日本潜水艦史

第一章 潜水艦の発達と概要

  一 日本潜水艦の生い立ち

1 潜水艦隊の誕生

 平成の今日、わが海上自衛隊の保有する十数隻の潜水艦が、日本の
海の平和を守るため、日夜厳しい任務に従事している。通常型潜水艦
では世界のトップクラスにあり、自他共にその優秀さを認めるこの潜
水艦隊も一夜にして造られたものではなかった。
 ここに、明治の創成期、昭和の太平洋戦争を経て、先人の苦労と多
くの犠牲を礎に創られた日本潜水艦の歴史を繙といて行こう。
 太平洋戦争では世界の海をところ狭しと縦横無尽の活躍をしたわが
日本海軍潜水艦の歴史は、明治37年11月、ホーランド型潜水艇5隻が
分解梱包されて神奈川丸で運ばれ、横須賀港に到着した時に始まる。
まさにその時、日露戦争の真っ最中であった。
 米国のエレクトリック・ボート社で、突貫作業で建造された5隻の
ホーランド型潜水艇は一度解体された後、日本に運ばれ明治37年11月
22日早くも横浜に到着、続いて機材など全部品が、12月上旬には揃え
られ、組み立ては横須賀において直ちに行われた。
 明治38年7月には1号艇が竣工、つづいて2号3号艇と完成、10月
には全艇5隻が竣工した。それを待ちかねていた搭乗員は米国人技師
と操縦員に師事、操縦法や運用に必要な知識の習得に努めたのである。
 明治38年11月1日、海軍は早々に1号艇から5号艇により「第一潜
水艇隊」を編成した。これが後に、潜水空母ともいえる大型潜水艦を
造り、米英に戦いを挑んだわが日本海軍潜水艦隊の誕生であった。
 この年の10月既に露国との戦いは、わが国有利のうちに講和条約が
締結され、戦闘に参加する機会はなかったが、11月末に行われた凱旋
観艦式で、御召艦の目前において潜行、航行など戦技を演じる栄誉を
得ることができた。
 続いて翌年には、ホーランド型の新型設計図を入手した川崎造船所
では、これを機会に日本人だけの手で建造を試み、異常な熱意のもと
見事に6号艇と7号艇の国産潜水艇を完成させ、明治39年3月、その
第6、7潜水艇で「第二潜水艇隊」を編成した。これで日本海軍は早く
も二個の潜水艇隊をもつことになったのである。
 順調に整備されて行くかのように見えた潜水艇であったが、この頃
の海軍では大砲を主力として戦わない艦は、軍艦としてみない風潮が
あり、魚雷を主力とする潜水艇に於いても、それは例外でなかった。
そのため潜水艇が採用されて艦艇類別表に記入された時には、水雷艇
の種類にされて、潜航水雷艇と呼ばれ又‘のろま’で愛嬌のある形か
ら「ドン亀」と言う有り難くない愛称をつけられ、独立した軍艦とは
別な扱いをうけた性能も将来性も十分に認めてもらえない兵器の一つ
であった。


