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こんなものをんでいます
(最終更新時:2003.02.04.)

気まぐれではじまったコーナーです。どこまで続くか分からないけど、 どうぞよろしく。


2003.02.01th.は、

『イラクの小さな橋を渡って』池澤夏樹・本橋成一(光文社)
です(2003.02.03.)。

「もしも戦争になった時、どういう人々の上に爆弾が降るのか、そこが知 りたかった」と池澤氏は言う。「なんとかして戦争を回避したい」がこの 本のメッセージであると僕は捉えた。イラクという国に住む、ごくごく普 通の人々の生活の一光景をつづった文章と写真である。

僕は、イラクという国のことをほとんど知らない。中央アジアにあり、フ セイン大統領がおり、石油産出国であり、湾岸戦争で多国籍軍と戦った国。 その程度のことしか、知らない。特に湾岸戦争以降、人々がどんな暮らし をし、今この状況でどんな暮らしをしているのか、まったく知らない。
経済制裁(食料や衣料品などの輸入の制限)のことも、知らなかった。その ために、百五十万人の人が亡くなり、うち五歳以下の子供が六十二万人も 亡くなったと国連が2001年に発表したことも(p.30)。この文章の元となっ た資料自体は見つけられなかったのだが、UNICEFの こちら の発表も似たデータを示している(リンク先は英語PDF)。図1、五歳以 下の子供の1000人あたりの死亡率(mortality rate)が1990年を境に、跳ね 上がっている部分に注視した(誤読していたらご指摘を)。

うん……。
今思っていることを簡単にまとめてしまえば、まず「隣人を知ること」で あり、それは「自分にとって当然のことが、他人の当然ではない」ことを 理解することだな、という定型句になる。
だけど、そこまで自分を客観視するのはホントに難しい。たとえば、僕は 車を運転する側に立てば「歩行者を轢いてしまいそうで危険だ。こんなと こ歩くなよ」と思うし、歩行者の立場に立てば「車は危険だ。こんなとこ 走るなよ」と思ってしまう。
車を運転している人は歩行者である部分もあるだろうから、歩行者の立場 の想像は可能だと思うんだ。でも、イラクの人々の暮らしを僕は知らなかっ たから、本書を読むまで彼らの立場を想像することはできなかった。
知ったから何かができる、とは思わない。僕はそんなに分かりやすい人間 ではない。ただ、今は、新聞やニュースの端々で、アメリカの動向を見聞 きしたとき彼らのことを考えるだろう自分であって欲しいと思うし、その ためにもうちょっと向き合ってみようと思っている。


2003.01.8th.は、

『ロミオとロミオは永遠に』恩田陸(ハヤカワSFシリーズJコレクション)
です(2003.01.28.)。

恩田陸って、こういう作品も書くんだなぁ。

荒廃した近未来。エリートになるために受験戦争をかいくぐって「大東京 学園」に入学したアキラとシゲル。そこは、有無を言わせぬ暴力的な指導 と絶望的な未来、そして二十世紀のサブカルチャーが渦巻いている場所だっ た。
……とまぁ、そんな感じである。

受験戦争が本当に戦争の様相を呈していたり、大東京学園=荒廃した東京 であり、国会議事堂や観覧車など、いわゆる有名スポットがアトラクショ ン風に使われている。B級映画ってこんな感じなのかな。怪獣は出てこな いが、出てきたって不思議ではない。
いちおう、高校、という設定なのだが、国家の設定がなかなかに破天荒で、 『バトルロワイアル』を彷彿とさせる。

サスペンス性というか、高校時代の濃縮度が良く出ていて、これからどう なるのか、とハラハラして一気に読んでしまった。
しかし、主眼であるはずの、あちこちに出てくる「二十世紀を思わせるも の」は、うーむ、どう楽しめばよいのか、イマイチ不明。奇妙にゆがめら れていて、分かる人だけにはわかるというマニアックな描写がニヤリでは あるのだけれど、やや食傷気味。純粋エンタテイメントとしては、やたら と荒廃した近未来を引き起こしたサブカルチャとしての悪意が根拠づいて 書かれているし、未来に対する希望は中途半端で放り出されている。これ は、「そういえば、そういう時代もあった」という郷愁なのだろうか?
二十世紀をまるで異世界だと思うと楽しいのかもしれないが、まだ続いて いるんだよ、そのゲーム盤から降りるわけにはいかないんだ、と思ってい る僕の二十世紀はまだ終わっていない。


2003.01.8th.は、

『夏の夜会』西澤保彦(光文社ノベルス)
です(2003.01.26.)。

これはすごい。西澤保彦の作品には実験的なものが多いけれど、これは 大成功の部類に入ると思う。個人的に衝撃度ベストの作品。
推理小説が成立する前提条件は「記憶がたしかなこと」。今回、それが 二転三転する。名探偵には、洞察力や観察力以前に、記憶力の才能が必 要とされるのだ、と改めて思い知った。

披露宴で数十年ぶりに再会した友人と話すうち、昔の事件の記憶がよみ がえる。「あったっけ、そんなこと?」……「んもう。ほんとに当てに ならないな、記憶って。井口は死んだのよ、その年の夏休みに」。掘り 返される昔の事件。そうして、犯人探しが始まるわけなのだが。
事件の真相を探ることに加え、本作では、何が事件だったのかを探るこ とが加わる。この二つが入り混じって推理は二転三転。このひっくり返 される感が気持ちよい。ラストがいくつもある推理小説みたい。あぁ、 アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』に近いかもしれ ません。

本作にここまで思い入れたっぷりなのは、じつはごく最近、似た体験を しているから。
今年の正月に、高校時代の友人たちと「高校のクラスの位置」について 話したのだが、これが面白いほど思い出せない。クラスの場所はおろか、 何階建てだったかすら、曖昧なのだ。さらに、自分が何組だったかも曖 昧。昔はそんなふうに自分の記憶が曖昧だってこと、ぜんぜん考えもし なかったなぁ。成長だろうか?きっとそうだろう。


