『半落ち』の結末部分における疑問点



 2002年10月22日の日記で、横山秀夫『半落ち』(講談社)の感想を書くと同時に、作者がミスをしていると思われる部分を指摘した。
 『半落ち』が「このミステリーがすごい!!2003年」で1位を取るなど、色々なメディアで高い評価を得ていること自体は納得いくのだが、私がミスであると思った部分について、指摘している文章を見たことがほとんどない。直木賞選考時における朝日新聞の記事は例外だが。もちろんネットも含めてすべてのメディアをチェックするなど不可能なので、単に私が見落としているだけなのかも知れない。指摘した内容は、実は私の勘違いなのかも知れない。そこで、もうちょっと詳しく調べて、改めて纏めてみることにした。
 当然のことながら、以下の文は『半落ち』のネタバレになるので、『半落ち』を未読の方は読まないで頂きたい。


 まずは『半落ち』の粗筋を簡単に書いておく。
 アルツハイマーに苦しむ妻を殺害したと、W県警の教養課次席、梶警部(49)が自首したところから物語は始まる。殺害状況や背景などは素直に供述する梶だったが、妻を殺害してから自首するまでの二日間の行動については口をつぐむ。その二日間の行動について、取り調べの警視、地検の検事、新聞記者、弁護士、裁判官、刑務官が真相を求めようとしたり、思惑をもって動いたりする。
 最後の章の、最後になってこの謎は判明する。梶は息子を白血病でなくした後、骨髄バンクにドナー登録を行ってい。登録から二年後、適合者に選ばれ一人の命を救うことができた。梶は妻を殺害した後自殺しようとしたが、自分との繋がりを持つものに一目でも会いたいと、偶然知ることのできた骨髄の提供相手に会いに出かけていた。それが供述しなかった二日間の行動であった。そして「骨髄を提供することで、もう一人救いたい」との思いから自殺をとどまり、自首をした。骨髄の提供者となれるのは50歳まで。梶は、51歳の誕生日まで生き延びることを選んだのだ。

 私はここで、作者がミスをしていると思われる部分についてこう指摘した。
 刑務所に入っている受刑者は、ドナーとして骨髄を提供することができない。


 骨髄移植手術はどこでもできるというものではない。骨髄採取を行う医療機関は、各都道府県が認定した病院に限定されているので、その病院に出向かなければならない。ところが、その病院へ出向くためには、刑務所の外に出なければならない。刑務所の外へ出るためには、刑の執行停止が認められる必要がある。
 刑事訴訟法第482条には以下のように書かれている。


 懲役、禁錮又は拘留の言渡を受けた者について左の事由があるときは、刑の言渡をした裁判所に対応する検察庁の検察官又は刑の言渡を受けた者の現在地を管轄する地方検察庁の検察官の指揮によつて執行を停止することができる。
 一 刑の執行によつて、著しく健康を害するとき、又は生命を保つことのできない虞があるとき。
 二 年齢七十年以上であるとき。
 三 受胎後百五十日以上であるとき。
 四 出産後六十日を経過しないとき。
 五 刑の執行によつて回復することのできない不利益を生ずる虞があるとき。
 六 祖父母又は父母が年齢七十年以上又は重病若しくは不具で、他にこれを保護する親族がないとき。
 七 子又は孫が幼年で、他にこれを保護する親族がないとき。
 八 その他重大な事由があるとき。


 梶がドナーとして骨髄を提供するためには、その理由を提示して検察官に申し出なければならない。ここでは八が該当するだろう。では骨髄提供は「重大な事由」として認められるのか。
 ここである新聞記事を転載する。


「罪を償うために骨髄バンクに登録したい」。強盗殺人事件で死刑が確実視される被告がドナー登録の手続きをしようと刑の一時執行停止を求めたことに対し、法務・検察当局は申し立てを認めない方針を固めた。刑事訴訟法で定められた「刑を停止する重大な理由」にあたらないと判断したという。
 骨髄提供を理由として刑の執行停止を申し立てたケースは初めて。※1
 申し立てたのは、強盗殺人罪で無期懲役となって服役し、仮出所中の92年に別の強盗殺人事件を起こして審理中の男性被告(49)。
 最高裁は99年、「死刑を選択するほかない」として、二審までの無期懲役判決を破棄し、広島高裁に差し戻した。92年の仮出所は取り消され、最初の事件の無期懲役刑囚として申し立てた。
 被告は5月、弁護士に手紙で、脳死した場合、すべての臓器を提供する意思を明らかにした。
 まず、骨髄バンクの登録をしようと6月、手続きに必要な2時間程度の執行停止を広島地検に申し立てた。登録は、各都道府県で指定された医療機関に出向くことが原則とされているためだ。
 執行停止は、刑の執行が著しく本人の健康を害したり、重大な理由があったりする場合にできると刑事訴訟法で定められている。
 現行では、受刑者の臓器提供はもちろん、献血さえ行われていない。法務・検察当局は今回のケースが「重大な理由」にあたるかどうかを検討。「骨髄バンクに登録する高い必要性はない」「仮に罪を償うための行為でも、自由を拘束している以上は認めるべきではない」と結論づけた。
 法務省内には「受刑者の体に何らかの害が及ぶ可能性がある以上、慎重にすべきだ」「いったん認めれば、別の受刑者に『反省しているなら骨髄などを提供するべきだ』との圧力がかかりかねない」との懸念があったという。
 被告は、広島高裁にも、現在審理中の被告人の立場で勾留(こうりゅう)の一時停止を申し立て、近く決定が出る見通しだ。
 (筆者注 広島高裁は勾留一時停止の申し立てを却下した)
 骨髄移植は白血球の型が同じでないとできないが、適合率は低く数百人から数万人に1人とされる。提供者を何年も待つ患者も少なくない。