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2 潜水艇と日本海軍

 現在、世界の列強海軍国が保有する潜水艦は、世界の如何なる海域
にでも進出し、速やかに軍事行動をとる事が出来る有力な艦艇として
海軍戦力の一端を担う重要な地位を占めている。しかしこの潜水艦も
初期の頃には、戦闘能力が未知数の小型潜水艇であって、沿岸付近を
辛うじて行動できる幼稚なものであった。
 水中を自由に動き回る乗物の話や構想は古くからあったが、それを
実現し、実用型潜水艦の基本を造ったのがジョン・P・ホランドと言
われている。
 彼は英国の弾圧的植民地政策から逃れ、米国に移住したアイルラン
ド人で、当時アイルランド人の多くが、英国を憎んでいたのと同様に
ホランドも例外ではなかった。
 世界に君臨する大英帝国の繁栄を支えるのは英国艦隊と商船隊だと
考えたホランドが、それらを壊滅させ、英国の国力を低下させようと
して製作を思い立ったのが新兵器、潜水艦であった。彼の研究は既に
完成しており、その構想に資金を調達するなどして陰で支え、実現さ
せたのは、米国に在住する多くのアイルランド人であった。
 1878年(明治11年)に第一号艇を試作、さらに3年後には二号艇を
完成させ実用化に向けまい進し、明治26年にはホランド水雷ボート社
を設立させた。1897年(明治30年)には、この新兵器に興味を持った
米海軍省から受注、6番めの潜水艇を納入した。これが米国海軍での
潜水艦第一号艦になった。
 この頃には欧州でも、既に英、仏、伊など先進国の間だで、競って
潜水艦の研究が進み新型のものを造りだしていた。日本海軍でもこの
新兵器を見逃さなかった。
 明治32年、海軍武官として米国に赴任していた井出大尉は潜水艇に
関心を持ち、幾度となくホランド社を訪れ見学を申し出でいたが全て
許されずにいた。だが井出大尉は、その熱意を知り親交を持つように
なった米海軍の潜水艦研究では第一人者であるキンボール大尉の思い
もよらぬ好意により、当時としては絶対秘密であった潜水艇の内部を
見るだけでなく、洋上に出ての潜行航行を体験、更に運用についても
詳しい説明まで受ける機会を得た。
 又、同じ頃、イギリス海軍に於いても同じような好意により、小栗
中佐は潜水艇の試乗を許され、英国海軍士官による潜航その他、運用
法などを5時間にも及んで体験し、潜水艇のもつ戦闘価値や将来性を
学ぶことができた。
 明治34年8月、時の海相山本権兵衛は井出、小栗両者からの報告に
より、秘められた戦力をもつ潜水艇の採用を決し、海軍武官の井出大
尉にホーランド型潜水艇の購入を指示、その価格の打診を命令してい
たのである。しかし、この時期は日本と露国(ロシア)との間に険悪な
雰囲気が流れており、感情的な事もあって、一応この案は取り消しに
なった。しかし、この時アメリカ海軍が潜水艇の採用を制式に決めた
直後のことである。
 日本海軍が、高価で未知なる潜水艇の購入を早期に決断できた要因
の一つには、潜水艇に付いて詳細な報告をしていた井出大尉と小栗中
佐の功労も有るが、その裏には、米、英海軍の好意によるとこも大き
かったのである。
 この英、米両海軍の協力で発展を遂げた日本の潜水艦隊が、その後
太平洋戦争で、互いに敵として刃を交えることになるとは、この時、
誰も知る由も無かったであろう。


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3 黎明期の潜水艦

 日本と露国とが戦闘状態になって間もない明治37年5月15日、旅順
牽制作戦で行動中、露国の敷設した機雷に触れて主力戦艦6隻中2隻
を一挙に失なってしまった。この戦力を補おうとして急遽、購入を決
めた潜水艇であったが、漸く完成して潜水艇隊を編成したときには、
既に戦争が終結していて、せっかくの新兵器も戦力に寄与することは
出来なかったが、これで日本海軍も列強国に並んで潜水艇を保有する
ことになった。
 当時、日清戦争で勝利を収め、ようやく三等国の仲間入りをしたば
かりの日本海軍が、すでにハイテク兵器の潜水艇を保有した事は後日、
世界三大海軍国と謂われる片鱗をのぞかせ出したときである。しかし、
現代でも後進国が新兵器を装備し終わる頃には、新しいものが出現し
て時を経たず時代遅れとなるように、当時のハイテク兵器でも同じこ
とであった。日本海軍がホーランド型潜水艇を整備し終えた時には、
既に欧州で新型潜水艦を次々と造り出していたのである。
 米国で端を発したホーランド型潜水艇も、欧州にて、英国を始めと
して仏国、独国(ドイツ)、伊国(イタリア)などが競って性能向上をは
かり、各国とも独自の特徴を生かした有力な潜水艦を発達させていた。
いまだ自力で建造する基礎技術をもたない日本海軍では、その技術を
学びとるため、潜水艦先進国である英国、仏国、伊国等から次々と新
型潜水艦を購入、特徴、長所を比較研究することで建造技術を習得し