2003.01.7th.は、

『虚空の逆マトリクス』森博嗣(講談社ノベルス)
です(2003.01.25.)。

「トロイの木馬」「赤いドレスのメアリィ」「不良探偵」「話好きのタク シードライバ」「ゲームの国(リリおばさんの事件簿1)」「探偵の孤影」 「いつ入れ替わった?」の七編収録の短編集です。
『21世紀本格』(光文社カッパノベルス)収録の「トロイの木馬」は、やは り佳作。似たシチュエーションの作品はほかにもあるけれど、この短編は、 余分だと思われる最終章がとてもすごい。作者から読者に向けてテーマが メッセージとして発信されているかのようでもあり、ここからネタバレ→ 「きみ=僕=篠原千宗」が、香山を通じて自分が寝たきりである状況を知っ た、言い方を変えるとネストをひとつ開いた状況になったことを意味する。 焦点は、「きみ」に問いかけているのは誰か、ということ。たぶん、だぁ れもいなんでしょうね。それはたとえば音楽を作ったのが誰でもないよう なもの。誰かが作ったわけではないけれど、音楽はある。あるけれど、音 楽が僕に質問をすることはない。そんなふうに考えると、最終章は、本来 どこにもないはずの一節。それを書くことができる、その言葉や小説や世 界の矛盾性がとてもきれいです。 ←ここまでネタバレ。

「いつ入れ替わった?」が犀川・萌絵シリーズです。いいね。こういう話 は好きです。分かりやすいと言われようとも。

森博嗣の作品を読むとき、これは僕が良さを理解できるぎりぎりの作品か も、と思う。作中に出てくる技術ではなく、小説の手法や推理小説の約束 事があるのかないのか、その境界線上にあるという面白さ。
ただ、今回は上の二作以外は、ギリギリ境界線の外にあった。ラストの展 開の部分を読んでも、イマイチ落ちない。小説としてその展開がきれいな のは分かるのですが、異様に残り続ける。それがねらいなのかもしれない けれど、だとすると少々肌に合わないかも……。


2003.01.6th.は、

『クビツリハイスクール』西尾維新(講談社ノベルス)
です(2003.01.23.)。

勢いに任せてどんどん読んでいます。第三弾です。

言葉遊びの技術がうまい。
一作目の「うにー」という玖渚友、二作目の「……みたいなっ」という 葵井巫女子、本作の「……ですよ」という紫木一姫。それぞれのキャラ クタごとに言葉使いがきちっと使い分けられている点。それから、特に 本作で、怒ったり泣いたり、感情が素で出てくる、つまり言葉づかいを 作っていない場面の書き分けがステキだ。
仮面をかぶる、という状況が多々あるけれど、ごく当たり前のように仮 面をかぶり、相手が仮面をかぶっているもの、として進んでゆく世界。 そして、それをさも当然のようによめてしまう僕。

哀川潤の依頼で《首吊学園》にいーちゃんが潜入するところから話は始 まる。あとは読んでのお楽しみ。今回は、比較的、ひとつ次の章くらい の展開を「こうなると面白いかも」と思っているとおりに進んだので、 とても読みやすく、なんだか心地よかった。
個人的に、今回の白眉は、いーちゃんの本名当てクイズと、哀川さんの セリフです。前者はもうちょっとヒントが出てきたら総当りでチェック するスクリプトでも書いてみるか、と思ってる(インスピレーションは なかった……)。後者は、ホント、そうだよなぁ、って思う。こうやって、 やや無理やりにでも自分自身に活を入れなきゃ。筋肉は限界を超えて初 めて新しく作られるというけれど、精神も同じかもしれない。
さぁて、しゃきっと前向いてゆこう!


2003.01.5th.は、

『ファンタズム』西澤保彦(講談社ノベルス)
です(2003.01.22.)。

気がつかなかったよ。氷川先生の指摘を読むまで、ホント、ぜんぜん。 うーむ……。まだ、読み逃している気がする。以下完全なネタバレ。未読 の方は読まないようにね。ここから→ 地の文で、テレポーテーション能力や、二ヶ国にまたがる殺人のことを最 初から露骨に書かれていた、という試みは面白い。いやホントに気がつか なかったものなぁ。
←ここまで。帯の『騙されるな!よくできた物語に。燃やせ!!今ある自分 の地図を。』とはよく言ったものだ。

さらにネタバレ→ ビートルズのImagine訳を使った主体と客体論も、この小説の構造自体を指 している、というメタ性がある。作者の与える客観ではなく、読者の持つ 主観で物事を見ろ、と。「不可能犯罪の犯人は超能力者でしたー。ぷっぷ くぷー」という素人物語の裏には、「でもそれって最初から書かれてたよ」 という事実がある。
「君が読むべきなんだよ」というメッセージ。犯人の主体性のなさは、テ レポーテーションできるがゆえに場所に制限されないことで逆に足がかり をなくしてしまった人間像を描いているのだろう。これを同じようにメタ 性とすると、煩雑に存在する小説や書評の中で、自分が何を読むのか、自 分はなにを読んだのか、自分は何を感じたのかという主体性を失っている 現状を映していることになるのかも。そう考えるとすごいな。
小説って正解があるモノだと思ってたけど、そうではないって言いたいか もしれない(紋切形過ぎるかな)。
←ここまで。

「推理小説」=「納得させること」という構図を前面に押し出した『ナイ フが町に降ってくる』とか、思想はすごくシンプル。それをやってしまう あたりが、すごいわ。氷川先生の指摘を読んでよかったよ。まだまだ、読 者として未熟だってことが分かっただけでも収穫。主観を、磨こう。


2003.01.4th.は、

『クビシメロマンチスト』西尾維新(講談社ノベルス)
です(2003.01.20.)。

西尾維新、売れていますね。「逃げ」を肯定している姿勢が、癒しに見える のかもしれん。主人公いーちゃんの云う「戯言だから」ってのは、銀英伝の 「それがどうした」と張るくらい、それ以降の対話・思考を封じ込めてしま うセリフかも。特に、会話をキャッチボールではなく個性を露出するための 戦いと捉えた場合に有効かと。

ただ、単に「逃げ」の話ではなくて、登場人物が逃げていることを意識して いて、ゆえに警句を吐く、というあたりが新鮮、あるいは救い。前半から中 盤にかけては好き勝手に言動・行動しているのだけれど、実はその根っこに 現実に対する彼彼女なりの醒めた覚悟があって、人生ってきびしいね、って 改めて思ったりする。
なんだか、そんなに本性を隠さなくて良いのに、って思ったり、誰に対して 隠しているの?って思ったり。読者は語り手と同じ範囲でしか登場人物にア クセスできないわけだけど、「じつはこんなことを考えていた」というのが なんだか、ルール違反っぽい。いや、推理小説系の話なんだから、そういう 部分があるのは当たり前なんだけど、自覚的に嘘をつき続けられるのって、 やっぱり小馬鹿にされている気がする。目的語と主語は、「読者である僕が」 「登場人物に」です。

