6 哨戒機

    哨戒機という機種は、新しく誕生した機種であるが、昭和
   13年すでに近距離哨戒機の試作が愛知に命ぜられ、昭和15年
   試験飛行を行っている。その結果、使用目的が確立されてな
   かったことから多くの改良が加えられ、最終的にその機体は
   練習機として使用されて、対潜哨戒は従来どうり水偵、又は
   艦攻か陸攻に任せていた。
    しかし太平洋戦争が始まると、米潜水艦の脅威が本土近海
   にも及ぶようになり、本格的な対潜哨戒と攻撃能力を備えた
   本格的対潜哨戒機の必要に迫られたのである。
    哨戒機には、全て海の名が与えられる予定で「東海」の他
  「南海」「西海」「北海」「四海」「絶海」「大洋」「白洋」
   などの名称が予定されていた。

 

十九試陸上哨戒機「大洋」(Q2M1)

 昭和18年頃から、航空機用材料の不足を予想し、軍用機の木製化が
重大な課題としてとりあげられるようになり、その一環として19年秋
に「一式陸攻」の木製化を計画したが、これは技術的にも困難がとも
なうため、新規に全木製陸攻「東山」が計画された。しかし海軍では
当時、双発攻撃機を「銀河」1機種に統一すると、していたことから
本計画は中止されていた。
 昭和20年に入ると夜間哨戒機に一式陸攻が使用されるようになった
ため、再度この機種の木製化計画が再燃し、各種電波兵器を搭載した
全木製夜間哨戒機の試作指示が三菱に出された。本機に対する要求の
大要は、対潜哨戒のほか輸送機としても使え、高速、航続性能に優れ
安定性、操縦性が良好なことはいうまでもなく、夜間作戦が容易に行
えること、特に生産、整備の容易なことなどであった。
 三菱では、昭和20年1月から一式陸攻の設計者本庄技師の指導下に
主務設計者を疋田技師として、尾田、杉野、黒岩技師らを補佐に設計
に着手した。特に安定性については本庄技師独自の理論による、翼端
上半角、大面積の水平尾翼など、異色の配置が見られ基礎計画は非常
に洗練された双発機であった。
 全木製化による重量増大に対しては、各部を極度に簡素化した結果、
同じ発動機を装備した「一式陸攻」をしのぐ性能とされていた。だが
モックアップ審査の段階で終戦にになり、試作機の完成を見なかった
のが惜しまれる。なお本機は当初、陸上攻撃機として計画されたこと
により「東山」と呼ばれたこともあったが途中から哨戒機「大洋」に
改められた。

      十九試陸上哨戒機「大洋」(Q2M1)主要目

全幅25.00m、全長18.75m、全高4.75m(3点)、
翼元長.750m(中心線)〜1.250m(翼端)、取付角4.5°、
上半角(外翼)6°。水平尾翼幅10.00m、垂直尾翼高(中心線より)
3.65m、主輪間隔6.25m、主翼面積62.50屐∧篏翼面積1.641平米×2、
フラップ面積4.713屐滷押 水平尾翼面積17.5屐
自重8,850kg、 総重量13,600kg(正規)、14,550kg(過荷)、
発動機
 三菱「火星」25型乙 空冷複列星型12気筒×2
 離昇馬力1,840hp/2,600rpm、公称馬力1,600hp/2,500rpm/1,800m
                  1,450hp/2,500rpm/4,500m
プロペラ 定速4枚羽根、直径3.40m
性能 最大速度265kt(491km/h)/4,500m、
   巡航速度170kt(306km/h)/2,000m、
   上昇時間2,000m〜5′33″、航続距離1,340nm(2,482km)、
   着陸滑走距離555m、
武装 旋回13mm×2、爆弾250kg×4又は60kg×12、
乗員 6名、


南海(Q3W1)

 練習機「白菊」から開発された対潜哨戒機で、20年1月に初飛行を
行ったが、試験飛行中、脚引込み油圧機構の故障から胴着を行った。
「白菊」よりやや大型で、磁探を装備し、脚は胴体内引き込み式にな
っていた。複座で、胴体下面に下方偵察窓を有する。




7 特攻機

    特殊攻撃機の呼称は、海軍の正式機種名でない事は前項で
   述べたが、ここでいう「特攻機」も正式名ではない。当初、
   特殊攻撃機では生還を前提に設計されていたのだが、戦局の
   悪化により帰還を期さない、所謂、特攻機に傾倒していった。
   これに対して、ここに記する特攻機梅花」は当初より生還の
   道が全く閉ざされた必死の兵器として設計されたものである。
   戦争末期に、多くの航空機が特攻機として出撃していった中、
   本機が実用化されなかったことがせめてもの慰めであろう。


「梅花」

 昭和20年7月、東大航空研究所の小川太一郎博士らによって計画さ
れたパルスジェット装備の特攻機で名称を「梅花」として機体は川西、
動力は一技廠で担当したが、終戦のため中止となった。この時機体は
基礎設計進行中で、動力は一技廠の小田原工場で試運転中であった。
本機をひと口にいえば、ドイツの飛行爆弾V1号を有人機にしたもの
にほかならず、基本構想としては、資材、燃料の欠乏により燃料を選
ばないパルスジェットの使用、工場疎開、工員の技量低下を考慮して
極小の機体にまとめ、資材も木材と鋼材を主として簡単で工作容易な
構造を主眼とした。
 本機は航研のLB翼型を使用した日本最初のパルスジェット機で、
エンジン装備方法には2案があったが、最終的には胴体上部に背負い
式に搭載する方法が採用され「桜花」同様、機首に 100kg爆弾を装備
し(後に 250kgに増大する計画)するというものであった。
 総重量1,430kg、全幅6.6m、全長7m、翼面積 7.6屐▲僖襯好献
ットは静止推力 300kg程度のものを装備し、最大速度は海面で300kt
(556km/h)弱、高度6,000mで260kt(481km/h)、航続力は最大で 150nm
(278km)、RATOを用いて離陸距離 800m以内とした。
 降着装置は尾輪式であったが、特攻本番では主車輪は離陸後投棄す
る構造とする計画であった。本機は幸いにも、基本構想がまとまって
ほぼ半月後に終戦を向かえたため、実用化されなかった事がせめても
不幸中の幸いである、


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