日本潜水艦史

第三章 潜水艦の戦い

  一 知らざれぬ特殊潜航艇

1 特殊潜航艇(甲標的)

 特殊潜航艇、特別攻撃隊、此の言葉を日本国民が初めて聞いたのは、
真珠湾攻撃の戦果に沸いた昭和16年も暮れて、翌年3月6日に報じら
れた、大本営発表「特殊潜航艇を以って編成せる、わが特別攻撃隊は
真珠湾に於いて..」の放送であった。
 緒戦の大戦果に歓喜していた国民は、この放送に壮烈悲愴な深い感
動を受けたが、しかし特殊潜航艇、又特別攻撃隊とは、どのようなも
のであるのか、一般国民は無論のこと軍部内の人でさえ、ほんの一部
を除き全く知らなかった。
 真珠湾攻撃の話は、既に発刊されてる関係書物や映画など(最近では
パールハーバー)で記憶を新たにされた方々も多いと思うが、開戦当初
「海ゆかば」の曲と同時に発表され、国民に感銘を与えた「特殊潜航艇」
の攻撃に付いては、戦後50幾年を過ぎ人々の記憶から消え去ろうとし
ている。
 しかし、この特別攻撃隊が(当時は生還を期し乗員の収容には十分
な配慮がなされていた)海軍戦力が充実していた日米開戦勃発の第一
日にして早くも、戦争末期に戦われたレイテ湾、沖縄突入の決死作戦
神風、回天特別攻撃隊等、犠牲的精神を以て戦う、一連の兵術思想の
もとに出撃していた事を、極めて重大な事実として、記憶にとどめて
おきたいものである。
註、「海ゆかば」の曲について の詳細はここをクリック

                    
 特殊潜航艇の着想は海軍軍縮会議により主力艦及び補助艦艇の保有
量を、米、英国に対し6割の劣勢に制限されたことに端を発した事は
前述のとおりである。
 当時の仮想敵国であった米国と、万一戦端が開かれた時、いかにし
て劣勢な海軍力で、進攻してくる米主力艦隊と戦い、日本艦隊を勝利
に導くかが、海軍上層部の最大の課題であった。
 それには制限内で戦力を向上させ、より強力なものにするため月月
火水木金金と云われる、土、日曜、すなわち休日無しの猛烈な訓練と
個々の艦艇、兵器の性能向上、制限外兵力の増強などと共に、新兵器
の開発に日夜必死の努力を重ねていた。
 昭和6年、海軍艦政本部の課長、岸本鹿子治大佐の着想で研究され
始めた特殊潜航艇(当時は特定の名は付けられていなかった)が、まだ
開発段階で岸本大佐が、当時の軍令部総長伏見宮博恭殿下に、説明申
し上げた際、殿下から「ぶつかるのではないだろうね」と念をおされ、
岸本大佐は「決死的ではありますが、収容の方法も考えてあり、決し
て必死隊ではありません」と答えたと言われている。
 日本海軍の伝統の中で「一割生還」を限度としての作戦は有ったが
十死零生の作戦など、どこを探しても存在しなかったのだ。
 特殊潜航艇(以後、特潜と省略)の着想時には、海上権を制覇する
のはあくまでも主力艦同士の洋上決戦によるものと考えられており、
その洋上における艦隊決戦前後の混乱期を奇襲攻撃する兵器として、
使用する計画であった。
 敵主力艦来攻に際し、3隻の母艦から発進させた12隻の特潜をその
前程に散開、特潜1隻で魚雷2本、12隻、計42本の魚雷を以って攻撃、
敵戦力を漸減させて味方を有利に導くという構想である。
 主力艦に強いられた劣勢比率の戦力を補うため、日本海軍が考案し
た苦肉の所産であったといえる。
 本来、広い洋上での攻撃を目的として考案された特殊潜航艇を敵要
港に潜入させ、奇襲攻撃する用法に変わったのは、特潜艇長岩佐大尉
以下、特潜艇長の烈々たる熱意にうた山本五十六連合艦隊司令長官が
採択の断を下したことによる。ちなみに特潜を真珠湾攻撃に用いると
決定したのは昭和16年10月の上旬であった。