前作では静かにしていた、主人公いーちゃんが今回は活躍。前作で巻き込ま れキャラという印象が強かったし、いーちゃん自身は相変わらず余生を送り たいと自分では思っているかのようだが、どうしてどうして。トラブルメー カじゃん。
気がついているのに気がついていない振りをするとか、そのへん達観してい るあたりが、周囲から見ると無責任、しかしそれ以外に生きる道を否定して (逃げていて)いるのが、なんだか寂しそう。

そういえば、世界設定が確立されていて、収束や作りこみではなく、新しい キャラクタの追加という形で目新しさをひくというあたり、清涼院流水と似 ている気がした。作者自身が読者に対して自覚的にワナを仕掛けているあた り、自意識が微笑ましいのだけど、やや小馬鹿にされている気もしないでも ない。気のせいだろうか。関係ないけれど、玖渚友のラストの移動はルール に引っかからないのか?と気になったりもする。


2003.01.3rd.は、
『夢・出逢い・魔性』森博嗣(講談社ノベルス)
です(2003.01.18.)。

じつはこちらも、トリックをふと知ってしまったので封印していた。これで ようやくVシリーズを追いかけることができる。

今回は珍しく、密室トリックがシンプルだった。そして脇役が豪華だった。 塵も積もれば山となるというか、シンプルな構図を繰り返すときちんと作品 で成立するという見本だな。ほら、複雑そうにみえるプログラムでも、初期 バージョンの機能はきわめて限られていて、バグも多い。完成品だけ見ると ビビって、「僕が何をやっても追いつけない」「僕が作ろうとするものは、 きっと誰かが作っているに違いない」と思うけれど、そう思うことはやめよ う。自分で自分の可能性を否定してどうする。若干先輩方を舐めつつ努力す るのが正当かと。

タイトルそのほか、語呂合わせが多く、ちょっと縛られすぎです。森博嗣は 腕の見せ所、つまり制限を作るのはうまいけど、本作では活かしきれていな い。……でも、今回は仕方ないかもしれない。というのは、本作の犯人像が、 奇妙にぬるぬるしている気がしていて、これって作者の制御を越えちゃった からだと感じたから。
これまで、犯人の考え・主張は、理屈としてはわかるけど、感覚的に理解で きるわけではない(言葉では「僕」に到達できないってことか)、というのが これまでの路線だったんだけど、本作はやや、犯人の思考のがわかる。それ だけに気持ち悪うぅう。


2003.01.2nd.は、
『火蛾』古泉迦十(講談社ノベルス)
です。(2003.01.15.)

第十七回メフィスト賞受賞作。二年以上前の作品を今ごろ読み出したのは、 本書のラストをふと見てしまって、それを記憶から消すのに(ぼんやりとは おぼえていたけど)二年かかった、ということ。

カバーの手触りが心地よい。ノベルスの安っぽさがなく、個人的に好きなデ ザインだなぁと思っていたら北見隆氏の作品だったんだな。角川文庫の三毛 猫ホームズや、最近では『三月は深き紅の淵を』も氏の作品だろう。今邑彩 とか。つまり懐かしい感じ。

のっけからのイスラム世界史のぶり返しのような講釈は、もうちょっと分か りやすくなるのではないか、と思ったが読みにくいほどではない。ペルシャ 地方の用語はアルスラーン戦記を思い出させる。ファルサングとか。

……と、ずーっと本編についてひとことも触れずに書いているのは、本編に 触れること自体が、きれいに閉じた輪をこじ開けることになるからかな。こ ちらにも確立した世界はあるけれど、この中にもたしかに、確立されたゆる ぎない世界がある。つまり、そういうことだ。

関係ないんだけど、本書を読んでいるとき、「幸福は幸福な人の中にしかな い」っていうフレーズを思いついたんだ。裏(対偶ではなく)をとると、不幸 は、不幸なことを考える人の中にある。ほら、殺人事件を解決する探偵は殺 人事件について犯人より凶悪なことをたくさん考えているだろうから、犯人 より罪深いはずだ。という心理。
つまりそれが、無知の知ってことなんだろうか?でも、なんだか少しちがう。 マクロがミクロにつながるときにはおそらく膨大なエネルギーが必要になる のだろう。うーん、意味が分からなくなってきたのでこのへんで。


2003.01.2nd.は、

「ダックスフントのワープ」藤原伊織(文春文庫)
です(2003.01.13.)。

同名の文庫本に収録。年に一・二度、どうしてもこの小説を読み返したく なることがある。手元に残している小説は、後に引用するだろうとか、シ リーズの伏線があるからとか、意味不明な場所があるから読み返して理解 しようとか、言葉にできるていどには理由がある。本書を除いて。

広辞苑を一日五ページほど読み、分からないことは考え続ける少女。若干 自分をそこに重ねないでもないが、僕にはそこまでの豪胆さも環境の変化 もなかった。あるいは、彼女に創作を話す「僕」の、世界の傍観者たる姿 勢に惹かれるのだろうか。そうかもしれない。たしかに、本多孝好の『AL ONE TOGHER』、西尾維新のいーちゃん、に通じるものはある。

ただ、上の二つの小説と違い、この物語の結末はどこか宙に浮く。人生が 主観的にいきなり終わるように、結末を予測させながら結末に到達するこ とはなくその唐突さが結末でしかない、ということを認識させられるまで に、少し時間がかかる。あるいは、時間をかけても分からない。
このへんって、うまく言葉にしてしまうと嘘になるね。見方を変えると、 とことんまで寂しいまでの彼と彼女が、僕は好きなのだと思う。

何度読んでも、ストーリーの断片が芋づる式には出てこない。たかがひと つの短編だけど、それを思い返すとき、とても豊かな人生をみることがで きる。世間にはあまり知られていないかもしれないけど、僕にとって間違 いなく傑作。


