3 第2次特別攻撃隊
昭和17年3月に発表された、真珠湾に散った特別攻撃隊の話しに、
国民が深い感動を受けていた頃、選考にはずされた隊員達の心は穏や
かでなかった。
次期出撃を要望する隊員達の声に、海軍中央部と配属部隊は今後、
特殊潜航艇を(以下、特潜と略)如何に使用すべきか検討の結果、南太
平洋・オーストラリア方面とインド洋・アフリカ東岸の英軍重要軍港
を、第一次攻撃隊と同じ方法で攻撃することに決定した。
此の作戦は第一次攻撃隊に次いで、第2次特別攻撃隊と称され、南
太平洋方面部隊はオーストラリアのシドニー軍港を、インド洋方面部
隊はマダガスカル島ジゴスワレス港を攻撃地点とし二隊に分かれた。
攻撃隊は第一次攻撃隊の戦訓により、特潜、母潜水艦ともに改良を
加えられ、さらに充分な訓練のもと収容にも万全を期した。
@ インド洋方面隊
当時イギリス海軍は、アフリカの東岸マダガスカル島に集結しイン
ド洋を制圧していた。「日本から一万二千キロかなた、地球を半周し
て、英国艦艇に接近、奇襲攻撃を以てこれを撃て」これが特潜に与え
られた任務であった。
特別攻撃隊の母潜水艦、伊号第16、20潜水艦の2隻はマレー半島に
在るペナン基地に寄港、特潜母艦「日進」から特潜を移載した。
秋枝三郎大尉と竹本正巳一曹が搭乗の1号艇は、伊号第20潜水艦に
岩瀬勝輔少尉、高田高三三曹の2号艇は伊号第16潜水艦の甲板に搭載
された。
昭和17年4月30日、特潜を搭載した2隻の伊号潜水艦はペナンを出
撃、一路インド洋を南下した。此の海域特有のモンスーンによる波濤
での故障などの難航を克服、マダガスカル島ジゴスワレス港外に到達
した。
先行していた訪独艦、伊号第30潜水艦の飛行偵察等による情報にも
とずいて、5月31日湾外の西12キロまで接近、特潜発進の機を狙って
いた。
既に特潜に乗り込んでいる艇長との交信は、艦内電話を通して行わ
れる。艦長より「発進用意」が発令「発進用意よし」特潜からの返令
「発進」の命により「グァ〜ン」鈍い音と共に支持バンドがはずれる。
ふわぁと浮き、母艦から離れた特潜は、湾内めがけ突進してゆく、
2号艇も遅れること30分、続いて発進して行った。
時に、昭和17年5月31日、1730(午後5時30分)月の明るい夜だった。
それからひと時、静寂が続く、突然湾の奥で大爆発が起こった。
此の攻撃で英主力戦艦ラミリーズ29,150t、輸送船ブリテッシュ・
ロイヤルティ10,440t撃沈。特殊潜航艇の攻撃で初めて確認された大
戦果である、しかしその後2隻の特潜は消息を絶った。
(以後は、戦後行った調査団が入手した、英軍の極秘書類と保存さ
れていた秋枝大尉の遺留品及び現地民からの情報を総合し、その
時の状況を推測、書き加えたものである。)
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母艦から発進した特潜は、防潜網を巧みに潜り抜け湾内に侵入して
いく、この時月齢は満月であった。此れも作戦の一つであり、背後か
らの月明かりは特潜の潜望鏡を通し港内を明るく照らし出していた。
めざすイギリス艦隊は湾の奥の方だ、先行する1号艇は、戦艦ラミ
リーズまで至近距離八百メートに接近「魚雷発射よ〜い」「射(てっ)」。
此の時、2号艇も右方に停泊する大型輸送船ブリテッシュ・ロイヤ
ルティに魚雷を射ち込む。続いて起こる爆発音数回、複数の魚雷が命
中している。
2隻の特潜はすぐにも湾外への脱出を試みただろう、しかし、その
時、既に防潜網が硬く閉ざされ、行く手を阻んでいた。
数日後、二人の武装した日本兵がアンバー岬に出現し、英軍と戦い
戦死したとの話が現地民に伝わっている。英軍が、戦死した日本兵か
ら押収した手帳には、伊号第20潜水艦宛ての記載があった。
とすると、二人は明らかに、伊20潜水艦から発進した1号艇の秋枝
大尉、竹本正巳一曹だ、手帳に記された文面によると、以外にも1号
艇はジゴスワレス湾を脱出して外海に達していたのである。
残念にも2号艇の消息は確認できなかった。
攻撃後、1号艇は湾からの脱出に成功し、母潜水艦が待つ会合点に
急いだ、しかしインド洋の荒波は小型の特潜の自由を阻んだ、押し寄
