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 第一章 亀島山地下工場   1 亀島山地下工場

 倉敷市水島。かつて新産業都市計画で知られた水島臨海工業地帯のはずれに、亀島山と呼ばれている、文字通りの亀の形をした山がある。標高七八メートル、南北約六〇〇メートル、東西約三五〇メートルという小さな山である。急勾配のため畑も人家もなく、雑木が生い茂っている。四〇〇年ほど前までは水島灘に浮かぶ小島であったという。
 水島在住の在日朝鮮人一世・安采鎬さんの証言によると、十五年戦争の末期、一九四三年の末か四四年のはじめ頃から、アメリカ軍の空襲に備え、三菱重工業水島航空機製作所の疎開工場がこの山の地下に建設された。これが亀島山地下工場である。地下工場(トンネル)は未完成のまま敗戦を迎えたが、『アメリカ戦略爆撃調査団報告書』によると、この地下工場は総延長二〇五五メートル、総面積七八四八平方メートルのトンネルだった。東西に五本の主坑があり、それらを結ぶ支坑がムカデの足のように掘られている。同『報告書』には十一箇所の出口があるようになっているが、実際には、敗戦の時点で、西側に三ヵ所、南に1ヶ所の計七ヵ所であった。他の四ヶ所は貫通しなかったものと思われる。
戦後、出入り口はふさがれたり、土砂の流入で埋もれたりして、現在出入りできるのは西側の一ヶ所だけである。
 トンネルは、南から北へ順次掘られ、南から一号隧道、二号隧道(〜五号隧道)と呼ばれていた。内部は、素掘りのままのところが多いが、コンクリートをまいたところも数ヶ所ある。とくに一号隧道は、幅も六〜七メートルと広く、コンクリートでまかれた部分も多くて、地下工場らしい雰囲気を残している。
これ以外はだいたい幅三メートル程度で、天井の高さは、背をかがめないと通れないところからはるかに高いところまでさまざまである。
 堀削当時は、隧道内部には坑木が立てられ、枕木を敷いて岩石や土砂をトロッコで運び出していたというが、戦後、近所の人たちがたきぎにと、ほとんど持ち去ってしまったという。今は、枕木の跡と朽ちた坑木がわずかに残っているだけである。        当時をしのばせるものはほとんど残っていないが、一部に電気配線用の碍子が散乱していたり、ダイナマイトをつめる穴の跡や、くさびのようなものが突き刺さるようにして壁面に残っている。
 内部は真っ暗である。また、場所や季節によっても違いがあるが、トンネル内には水がたまっていることがよくある。くるぶしから膝くらいの高さだ。当時も足を水につけて掘削作業をしたという。                                       戦後、水島工業地帯造成の埋め立て用土砂を採取するのに亀島山に発破をかけたというが、その時の落盤と思われる個所がトンネル内に数ヶ所ある。
 この地下工場は、中央高校社研部がその掘り起こしを開始するまでの戦後四〇数年間、倉敷市民のあいだでもその存在はほとんど知られていなかった。知っている人も防空壕だと思っていたらしい。まして、このトンネルが朝鮮人の強制労働によって作られたという事実は、地元の在日韓国・朝鮮人のあいだでさえ衆知のことというわけではなかった。
 この地下工場について、戦後いち早く報道したのは、私の知る限りでは、一九四六年八月二二日付の合合新聞(現在の山陽新聞)である。それは、次のように報じている。 この東日本一の大航空機工場を空襲から救うために大地下工場に移転する計画は終戦直前進められいよいよ当時の呉海軍施設部長田中技術大佐指導のもとに当面の工事は倉敷地方海軍施設事務所が担当、(中略)もしこれが完成していれば五千平方メートルの大地下工場重要機械施設の約六割を収容するはずで終戦までの総工費一千万円・・・。
  一九八七年、中央高校社研部の部長・中村明美は、滋賀県大津市で開催された第二二回全国高校生部落問題研究集会(以下、全国部落研集会)の閉会集会で、岡山県を代表して特別発言をした。
 まず私たちが驚いたのは、この地下工場のことが、倉敷に古くから住んでいる人びとのあいだにさえほとんど知られていないこと、文字に書かれた資料がほとんどないということでした。ほぼ完全に忘れ去られていると思いました。(中略)
今でこそこの地下トンネルを保存することが一番よいのではないかという人が多いのに、なぜ、いままで四〇数年間も放っておかれたのだろうかと思います。(中略)
 亀島山は、このまま放置しておいたら、崩れ去ってしまい、人びとから永遠に忘れ去られてしまうのではないでしょうか。私たちはそうさせてはならないと思います。

高校生のこうした素朴な疑問と決意とがその後のとりくみの出発点となった。