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ここの載せるのは20世紀前半のスペイン美術に関する資料を翻訳したもの。いわば研究の一環なんだけど、ここに掲載する主たる目的は翻訳の練習だね。
20世紀スペイン美術研究者以外には面白くもなんともない内容かもしれない。でも、ここで掲載する資料は日本に紹介されていないどころか、日本ではアクセス不可能ってものさえある。記事が書かれた文脈をきちんと説明したら、ほら、レポートが一本出来上がりってくらい貴重なものなわけ。
ちょっとでも興味あるなっていう奇特なひとは読んでみてください。時間を無駄にすること間違いなし。
あと、そんな研究者はいないと信じてるけど、一応念のため。剽窃しようなんて思わない方がいいですよ。ところどころに殺傷能力抜群の地雷が埋まってますから。(ニヤリ)
| 1.ホセ・モレノ・ビジャ 「芸術の問題。専門用語」 |
| 2.サルバドール・ダリ 「なぜジョコンダは襲撃されるのか?」 |
| 3.フランシスコ・アジャラ 「スペインのプロパガンダ」 |
| 4.「イベリア芸術家展」 |
| 5.セバスティア・ガッシュ「ピカソ」 |
ホセ・モレノ・ビジャ 「率直な口調を求める友人に (al amigo que pide tono confidencial)」
疑い深いある友人が率直な口調でこういう質問をしてきた。「君はピカソの何を賞賛しているのかね?僕は哲学的な戯言でピカソを語る奴らにはついていけないんだ。短くまっすぐに、僕が分かるように語って欲しい。」
「君が分かるように?」 私は彼に言う。よろしい。まず初めに、なによりもまずピカソにおいて賞賛すべきは彼の湧き出るような、つまり止まることを知らない生まれつきの力だ。彼の永遠に続く制作活動の中にある。やってしまったもの、あるいは獲得したものの上に安閑としていないこと。見つけたものが、さらに遠くへ行くためにしか役に立たないということ。例えば、石材や木材が大工にとって家の壁を建てるのに役立つように。これが、結局は人類に快適さと喜びを与えるものなのだ。もし人が創造的な精神をもっていなかったら、それは何者でもないか、あるいはロバ〔=愚か者〕なのだ。
人生において、程度の差こそあれ、何かが創造される。でも、その創造されたものはその人の道や知性、空想を遮ってしまう結果となってしまう。ある発見に出会ったり、それを手にした人が、発見の犠牲者になってしまうのはよくあることだ。しがたって、自らの創造の甘い束縛から解放されることのできる人は賞賛に値する。創造されたものが生きる者たちを止めてしまうのではなく、創造という行為そのものを止めてしまうのである。
次に、私は彼を素描家として賞賛している。素描については二言。粗野で平凡な人々は素描というものを、その辺の物体が提示する輪郭を紙に写し取る行為だと、したがって、目の前に置かれたものを上手に写し取る人が最良の素描家だと考えている。しかし、それは素描のA-B-Cでしかない。それはいい作家というものがモデルを忠実に、きれいな文字や文体で写し取ってる人だと言うのと同じことだ。このことははっきりさせなければならない。基礎的な素描、あるいはコピーというものは字体や文法的な規則と同じ道具であってそれ以上のものではない。本当に「素描する」あるいは「文章を書く」ということは全然違うことなのだ。基礎的な素描、あるいはコピーでは死が気ままに歩き回るのに対して、本当の素描には声の振るえ、感情、振動、筋肉の硬直、交換、強勢、つまりどういう呼び名であれ、線のほんの一部と全体を生命感で満たし続けるもの−精神的なもの−がある。
力強く感性豊かなのと同時に物体や自身の精神に忠実、そして目にしたものを偉大なものとし洗練させる、こうした素描がピカソにおいていつも際立っている。
常に、抽象的でなく具象的な作品、そこに描かれた人物像が我々がカリカチュアと呼ぶものに隣接している場合においてさえ、そうなのである。目の前に提示された作品や素描を通して、この世の中で彼によって「見られた」要素を示してくれるだろう。よく見てみたまえ、それは「見られた」もので、空想されたものじゃない。そうした作品を通して、共通感覚を介した関係が築き上げられるんだ。言い換えると、それを通して大地に足がつき、地面に立っていられるんだ。
わかるかい?じゃあ、今日はこれで十分だ。
gaceta de arte, num.37, Tenerife, marzo de 1936, pp.69-70.