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亀島山地下工場は三菱重工業水島航空機製作所の疎開工場であった。三菱重工業水島航空機製作所は、太平洋戦争勃発の直前に、本社工場である名古屋工場が操縦能力の限界に達したため、適地を求めて分散・進出してきたものである。
今日の倉敷市水島は、岡山県三大河川のひとつである旧高粱川をはさんで、かつての備前国・児島群福田村と、備中国・浅口群連島町を合わせた地域である。当時は、河口ののんびりした農村であったという。倉敷市編『水島の戦災』は工場誘致の背景を次のように記している。
当時、高梁河口には、三〇万坪の廃川地があり、入植農家は三〇戸あまりで、畑では主に大豆、落花生、藷等を栽培していた。付近の海岸は一面の干潟であったため二〜五メートルの埋め立てにより広大な敷地が確保でき、また、輸送条件についても陸海とも可能であることなど、立地条件が非常によかった。
゛水島"という地名は、三菱重工業の誘致を機に、高梁川沖合の水島灘から命名されたものである。
三菱重工業の航空機製作場の水島誘致が決定したのは、一九四一年五月であった。一九四一年といえば太平洋戦争の勃発の年。日米開戦をひかえ、航空機の増産体制は火急の課題であった。そのあわただしい様子は、四一年三月から五月の誘致決定までのわずか二ヶ月間に、海軍航空本部、海軍省建設局をはじめ名古屋の三菱重工業関係者が合わせて九回も来県し、調査・決定を行ったスピードぶりに表れている。
水島誘致決定後すぐに岡山県は用地の買収にのりだした。買収はほとんど強制的で、全耕地をとられてたちまち困窮するものや、土地以外に頼るものがない老人から生き甲斐を奪うなど、悲惨な事態を生んだという。
当時の強制的な用地買収について、一九六四年の倉敷新聞は特集「水島前夜を語る会」(一九六四年2月三日から二三回連載)の中で次のような生々しい証言を載せている。
「白紙に判を押させた」
「゛土地買収で交渉するから集まれ、判をもってこい"の式だった」
「゛何が何でも判を押してくれ"という白紙一任。町役場の二階で県から遠藤さんという総務部長さんが来ていた。
『戦争ははげしくなってきた。国をあげての゛総力戦"のときだ。かわいいわが子、いとしい父を戦争に送った人た
ちも多い。そのつもりで国へのご奉仕に土地を出してくれ』というわけ。価格は押しつけ。これらの会合にはいつも
特高さんが顔を見せていた。県の買い上げ話に異論をはさんだり、少しでももつれるようなことがあると、『ちょっ
と本署へ来てもらおうか』と特高さんが奥の手の助け船。だから話は簡単につく」
こうして一九四一年一一月、廃川地の葦原に三菱重工業水島航空機製作所の本工場建設工事が着工された。計画によると、工場(滑走路を含む)、厚生施設、社宅等を含む約一〇〇坪という広大な敷地の軍需工場であった。工場の建設は海軍省が、その施設による航空機製造は三菱重工業が行うという「官設民営」であった。敗戦までの間に生産された航空機の総数は五二二機。うちわけは、一式陸上攻撃機五一三機、戦闘機紫電改九機である。
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