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2 真珠湾と特殊潜航艇

 @ 真珠湾特別攻撃隊
 昭和16年春には「特潜」本来の目的である母艦からの発進が「千代田」
で行われ、成功を収めていた。しかし洋上襲撃訓練の傍ら本艇のあら
ゆる使用法を検討していた艇長岩佐直治大尉、松尾敬宇中尉の両名は、
泊地襲撃にも使用可能である事を確認し、特潜育ての親とも言うべき
特潜母艦「千代田」の艦長原田覚大佐に進言した。
 (註、千代田は水上機母艦として建造されたが昭和15年甲標的
    母艦に改造、その後、昭和18年に空母に改造された。)
 特潜を母潜水艦が湾頭まで抱いて行き発進する、放された艇は港内
深く潜入、敵艦に接近し雷撃するという構想を、発案者であった岩佐
直治、松尾敬字の両艇長は山本連合艦隊司令長官に具申した。それは
開戦の三カ月前の出来事であった。
 しかし、当時の特潜は航続時間が短く、襲撃後の収容不可能として
山本司令長官は、この案を却下した。だが、殉忠一徹の青年士官達は
9月末、収容法を研究して再度具申したが、山本長官は依然と生還の
見込みがない計画として聞き入れなかった。
 岩佐、松尾の両名はその後も諦めず、生還の可能性を執拗に何回も
長官に訴え、遂にその熱誠をもって長官を動かし、特潜の帰還性能に
付いて更に研究を続け攻撃後の収容には万全を期す事を前提に、これ
を認めるに至った。
 当時、「特潜」は約20隻完成しており、早速その内5隻が丙型潜水艦
(伊16型)の後甲板に1隻宛て搭載し得るよう改造工事を施すと共に、
航続力を伸ばすために特型気蓄器を増載し、更に予想される障害物や
防潜網突破のため網切断器、又発射管及び推進器等に保護材の付加、
さらに、攻撃に失敗し捕獲されるのを避けるため、自爆用火薬の装備
など特殊潜航艇(甲標的)は大改良を加えられた。
 航続力も16時間に増大、11月中旬に漸く完成し、この工事と並行し
搭乗員の訓練はもちろん、「特潜」を搭載して湾口まで運ぶ母潜水艦の
改造工事も昼夜兼行で行われ、期日ぎりぎりに完了した。
 本来、洋上での戦いを想定し造られた特潜で、警戒厳重な敵の要港
に潜入し艦船を攻撃するには、沈着冷静で且つ、剛胆な精神力と繊細
な操縦技術とが必要なことは言うまでもなく、攻撃後の生還は極めて
厳しいものと考えられた。
 しかし、日本民族の中に伝承される犠牲的精神と燃ゆる愛国心は、
若い血潮を沸騰させ、この決死行に多数の志願者が現れ、選出に困難
を期した位であった。漸く下記十名が合格の名誉を担った。
 岩佐直治大尉、吉野繁実中尉、横山正治中尉、広尾 章少尉
 酒巻和男少尉、横山薫範、上田定、片山義雄、稲垣清、佐々木直吉
 の各兵曹(出撃当時の階級)
 特別攻撃隊の名称については、開戦時の清水光美第6艦隊司令長官
(潜水艦隊長官)は「日露戦争のときは、決死隊・閉塞隊の名称も使わ
れたが甲標的の場合は、連合艦隊司令長官が十分検討した結果、成功
の確算もあり、攻撃後も乗員を収容しうると認めて、志願者の熱意を
容れたのだから、決死隊という言葉を避けて、特別攻撃隊と称するに
決まった」と回顧している。   毎日新聞社発行 特別攻撃隊より

 ここに、特別攻撃隊という名称が日本海軍に生れたが、戦争末期に
行われた特攻作戦とは意を異にし、母艦の潜水艦は収容に全力を尽く
し、生還を前提としたものであった。だが結果的には出撃後帰還した
艇はなく、全艇海底に散華し、軍神として祀られた。
 続いて、豪州のシドニー港、英国占領下のマダガスカル島ジゴスワ
レス港攻撃の特別攻撃隊が編成されたので、真珠湾攻撃隊を第一次特
別攻撃隊と呼び、シドニー、ジゴスワレス襲撃隊を、第二次特別攻撃
隊と称した。

