して一命を取りとめたものの多くのメンバーが逮捕され、終戦間際に処刑された。
 東部戦線では電光作戦での責任者だったトレシュコウ将軍がベルリンでのクーデター失敗を知ると、戦線の最前線に飛び出し、自殺した。西部戦線でも、反ナチ派のハンス・フォン・クリューゲ将軍も自決した。

 クーデター成功後の指導者となる予定だったエルヴィン・ロンメル将軍は、ヒトラーに自決を強要された。家族を守るために、ロンメル将軍は毒をあおり、自決した。彼は負傷が元で死亡したと公式に発表され、壮大な国民葬が行われた。

 ヴァルキューレ作戦における英雄的役割を果たしたフォン・シュタウッフェンベルク大佐は銃殺、反ナチ派の大物、ルートヴィヒ・ベック大将は自決、オルブリヒト将軍、フォン・キルンハイム大佐、シュツルプナーゲル将軍、ロンメル将軍、カナリス提督、シュティーフ将軍、ゲルデラー博士、フォン・ドナンニー少佐、フォン・クライスト=シュメンジン少佐、レーバー博士、神学者ボンへファー博士、元伊大使フォン・ハッセル伯、ベルリン警察長官フォン・へルドルフ伯、ネーベ刑事警察長官といったヴァルキューレ作戦や反ナチの陰謀に関わった人たちが逮捕された。彼らは、ヨーロッパ戦線終結の1945年5月までに、すべて処刑された。

 この事件で戦後も生き残ったメンバーは元経済相ヤルマール・シャハト博士、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツェッカーハンス・ベルント・ギゼフィウス、オットー・ヨーンなどごく少数だった。

 現在、ベルリンにあるかつてのドイツ国防省は「レジスタンス記念館」として保存されており、当時の暗殺計画に関わる資料が展示されている。そして、ベルリンには、シュタウッフェンベルク・シュトラーセ(通り)が新たに作られた。

■参考サイト

http://www.joric.com/Conspiracy/Conspiracy.htm

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Cassiopeia/7539/widerstand1.htm