2003.01.1st.は、

『クビキリサイクル』西尾維新(講談社ノベルス)
です(2003.01.09.)。

なんだか、新世紀エヴァンゲリオンのごった煮さ、を思い出したよ。

去年末、2ちゃんねる発端の企画にフラッシュ紅白なるものがあったんだ。 フラッシュってのは簡単に言えばCG動画なんだね。で、有名なフラッシュ 職人が紅白に分かれて競い合ってた。なかなか、面白かったさ。
ただ、10本ほど見ていると飽きてくる。「魅せる」技術はすごいんだけど、 やりたいことが分かりやいかわりに、分かったからもっとちゃっちゃと進 んで!って思うようになったんだな。

で、エヴァンゲリオン。情報が多ければ良いというものではなくて、情報 と情報の繋ぎ方を変えるだけで、全然別のストーリーが見えてくる、とい うあたり。広い意味では推理小説がそういう構成を持っているということ なんだろうけど、本書では人間の思考そのものを、その構成で書いている のな。それがなかなか面白い。

言葉遊び、という単語のニュアンスの中に「遊び=実際には役に立たない もの」というのがあると感じる。反論すれば「法律」とか「制度」は実際 を言葉に置き換えたものだし、「励ましの言葉」で動く人だっている。過 去の世界大戦だって、国王や首相の言葉が発端だと言われているし、表に は出てこないだけだ、……となるのだが、うそっぽい。
言葉=理では表現できないもの、というのは確かにあって、いくら正しい ことでも聴きたくない瞬間とかもあるわけで。主人公は戯言ばかり使うけ れど、でもその事実以上に彼は周囲にとって気にかかる存在なんだろうな と自然に思う。


2002.12.6th.は、

『「聞く技術」が人を動かす』伊東 明(光文社カッパ・ブックス)
です。

会社の同期にひとり、一緒に仕事をしている別会社にひとり、とても弁の 立つひとがいる。話を聞いているうちに納得させられてしまうことが多い し、もっとその人の話を聞きたい、その人に話を聞いて欲しい、と思わせ る話し方をする。
さて僕は、「これを言えば相手を傷つけるのではないか?」と躊躇して、 どちらかというと聞き役にまわることが多い。だから「聞く技術」を磨く ことで道が開けるのでは、と思った。のだが……。

本書は、僕には駄目だったなぁ。
構成は悪くないし、良い対話例文と悪い対話例文を紹介することで、場面 ごとにどう話せばよいか具体的に書かれているのは分かりやすいし、実践 的。しかし、その対話例文がぎこちない。「そんな都合のいい展開にはな らんだろう」ってことが多いのだ。そして、それよりも問題は、本書の著 者が「その人が本当に言いたいこと」について、ほとんど触れていない気 がしたこと。
口下手な人、たとえば僕は話すことがないのではない。話したいけれど、 どう話せばいいのかわからないし、それを自分が話して大丈夫なのか、と いう問題に答えが欲しいだけなんだ。「うまく」会話ができることはうれ しいけれど、それってその場はうまくまとまるけれど「本当にうまくまと めてしまってよかったの?」ってきっと思う。
うまく話せないことは躊躇、ためらい、不信、恥じらい、生真面目さなど を表現するひとつの方法だろうと思う。それは悪いことではない。良い悪 いで会話を評価しようとしている、○×方式がそもそもおかしいのではな いかと次第に思えてきたんだ。

これで会話がうまくなる、というのは本当かもしれない。でもそれって、 会話を馬鹿にしていると思うし、会話がうまくないことを馬鹿にしている と思う。会話ってそんなに簡単なものではないと思うからだ。

……って書いてみて、では僕なりの会話術はなにかと聞かれると、極論、 自分の言いたいように話せばよいということに帰ってくる。うまく話せれ ばいいけれど、別にうまく話せなくてもいいから、それはそれとして自分 の話をしよう。不愉快がられたら反省して、感心してもらえたら喜んで。 会話をするとき、うそをつかないこと。嘘をつかない会話の回数を増やし て慣れてゆくことでしかないのだろう。うまい話し方=技巧に頼る、なら ばそれは利用するけど、あんまりたいしたことないなぁ、って思おう。
反面教師として、本書は僕に話すことの自信をくれた。感謝。


2002.12.5th.は、

『蟲師3』漆原友紀(講談社)
です。

今回は、小説ではなくて漫画です。
会社に行く前に、本屋によって出勤途中に読み始めたんだけど、仕事前に せつない気持ちになるのは、なんだか不思議な感覚だった。それに気持ち が仕事に切り替わるのがなんだか惜しい気持ちがした。

人には見えない、もうひとつのいのちのカタチ=蟲。さまざまな蟲と人間 の関係を書いているという切り口は妖怪譚に近いか。ただ、妖怪譚よりも 起承転結(特に結)がしっかりしていることと、肯定のメッセージ性が強い ことが特徴だろうと思う。
近い漫画はなかなかないのだけれど、しいて言えばナウシカかな。ただ、 あれほど「正しいこと」を貫くのではなく「楽なように、ありのままに」 で書かれているので変な(意固地な)抵抗をしなくても済む。

一巻からずっと追いかけていてどれも水準以上(買った甲斐があり、手元に おいておきたいと思う)のだけれど、三巻は特に良い。作者の懐の深さ、 人間性の暖かさを感じる。
ちょうど、宇多田ヒカルのアルバムと同じように、一巻が新鮮さを、二巻 がやや迷走ながらの方向性を、三巻が自信に満ちたオリジナリティと深さ を提供している感じがある。方向性−−作者の根っこには、ことごとくま じめに物事に向かうことであり、さらにそれを気恥ずかしさや人目を気に することなく、ものすごく肯定することがあると思う。
「癒し」がブームになって久しいが、癒しとは結局のところ、肯定なので はないだろうかと思う。そのままで、ありのままで良いよ、という肯定。

僕にも、僕の専門分野でこれと同じだけのクオリティをもつものが作れる だろうかと考えてみる。無理かもしれないと思うところは、僕が規則から 抜け出すことに躊躇していること、自分独自の色を出したときに否定され ることが怖いことだろう。
これをやっちゃ駄目、あれはやらないほうが良い、といわれ続けてきたこ と。やらないことで安全ではいられたし、やらないほうを選択したのは自 分だ。けれど、やらなかったことで失ったものを想うと、奇妙にいとおし い気持ちになることもある。
他人を傷つけないように、という主義で生きていたけれど、このままでは 息が詰まってしまう。他人を傷つけたくはないけれど、自分を傷つけるこ とは嫌だ。ではどうするか。
問題のたて方が間違っているのかもしれないが、この問題については、人 を傷つけないことが最優先事項ではないと今は思う。自分らしくあること が最重要であり、その中で人を傷つけないように動くのが筋だ。なにをい まさらなのかも知れないけれど、回り道をした分、不自由さは良く分かっ ているし、その格闘の時間がこれから僕の味方になってくれるはずだ。