ようとした。
 明治42年日本海軍では、まず手始めに当時有名なC型潜水艇5隻を
英国ヴィカース社より購入をきめ、2隻は同社で建造したが、あとの
3隻は機材で輸送された後、呉工廠で改良を加えて建造され、C2型
ととして明治44年に竣工した。続いてC2型にさらに改良を加えたC
3型、2隻が大正6年に呉工廠で完成を見た。
 C型潜水艦購入と時き同じ頃ろ、C型との比較研究のため、日本で
初めて設計、計画したわが海軍独自の着想による潜水艇を、ホーラン
ド型で経験のある川崎造船所が建造して、大正元年9月に竣工した。
これが、わが国独自の力で建造した川崎型潜水艇と呼ばれる潜水艦で
あったが、しかし、我が国の潜水艦建造技術は、まだ世界の水準には
及ばず、独自の設計による建造を打ち切り、海外からの技術導入に頼
らざるを得ない状態であった。
 明治44年、当時評判の高かった仏国シュナイダー社にローブーフ型
2隻を発注し、1隻は大正5年に特殊運搬船により呉に輸送されてき
たが残り1隻は、第一次世界大戦勃発のため仏国海軍に買収されてし
まい、その代艦は後に呉工廠で建造された。これまでの潜水艇が単殻
構造であったのに対し本艇は、初の二重殻式を採用した当時としては
画期的な最新型であって、その後の日本潜水艦の建造に大いに参考に
なった艦型である。
 此のようにして、順調に進められるかに見えた潜水艦の整備政策も
海軍部内では、まだ多くの課題を抱え開発も滞りがちであった。それ
には、いまだ潜水艇に対しての認識が薄く、その価値を認める者が少
なかったのと、当初輸入された潜水艇が、あまりにも初歩的なもので
あったのに比べ、当時の艦隊戦闘速力が既に20ノットに達しており、
この艦隊と行動を共にし又、敵艦船に対して魚雷攻撃をする事が出来
るか否かが大きな疑問であったのである。
 それと、いま一つ大きな問題は、水上艦艇に於いても進歩が早く、
日露戦争時に計画された主力艦も、竣工時に於いてすでに旧式艦とな
らざるを得ない情況にあり、日本海軍は洋上の艦隊整備をいそがなけ
ればならなかった。そのためには内燃機、電動機、二次電池等わが国
では、今だ研究中で全てが開発途上にあり、更にトン当たりが戦艦の
3〜4倍もの建造費がかかる潜水艦に、その費用や、技術、さらには
生産設備を削く事は到底無理だったのである。
 この事実は明治44年の海軍充実計画案で潜水艇10隻という数字から
も、又その後大正5、6年迄の間に建造された潜水艇は、川崎型1隻、
C型2隻、シュナイダー社のS型2隻しかないことからも知る事がで
きる。


