2 特攻作戦と酸素魚雷
@「特攻」への道
ここで言う“特攻”とは前述した「特殊潜航艇」(甲標的)による
“特別攻撃隊”とは意を異にする特別攻撃隊である。前者は作戦後の
帰還には万全を期しての出撃であるが、後者で言う特攻隊とは、始め
から生還を期せずしての出撃であり、十死零生の作戦である。
開戦より続く、数ヵ月の破竹の進撃は、日本陸海軍首脳部を有頂天
にし、戦力をも計らない戦線の拡大は、後方からの補給路を断たれて
脆弱さを暴露しだした。
ソロモン消耗戦で制空権を失った日本海軍は、南洋離島への補給を
潜水艦に託たが、それは潜水艦の戦力不足に拍車をかけ、さらに航空
兵力、水上艦艇も一大消耗戦の泥沼に引き込まれていった。
昭和18年中頃、悪化の道をたどる戦況を打開するため、前線で戦う
若い海軍士官の間では、必殺必中の兵器、いわゆる、特攻兵器の構想
が描き出され、海軍省に具申する者が出た。
戦局が悪化するのに伴い、このような気運は上昇の一途をたどり、
若い指揮官らは血書嘆願をもって事を運んで行ったが、しかし、まだ
この時期では、航空機による特攻同様、下部からの提案は拒否されて
いた。
これと同時頃、甲標的の乗員であった若い海軍士官黒木博司中尉と
仁科関夫少尉の両名は、18年の秋、P基地で特殊潜航艇の艇長として
訓練を続けていたが、もはや特殊潜航艇では戦局打開の決定的兵器と
して、能力不足であり、必死必殺の非常手段によらなければとうてい
日本を救うことはできぬと考えはじめた。
彼らは魚雷を自ら操縦、敵艦に体当たりする構想を発案、軍令部に
血書嘆願を出した。だが、これもまた、軍令部第一部、第一課の藤森
康男少佐を通して事の次第は、永野軍令部総長に報告されたが、永野
総長は即刻「それはいかんな」と明言し、ただちに却下したと言う。
しかし、この頃、前線での戦いは、一方的に悪化の一路をたどり、
昭和19年2月初旬には、ギルバート群島に続きマーシャル群島も陥落
し、その要衝クェゼリン島やメジュロ環礁を前進基地として使い始め
た敵機動部隊は、南方における日本軍の根拠地トラック島、サイパン
を攻撃範囲に収めた。
大本営では、ただちに「竜巻作戦」を発動、この機動部隊を奇襲せ
んとしたが、特四内火艇をもってする本作戦は、兵器の劣弱さも加わ
り結局未成に終わってしまった。
これら一連の作戦を見守っていた黒木、仁科の両人は、再度上京し
軍令部に対し、当作戦にこそ嘆願中の兵器が有効である旨を説いた、
意見書を持参し熱願した。激化する戦況の中、特攻兵器の採用を上申
し続ける青年士官達、この苦渋の選択に困惑する海軍上層部に決定的
事態が起きた。
昭和19年2月17日、スプルアンス提督が指揮をする大機動部隊は、
568機を搭載する9隻の空母群をもって、トラック島に襲いかかった
のである。
17日早朝から18日の、二日間にわたる大空襲は、徹底したもので、
日本軍は飛行機 325機、在泊する輸送船、油槽船などの船舶約20万ト
ンを失い、その他にも多数の海軍艦艇が被害を受けた。
註(巡洋艦那珂、香取、駆逐艦舞風、文月、追風、太刀風、駆潜艇24号、29号、
魚雷艇10号沈没、時雨、松風、秋津州、明石、宗谷、波勝、駆潜艇20号、
伊10号、呂42潜水艦が損傷、)
そのほか陸上では、燃料、糧秣その他、多量の軍需資材の焼失と、
陸上施設にも大被害を蒙り、海軍最大の根拠地トラック島は完膚なき
までの壊滅的打撃を受けた。
19年2月に入り、マーシャル諸島の失陥、トラック大空襲と23日の
マリアナ諸島の襲撃など、一連の大事によって衝撃を受けた海軍中央
部は、19年2月26日、遂に黒木・仁科両名の上申する兵器「人間魚雷」
の試作を呉海軍工廠の魚雷実験部に下命した。
19年4月、艦政本部及び航空本部の技術陣に軍司令部は、非常手段
による兵器の開発を要望してきた。「これだけあれば必ず頽勢を挽回
できるが、もしこれがなければ必ず敗ける」と称し、9種類からなる
特殊な攻撃艇と兵器の「緊急実験」が順次に提案された。
@からHと仮称されたが、その中完成したのはCとEだけで、試作
の上、一応完成はしたが実用には供し得なかったのがHである。これ
らに後日、Cは震洋、Eは開発中“丸六金物”と呼ばれた「回天」で
