パンプローナの牛追い祭り
 

 

 走る人にとって牛追いとは

「los mejores diez segundos del dia(その日の最高の10秒間)」

である。

 

 今年(97年)の7月、パンプローナの牛追い祭りでまた走ってきました。(今回で2回目。1回目の模様はエッセー第1弾に掲載) 以下の文章はそのときの模様をTTT(闘牛の会)で発表したときの原稿を要約したものです。

 

 

 パンプローナのサンフェルミンは毎年7月6日から1週間行われる。祝日は7月7日。パンプローナはナバーラ地方にあり、祭りの季節以外は静かな小都市。山口市と姉妹都市協定を結んでおり、ハルディン・デ・ヤマグチ(山口公園)がある。サンフェルミン祭の間は世界中から観光客が詰めかけ、宿は3ヶ月前でも予約でいっぱい。メインはもちろん「エンシエロ(牛追い)」

 走っても別に偉くもなんともないが、文字通り「命を懸ける」ことの興奮は走った人にしか分からないだろう。牛追いでは、死の恐怖生きている喜びといった日常生活では得られないものを実感できる。

 牛追いは狂気のレースではなく、「統制された無秩序」。 走る人は暗黙の規則を完全に把握している。牛から逃げることではなく、牛にどれだけ近づけるかが問題。

・牛追いのコース 

 全行程848m、平均タイム(最後の牛が檻に入るまでの時間)3分58秒。牛の平均速度24km/h。最も速い牛は2分強で走り抜ける。スピードが乗ったときは800mの世界記録くらいのスピード。むちゃくちゃ速い。牛追いの2時間くらい前にこのコースを歩いてみると、コップやガラス、ゴミが散乱していてこんなところ走れるのかと心配になるが、20人の清掃人によって牛追いが始まる前に完全にきれいになる。平日約1800人、週末は約二倍の3000人の若者が走る。

 

・怪我の内訳

 重傷3%、軽傷97%。 牛が原因10%、人が原因90%。いかに牛より人間の方が危険かが統計の上からもわかる。 牛追いが現在の形になった1922年から(つまり現在の闘牛場ができてから)今日まで牛追いによる死者は13人。最も危険な牧場はグアルディオーラ。3人がこの牧場の牛に殺されている。

 

・ヘミングウェイ

 ヘミングウェイによって牛追いは世界的に有名になった。60年代の統計ではサンフェルミンに来ていたアメリカ人の90%がヘミングウェイを読んでいた。作家自身も牛追いを走ったが、牛のすぐ近くを走ったわけではなかった。闘牛場の中ではノビージョ(仔牛)に刺されたことも。サンフェルミンを扱った小説、「日はまた昇る」の一節 "La fiesta estallo. No hay otra manera de expersarlo."(祭りは爆発した。他に表現のしようがない)は祭りの始まりを的確に表現している。1968年、闘牛場の近くにヘミングウェイの銅像が建てられた。

 

【参考文献】

Javier Solano: EL ENCIERRO DE PAMPLONA, ELKAR S.L., 1995

木村浩嗣、「パンプロナの「牛追い祭り」不参加ガイド」、(別冊宝島WT『スペイン【情熱】読本』)、宝島社、1996年

 

 

ここからは実際の体験談です。

 7月6日、車の中で寒さに震えながら一泊したあと、ブルゴスを出発。10時頃パンプローナに到着。去年と同じ駐車場に車を停めたあと、チュピナーソ(開会式)のある市庁舎前の広場へ行った。

 それにしても開会式があんなにひどいものだとは知らなかった。写真で見ただけでは、みんなが赤いスカーフを掲げて喝采をあげるくらいのものだと思っていたけど、実際は地獄そのもの!

 始まる30分前にはもう広場は身動きがとれないほどの人が集まる。東京の朝の通勤ラッシュよりすごい。卵のケース(1ダース)を持った人がいて、何に使うんだろうと思っていたら、人に向かって卵を投げ始めた。その上小麦粉をかけられると、人間お好み焼きの出来上がり。そのうちシャンパンの雨が降り始め、そこら中に酒の水たまりができていた。

 開会式5分前。集まった人に靴を踏まれ、もみくちゃにされながら俺は、早く終わってくれーとそれだけを願っていた。呼吸するのさえ苦しい。

 ようやく12時。市庁舎のバルコニーで市長が祭りの開会を宣言したらしいが、あまりの人に全然見えなかった。周りの人の肘打ちを喰らいながら、倒れないように踏ん張ってスカーフを掲げるのが精一杯だった。

 恐るべきチュピナーソ! 来年、サンフェルミンに行くとしても、これだけはパス。広場を後にした俺の手には2日前に買ったばかりのサングラスが、片方のレンズのとれた無惨な姿で残っていた。

 7月7日、午前6時。眠い目をこすりながら、市庁舎前の広場へ出発。いよいよ待ちに待ったエンシエロ(牛追い)だ。眠いなんか言ってられない。

 柵はもうできあがっていて、すでに広場には気の早い人が集まりつつあった。時間もあったので坂を下りてエンシエロの出発地点まで行ってみる。道の両側には見物人がぎっしりだ。中には日本人もちらほら。みんな観光客らしい。これから走るらしい日本人(つまり俺と眞紀)を珍しそうに見ているくせに、目が合うとみんな目をそらす。坂の一番下にはアメリカ人がたくさんいて写真を撮りまくっていた。囲いの中にいる牛たちは見えなかった。

 広場前に戻る。どきどきするが、去年ほど恐くはなかった。30分前には身動きがとれないくらいたくさんの人が集まってきた。60歳くらいのじいさんもいる。

 5分前。市庁舎前にぎっしり集まっていた人が一斉に歩き出す。みんな真剣な顔つきだ。今年はエスタフェータの角から走り始めよう。角を曲がったところで牛を待ち受ける。

 8時。爆竹の音が鳴り響く。びっくりして走り出すごついお兄ちゃん。意外と小心者だ。しばらくするとみんな小走りだったのが必死になって走り出す。そのうち、どどどどど・・・と足音が近づいてくる。牛が来た。壁に張り付くと、怒濤のように目の前を走り抜ける黒い一群。

 行こう。二つ目の一群が通り過ぎたあと、人に突き飛ばされないように気をつけながら再び走り出す。しかし、闘牛場に着くと、もう扉は閉められていた。入れなかった。これからが楽しいのに。ちぇっ。

 仕方なく引き返すことにする。でも、生きてた。たばこ、たばこ。走ったあとの一服のために禁煙してたんだ。タバコを求めてふらふらしてたら、スペイン人に呼び止められた。

「君、走ったの?」

 走ったよと答えると、インタビューさせて欲しいと言ってきた。新聞記者だったのだ。なぜ走ることにしたのかとか、エンシエロの良かったとことかいくつか質問を受けた。次の日、ディアリオ・デ・ナバーラ紙には小さいながらも日本人二人のインタビューが載っていた。

 次の日、また走って闘牛場に入る野望は達成された。恐かったけど、「喉元すぎれば熱さ忘れる」。また来年も走りに行きたい。

【ディアリオ・デ・ナバーラ紙, 1997年7月8日】

「メルカデーレスでは全てがあっという間だった。エスタフェータに着くと、人が多すぎた。

(今日は)脇によけてしまったが、明日は道の真ん中で牛を待ちたい。」(自分のコメント部分の訳です。)

下に載ってるのが一緒に走った日本人眞紀。二人とも日本人に見えない。

 

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