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 2章 明らかになった強制連行・強制労働の実態  3 朝鮮人強制労働の実態-在日韓国・朝鮮人の証言

聞き取り調査で朝鮮人労働者の実態が明らかになってきた。
 戦時中、いちばん悲しかったことは、なんであれだけ働く者をバカにするのかということでした。隊道内では、人夫が油を売っているとか何とかいうとよく殴られていました。まるで朝鮮のブタ箱にいるようなものでした。「人夫をなぐるのは牛をなぐるのと同じだ」といって殴っていました。かわいそうで見てはおられませんでした。人間の見るものではありません。
 私は、「働いている労働者に大きな感謝をもって、人間としてのつきあいをやってくれ」と、よく巡査たちと口論しました。
 とにかく、働く者を大切にしない無茶苦茶な状態でした。
これは、一九八七年に聞き取りをした安采鎬さんの証言である。安さんは当時八三歳で、水島在住の在日朝鮮人一世であった。
 安さんは一九四二年、広島から三二人の朝鮮人人夫を連れて亀島に移ってきた。いわゆる人夫頭である。水島に来てからは゛仕事出し"をしていたというが、バラックで人夫の世話や監督をして仕事に送り出す役目であろうか。この段階ではまだバラックにはそれほど多くの朝鮮人は入っていなかった。のちに、安さんの奥さんもそこで炊事係りの仕事をするようになり、強制連行されてきていた朝鮮人の食事の世話もしたという。
 安さんはトンネル堀の仕事をしていたわけではないが、朝鮮人の強制労働の実態を直接目撃した数少ない証人のひとりであった。しかし、一九九一年一二月一五日亡くなってしまわれた。
 一〇〇人前後といわれている、水島に強制連行されてきた朝鮮人の強制労働の実態については明かになったいないが、証言を通して、漠然とはしているが、その実態の一端を知ることができる。
 李南守さん(聞き取り当時七〇歳、在日朝鮮人一世)は当時、明神町のバラックに住んでいた。夜になるとこっそり抜け出してくる強制連行で来た朝鮮人の面倒をみていた人の一人である。彼らはみな腹をすかせていたという。

 微用(強制連行-筆者注)で来ている人は三五歳から四〇歳くらいの人が多かった。みんな、「仕事がえらい、帰りたい」といっていた。「仕事はタダでもええけど、腹がへって仕事ができん」ともいっていた。それで夜になると、アルミの茶碗をもって、みんなこっそりとバラックから出てくるんです。バラックは見張りをしている人がいたらしいので、「来たらおこられへんのか」と聞くと、「腹がへってからなあ・・・」といっていた。「晩に出てきたのを見られたら殴られるんじゃ」といって、食べたらすぐ帰っていきましたが、ゾロゾロあとからなんぼでも出てくるんです。
 ある時、「嫁さん、おらんのか?」と聞いたら、「姉さん、朝鮮に嫁さんも子供もおるんじゃ」、「ここへ何しにきたん?」と聞いたら、「日本へ行ったら、お金を二倍払うという約束で来たんじゃ」というてました。
 病気の人やけがをした人もかなりいたようです。おおぜい死んだけど、遺骨を朝鮮に持って帰ってはいないと思う。焼いて捨てたんではないですか。
 死ぬより逃げて帰った方がええというので、主人が四人逃がしてやりました。その後、無事に帰ったということを風の便りに聞いています。

 三菱航空機製作所の水島誘致決定後、父親の仕事の関係で東京から亀島のバラックに移ってきた崔徳任さん(聞き取り当時五八歳、在日韓国人二世)も、強制連行されてきた朝鮮人の様子をよく知っている。