せる波浪に弄ばれ、ついに動力も尽き、島の東岸の浅瀬にに打上げら
れた。「生きて帰ることに最善を尽くすものこそが、真の勇者であり
真の忠臣である。」特潜乗りの強い信念は、秋枝大尉に陸路会合地点
の岬に向かう事を決意させた。
東のリーフから北西の海岸まで、地図でみるその距離は約80kmを、
イギリス軍が掌握する、見知らぬ半島を二人の兵士は生還するために
縦断を決行する、それは想像を絶する強行軍であった。
秋枝大尉は、出撃命令を受けた時より心に決めていた「勝つ事とは
生きて帰る事」生きるための山越えは、それをたった2日で成し遂げ
た。そして、彼方に母潜水艦が待つ海が見えた。そこでは、帰還する
我々の1号艇を、息を潜め待っている筈であった。
しかし、その地アンドラナボンラニナ村に来たとき、既にイギリス
軍に包囲されていた。
降伏を勧告するイギリス軍に「生きて虜囚の辱しめを受けず」との
日本軍人精神に徹する秋枝大尉、竹本一曹の両名は降伏を潔しとせず、
此れを拒絶。銃撃戦の末、弾薬尽きると軍刀をかざし敵陣めがけ切り
込んでいった。
一斉に射ち出すイギリス軍の銃口の前に、秋枝、竹本両兵士は朱に
染まり、倒れていった。
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現在、此の地には日本領事館の手により鎮魂の碑が建立され英霊の
御霊を慰めている。
そして、秋枝三郎大尉、竹本正巳一曹の両名が命を賭して乗り込ん
だ、特殊潜航艇(甲標的)1号艇は、調査団懸命の捜索の結果遂に発見
された。そこはインド洋の荒波が打ち寄せるマダガスカル島東岸南部
逆巻く波がうそのように静まる海中に1号艇は横たわっていた。
目に入ってくる後部、スクリュー、それとモーターに繋がる、長い
シャフト、そして後部バッテリー。それはまさしく特潜1号艇秋枝艇
だ、中央の指令塔から先が無い、これは明らかに自爆を意味する。
それは長い年月を、荒波に耐えて、もう重い部分しか残っていない
朽ち果てた姿で!。
母国日本から離れ一万数千キロ、祖国の運命を担い、散って逝った
英霊の思いを抱く海底の墓標のように。
A オーストラリア方面隊
オーストラリア方面隊は、先に出撃して飛行偵察していた伊号第21
潜水艦の報告により、英戦艦ウォースパイトや米巡洋艦シカゴが在泊
するシドニー港の攻撃を決定。特別攻撃隊の母潜水艦は、南方方面司
令部の在るトラック島において、特殊潜航艇母艦「千代田」(後で空母
に改造)から搭載替えをした。
伊号第27潜水艦 乙型 中馬兼四大尉 大森 猛一曹艇
伊号第22潜水艦 丙型 松尾敬宇大尉 都竹正雄二曹艇
伊号第24潜水艦 丙型 伴 勝久中尉 芦辺 守一曹艇
昭和17年5月18日、第2次特別攻撃隊シドニー攻撃隊はトラック島
を出撃し、オーストラリアの東岸シドニー港をめざした。南緯35度南
半球の5月は、晩秋を迎える頃で、シドニー沖の海面は時化つづきが
多い、奇襲攻撃は警戒されぬように、インド洋方面隊の攻撃と同時刻
に行う必要があった。
5月31日、シドニー港の東方約13kmまで迫った母潜水艦は、日没を
待ち特潜を発進させた。中馬大尉、松尾大尉、伴中尉の各艇は、満月
が照らし出す港内に向い進んで行った。
待つこと一刻半も過ぎる頃、港内で起きた爆発音と同時に、一斉に
探照灯が港内を照射し始めたのが潜望鏡を透おし遠望できた。
攻撃の成果は確認できなかったが、港内の潜入に成功して、攻撃が
行われたことは確実と思われた。特潜発進後、母潜水艦は会合地点で
帰還する艇を待った、一日、二日、荒れもようの海で待つこと三日、
遂に1隻の特潜も帰ってこなかった。
母潜水艦は、帰還する艇、無いまま無念の帰途についた。
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オーストラリア海軍の発表による資料から推測すると、各艇の戦闘
状況は次のとおりである。
中島艇は潜入時、港口の防潜網に阻まれ、離脱できず、自爆装置に
点火、自沈。二番手に潜入した松尾艇は、港内の奥深く潜航し目標に