『ブラックジャックによろしく』佐藤秀峰(講談社)という医療漫画のこれ また三巻に、「要は理屈じゃ子供は産めねえんだよ」というせりふがある。 最近、自分の住んでいる世界が理屈で割り切れない、いわばいくつも理屈 があってどれかがだけが正しいわけではないと実感する。つまり理屈=あ る価値観やシステムの中での効率の良い行動・思考指針、だと思う。
違うルールのなかで過ごすことは、とてつもなくつらいことだし、寂しい ことだ。そのなかでは、いったん自分の価値観を措くのも良いかもしれな い。たとえば人は死ぬ。それはそれだ。いくらつらくても変えようがない。 だからそれは肯定する。悲しむ自分も肯定する。それはきっと両立が可能 なんだ。


2002.12.4th.は、

『神様のパズル』機本伸司(角川春樹事務所)
です。

角川春樹事務所からハードカバーで出ているのだけれど、雰囲気は角川ス ニーカー文庫に近いと思う。分かりやすい(萌えやすい)キャラ造詣、お約 束のいくつかのシーン。しかし、骨格でありベースとなっている物理学の アプローチはすごい。手を抜かない職人の仕事、という感じがする。

サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』はベストセラーになったけれ ど、ワイルズの証明を追いかけられる人だけが読んだわけではない。たと えば僕。惹かれたのは「本物の理論」から香る、偶然のような整合性、別 アプローチへの耐久性、飛躍と収束の繰り返し。
本作は、「無から宇宙が作れるのなら、人間にも作れるのではないか」を 根幹のテーマとした、しかしその問題に真正面からぶつかり切っている。 このテーマを思いついたとしても、問題の形を変えたり、設定を変えたり して、正面から寄り切ることができる物語はまず書けない。ものすごい新 人である。

そんなわけで、「宇宙を作る」アプローチが物語のメインにあり、これは 難解な物理論なのだと思う。しかし、その本物に似た(ひょっとすると本 物なのかもしれないとも思う)貫禄は十分。

小松左京が瀬名秀明(あるいは彼を含む数人の学者)にした質問に「宇宙に とって文学は必要だろうか?」と聞いたというが(『ハートのタイムマシン』 瀬名秀明より)、本書は奇しくも同じ問いを発する物語ではないか?

ストーリーではなく、骨子のテーマのための小道具という観点から考える と、恩田陸の『三月は深き紅の淵を』も作中作ひとつの物語としてのクオ リティを持ち、『ミネルヴァの梟は日暮れて飛び立つ』ジョナサン・ラブ (文春文庫)は、作中に登場する幻の書「至上権論」を巻末につけたりして いた。有栖川有栖も漢字を創作していたっけ。無責任な想像なんだけれど、 それぞれ、作者自身の嗜好がじかに表れた例であり、無駄に終わるかもし れないけれど楽しい、という雰囲気が十分に伝わってきていた。

後半はややありがちな展開に流れるんだけど、そのきっかけがひとひねり あって、丁寧な仕事をする作者だなと思える。
蛇足だが、穂瑞沙羅華と綿さん、という微妙なネーミングのセンス、僕は 好きだなぁ。


2002.12.3rd.は、
『スパイク』松尾由美(光文社)
です。

ロールプレイングというゲームのジャンルがあります。「ファイナルファ ンタジー」や「ドラゴンクエスト」に代表される、自分を登場人物に重ね て異世界での冒険を楽しむゲーム。僕もときどきそういうゲームをするの ですが、プレイした感想のなかで「ストーリーが一本道だった」という批 評をときどき見かけます。
ロールプレイングゲームには、ちょっとした非日常的な出来事が連鎖して 展開する場面(ストーリーは規定)とユーザが異世界(ワールドマップ)を自 由に移動できる場面の二つから構成されているものが多いのです。一本道、 というのはこのワールドマップ移動ができるシーンが少ないから自由度 が低くてつまらない、という意味だととらえました。
でも、僕は逆の意見を持つことが多いのです。生きているうえで、全体が 見渡せることって、まずないと思うから。作り手がワールドマップを見せ ることは、「この物語はこの世界の上で起こります」という限界を示して いるように感じるから。どこに続いているのか分からない道を歩くときほ ど、わくわくするのではないだろうか?

さて、松尾由美という作家は、物語の中にワールドマップをこれっぽっち も書かない作家なのです。帯は「恋の始まりは、心が痛い。」と平凡な恋 愛ものの香りがしますが、ところがどっこい。まずこのストーリーは想像 できないでしょう。『わたしの犬「スパイク」がほんの少し前、ほんの短 い期間だけ、幹夫の犬だったこともある』というストーリーからは想像も つかない冒険譚とせつない話が展開するのです。

読み終えてから、たとえば泣きそうになる直前で顔をぶんっと振って、泣 こうとしたことすら忘れて前向きになろうとするほどの、心地よい切ない 気持ちになるのだけれど、それは、この作者の静かな目があるから、可能 なのかもしれないと思います。
主人公に思い入れるでもなく、ただ、静かに見守っているような筆致を随 所に感じます。それがとても心地よい。押し付けられるのではなく、一緒 に物語をつむいでいるような感じを受けます。

松尾由美の小説は、いつも、ちょっとした心地よいフレーズと、大胆で不 可解な(気持ちは分かるが理では語れない)シーンがあるのです。p.159、 自分の気持ちに素直に開き直るシーン。それから、作家先生をたずねるシー ン。思い込みかもしれないけれど、作者が女性だからこそ書けるシーンだ ろうと思うのです。怖さと不可解さと、ちょっとした……嫉妬? のよう な感情を僕は持ちました。