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4 一次大戦と潜水艦

   潜水艦はヨーロッパで著しい発展を遂げており、イギリス海軍での
画期的な進歩や、日々着々と発展し続ける潜水艦の情報は、日本にも
伝わって来て、第一次世界大戦が始まると、特にドイツ潜水艦の活躍
には注目すべきものがあった。
 この潜水艦が隠密性を活かして行う魚雷攻撃が英海軍の動きを封じ
込め、輸送船団を撃沈するなど予想以上の戦果に、今まで其の価値観
を未知数としていた日本海軍に大きな衝撃を与えた。又、欧州の戦線
では見事に、海軍の一戦力として重要な地位を占め、又適切な用法に
より機会を得るならば、戦艦をも撃沈できるという、その秘められた
戦力は実に驚くべき事ばかりであった。これには日本海軍当局も考え
を新たすると共に、大きな期待を抱かせる新兵器として潜水艦の研究
再開に力を入れることにした。
 これらの事から日本海軍は、自力開発を控えていた潜水艦建造政策
を基より立て直し、艦隊と行動を共にできる速力を持つ艦隊型潜水艦
の開発に着手、これまでより大型の伊国フィアット(ローレンチ)型、
英国L型潜水艦のライセンス生産と共に、再び日本海軍独自の設計に
よる海軍式中型、いわゆる海中型及び特中型の建造を進めていった。
勿論、技術的確立を、いまだ果たせずにいた日本海軍では、再び技術
導入の目的で外国の設計による潜水艦の建造に着手した。
 世界的優秀艦とされていた伊国のフィアット(ローレンチ)型潜水艦
と、その主機の、ディーゼル機関は、製造権を取得した川崎造船所で
建造が開始され、大正9年より11年にかけて5隻が竣工した。だが、
予期した結果が得られず、この5隻で建造は打ち切られた。
 だが一方、英国ヴィツカース社から、新型潜水艦と主機ディーゼル
機関の図面を購入し、わが国で建造されたL型は、性能が優秀であっ
たので、大正9年6月に三菱神戸造船所一番艦が竣工したのを始めと
してL1型からL4型まで、逐次改良が加えられながら昭和2年までの
長期にわたり18隻が竣工した。
 此のようにして、米国からホーランド型潜水艇の購入に始まり英、
仏、伊国から新型艦の購入、又模倣建造により、各国の進んだ技術を
習得し、苦心惨憺の末、我が海軍独自の戦術に基ずく海中型、特中型
さらには海軍式大型潜水艦、通称、海大型と呼ばれる、わが国独自の
大型潜水艦建造に確信を得ていったのである。
 日本の軍艦及び航空機の多くが、外国からの技術導入と模倣から始
まったのと同じように、潜水艦の場合に於いても例外ではなかった。
その技術を日本独自のものとして確立する迄には、先進国の指導のも
とに、よく学び、吸収し更に改善を加え、遂に世界の水準に達するこ
とが出来たのだ。
 太平洋戦争で、自他ともに世界最強を誇った日本の潜水艦は、その
草創期から続けられた先駆者達の並々ならぬ苦労と努力により完成さ
れたが、その進歩の陰には、生命をかけた殉職者の尊い犠牲があった
ことを忘れてはならない。
 明治43年4月15日、6号艇は瀬戸内海において内燃機関による潜航
走行実験中に(今日のシュノーケル走行)事故のため沈没し、佐久間
艇長以下14名の殉職者を出したのである。その後浮上させた艇内より
佐久間艇長の遺書とも言える手記が発見された。
 その浮力を失い海底に鎮座せる艇内で、迫り来る死と直面しながら
書き綴られた文面には、沈没の原因とその対策に始まり、今後潜水艇
に改善を要する諸点、更には潜水艇乗員として必要な、沈着冷静にし
て勇敢な行動、強いては資格、条件などが綿々と書き記されていた。
最後に、部下は冷静忠実に職務を全うし、艇を沈没させた責任は全て
自分にある事を示唆し終わっていた。この遺書はその後潜水艦乗りの
教本として、日本海軍においては長年使用され、潜水艦発展の大きな
礎になったことは間違いないであろう。
 潜水艦の建造は、このように外国の協力と我が国の努力、更には尊
い犠牲のもとに進められていったのである。