魚雷発射せんとしたが、発射装置故障のため雷撃に失敗、哨戒艇及び
駆潜艇などの攻撃を受け沈没。
伴艇は、港内の奥に停泊していた米巡洋艦シカゴを狙い雷撃したが
魚雷は艦底を通り過ぎ、商船改造母船クタバルが停泊する岸壁付近で
爆発、爆風のあおりを食らったクタバルは瞬時にして沈没。
オーストラリア側の磁気探知機記録には此の後、港外に脱出したと
あるが、その後の消息は不明。
港内で沈んでいた中馬、松尾艇は、ただちにオーストラリア海軍に
よって引き揚げられ、遺体は鄭重に弔われ、遺骨は日本に送還れた。
尚、中馬、松尾の両艇は、破損部を除き継ぎ合わされ、一隻の特殊潜
航艇に修復され、現在もキャンベラのウォー・メモリアルに展示され
ている。
真珠湾攻撃での特殊潜航艇は知る人も多いが、ジゴスワレス、シド
ニー攻撃の第2次特別攻撃隊を知る人は少ない。人知れず祖国を離れ
南の海に散って逝った5隻、10人の英霊にたいし、謹んで哀悼の意を
表するものである。
B 特殊潜航艇の終焉
第2次特別攻撃隊のあとは、潜水艦により搬送して敵港湾を攻撃す
る作戦は、生還の見込み甚だ困難として見送られた。しかし昭和17年
後期、ガダルカナル島での戦局悪化により、再度、潜水艦に搭載して
出撃、輸送船を撃沈する戦果を挙げたが、やはり未帰還艇が多かった。
ほかは、陸上の基地から発進する局地防備用に使用され、主として
離島方面に配備された。離島配備の概要は下記のごとくである。
キスカ隊 昭和17年7月〜昭和18年7月 隻数、6隻
特潜による戦闘無し、空襲で被爆及び自沈。
ガダルカナル 昭和17年11月7日〜昭和17年12月12日 8隻
島 潜水艦により出撃。輸送船など4隻撃沈。
伊号第16潜ガ島ルンガ岬沖で特潜発進、貨物運送艦
アルキバ大破。戦死未帰還多数。
ラバウル隊 昭和18年12月〜昭和20年8月 隻数、5隻
4隻が回航途中で沈没。1隻のみラバウル着、特に
戦闘無く終戦。
ハルマヘラ隊 昭和19年1月 隻数、1隻
ハルマヘラ近くにて味方誤爆のため沈没。
トラック島 昭和19年5月 隻数、5隻
昭和19年5月、A隊(里正義中尉指揮)とB隊(深佐
安三指揮)の2隊に分かれた5隻の丙型が横須賀か
らトラックに進出を図ったが、A隊の2隻は曳航中
の輸送船の被雷で喪失し、B隊の3隻はサイパン島
に到着後米軍の来攻で玉砕した。
ミンダナオ島 昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、8隻
セブ 19年12月から20年3月までミンダナオ海付近にて、
巡洋艦及び商船など20隻を攻撃、15隻沈没または大
破。米軍上陸後は、陸戦隊に移り大部は戦死。
沖縄、運天 昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、10隻
大半は空襲により沈没。6隻にて米軍上陸時に攻撃。
戦艦1中破、巡洋艦大破。陸戦隊に移り大部は戦死。
ダバオ隊 昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、2隻
特に戦闘無く終戦、自沈。
父島隊 昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、6隻
3隻は曳航中沈没。終戦まで特に戦闘無し。自爆。
マニラ隊 昭和20年1月〜昭和20年8月 隻数、2隻
マニラより高雄に変更。終戦までそのまま。
奄美大島 昭和20年4月〜昭和20年8月 隻数、2隻
1隻は空襲により沈没。特に戦闘の機会無し。
本土配備 昭和20年4月、沖縄の玉砕の後、九州東岸から四
国西岸に散開して配備、米軍の上陸に備えていた。
8月15日終戦となり、本土決戦を前に出撃を期して、待機していた
特殊潜航艇乗員は米軍の命により解散させられ、主を失った特殊潜航
艇は呉海軍工廠の第4ドックに集められ破壊された。
時に昭和20年10月、その数、百二十隻であった。
註、此の時期配備された「特殊潜航艇・甲標的」の大部は5人乗り
「丁型 蛟龍」になっていた。
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