 A 「特潜」真珠湾突入
 昭和16年11月18日、特殊潜航艇5隻からなる特別攻撃隊は、母艦の
伊号第16、18、20、22、24潜水艦の背に、それぞれ一隻ずつ搭載され
佐々木大佐指揮のもと安芸灘を密かに抜け、ハワイ方面に向かった。
 途中、ハワイに近ずくに従い 600カイリ圏から昼間は潜航し、夜間
水上航走をして、搭載している特潜の性能維持に気遣いながら隠密裏
にハワイ沖の配備点を目指して、開戦日12月7日には(現地時間)真珠
湾口10カイリの予定地点に付いた。
 12月7日午前3時、10名の搭乗員は5隻の特潜に1艇二人、分乗し
真珠湾口付近で、母艦たる伊号潜水艦より、各々3分の間隔をおいて
順次湾口へ向け発進して行った。
 特潜は、湾内に潜入後、海底で待機、航空隊の空襲に合わせて攻撃
を開始、その後で夜間を選び浮上、ラナイ島西方7カイリに待機して
いる母艦の潜水艦にたどりつく計画であった。
 真珠湾への入り口は、付近に浅瀬が多い狭い一本の深水路で、その
入り口には防潜網が張られ、米艦艇の出入時だけ開くことになってい
た。待機していた特潜は、其の機会を逃さず米艦艇の通過と同時に湾
内へ潜入しようとした。
 丁度、午前5時から8時まで、掃海艇入港のため網が上げられてい
たので、その時間に潜入した艇もあろう。その後の状況は、戦後明ら
かにされた、日本側の資料と米戦闘公報によると、概要は次のとおり
である。
 午前3時50分頃、掃海艇コンドル号が自艦と並び湾内に侵攻中の
小型潜水艦らしきものを発見、捜索したが見失ったと報告している。
また、敷設艦ブリーズが水中を進む特殊潜航艇を発見し、水上機母艦
カーチス、工作艦メズーサ、駆逐艦モナハンの3隻も上甲板まで水上
に現して迫るのを目撃、更にモナハンとカーチスに向かって、魚雷を
発射したが命中せず、海岸で爆発した。
 モナハンは爆雷を投射、カーチスは機関銃で小型潜水艇の指令塔を
射撃、沈めたと報告している。
 日本側記録から推測すると、酒巻艇は羅針儀故障のまま無理を押し
て出撃のため、位置を見失い、数度の座礁と駆逐艦の攻撃に見舞われ
魚雷発射口損傷と、浸水による蓄電池からの有毒ガス発生に悪戦苦闘
すること24時間、突入を断念、収容地点ラナイ島に向かうが羅針儀が
故障のため真珠湾の裏側ワイマナロ湾で座礁。
 ラナイ島と思い込んだ酒巻少尉は艇の自爆装置に点火、稲垣兵曹と
海中に飛び込み陸地を目指したが荒波にもまれ稲垣兵曹は戦死、酒巻
少尉は、人事不省のまま海岸に打ち上げられ捕虜となった。
 他の4艇はいずれも湾口に達し、岩佐艇は湾内潜入に成功し、魚雷
攻撃をした後、撃沈された。後で引き上げられた船体からは、遺品が
発見され返還されているが、魚雷は発射済みであった。
 横山艇は「われ奇襲に成功せり」の電信を打っているのを、我が潜水
艦が受信しており、湾内に入り攻撃成功したのは確実と思われる。
 芳野艇、広尾艇は、湾内に潜入前に湾口付近で米艦艇に発見され、
交戦後に、撃沈されたものと見られるが、航空攻撃中に米艦船の間で
「機雷注意」の警報が盛んに発せられた事を鑑み、或は、潜入に成功
し、敵艦めがけ必死の魚雷を打ち込んでいたのではないかとも思える。
 特別攻撃隊の戦果は、航空隊による攻撃の陰になり、明らかではな
いが、米国側に与えた精神的脅威や、恐怖感は、極めて大きかったで
あろう。
 特潜出撃後、母艦の潜水隊はラナイ島沖で48時間待機していたが、
帰還する艇一隻もなく、収容する艇ないまま、佐々木司令、艦長以下
全乗員の黙祷のうち、艦は静かに待機する海域を離れ帰途に着いた。


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3 第2次特別攻撃隊

 昭和17年3月に発表された、真珠湾に散った特別攻撃隊の話しに、
国民が深い感動を受けていた頃、選考にはずされた隊員達の心は穏や
かでなかった。
 次期出撃を要望する隊員達の声に、海軍中央部と配属部隊は今後、
特殊潜航艇を(以下、特潜と略)如何に使用すべきか検討の結果、南太
平洋・オーストラリア方面とインド洋・アフリカ東岸の英軍重要軍港
を、第一次攻撃隊と同じ方法で攻撃することに決定した。
 此の作戦は第一次攻撃隊に次いで、第2次特別攻撃隊と称され、南
太平洋方面部隊はオーストラリアのシドニー軍港を、インド洋方面部
隊はマダガスカル島ジゴスワレス港を攻撃地点とし二隊に分かれた。
 攻撃隊は第一次攻撃隊の戦訓により、特潜、母潜水艦ともに改良を
加えられ、さらに充分な訓練のもと収容にも万全を期した。