あり、Hは震海と命名された。
その他は完成に至らなかったが何れも特攻又は特攻に準ずるもので
あり、作戦の大要を握る軍令部が、海軍省に対して提出した、まさに
非常事態を背景にしての異例の要望であった。
併しこの時点では、全ての兵器に脱出装置が考慮されていた。
A 特攻兵器の採用
昭和19年4月、軍令部より特攻兵器の試作が各部所に下令された時
すでに黒木、仁科両人の提唱する「人間魚雷」は、魚雷設計の権威渡辺
清水技術大佐主任の下に、鈴川薄技術大尉、楠厚技手、有坂技手らに
より呉工廠大入工場の極秘部所で研究、試作が始められていた。
19年3月には、進級して黒木大尉、仁科中尉になった両者は、4人
の技術者とともに、E、丸六金物と呼称される特攻兵器を、それから
約5ヶ月間、昼夜をいとわず設計、試作に苦心を重ねた末、7月初旬
漸く、試作兵器3基が完成した。
これが後日、米海軍を恐怖の渦に陥れた呼称「回天」と名付けられ
た特攻兵器である。もっとも、最初は、接敵し進路を固定した時点で
搭乗員はハッチより艇外洋上に放出され、魚雷のみが敵艦に命中する
ことを条件として、脱出装置が考慮されていた。
特攻兵器の生産を決定させたのが、マーシャル失陥によるトラック
島の大空襲なら、この兵器の使用を決めらせたのは、昭和19年6月の
サイパン陥落とマリアナ沖海戦の完敗に有ると言えよう。
「特攻」への道のりは、兵器の完成とともに、作戦及び組織の面にお
いても、今や上層部からの伝達的型式となり、日を追う事、加速的に
進められて行った。
昭和19年7月10日頃には、軍令部の要請を受けた海軍省軍務局によ
る提案で、特攻基地隊としての「第一特別基地隊」が呉鎮守府内に編入
され、すぐさま、続いて8月30日には海軍省の人事、及び教育、各局
長との連名により、横須賀、呉、両鎮守府宛て要員選抜及び教育に関
する申進が発付された。
9月13日になると「海軍特攻部」が海軍省内に発足し、海軍中央の
諸機関の部局より、それぞれの要人達が参加して大組織を形成すると
言った具合に、事は順調に進められていった。この様にして水上及び
水中特攻が、戦力としても作戦としても、正式に容認された形の中で
拡大されていった。
昭和19年8月16日、海軍上層部において、特攻兵器使用に関する、
討議が行われた際に、草鹿連合艦隊参謀長は「必死の戦いであるので
成果の上がる兵器を持たせてやりたい」と述べるとともに「十分の一
の生還方途を考えてもらいたい」との希望を述べていた。
また井上成美海軍次官は、捨て身戦法の有効なことを認めつつも、
「脱出装置」の準備について発言するところがあったと言う。
まだこの段階では、これまでの作戦を通して海軍伝統の、九死一生
を以て限度とする作戦思想が、海軍中央部の指揮官達の心底に根付い
ていた。いかなる作戦においても事を起こす場合、十死零生ではなく、
一割りの生還を以て命令とするのが帝国海軍の伝統で有った。
しかし、戦況の悪化はそれを許さなかった。
昭和19年9月17日、サイパン陥落後、次に来るべき戦場、フィリピ
ン防衛戦に発動される「捷一号作戦」をめぐって、軍令部では、関係
幕僚が集まり戦備の「緩急順序」に付いて討議が交わされた。
この時「特攻兵力」が既に「航空兵力」「航空基地防空」に次いで
戦備の第三番目に上げられていた。
19年7月に試作完了していた人間魚雷「丸六金物」(後の回天)には、
搭乗員の脱出装置は外されていた。もとより十死零生の兵器は許され
なかった。しかし、10月下旬「捷一号作戦」の発動にともない、航空
機により体当たり攻撃をする「神風特別攻撃隊」が、志願許可されるに
及んで「人間魚雷」もまた同じく、特攻作戦への取り扱いを受けるよ
うになった。
B「回天」と酸素魚雷
昭和19年7月「丸六金物」の呼称で完成された「人間魚雷」は、窮地
に追い込まれ新しく発案されたものでなく、既に日米開戦の前、昭和
8年頃に、岸本大佐の着想により研究されていた。
日米関係が一触即発の時期、もし日米艦隊決戦が起きるならば劣勢
比率を課せられいる日本艦隊は、不利な戦いを強いられる事になる。
この打開策が「魚雷を人間が操縦して必中を期する」という「丸六金物」
いわば、特攻兵器の考えその物であった。
