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  2章 明らかになった強制連行・強制労働の実態  2 戦時中の水島における朝鮮人労働者の概要

  中央高校社研部は一九八七年から八八年にかけて七名の在日韓国・朝鮮人から聞き取り調査を行った。
不思議なことに、最初の一歩を踏み出すと各方面から情報をいただくようになった。もちろん在日日本大韓民国居留民団(以下、民団)や在日日本朝鮮総連合会(以下、朝鮮総連)の両組織の協力もいただいた。
 聞き取りしたテープは文章におこし、記録していった。同時に、こうした証言資料を整理・検討していった。するとやはり、戦後四〇数年という歳月の長さを感じぜずにはいられなかった。ほとんどの方が八〇歳前後という高齢になり、記憶ちがいなどで証言にはいくつかの食いちがいもあった。
 数々の証言と乏しい資料を照合し、最大公約数的に集約すると、次のような戦時中の水島における朝鮮人像が浮かびあがってくる。
 一九四一年の三菱重工業の誘致決定後、水島には西は九州、東は京都あたりから,多数の朝鮮人が集まってくるようになった。当時、予算総額五億円ともいわれた大工事であったためか、西日本各地の朝鮮人のあいだでは、水島に行けば仕事がある、食べることには事欠かないという情報が流れたらしい。
 集まった朝鮮人の総数は二〇〇〇人ともいわれている。彼らは、亀島・明神町・南畝・松江の5ヶ所のバラックの中ではもっとも大きなものだった。収容人員は合わせて一〇〇〇人を超えていたという。バラックの棟は一号から二九号まであり、棟はそれぞれ真ん中に道路をはさんで一〇部屋、五〇人くらいは入れたという。家族持ちの中には二部屋もらっている人もいた。一方、独身者は飯場であった亀島のバラックでゴロ寝していたという。建物は松の甲柄をうった外壁の粗末なもので、冬にはすきま風が吹き込んできたという。床にはドンゴロスを敷いていた。
 仕事は、本工場(三菱重工業水島航空機器製作所)の滑走路がまだ未完成であったため、その埋め立てと亀島山のトンネル堀りの二つにわかれていた。トンネル堀に何人くらいの朝鮮人労働者が動員されていたのかは明らかではないが、一九四六年八月二二日付の合同新聞には、「毎日軍隊も動員して千二、三百名の労働者が出動」という記載がある。
 強制連行されてきた朝鮮人もいた。倉敷新聞の特集「水島前夜を語る会」には、「県下の農民は老幼男女の別もなく日雇い労働者になり、それでも労力が不足したので竹中組は軍の援助によって朝鮮から労働者を入れていたのであった」と書かれている。その数百人前後であったようである。朝鮮で金鉱堀をしていた人々が中心であったという証言もある。
彼らは、亀島・明神町の朝鮮人たちからは離れた別のバラックにいた。そのバラックは鉄錠網の柵で囲まれ、憲兵の監視下にあって、一般の出入りはまったく許されていなかった。三〇〜四〇歳くらいの朝鮮人が多かったようである。
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