 @ インド洋方面隊
 当時イギリス海軍は、アフリカの東岸マダガスカル島に集結しイン
ド洋を制圧していた。「日本から一万二千キロかなた、地球を半周し
て、英国艦艇に接近、奇襲攻撃を以てこれを撃て」これが特潜に与え
られた任務であった。
 特別攻撃隊の母潜水艦、伊号第16、20潜水艦の2隻はマレー半島に
在るペナン基地に寄港、特潜母艦「日進」から特潜を移載した。
 秋枝三郎大尉と竹本正巳一曹が搭乗の1号艇は、伊号第20潜水艦に
岩瀬勝輔少尉、高田高三三曹の2号艇は伊号第16潜水艦の甲板に搭載
された。
 昭和17年4月30日、特潜を搭載した2隻の伊号潜水艦はペナンを出
撃、一路インド洋を南下した。此の海域特有のモンスーンによる波濤
での故障などの難航を克服、マダガスカル島ジゴスワレス港外に到達
した。
 先行していた訪独艦、伊号第30潜水艦の飛行偵察等による情報にも
とずいて、5月31日湾外の西12キロまで接近、特潜発進の機を狙って
いた。
 既に特潜に乗り込んでいる艇長との交信は、艦内電話を通して行わ
れる。艦長より「発進用意」が発令「発進用意よし」特潜からの返令
「発進」の命により「グァ〜ン」鈍い音と共に支持バンドがはずれる。
 ふわぁと浮き、母艦から離れた特潜は、湾内めがけ突進してゆく、
2号艇も遅れること30分、続いて発進して行った。
 時に、昭和17年5月31日、1730(午後5時30分)月の明るい夜だった。
 それからひと時、静寂が続く、突然湾の奥で大爆発が起こった。
 此の攻撃で英主力戦艦ラミリーズ29,150t、輸送船ブリテッシュ・
ロイヤルティ10,440t撃沈。特殊潜航艇の攻撃で初めて確認された大
戦果である、しかしその後2隻の特潜は消息を絶った。
 (以後は、戦後行った調査団が入手した、英軍の極秘書類と保存さ
  れていた秋枝大尉の遺留品及び現地民からの情報を総合し、その
  時の状況を推測、書き加えたものである。)
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 母艦から発進した特潜は、防潜網を巧みに潜り抜け湾内に侵入して
いく、この時月齢は満月であった。此れも作戦の一つであり、背後か
らの月明かりは特潜の潜望鏡を通し港内を明るく照らし出していた。
 めざすイギリス艦隊は湾の奥の方だ、先行する1号艇は、戦艦ラミ
リーズまで至近距離八百メートに接近「魚雷発射よ〜い」「射(てっ)」。
 此の時、2号艇も右方に停泊する大型輸送船ブリテッシュ・ロイヤ
ルティに魚雷を射ち込む。続いて起こる爆発音数回、複数の魚雷が命
中している。
 2隻の特潜はすぐにも湾外への脱出を試みただろう、しかし、その
時、既に防潜網が硬く閉ざされ、行く手を阻んでいた。
 数日後、二人の武装した日本兵がアンバー岬に出現し、英軍と戦い
戦死したとの話が現地民に伝わっている。英軍が、戦死した日本兵か
ら押収した手帳には、伊号第20潜水艦宛ての記載があった。
 とすると、二人は明らかに、伊20潜水艦から発進した1号艇の秋枝
大尉、竹本正巳一曹だ、手帳に記された文面によると、以外にも1号
艇はジゴスワレス湾を脱出して外海に達していたのである。
 残念にも2号艇の消息は確認できなかった。
 攻撃後、1号艇は湾からの脱出に成功し、母潜水艦が待つ会合点に
急いだ、しかしインド洋の荒波は小型の特潜の自由を阻んだ、押し寄
せる波浪に弄ばれ、ついに動力も尽き、島の東岸の浅瀬にに打上げら
れた。「生きて帰ることに最善を尽くすものこそが、真の勇者であり
真の忠臣である。」特潜乗りの強い信念は、秋枝大尉に陸路会合地点
の岬に向かう事を決意させた。
 東のリーフから北西の海岸まで、地図でみるその距離は約80kmを、
イギリス軍が掌握する、見知らぬ半島を二人の兵士は生還するために
縦断を決行する、それは想像を絶する強行軍であった。
 秋枝大尉は、出撃命令を受けた時より心に決めていた「勝つ事とは
生きて帰る事」生きるための山越えは、それをたった2日で成し遂げ
た。そして、彼方に母潜水艦が待つ海が見えた。そこでは、帰還する
我々の1号艇を、息を潜め待っている筈であった。
 しかし、その地アンドラナボンラニナ村に来たとき、既にイギリス
軍に包囲されていた。
 降伏を勧告するイギリス軍に「生きて虜囚の辱しめを受けず」との
日本軍人精神に徹する秋枝大尉、竹本一曹の両名は降伏を潔しとせず、
此れを拒絶。銃撃戦の末、弾薬尽きると軍刀をかざし敵陣めがけ切り
込んでいった。
 一斉に射ち出すイギリス軍の銃口の前に、秋枝、竹本両兵士は朱に
染まり、倒れていった。
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 現在、此の地には日本領事館の手により鎮魂の碑が建立され英霊の
御霊を慰めている。
 そして、秋枝三郎大尉、竹本正巳一曹の両名が命を賭して乗り込ん
だ、特殊潜航艇(甲標的)1号艇は、調査団懸命の捜索の結果遂に発見
された。そこはインド洋の荒波が打ち寄せるマダガスカル島東岸南部
逆巻く波がうそのように静まる海中に1号艇は横たわっていた。
 目に入ってくる後部、スクリュー、それとモーターに繋がる、長い
シャフト、そして後部バッテリー。それはまさしく特潜1号艇秋枝艇
だ、中央の指令塔から先が無い、これは明らかに自爆を意味する。
 それは長い年月を、荒波に耐えて、もう重い部分しか残っていない
朽ち果てた姿で!。
 母国日本から離れ一万数千キロ、祖国の運命を担い、散って逝った
英霊の思いを抱く海底の墓標のように。