 強制連行されてきた人たちは、バラックの垣根ごしに、私たちを朝鮮の娘だと思って話しかけてくることもありましたが、私はその当時は朝鮮の言葉がわかりませんでした。外の様子などを聞きたかったのでしょう。
 でも、時に班長のような人が出てきて、私の父に話をしているのを聞いたことがあります。「トンネル内でたたかれて、足がたたなくなった」とか、「逃げようと思う」とワーワー泣きながらいっていました。父は、「逃げたら、つかまって殺される。自分の運命だから・・・」などといいながら話を聞いていました。
 父は何か食べさせてあげたり、餅などついた時は持たせてあげたりしていました。よく飴をたいたあとのしぼったかすを持って帰っていました。また、飯場で残ったご飯やおこげでも、夏なんかちょっと臭うようなものでも、おにぎりにして持って帰っていました。古着などをあげることもありました。
 逃げた人もいましたが、専門の追っ手がいて、つかまえてきて、みんなの見せしめに、たたいたりけったり、ニ〜三日ご飯を食べさせなかったり、すごい目にあわせていました。

 一九八七年の調査では、実際にトンネル堀りの作業に従事していた人の証言は得られなかった。しかし、八八年に入って、トンネル堀の仕事をしていた金原哲さん(聞き取り当時七八歳)の話を聞くことができた。金さんは、在日朝鮮人一世である。

 トンネル堀は、八〜一〇人くらいのチームを組んで掘っていました。トンネル内は小さなカンテラがあるだけで、灯があるわけじゃないし、真っ暗で、そばに人がいても分からんくらいでした。履くものもないし、裸足で作業をしていました。
 ダイナマイトが爆発するときは、一〇メートルから二〇メートルくらい後ろの方に逃げました。真っ暗いところで、どのくらい逃げたら一〇メートルあるのか、わかるわけがありません。たいがい見当で逃げただけです。危ないもんです。
 夕方、仕事が済んで帰るのは自由でしたが、メシを食べて寝とると、晩に、交番の巡査部長のTと巡査のIが大きな棒をもって二人でグルグルまわるんです。遊んどったら連れて行ってぶん殴るんです。たまには憲兵も来ました。それで、「なんで、仕事せんのか」いうて、ぶん殴るんです。いっぺん私も憲兵に地べたに座らされて、首筋を手の甲で三〇回ほどたたかれたことがあるんです。大きな長靴をはいて、けったり、太股の上にあがったりもしました。そして、引っぱっていって、「仕事をせん」というて殴る。「寝るな」というて殴る。ものをいわんなんだったら「いわん」、いうたら「しゃべるな」いうて殴る。もう話にも何もなりません。そうして夜中の一二時ごろまで働かされていました。見つかったらうるさいから、かくれて寝ていました。
 ・・・・・・・・
 私のチームにも微用工がいましたが、彼らはどこに泊まっとるのか聞いてもいわんのです。「なんでいわんのじゃ」いうて聞いたら、「どこそこへ泊まっとるいうたら、あかん」といわれとるんだそうです。どこへおったかもわからんのです。
福田村のどこかにおったらしいです。微用工は、夜は夜で、昼は昼で監視がついとるし、逃げようと思っても逃げられなかったんです。
 当時、亀島山の裏から連島まで四メートルくらいの高さの堤防があったんです。その連島の松枝病院の手前に大きな棒を持ったヤツが姿を隠して立っとんです。憲兵ではなく普通の人なんです。そこしか逃げる道がないですから、逃げようと思っても逃げられません。逃げようとする者がおったら、つかまえて殴るということなんでしょう。当時はそこまで船が出入りしていたんです。
 微用工じゃなくても、巡査が「お前の家どこじゃ?」「いってみよう、家族は何人じゃ?」いうて、よう調べました。私一人ならともかく、子供もおるし、逃げられやしません。証明書も出してくれんし、日に五回も六回もグルグルまわるし、憲兵も来る。ですから、微用工であろうとなかろうと、縛りつけられて、逃げれんということは同じなんです。
 
