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三人姉妹の長女として、兵庫県の高砂市の漁師の家に生まれたつりたさん。 そして読むだけでなく、自分でも創作を始めていました。 そんな中、1964年(昭和39年)に漫画雑誌「ガロ」が創刊されるのですが、白土三平さんによる「ガロ」誌上での新人募集の呼びかけに応えるべく、つりたさんは原稿を片手に上京し、編集部へと持ち込んだのでした。 その結果、採用となり、同じく採用となった3名の方の作品と共に「新人入選作品」として、1965年(昭和40年)9月号で発表された作品が「人々の埋葬/神々の話」です。 |
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高校の卒業式翌日に友人と上京したつりたさんは、アルバイトで得た収入で質素に生活をしつつ、「ガロ」にざくざくと作品を発表してゆきました。 その傍ら「はざまくにこ」の名義を用いて、若木書房から発行されている貸本や「少女フレンド」で少女漫画なども描くようになり、一時はアルバイトを辞めて漫画に専念していたのですが、水木しげるさんのアシスタントとして水木プロで短期間アルバイトをしたり、喫茶店のウェイトレスのアルバイトをするなど、再び、アルバイトで収入を得ながらの執筆生活に戻りました。 しかし、出来上がった作品が不採用に終わることも多くなり、一時は帰郷することになるのですが、自分自身が特集される増刊号の作品を執筆するために、再度上京したのでした。 絵の通信教育を受けたり、絵本作品の製作を手掛けはしたものの、漫画の方は1971年(昭和46年)12月号以降、しばらくは遠ざかることになりました。 |
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1973年(昭和48年)頃、原因不明の高熱が続くようになったつりたさんが病院で検査を受けた所、膠原病の中では最も症状が重いとされる不治の病・SLE(全身性エリテマトーデス)と診断されました。 翌年の4月号で、およそ2年半ぶりの登場となり、再び作品を発表してゆくのですが、緩急を繰り返しながら病状が悪化してしまったつりたさんは入院生活を送ることとなり、1976年(昭和51年)12月号での発表以降、「ガロ」から遠ざかることになります。 |
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1979年(昭和54年)3月に作品集「六の宮姫子の悲劇」が刊行され、1979年(昭和54年)4月号以降の「ガロ」にも再び作品が掲載されるようになりました。 病気のために、漫画を描くことも困難だったので、掲載された作品は発病以前に描かれた作品が多かったのですが、悪条件の中でも少しずつ新作を描きためていたつりたさんは、今まで使っていた名義とは全く別の名義「風木 繭(かぜき まゆ)」にて執筆した作品「フライト」を青年漫画大賞に応募し、佳作入選を果たします。 「フライト」が「ヤングジャンプ」に掲載される一方で、「ガロ」の方にも少しずつ作品を発表してゆくのですが、病状が更に悪化したため、新作の構想も多数練っていたにも関わらず、1981年(昭和56年)11月号での発表が最後となりました。 1985年(昭和60年)6月、つりたさんは37才の生涯を閉じました。 |
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参考文献 (2003.5.26更新) |
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館長の挨拶 ”長いので どうぞ楽な姿勢で” 私が、初めて「つりたくにこ」さんの名前を知ったのは、内田春菊さんの著書「今月の困ったちゃん(マガジンハウス)」を読んだ高校生の時でした。1990年代前半です。春菊さんと紫門ふみさんの対談も掲載されているのですが、「ガロ」談義に入った時に、「古い”ガロ”の人って、結構亡くなってるそうですね(中略)”つりたくにこ”? さんとか(by
春菊さん)」「つりたくにこさん、すごく好きだった(by
紫門さん)」と、お二人が「つりたくにこ」さんの名前を出していたのです。 そんな私が、彼女のファンになったのは、1997.8年の頃です。結構最近ですね。 どんどん彼女の作品に触れ、「ガロ」の他にも膠原病関係の文献を読んでゆくうちに、私はつりたさんが病のために亡くなられたこと、床の中でも作品を完成させようとしたこと、そしてその病が当時はかなりの難病であったことを知りました。 このコンテンツを御覧になっている方に、つりたくにこさんの作品の魅力を少しでも理解して頂けたら、感激です。 長くなりましたが、「つりたくにこ記念文書館」来館御礼の挨拶と代えさせて頂きます。 南部ぽてこ@「つりたくにこ記念文書館」館長 |