 A オーストラリア方面隊
 オーストラリア方面隊は、先に出撃して飛行偵察していた伊号第21
潜水艦の報告により、英戦艦ウォースパイトや米巡洋艦シカゴが在泊
するシドニー港の攻撃を決定。特別攻撃隊の母潜水艦は、南方方面司
令部の在るトラック島において、特殊潜航艇母艦「千代田」(後で空母
に改造)から搭載替えをした。
 伊号第27潜水艦 乙型  中馬兼四大尉 大森 猛一曹艇
 伊号第22潜水艦 丙型  松尾敬宇大尉 都竹正雄二曹艇
 伊号第24潜水艦 丙型  伴 勝久中尉 芦辺 守一曹艇
 昭和17年5月18日、第2次特別攻撃隊シドニー攻撃隊はトラック島
を出撃し、オーストラリアの東岸シドニー港をめざした。南緯35度南
半球の5月は、晩秋を迎える頃で、シドニー沖の海面は時化つづきが
多い、奇襲攻撃は警戒されぬように、インド洋方面隊の攻撃と同時刻
に行う必要があった。
 5月31日、シドニー港の東方約13kmまで迫った母潜水艦は、日没を
待ち特潜を発進させた。中馬大尉、松尾大尉、伴中尉の各艇は、満月
が照らし出す港内に向い進んで行った。
 待つこと一刻半も過ぎる頃、港内で起きた爆発音と同時に、一斉に
探照灯が港内を照射し始めたのが潜望鏡を透おし遠望できた。
 攻撃の成果は確認できなかったが、港内の潜入に成功して、攻撃が
行われたことは確実と思われた。特潜発進後、母潜水艦は会合地点で
帰還する艇を待った、一日、二日、荒れもようの海で待つこと三日、
遂に1隻の特潜も帰ってこなかった。
 母潜水艦は、帰還する艇、無いまま無念の帰途についた。
   ---------------------------------------------------
 オーストラリア海軍の発表による資料から推測すると、各艇の戦闘
状況は次のとおりである。
 中島艇は潜入時、港口の防潜網に阻まれ、離脱できず、自爆装置に
点火、自沈。二番手に潜入した松尾艇は、港内の奥深く潜航し目標に
魚雷発射せんとしたが、発射装置故障のため雷撃に失敗、哨戒艇及び
駆潜艇などの攻撃を受け沈没。
 伴艇は、港内の奥に停泊していた米巡洋艦シカゴを狙い雷撃したが
魚雷は艦底を通り過ぎ、商船改造母船クタバルが停泊する岸壁付近で
爆発、爆風のあおりを食らったクタバルは瞬時にして沈没。
 オーストラリア側の磁気探知機記録には此の後、港外に脱出したと
あるが、その後の消息は不明。
 港内で沈んでいた中馬、松尾艇は、ただちにオーストラリア海軍に
よって引き揚げられ、遺体は鄭重に弔われ、遺骨は日本に送還れた。
尚、中馬、松尾の両艇は、破損部を除き継ぎ合わされ、一隻の特殊潜
航艇に修復され、現在もキャンベラのウォー・メモリアルに展示され
ている。
 真珠湾攻撃での特殊潜航艇は知る人も多いが、ジゴスワレス、シド
ニー攻撃の第2次特別攻撃隊を知る人は少ない。人知れず祖国を離れ
南の海に散って逝った5隻、10人の英霊にたいし、謹んで哀悼の意を
表するものである。