●骨髄提供希望の受刑者の手紙
 罪をどのように償えば良いのだろうか。歳を重ねるごとに自責の念が深まり、辛苦の受刑生活は当然の事ですけれど、この境遇の中でも何か人の役に立てることはないものかと思いをめぐらせておりました。数年前、ラジオ放送で白血病であと数カ月の命と告知された小学生が骨髄移植を受けて一命をとりとめたと知り、何とか協力できないかと強く思うようになりました。
 自分の命で誰かの命を救うことができるならば、これ以上の罪滅ぼしはありませんし、被害者に万分の一でもおわびできるのではないか、と思うのです。(朝日新聞 2002年9月16日)


 新聞記事にあるとおり、受刑者による臓器提供はもちろん、献血さえ行われていない。刑事訴訟法から考えると、例え骨髄移植手術とはいえ、受刑者が刑務所の外に出られるはずがないのだ。高野和明『グレイヴディッガー』(講談社)では、主人公が型のあった患者に骨髄を提供する予定だったのだが、事件に巻き込まれてしまい、手術に間に合うために、必死に警察の追っ手から逃れている。警察に捕まったら、たとえ人助けであろうと殺人の容疑者である自分が手術の場へ行くことなど認められないことを知っているからだ。
 いくら教養課にいるとはいえ、現職の警察官であった梶が刑事訴訟法を知らないはずがない。だが梶は、51歳になるまで生き延びようと自首し、ドナーとして決定したことを知らせる手紙を待ち続けている。もちろん梶は知らなかったと考えることは可能であろうが、現職警察官であったことを考えると、かなり難しいのではないだろうか。


 ただし、絶対とはいえない。先に「受刑者が刑務所の外に出られるはずがないのだ」と書いたが、「100%出られない」と言い切ることはできない。なぜなら、そのような前例がないからだ。先の新聞記事で書いているのは、あくまで「ドナー登録」を理由とした刑の執行停止の申し立てである。「骨髄提供」を目的とした刑の執行の申し立ては今のところなされていない※2。法務・検察当局や裁判所の判断が成されていない現状では、可能性はゼロと言えないことになる。
 しかし実際にそのような申し立てがあったとしても、認められる可能性は著しく低いだろう。骨髄移植の場合、まず1〜3週間前に、事前に血液を採取する必要がある。血液を採取することは刑務所内の医務室でも可能だろう。ただ実際の手術の時は、ドナーは最低数日入院しなければならない。その間、ドナーである受刑者が逃亡しないように、また他の人に危害を加えないように、法務・検察当局は監視人を配置する必要がある。そこまでのリスクを背負いながら、法務・検察当局が刑の執行停止を認めるだろうか。


 ここでまとめてみる。
 受刑者(未決囚も含む)による骨髄提供のドナー登録については既に裁判所や法務・検察当局の判断が成されているのだが、骨髄提供そのものについてはまだ判断は成されていない。認められる可能性は低いと思えるが、過去の判断が成されていない以上、ゼロではないのだ。つまり、骨髄提供候補者に選ばれた場合、梶は骨髄提供を行うことが出来る可能性があるわけである。よって、「刑務所に入っている受刑者は、ドナーとして骨髄を提供することができない。」という私の指摘は間違っていたことになる。

 ただし、作者の書き方にも問題がある。小説を読んでみると、ドナーが選ばれたらすぐに骨髄移植手術を行うことが出来るような書き方になっている。刑事訴訟法に関することは一言も書かれていない。やはりこれはミスであろう。刑事訴訟法のことを書き添え、手術が行われる可能性が限りなく低いがゼロではないことを、作者は書き足すべきである。


【蛇 足】
 「決定的な事実誤認がある」と言い切るだけの根拠が知りたいよ。「お笑いスター誕生」1週落ちの林真理子(同姓同名の別人かも)が、刑事訴訟法や裁判記録まで調べたのだろうか。そんなことをするタイプには見えないのだが。←すさまじい偏見。ただし、林真理子はミステリに対してひどい偏見を持っているような気がする。


【※1】
 申し立てを行ったのは初めてだが、申し立てようとして断念したケースは以前にあったらしい。
 1992年に医師などを拉致殺害して現金を奪い、強盗殺人などの罪に問われたグループの一人は、1999年の一審公判で「臓器を提出して罪を償いたい」とドナーカードのコピーを提出して情況証拠として採用されている。このとき骨髄バンクへの登録を希望したが、採血するには拘置所外へ出なければならず断念したという。この被告は求刑こそ死刑だったが、一審判決は無期懲役となっている。情況証拠が認められたのかどうかは不明である。

【※2】
 もしかしたらあるかも知れないが、私の調べられる範囲(といってもネット検索ぐらいだが)ではなかった。ただ、過去にそのような申し立てがあったのなら、既に記事になっているだろうし、先の新聞記事の中にもその旨が書かれていたはずだ。


【補足】
 アメリカの映画で「絶対×絶命」というのがある。1998年製作で、監督はバーベット・シュローダー、主演はアンディ・ガルシアとマイケル・キートン。サンフランシスコ警察の敏腕刑事の息子は白血病に冒され、骨髄移植しか助かる道が残されていなかったが、適合するドナーが見つからなかった。掲示はFBIのコンピュータで犯罪者のDNA鑑定記録を呼び出し、適合者を見つける。しかしその適合者は、殺人を繰り返して刑務所に服役中の凶悪犯だった、という話である。その後のストーリーは省略するが、たぶんアメリカでは骨髄提供などは可能なのだろう。
 日本で犯罪者全てのDNA鑑定記録を取っているかどうかは知らないのだが。


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