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5 軍縮条約と潜水艦

 明治末期、単殻式でガソリン機関を使用したホーランド型潜水艇の
建造技術の習得に始まった日本海軍は、急速に進歩する技術に追いつ
くため、各国より潜水艦を購入して比較検討し、それらのもつ特長を
活かしながら、国産化に向かい努力していた。
 この頃すでに、先進国においては二重殻式構造にディーゼル機関を
搭載した潜水艦が普及し始めており、この利点を認めた日本海軍は、
ただちに仏国のローブーフー型潜水艦を購入し、近代化の研究に着手
した。その結果、大正8年呉工廠ではローブーフー型をモデルにして
日本海軍が独力で設計、建造した「海中型」を竣工、さらに改良を加え
ながら海中2型から3、4型、また特中型の22隻が、大正13年までに
に竣工した。
 これらの後期型に於いては性能も安定し、海軍にあっては多年沿岸
用として潜水艦隊の中核をなし、又その一部の艦は太平洋戦争の初期
に練習用として使用されていた程である。しかしこれらの潜水艦にも
用兵者は必ずしも満足できるものではなく、更に外洋での艦隊に随伴
できる高速で航洋性の高い潜水艦を望んでいた。この要求に答えるべ
き努力がなされ、この間に試行錯誤の末、積み重ねられた技術は後に
建造される海大型潜水艦にと発展して行くのである。
 さて、話は少し先に戻るが、潜水艇が初めて購入された頃のそれは
独立した軍艦として認めてもらえず、水雷艇の種類として艦艇種別表
には潜航水雷艇と表記されていた事は先述のとおりである。しかし、
潜水艇隊が編制され、凱旋観艦式で、潜航、戦技などを演じた翌月の
明治38年12月12日には、この特性が認められて独立した艦種として、
潜水艇と制定された。
 その後、次々と建造される潜水艇の隻数が増えるに従い艦名だけで
なく等級別と艦型による類別が必要になっていった。これも潜水艦の
発展と共に幾度も改正され、したがって年代により艦名が異なる事が
あるので等級別、艦型、艦名に少し触れておこう。
 大正5年8月4日には、型式が多くなったこともあり、排水量によ
り等級を付与して一等(600d以上)、二等(600d未満)と分類したが、
大正8年4月1日さらに、等級別を一等(1,000d以上)二等(1,000d
未満、500d以上)三等(500d未満)に再分類し、潜水艇の大型化に伴
い従来の潜航艇を改称し潜水艦と呼ばれるようになった。
 日本海軍の潜水艦の艦型呼称は大正11年2月14日に初めて制定され
海軍大型、海軍中型などの下に代表艦名の番号部分を採って○○型と
呼称していたが、大正12年6月15日この呼び方を廃止し、それに代わ
り伊号、呂号、波号型などの総称を設けて、一等潜水艦に伊号、二等
三等潜水艦にそれぞれ呂号、波号の冠称を付けて呼び、巡潜型、海中
型などの呼称も設けた。
 さらに大正13年11月1日の類別、等級改正には海大型、巡潜型など
の型式名を制定し、新型艦が竣工するにつれ1型、2型などの細分化
した型式名を追加していくと同時に、これまでの艦名を一新し新規に
改名され、巡潜型は1番から、海大型は50番代から命名された。
 しかし昭和13年6月1日これまでの艦型による総称を廃止し、同型
艦の代表艦名を型式名と制定し、この方式は終戦まで変わらなかった。
「例・巡潜1型伊号第3潜水艦の場合、伊1型・伊号第3潜水艦」
したがって昭和13年以降、海大○型aなどや、甲、乙型の呼称は海軍
部内だけで便宜上使用されただけで正式ではない。尚、昭和6年6月
1日、この頃旧式の波号型は除籍されており、三等の該当艦がなく、
この等級は削除されたが、この類別は終戦まで使用されたため、戦時
中に竣工した波号型は二等潜水艦に類別されている。
 話を戻そう。
 第一次世界大戦も終わり、世界に平和が戻ったかのように見えたが
損害を受けることなく戦勝国となって、太平洋に進出の足がかりを得
た日本と米国は、互いを仮想敵国と想定して海軍力、いわゆる主力艦
建造の競い合いを始めたのである。
 互いに膨張する建造計画は両国の問題のみならず、世界に危機感を
与えるに及んで遂に日、米、英、仏、伊の5カ国で海軍軍備制限会議
がワシントンで開催されるに至った。この会議により日本海軍の主力
艦保有量が、米、英国のそれに対し、6割りに制限されてしまったの
である。
 此処において日本海軍の国防に関する問題はアメリカ一点にしぼり
込まれる事になった。想定される米主力艦隊の渡洋作戦を阻止するた
め、絶対必要とされていた主力艦7割の比率を米、英国の6割に制限
されては、いかなる作戦をもってしても勝算はなく、日本海軍の防衛
策は、まさに危機に曝されたのである。
 この戦力の差を制限外である補助艦艇により補い、西太平洋の制海
権を確保しようと日本海軍は、潜水艦による漸減作戦なるものを創意
した。この潜水艦による漸減作戦とは、ハワイ方面に集結する米主力
艦隊の行動を監視し、さらに出撃があれば後を追い機会を狙って反復
攻撃を仕掛け、米艦隊の戦力を漸減させる。その後、我が主力艦隊を
もって、決戦を挑もうとするものであった。
 それには、艦隊と行動を共に出来る、高速で航続力が大きく、更に
長期作戦に耐えれる大型潜水艦が求められたのである。
 ワシントン条約で不平等な比率を押し付けられて、苦境に立たされ
た日本海軍が、漸減作戦遂行のため造艦技術の粋を集結して建造した
潜水艦が、海大型や巡潜型であり、後に続く甲、乙、丙型などすべて
世界に比類ない強力な艦隊型潜水艦であった。


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