読み始めたら一気読みの本作。あんまりメジャーになってほしく ない気持ちもする一方、ゆっくりと静かに多くの人に読んでもらえると良 いなぁ、と思うのです。


今回(2002.12.2th.)は、

『チョウたちの時間』山田正紀(徳間デュエル文庫)
です。

「どんな本でも面白い」とは京極堂の台詞だけど、本書は僕には面白 かった。ミステリ作家・SF作家の大家のひとりである、山田正紀氏の 約20年前に出版された作品である。まず最初に、文章の読みにくさが 目に付く。意地が悪いようだが、そうなのだ。
それから、一冊にこれでもか、というくらいのアイデアを注ぎ込んで いるんだけど、化学系読み物の「ちょっと面白い話」程度にしか書か れておらず、物語にうまくシンクロしていない。どれもブツ切れ、と いう感じかな。名作SFに挙げられることが多い『虎よ!虎よ!』みた いな感じ(僕はこちらもついてゆけなかった。波の視覚化は大好きだっ たけれど)。なので一気に読むにはジェットコースター的な快感が得ら れて良いけれど、じっくり読むのには耐えないかも。

それでも。これだけ欠点を挙げたんだけど、それでも、本書は僕にとっ て面白い。その理由は二点ある。
ひとつは、文章が下手なのは、イメージが泉のように湧いてしまって 言葉で説明するより先に頭の中の画像が進んでしまうのだろうな、と 想像できて、その意味で作者の熱意・若さが伝わる。
もうひとつは昨今の達者な文章を書く山田氏にもこんな時代があった んだ、ということを知ったこと。僕は説明がうまくないので、共感し たし、もっと丁寧に話して良いんだ、という感想も持った。限られた 時間の中で説明するのって難しいよね。アイデアが湧いてきたり、多 くの視点を持って自分の中で討議をしながら話すときなんてなおさら だ。うん。いいぞ、この思考方法。

本書のテーマは「時間」なんだけど、タイムとラベルというよりもむ しろ、人間の可能性について。『オネアミスの翼』にあったと思う(や や記憶は曖昧)、「人間は、どこまで広がってゆくことが許されている のでしょうか」に近いテーマも内包する。テーマが大きすぎて書きき れていないけれど、倒れても倒れても、しかも泥臭く倒れていても、 前向きになる力はある、ということが分かる。敵もいることはいるの だけど、善悪の価値基準ではない。ちょっと新鮮。

あとは、本書は緒方剛志(イラスト)・上遠野浩平(解説)にも惹かれて 買ったんだけど、両者ともいい仕事をしていると思う。上遠野氏の小 説のあとがきが好きなんだけど、それはテーマを自分で設定したフリー トークだからできるのだと思っていたけど、ちがった。「青春と、時 空の戦いについて」という与えられたテーマの中で上遠野氏の思考方 法が凝縮して展開される。名解説。
緒方氏は、読み終えてから表紙を見ると、気がつかなかった視点があっ て、なるほど!と感心。名表紙。良いコンビだね。


今週(2002.12.1th.)は、

『ハートのタイムマシン!』瀬名秀明(角川文庫)
です。

教育に携わる人、必読!だと思う。本書は高校生向けに「学ぶことは 楽しいことだ。僕のこれまでの経験を話そう」という視点で書かれた 本。『岩波高校セミナー 小説と科学』を底本にして、新しく章を追加 したお買い得バージョンだ。

一言で言ってしまうと、瀬名氏の「真摯」な姿勢と熱意で構成されて いる本である。つまりは、まっとうな姿勢の本。瀬名氏は『パラサイ トイブ』『BRAIN VALLAY』に代表される作家であると同時に、一流の 研究者でもある。カテゴライズした言い方で言えば文系と理系の先端 を両立している人なんだけど、結局その二つを実現するための姿勢は 一緒で、「好きなことをやること」「とことんまで(納得するまで)や ること」なんだと思えた。

や、それって良く聞く話だけど、実際に「こうやっている」という話 を聞く事はまれで、だからこそ逆に背筋が伸びる感じがする。
たとえば簡単にお金が入る、という話に僕は乗せられないと思ってい るし、乗ったことはなくて、自分なりにまっとうな判断をしていると 思う。だけど、視点を大きくして「人生」という単位で考えると、楽 なほう、ちょっとずるをしてでも儲かりそうなほうへ流れていることっ てあると思う。
年齢を重ねるごとに、「まっとう」に生きることがいかに難しいか、 だんだんわかってきた。

まっとうでないこと(楽なほうに流されること)の何がしんどいかとい うと、結局自分は何がしたかったのか、分からなくなること。しんど いことはなく、つまらないことが多い。個性の探求・探索ができない のだ。考えてみれば当たり前で、「楽なほうへ」ということは、「み んながしていることをする方向で」ということと一緒だ。

木村拓哉のプロデュースした、同世代との対話番組のなかで、このま まではいけないという思いを、数多くの若者が抱えていることを知る。 それは、なんだろう、世界が徐々にそうなってきている萌芽なんだと 思う。シンクロニシティ、と言えるかもしれないけど。

本書で、一番「すごい」と思ったのは、質疑応答で構えたところがな いこと。僕の場合は、何か格好良いことを言わなきゃと思って、結局 言えなかったり、実は問題が分かっていなかったりするからさ。それっ て、何が違うんだろう。人の話をきちんと聞くということ、相手の意 見と自分の意見が違っていても、それを恐れないこと、なのかな。


今週(2002.11.4th.)は、

『[プロ編集者による]文章上達<秘伝>スクール』村松恒平 (メタ・ブレーン)
です。

今を逃すと手に入らないかもしれない、という本だと直感。本は簡単 に手に入らなくなる、それが名作かどうかには関係なく。たとえば、 佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』『戦争の法』、保坂和志『プレーン ソング/草の上の朝食』、沢木凛『リフレイン』、重松清『ビフォア・ ラン』、北川歩実『金のゆりかご』などなど。
そういえば、評論家が「プレーンソング=平易な歌」と勘違いしたこ とに保坂氏が怒っていたことを読んだとき、僕も同じく勘違いしてい て、文章が平易だからといって、手を抜いてはいけない、ということ をしみじみと実感したことを思い出した。

「平易な文章のほうが、書くのに時間がかかる」とは本書でも書かれ ている。説明が前後するが、本書は、いわばQ&Aの文章講座。メールマ ガジンをまとめて書籍にしたものだ。現時点で、このメールマガジン のバックナンバーは最新から過去10回分しか読めないから、本書の存 在には意味があるといえるだろう。
本書をはじめ、ちょくちょく、メールマガジンの加筆訂正版の書籍が 増えてきているように思う。時間をかけて自分の思考をいろんな視点 からチェックするよりも、自分の思考が叩かれたとしてもそれに負け ないだけの強さ(しなやかさ)を持つこと、という方向性が確立されつ つあるのかもしれない。
話は脱線しているけれど、本書のような質の高い文章講座が陽の目を 見ないのは非常に残念だから、ふと手にしてそのまま買ったのだけど、 良い買い物をしたと思う。