 トンネル内では落盤事故もありました。天井がマサ(風化した花崗岩)で、ドーム状にコンクリートをはったが、支えの木がなくて細かったんです。コンクリートをはった二日目だったか、ビリビリビリーッという音がして、さあ逃げようということで逃げたんですが、棒が折れて天井が落ちてしまいました。微用工三人がけがをしました。名前はわかりませんが、「リ」という人と「チョウ」という人と、「ソウ」という人でした。三人とも二五、六歳だったと思います。三人を松枝病院だと思うんですが、連れて行きました。ひとりは死んだと聞いています。「チョウ」さんは、足の骨が折れたそうです。
 この時も、憲兵は私たち朝鮮人を殴る、ける、踏みつけるなど長時間暴行を加えました。
 それから数日後のある日、その死んだ人の友人なんでしょうか、骨を小さな箱に入れて、日本人の墓地の横に埋めようとしているところにちょうど通りかかったんです。墓地で何すんかなあと思って、「何を埋めるんですか?」と聞いたら、「微用工がこうこうして・・・亀島山で死んだから、持っていくところがないから埋めに来たんです」というので、私もいっしょに埋めてやりました。水島港の丸亀行きのフェリー乗り場(瀬戸大橋の開通後、廃止された-筆者注)の手前の左側にある墓の横に埋めたんです。
私も前かがみになってトロッコに土を入れている時、石が天井から落ちてきて腰にあたって、今でもそこがしょっちゅう痛むんです。

 一九八八年にはもうひとり、実際にトンネル堀をしていた人の証言を聞くことができた。在日朝鮮人一世の金振洙さんである。聞き取り当時七四歳であった。

 あの時は、からだが悪うても三日ぐらい休んだら憲兵にたたかれたんです。
 あの時、人間の差別がありました。あの時は「半島人」と呼ばれていたんです。
 憲兵が長い靴をはいて、けったり踏んだり、殴ったりしながら仕事をさせていました。殺したりもしていました。いま考えたらなみだが出るような思いです・・・。「仕事をせん」いうて、そういう差別です。ちょっとでも仕事をせんかったら、コンクリートの上に座らせて、一時間や二時間手を上げたままで、手を上げておらんなんだったら大きな棒で殴るんです。
 憲兵がいちばんきびしいのは、穴を掘ってダイナマイトを入れる時です。早く火をつけて逃げんといけんけれど誰もせんというんです。だから、憲兵が強制的に朝鮮人にやらすんです。まあ、わしらの前にそういう人が四、五人いたんです。大きな石が落ちそうじゃから「入らん」というんです。仕方がないから、憲兵がやかましゅういうが、それでもせんかったら、蹴ったり殴ったりするんです。
 ダイナマイトでは話にならんくらい死んどるんです。病気で死んだんなら分かるけど、仕事で来て死んだんだからなあ・・・。
 私もリンチで痛めた腰が今でも痛むんです。「これをせえ」いわれてせなんだら殴られたんです。手で殴られるならええけど、棒でバーッと殴られるんです。朝鮮人は殴られんとおえんというようなことがあったのです。
 わしは忘れんよう頭に入れとんです。

 金振洙さんからの聞き取りには通訳の人も時おり必要だった。
 金さんは二〇歳の頃、強制連行で福岡の炭鉱に連れてこられた。その後逃げだし、親戚をたよって水島に来たという。金さんは、生徒の質問にこたえて、どのようにして強制連行されてきたのかを語った。

 あの頃は、朝鮮の国では日本軍が力をもっていました。それで、微用だからと村から五〇人か一〇〇人だったかな、団体で微用に行かなんだら相当やかましゅう言いようたんです。
 村では、あの時いちばん上は日本の警察、その次が朝鮮の警察で、あの時は日本の警察が礼状を出してました。何月何日までに誰々が微用に行けと。ちゃんと名前が出ていて、それが葉書かなんかで届いとんです。忙しくて行かなんだったら、自分勝手だ、なんだかんだいわれて警察に引っ張られたんです。それが怖いから、しょうがなしに行くんです。逆らえなかったんです。

 二年間の聞き取り調査で、当時の朝鮮人の強制労働の実態はある程度明らかにすることができた。これをさらに深めていこうと思えば、水島に強制連行されてきた人から直接、強制労働の実態を聞く以外にはない。しかし、強制連行されてきていた人は今日一人も残っていない。
 この二年間、生徒たちは、テープレコーダーをもって、証言者のところに何度も足を運んだ。聞き取りが終わるとテープおこしをし、言葉を整理し、内容を整理する作業を手分けしてコツコツとよくやった。
非常に時間と手間のかかる作業であった。しかし結果として、この地道な作業をしたことが、のちに述べるようにこの年の一年生部員を大きく成長させる原動力になった。