飛行艇



 


十四試中型飛行艇(H10H1)

 昭和15年、海軍は第二次拡充計画の一部として、大艇の数の不足を
補うのを目的として、中型飛行艇の整備を計画、同年5月に空技廠の
指導のもとに、広工廠で設計を行った。当然、大艇にまさる高速をね
らったものであったが、翌16年8月設計が85%まで進み、主要材料も
ほぼ整ったころ、試作中止となった。
 本機はロングステップ形式、完全流線体形を採用した特徴ある機体
で、金星50型2基を装備し、設計性能では最大速度260kt(482km/h)の
予定であった。


K60飛行艇

 昭和16年、二式大艇が実用実験に移行した頃、海軍は続いて次期飛
行艇の計画案を川西に示し、基本設計を命じた。この計画で、骨子と
なっていたのは、日本本土とハワイ間を往復し得る航続距離 5,000nm
(9,260km)、また性能も二式大艇を上回るものということであった。
この要求を満たすため、動力には十七試陸偵「暁雲」にも装備が予定
されていて、当時三菱で開発中の液冷式H形24気筒、2,500hpの ME2A
発動機を2基、双子に結合した三菱ヌ号 5,000hp発動機を4基装備し、
総馬力20,000hpの4発機を計画した。又この発動機は、蒸気タービン
駆動の強冷ファンを有し、冷却空気は後方へ噴出して性能向上を狙っ
た画期的なものであった。
 しかし世界にも例のない飛躍した発動機を装備し、総重量が80トン
にも及ぶ、4発巨人飛行艇の開発が順調に進展するはずがなく、「ヌ」
号発動機は大戦前半期において開発を中止され、本機の計画も、開戦
後まもなく実戦の経験から、飛行艇というものの用兵価値がほとんど
なくなっている事を知らされ、大量装備計画の中止にともない、昭和
17年末には、基本設計の段階で大勢は中止の方向をたどっていた。
 もし、本機が完成していたなら、わが国で計画した飛行艇では、も
ちろん最大のものであるが、また世界的にも画期的な巨人機であった
が、海軍では、さらに本機を大型化した 120トン艇、およびK-200と
称する15,000hpのガスタービン6基を装備したマンモス大艇の計画も
あったと伝えられていた。


試作輸送飛行艇「蒼空」(H11K1-L)

 昭和18年も中頃になると、航空機用物資の枯渇も一層厳しいものと
なり、航空機の木製化が急務とされたが、まだ研究には緒がついたば
かりで技術的確立はなされていなかった。昭和19年1月、このような
段階で強化加工木材を使えば可能性があるという見通しから、全木製
4発輸送飛行艇の試作が、川西に対して正式に発令された。
 川西では竹内一郎技師を主務者として設計に着手し、本機に要求さ
れた大要は、「火星」発動機装備の4発でプロペラは鋼製中空の直径
4.30m、最大速度200kt(370km/h)、搭載量6t、燃料20,000リットル、
航続力2,100nm(3,890km)で、艇内は二層にして物資や兵員(80名)を
極力多く収容し得るよう、かつ揚陸に便利なように艇首を上陸用舟艇
と同様左右に観音開きとなるようにした他、必要最低限の機銃を武装
して、完成期限を昭和20年末としたものであった。
 試作は小松島航空隊に設けた疎開工場で行うことになり、1/2大の
モックアップを作り検討しながら設計を進めたが、いざ試作してみる
と、全幅48.00m、全長37.72m、全高12.58m、翼面積 290屐∩軆杜未
45.5tと、これまで試作にとりかかった機体としては、わが国最大の
巨大機の上に、材料や工作の上で未解決のさまざまな難問題が立ちは
だかった。
 それでも川西や空技廠、11空廠などが協力して懸命に木材加工会社
を指導し、ようやく解決の曙光を見出すことができたが、今度は熟練
技術者が、同じ会社の重点量産機の「紫電改」に振向けられ、工員の
数の不足に加えて質の低下、さらには本土空襲の激化による、不便な
疎開先での試作工事は少しも思うように進歩しなかった。
 昭和20年に入ってから川西は第2軍需工廠となり「紫電改」の量産
に忙殺されるようになり、本機は事実上中止同様の状況となってしま
い、8月1日に正式に中止が決定された。


  
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