Gestapo  (ナチス・ドイツ)

 ナチスを裏から支えていた暴力装置がナチス武装親衛隊(ヴァッヘンSS)と秘密国家警察ゲシュタポであった。その中でゲシュタポはドイツ帝国時代の秘密警察の伝統を引き継いでおり、正式名称は「ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ」ナチスの国家保安本部の第4局である。これに刑事警察「クリポ」を入れて、保安警察「ジポ」と総称する。

 1920年代、第一次大戦で敗戦を喫したドイツ国内では極右運動が活発化しつつあった。軍備が制限され、一方で前大戦での戦勝国に対する補償で経済的に破綻しつつあった中でドイツ国民の不満は高まり、国家社会主義へと国民の思想がシフトしていた時期である。

 その中で急成長を遂げていたのがナチスである。ナチスはヒトラーを筆頭に組織を拡大させ、ミュンヘン一揆の失敗で一旦は躓いたものの、ついには政権を握ることになる。そうした時代背景の中でゲシュタポは生まれた。
 ゲシュタポは第一次大戦後に成立した共和制時代に存在した「プロイセン州政治警察」を母体としており、元々は極右極左組織を取り締まるための組織であった。
 ゲシュタポはプロイセン州政治警察を手始めにドイツ国内の政治・刑事警察を次々と吸収し、優秀な刑事や警察官がゲシュタポ捜査官として引き抜かれていった。
 そして、多くの優秀な警察官をゲシュタポに服従させるためにナチスはドイツの警察機構全体を粛正し、ナチスに反対する警察官や刑事を追放するに至ったのだ。粛正によって現場の警察官たちは失業するのを恐れて、ゲシュタポに忠誠を誓ったのである。

 ちなみにゲシュタポ創設当初は後に反ナチ・レジスタンスに加わったハンス・ベルント・ギゼフィウスや元英国国王で、ポルトガルに滞在していたウィンザー公拉致計画に関ったとされるSD少将、ヴァルター・シェレンベルクが所属していたこともあった。


 ゲシュタポの初期の長官はナチスのナンバー2で、後の空軍相ヘルマン・ゲーリングだったが民衆の人気取りを優先して組織を手放し、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーが引き継ぐことになる。
 ゲシュタポは社会主義者の摘発や連合国や共産国のスパイ摘発などの防諜活動から、後にはユダヤ人狩りにも投入された。その冷酷非道さはナチスに占領された国民はおろか、ドイツ国民やヒトラー暗殺を企むドイツ軍人にまで恐れられた。
 ゲシュタポは権限上、国防軍や武装親衛隊などに対して権限を持たないとされているが、ヒトラー暗殺事件の時には捜査に加わり、陸軍の制服組が何人も逮捕された。
 一夜のうちに、ユダヤ人家族が地球上から永遠に「消失」したり、フランスのレジスタンスに対して残忍な拷問を加えたりと、その捜査方法の大半は冷酷無比なものであったという。
 
 また、表向き逮捕権を持たないナチス武装親衛隊保安部(SD)の依頼を受けて、連合国スパイの摘発などもゲシュタポが代行して行っていた。ゲシュタポとSDは協力関係にあり、また軍情報部アプヴェールとは防諜活動の面で対立していた。

 ゲシュタポはオーストリアを含むドイツ国内をはじめとして、フランスやオランダなどの占領国にも支部が置かれ、占領国民を恐怖に陥れた。ドイツ本国にはベルリンのプリンツ・アルブレヒト通りに本部を置き、フランスではパリのソーセ通りに支部が置かれた。

 こうして、ゲシュタポはドイツ国内中に網を張り巡らし、国民や占領国民を監視し、暴力によって従わせていたのである。

 ゲシュタポ長官にはハインリッヒ・ミュラーが任命され、終戦後は南米に逃げ延びたといわれている。ゲシュタポ以上の機動力を誇るイスラエル情報部モサドの必死の捜索にも関わらず、彼を発見することはできなかった。敗戦前よりミュラーは自身に関する全ての記録を抹消しており、敗戦前から逃亡を企んでいたと言われている。

 しかし、ゲシュタポのユダヤ専門家でユダヤ人大量虐殺に関わっていたアドルフ・アイヒマンが1960年、逃亡先のアルゼンチンでモサド捜査官たちによって拉致され、イスラエル本国で裁判を受けた出来事は世界中に一大センセイションを巻き起こした。アイヒマンはミュラー長官や国家指導官マルティン・ボルマン、悪魔の医師と呼ばれたフリッツ・メンゲレ博士が南米で生き延びていると証言した後、1962年に絞首刑に処された。

 大戦終結後、市民とって恐怖の対象であったゲシュタポは解体され、多くの捜査官が裁判にかけられたが、戦後の東西対立とともに新生西ドイツ連邦では対ソ連のための情報機関、BNDが設立され、経験を買われた元ゲシュタポの捜査官たちが多数「戦線復帰」し、冷戦のヨーロッパの情報戦において寄与したと言われている。