しかし、海軍はこれを認めず、更に研究を進めた結果「洋上決戦に
先立ち母艦から発進、小型の隠密性を活かし可能なだけ敵艦に接近し
敵主力艦を奇襲攻撃、その後は母艦に収容」という、小型潜航艇の形
で認可された。これが「甲標的」特殊潜航艇となって完成したのであ
る。
この「甲標的」発想の要因をなした人間魚雷そのものを兵器として
実現させたのが、大浦崎第一特別基地隊(P基地隊)で甲標的の修練
に励む青年将校、黒木博司大尉と仁科関夫中尉であった。
昭和18年暮、ソロモン消耗戦で敗退の一途をたどる友軍を憂う彼ら
の脳裏には、戦勢を挽回する新兵器を模索していた。
今、自分らが訓練している「甲標的」では急激に進歩する近代戦に
到底対応する事は出来ない、これに代わる、高速で且つ強力な兵器を
必要とするのだ。
黒木中尉と仁科少尉(階級当時)は、各鎮守府の兵器庫に累々と積ま
れる「九三式魚雷」に着目した。二人の構想は、この魚雷を改造し、
自由に操縦出来る一人乗りの「人間魚雷」を造り、必死必中の攻撃を
せんとするものであった。
再三の上申のすえに、19年2月漸く試作が下令され、7月に完成を
見た(前項で記述の通り)。それは、水中特攻兵器E金物或は、関係者
の中では単に「筒」とも呼ばれ、日本の誇る「酸素魚雷」をそのまま
動力とし、頭部に 1.5トンの炸薬をそうちゃく、乗員はそれを操縦す
る必殺兵器であった。
実験の結果「酸素魚雷」の特性を偉観なく発揮、航跡を残さず高速
で走航し、頭部炸薬 1.5トンの爆発力は、中型艦なら一発で轟沈せし
める驚異的なものであった。
敵に知られず、自由に操り敵艦に命中する此の兵器こそ、甲標的と
は比較にもならぬ強力なもので、まさに、救国の兵器とした海軍では
これを「回天」と命名した。
それでは、此の「回天」考案の源になった酸素魚雷とは如何なるも
のであったのか、回天を知る前に、日本海軍極秘兵器の酸素魚雷に付
いて知っておかなければならない。
そもそも、魚雷の推進力となるのは、空気中の酸素が、動力機関の
燃料を燃焼させ、その出力で推進機を駆動して走行するのだが、空気
中に含まれる酸素の量は4分の1弱だ、残りは気泡になり海中に放出
され、これが青白い尾を引く航跡となってしまう。
それでは空気の代わりに100%の純酸素を用いるなら燃焼後の酸素は
炭酸ガスとなり、海中に融解してしまい航跡を残さない、しかも空気
室一杯に詰め込まれた純酸素は、当然、航続距離を数倍に延伸して、
燃焼時の瞬発力を大きくさせ、高速を発揮させる。
良い所尽くしである。ところが、そうは簡単に行かないのだ。純度
の高い酸素は強力な爆発物で、火気は無論のこと油気に触れただけで
も大爆発を起こす厄介者である。それ故、海軍列国では35%の濃度を
以て限界としていたが、唯、魚雷の先進国、英国だけは50%での使用
に成功していた。しかし実用前に爆発事故を起こし、それ以後は危険
兵器とし製造を断念してしまった。
唯一、日本海軍のみが、大八木静男大尉を中心にして、酸素魚雷の
完成に向け邁進していた。昭和7年、不眠不休の努力の末50%の酸素
での走行に成功した。速力40ノット、射程2万メートル、これはもう
世界の一流品であった。だが、劣勢な主力艦戦力を、決戦前に水雷戦
を以て有利に導こうとする水雷用兵の権威、岸本鹿子治大佐は満足し
なかった。
更に、魚雷設計の天才、朝熊利英中佐が加わって、岸本、大八木の
3名により、苦心に苦心を重ねる事3年、遂に完全な酸素魚雷を完成
させた。
実験の結果、最高速力は50ノット、36ノットならば4万メートルを
突っ走しると言う驚異的魚雷であった。
昭和11年、高速が故に起きる障害などに改修を加え、完全なものと
なった魚雷は、海軍正式兵器として採用「九三式酸素魚雷」と命名さ
れた。
念のため、その性能を米英大海軍の代表的魚雷に比較してみると
国 名 直径 cm 速力 nk 射程 m 爆薬 kg
日本 61 36 40,000 500
米国 53 32 8,000 300
英国 53 30 10,000 320
「九三式酸素魚雷」の逸脱した優秀さは一目瞭然である。
酸素魚雷の詳細についてはHP「日本国と日本海軍の栄光」
連合艦隊の激闘・碧き殺人者
をご覧下されば幸いです。