文章講座・文章読本は過去にいくつか読んだことがあって、でも、そ れは単語や文章の構造について、「どう伝えれば良いか」という視点 で書かれていたのだと気がつく。伝えたいものがある、それをどう書 けば効果的に伝わるのか、と。
しかし、伝えたいものがぼんやりしていたり、そもそも伝えていいの か分からなかったり、書くことで逆にマイナスになることを恐れたり、 そういう運用上の話はほとんどなかった。もちろん、時代によって大 きく異なるからなのだけれど、メールやホームページ媒体が普及して、 小説を書くことから発表することへの技術的敷居が低くなった現在な らではの講座ともいえる。

回答者の質問の中で、一番はっとさせられたのは「小説の書き方に正 解などない」ということ。なんだかね、商業主義を想定して、既存の システムの上で書くことが「効率が良いことだ」って考えるから、間 違ったことをしてはいけない、って考えて萎縮してしまう。うーん。 どうも僕はその傾向が強いね。でも、同じように考える(質問者)ひと もいるんだなぁ、と思って、ちょっとほっとしたりもした。

小説を書くって、なんだか、いいね。もっと自由で、もっと好きなよ うに書こう。それって、好きなように生きるってことに近いかも。


今週(2002.11.3rd.)は、

『ああでもなくこうでもなく』橋本治(マドラ出版)
です。

橋本治と聞くと、あるていど本読みの僕は「あぁ、『桃尻娘』の人? 今何やってるんだろう?」だった、はず。格好つけて、中公文庫の 『窯変 源氏物語』が出た当時、こういう本をさらっと読めるのが格好 良いのだろう、と思って買い集めたけど、いまだ読みきっていない。 もう数年、積読状態だ。格好悪い。

「変わった小説を書く人」から、「へぇ、マフラーも編むんだ」「エッ セイも書いてるんだ」ということになった経緯は、よく分からない。 今、手元には25冊ほどの橋本治の本がある。未読も多いけど『シンデ レラボーイシンデレラガール』(北宋社)や『これも男の生きる道』(ち くま文庫)が印象的だったな。
口調が乱暴だし、面倒くさがりなんだけどきちんとこちらを向いて話 をしてくれるのが良くわかる。それで良いから突っ走れ、と言われる。 ま、相談したいときというのは、突っ走る理由が欲しいときだから、 僕にはそれで十分だ。

さて、橋本治の活躍の場のひとつに「広告批評」という雑誌がある。 僕はあまり広告に興味がないので、この雑誌を手に取ることはないの だが。そのなかで、橋本治は主に時評を書いている。時評=時代評論。 しかし、時代評論というものが僕にはイマイチ分からない。何かにつ いて論じるとき、その論を「時代」と切り離すことは不可能だから、 どう書いても時評の要素は入るのではないか、だから時評というジャ ンルが存在することが分からない。評論をジャンル分けするとすれば、 誰に向かって書いているか、しかないのではないかと思う。

本書で橋本治がターゲットにしているのは、自分自身に対しては「何 をしていいのか分からないけど、このままで終わってしまうわけには いかない」と感じられる人だろうと思うし、自分を取り巻く世界に対 して「何かがおかしくて住み心地が悪いけど、何がおかしいのか分か らない」人だろうと思う。まさしく僕だ。

本書では、96年12月から99年8月までの時事について、橋本氏から見 た、「結局のところ責任はどこにあって、問題は何か」ということが 小さく結論づいて延々と進む。「この問題の原因はいろいろあって… …」って逃げてしまいがちだけれど、一つ一つ検証してゆくと、さほ ど難しいことではないことが分かる。むしろ、先送りすることで、負 債を背負ったような形になって体に良くないのだな、ということも感 じる。うーん、仕事の話みたいだ。

現時点で、続編・続々編と出版されている。最近の拉致問題について、 僕は「いろいろな視点があって、何が正しいのかよく分からない」と 言って逃げてしまうけれど、橋本氏はどんな風に考えたのか、気にな る。改めて考えると、橋本治のすごいところは、情報過多にならず、 かといって情報不足にもならずに論が出てくるところだと思う。作家 って、どんな視点を持っているんだろう。興味津々。


今週(2002.11.2nd.)は、

『ハッピーアイスクリーム』加藤千恵(マーブルトロン)
です。

幸せにならなきゃだめだ誰一人残すことなく省くことなく

……というのが、本書をぱらぱらめくったときに見かけて、「買おう」と 決断するきっかけとなった短歌です。
才能だなぁ、と思う。小難しい文章だったなら、頭でこしらえて、本当っ ぽいことを書くことはできる。でも、ここまでシンプルにまっとうなこと は書けない。そもそも、与えるエネルギーが違う。

短歌集には見えない、まっピンクで薄めのソフトカバー、なのに1700円も する、加藤千恵の処女短編集。僕の大学時代の友人が短歌をやっているの で、最近「そういう世界もあるのか」と思いはじめて、ふと本書に出会う。 運命の出会いかもしれない。それは大げさだが、これまで素通りしていた 世界を垣間見ていること確か。友人に感謝。

隣に第二短編集『たぶん絶対』もあってぱらぱら見たのだけれど、こちら は僕にはイマイチでした。恋愛をテーマにしたものが多いのだが、その多 くは「どこかで読んだような……」というものであったし、ちょっとひね りの効いた表現を使おう、という新鋭の著者に対する期待のプレッシャが 間接的に見てとれてしまった。

短歌は、そのくらい心が丸裸になるものだし、たぶん、嘘をついた短歌は つまらない。その意味で、加藤千恵が本書を書いた瞬間瞬間の感性が奇跡 的なほど、綺麗だったということなんだろう。

まっピンクのカバンを持って走ってる 楽しい方があたしの道だ
と加藤千恵は詠む。どうか、そうであって欲しい。影でこっそり応援して います。ちなみに、僕の最新の短歌は、
あらためて言葉にすると照れるけど 書かないことは信頼すること
でした。まだ、心を隠していますね。うーん……。