 B 特殊潜航艇の終焉
 第2次特別攻撃隊のあとは、潜水艦により搬送して敵港湾を攻撃す
る作戦は、生還の見込み甚だ困難として見送られた。しかし昭和17年
後期、ガダルカナル島での戦局悪化により、再度、潜水艦に搭載して
出撃、輸送船を撃沈する戦果を挙げたが、やはり未帰還艇が多かった。
 ほかは、陸上の基地から発進する局地防備用に使用され、主として
離島方面に配備された。離島配備の概要は下記のごとくである。

 キスカ隊   昭和17年7月〜昭和18年7月 隻数、6隻
        特潜による戦闘無し、空襲で被爆及び自沈。
 ガダルカナル 昭和17年11月7日〜昭和17年12月12日 8隻
 島      潜水艦により出撃。輸送船など4隻撃沈。
        伊号第16潜ガ島ルンガ岬沖で特潜発進、貨物運送艦
        アルキバ大破。戦死未帰還多数。
 ラバウル隊  昭和18年12月〜昭和20年8月 隻数、5隻
        4隻が回航途中で沈没。1隻のみラバウル着、特に
        戦闘無く終戦。
 ハルマヘラ隊 昭和19年1月 隻数、1隻
        ハルマヘラ近くにて味方誤爆のため沈没。
 トラック島  昭和19年5月 隻数、5隻
        昭和19年5月、A隊(里正義中尉指揮)とB隊(深佐
        安三指揮)の2隊に分かれた5隻の丙型が横須賀か
        らトラックに進出を図ったが、A隊の2隻は曳航中
        の輸送船の被雷で喪失し、B隊の3隻はサイパン島
        に到着後米軍の来攻で玉砕した。
 ミンダナオ島 昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、8隻
     セブ 19年12月から20年3月までミンダナオ海付近にて、
        巡洋艦及び商船など20隻を攻撃、15隻沈没または大
        破。米軍上陸後は、陸戦隊に移り大部は戦死。
 沖縄、運天  昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、10隻
        大半は空襲により沈没。6隻にて米軍上陸時に攻撃。
        戦艦1中破、巡洋艦大破。陸戦隊に移り大部は戦死。
 ダバオ隊   昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、2隻
        特に戦闘無く終戦、自沈。
 父島隊    昭和19年8月〜昭和20年8月 隻数、6隻
        3隻は曳航中沈没。終戦まで特に戦闘無し。自爆。
 マニラ隊   昭和20年1月〜昭和20年8月 隻数、2隻
        マニラより高雄に変更。終戦までそのまま。
 奄美大島   昭和20年4月〜昭和20年8月 隻数、2隻
        1隻は空襲により沈没。特に戦闘の機会無し。
 本土配備   昭和20年4月、沖縄の玉砕の後、九州東岸から四
        国西岸に散開して配備、米軍の上陸に備えていた。
 8月15日終戦となり、本土決戦を前に出撃を期して、待機していた
特殊潜航艇乗員は米軍の命により解散させられ、主を失った特殊潜航
艇は呉海軍工廠の第4ドックに集められ破壊された。
 時に昭和20年10月、その数、百二十隻であった。
註、此の時期配備された「特殊潜航艇・甲標的」の大部は5人乗り
  「丁型 蛟龍」になっていた。
甲標的・蛟龍を参照ここをクリック


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