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『アメリカ戦略爆撃調査報告書』によれば、アメリカ軍の空襲に備えて一九四四年七月頃には本工場の分散疎開がはじまった。岡山・笠岡・津山・玉島など各地の製鉄・機械・木工・繊維関係など既設の工場を含む合計二〇ヶ所が疎開先で、亀島山地下工場はそのうちの一つであった。他にも「鶴」という暗号名の地下工場、「松」という暗号名の半地下工場も建設にとりかかっていたが、未完成であったようだ。他に、県南西部の学校の廊下などにも機械類が疎開させられていたという。
亀島山地下工場は航空機の部品生産工場であった。しかし、実際に生産が行われていたかどうかは、はっきりしない。
証言に食い違いがある。機械は搬入されていたが、部品生産はほとんど行われていなかったのではないかという当時の三菱重工業作業員の証言がある一方で、『東川町史』には次のようにある。
亀島山隊道工場は、最終的に、工作機械三五〇台、就業人員七〇〇名(昼夜交替人員を含む)と云う大規模なものであった。
しかしその稼動は隊道の整備が追いつかず、トンネルの掘削をしながら機械を搬入し、動力線を引き込んで、即、稼動という離れわざであった。
また、次のような記述もある。
トンネル工事は大林組があたり、機械搬入・据付は中谷組が行った。そして機械をつかう技術者として、養成工・備用工・動員学徒・女子挺身隊と主に一六歳〜二〇歳の若者が次々と入坑していった。
確認はできていないが、女子挺身隊の若い学生が機械に髪を巻き込まれてけがをし、病院へ運ばれたという証言もある。
結局、地下工場の存在自体が極秘事項であったため、そこで生産活動が行われていたということを、三菱重工業の一般社員やトンネル堀に従事していた朝鮮人、その他の人びとには知られないように何らかの措置がとられていたのではないかと思われる。そのことが、戦後、トンネルの存在を忘れさせたのではないだろうか。
先にものべたように亀島山地下工場は、本工場が空襲で破壊された場合でも航空機の生産が継続できるようにと建設された疎開工場であった。しかし、もし仮に地下工場での部品生産が順調に行われるようになったとしても、本工場は一九四五年四月からの八回にわたる空襲、とりわけ六月二二日の空襲で潰滅的打撃を受けていた。航空機の製造継続はとうてい不可能なことであった。発想の段階から軍部の判断は「狂気」であったとしか言いようがない。
しかも、前途の倉敷新聞の特集「水島前夜を語る会」の証言によると、当時のある三菱重工場建設下請業者は、「私は一九年ごろには゛勝てそうもない戦争だ"とうすうす疑問さえもちはじめていました」と語っている。一般国民の中にこのような声がではじめている中での地下工場建設だったのだ。
太平洋戦争末期に、亀島山地下工場のような地下の秘密施設が全国にどれくらい建設されたかは明らかでない。兵庫朝鮮関係研究会の調査によると、航空機関係の工場だけで、計画だけで終わったものも含めて全国に一〇三ヶ所。そのうち確認されているものは、一九八九年一一月現在で、十数ヶ所となっている。
また、一九八一年八月十三日付の朝日新聞は、「太平洋戦争の末期、本土決戦をとなえる旧日本軍が全国各地の山中に秘密のうちに飛行機部品の工場や弾薬庫などを建設していたが、これらの地下施設は旧中部軍の管内(東海、近畿、中国、四国)だけで約二百ヶ所にのぼる」と報じている。
これら地下軍事施設の建設には軍部が深くかかわっていた。亀島山地下工場の場合、呉海軍施設一〇一部隊がトンネル堀りの指揮をしていた。一九四五年三月、同部隊に軍属として入隊した横溝禎信(聞き取り当時六一歳)によると、一〇一部隊は数名の兵隊と軍属あわせて一二〜一三名が常時勤務しており、測量・設計などが主な仕事であった。横溝氏は敗戦後すぐ残務整理を命じられ、三日間かけて書類や資材その他すべてを焼却処分し、部隊は敗戦から一ヵ月後に解散したという。
証言によると、亀島山地下工場の掘削開始は一九四三年の末か四四年のはじめである。四二年のミッドウェイ海戦につづき、四三年のガダルカナル島からの撤退、四四年のマリアナ沖海戦、サイパン島守備隊全滅と、戦局は日本敗戦に向けて転がり落ちていた時期だ。さらに、前出の朝日新聞によると、陸軍は一九四五年から五月にかけて計二〇の地下施設隊を編成し、全国に配置したというから、軍部はすくなくとも四三年末から四五年の敗戦ぎりぎりまで、地下軍事施設の建設を推進しようとしていたことになる。
しかも、亀島山地下工場の建設の場合、危険な仕事や重労働を伴う仕事には多くの朝鮮人労働者が使われていた。彼らは牛馬のような非人道的な扱いを受けながら働かされ、それでも不足する労働力は強制的に連行されてきた朝鮮人労働者によって補われた。こうした事例は他にも多くある。戦後、一部の地域では比較的早い時期から朝鮮人の強制労働や地下軍事施設の実態を明らかにするとりくみがすすめられてきたが、大部分の地域では戦後四〇数年以上、今日にいたるまで放置されたままになっているようだ。私たちは、小さなとりくみであっても、全国各地でこの歴史的真実を明らかにする必要がある。
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