今週(2002.11.1st.)は、

『虹の家のアリス』加納 朋子(文藝春秋)
です。

シリーズ第一作『螺旋階段のアリス』がちょっと印象薄の作品だったので、 本作には過剰な期待はしていなかったんだけど、「幻の家のアリス」と 「鏡の家のアリス」のテーマはつき刺さった。

前作のテーマは「夫婦」、本作のテーマは「家族」。よく考えてみると、 本シリーズの探偵は「見知らぬ誰か」の事件を解くよりも事件をきっかけ にして探偵や探偵助手の考え方の意固地なところを解きほぐしているよう に見える。意固地なところというのは、いわば時間の積み重ねだから、簡 単に解きほぐせるわけではないけれど、そこに問題があって原因さえ分か れば、あとは時間だけの問題になることも、また確かだ。

「幻の家のアリス」は、まさに探偵たち自身の問題である。真相よりも、 それをどう伝えるのか(は描かれないが)に興味津々。一番の謎は人間が成 長してゆくうえでの変化なのかなぁ、というふうにも思う。成長というよ り自分自身への回帰か?

「鏡の家のアリス」は、その構造と推理小説ならではの展開が良い。おそ らく僕が推理小説をたくさん読んでいるから逆にど、一瞬あっけにとられ る感じがしたのではないか、と思う。眩暈に似た高揚感?

僕は冒頭の謎が論理的に解明されることに快感をおぼえるのだが、それよ りも本作では探偵助手の心理に……、「惹かれる」であり「怖さを覚える」 でもある。彼女には表面に現れている優等生的な行動とは不連続な心理状 態がある。その飛躍が魅力。


今週(2002.10.2nd.)は、

『闇の中で子供』舞城王太郎(講談社ノベルス)
です。

書いておいてなんですが、「いや、よかったか、これ?」と自分でも思う。 受け付けない人には全くだめだと思う。でも、これで豪胆さとか自信とか、 そういうものが得られる人もいるんじゃないか、という気もして。という のは、僕自身がこれでちょっとエネルギーをもらえた気がしているから。

物理的に見ればさ、小説って紙についたインクの染み。「温かいココアが」 って書いてあってもココアが飲めるわけじゃないし、それで体があったま るわけじゃない。でもさ、そのインクの染みに起想されて、なにか「ある」 あるいは「出てくる」んよ。舞城王太郎の小説は破天荒なんだけど、それ は、その「なにか」が大きすぎて言葉という文法(コトワリ)じゃうまく書 き取れていないからだ、きっと。

あー、そうそう。本作を読んでいるときに、初めて「夢に泣かされる」と いう経験をしたのだ。小説を読んでいて疲れていつの間にか寝入るという ことはある。で、夢の中で小説の続きを勝手に作るということもよくある。 でも、今回は違ってた。自分がその小説から起想される現実(過去)のなか にいて、そのころの感情が一気にぶり返してきた。起きてから、そのころ 持っていた感覚と今の感覚の落差に激しく傷ついて、しばらく激しい不安 に襲われた。……泣ければ楽だったのかな。
なんだか、昔好きだった児童書を買いに走ったりしたよ。

『土か煙か食い物』(講談社ノベルス)に続くシリーズ第二弾で、本作は前 作を読んでいないと意味が分からない部分が多々あるし、ネタバレもある (ご注意)。前作ほどミステリっぽくないし、暴力シーンはさらに酷くて、 理屈の上からいうと僕は受け付けないタイプだと思ってたけど、こちらの ほうが強烈なモノをもらったなぁ。理不尽極まりないんだけど、愛とか衝 動とか言葉にできないモノ、を書くにはこの手段しかなかったのかもしれ ないとか思うし。

清濁併せ呑むとか、ポジティブシンキングとか、そういう治癒の話は、善 い悪いの基準があることが前提になってると思う。たとえば人を傷つける ことは悪いこと。いやそれは分かってる。でもさ、人を傷つけたいという 感情がどうしても出てくるのであれば、それはあるものとして認めるべき だと思うのさ。負の感情をないものとして扱っても、善ばかりになるわけ じゃない。こういう、ちょっと困った感情がある。それ自体は善でも悪で もなくて、処理の仕方で善にも悪にもなるってことだけだから。まぁ、そ んなことをこの小説を読んで思った。あぁ、でも、もちろん傷つけるのも 傷つけられるのも嫌だけどさ。
もし、自分に困った感情があっても。「どうするかな」という過程がある わけだから、その感情を必死になって「これはなかったもの」と隠す必要 はないし、そうなると素の自分のまま、良いほうに持ってゆけそうな気が して。無意識的に嘘をつく必要がない、そしてそれでうまくやってゆける、 というのは僕の理想像のひとつだから。


今週(2002.10.1st.)は、

『絡新婦の理』京極夏彦(講談社文庫)
です。

京極堂シリーズ第五弾。これまでに出てきた主なキャラクタがほとんど出て くるので、シリーズを通して読んでいると「この人からあの事件はこう見え ていたのか」が分かるという特典がある。……が、本筋には関係ない。
文庫化は今年(2002年)だが、講談社ノベルスで出たのが1996年ということを 確認してびっくり。そんなに時間が経っているとは思えなかったからだ。

そんな本を改めて紹介するのは、最近読んだ本の中で一番「綺麗」だったか ら。言い換えると、作者の意図が一貫していて小説内で破綻していないとい うこと。分厚い(文庫版で1374ページ)にも関わらず、矛盾していない。たく さんの登場人物がキャラクタとして立っており、入り乱れて話は進むのだけ れど、作者がきちんとコントロールしていることを感じる。納得できない結 論にはならない、と安心して読めた。結末ではなく、結論。

以下、さらに私観である。
冒頭の京極堂と犯人の対話は、事件のエピローグだ。物語を最後まで読み、 もう一度このエピローグを読んだとき、僕は「寂しさ」を見つけた。誰かに ひどく傷つけられた・何かを失ったという、犯行の原因にある寂しさではな く、犯人の存在自体の寂しさ。
現代、ひととおりの満足を得ることができる。それは逆に言えば倒すべき敵・ 守るべき味方の境界がないということ。それはひとつの寂しさである。この 寂しさを抱える理を紡ぐことができるかどうか。それは本書に語られない未 来の物語である。


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