日本潜水艦史

第三章 潜水艦の戦い

  四 特殊任務と特攻作戦

1 特殊任務、訪独作戦

 @ 訪独作戦とは
 昭和19春、竣工後まもない伊号第52潜水艦は機密任務を受けて3月
10日、広島県呉港を出航した。目的地は同盟国ドイツの占領下に在る
ドイツ潜水艦基地ロリアンで、たどり着く迄にはおよそ三万キロもの
長躯を行く過酷な任務であった。
 伊号第52潜水艦は豊後水道を出て太平洋を南下、昭和19年3月21日
当時日本の占領下にあったシンガポールに到着、ここで約一月滞在、
東南アジアで産出するタングステンや生ゴムなど大量の物資搭載した。
 此れを、既に天然資源が枯渇している同盟国ドイツに譲って、その
見返りとして、当時最先端の技術で造られた魚雷艇用エンジンMB501
の製造技術を持ち帰るためである。
 此れが伊号第52潜水艦に課せられた任務であった。
 太平洋戦争中同盟国ドイツに向かった、いわゆる訪独作戦は5回に
わたり実施され、5隻の潜水艦が派遣された。しかし、無事目的地の
ロリアン港に入港したのは3隻で、日本本土まで帰還できたのは唯の
一隻でしかなかった。
 何故、此れ程の危険を冒してまでも訪独を続けなければならなかっ
たのか。それには日独両国に理由があった。独国は枯渇した天然資源
の獲得であり、日本側はドイツの新兵器と進んだ技術を導入するため
である。日本の技術陣は開戦迄、欧米の進んだ技術を導入、同じ水準
の技術を身につけたと過信していた。しかし、いざ戦争に突入すると、
次々と現れる新兵器の前に苦戦を強いられることになった。それは、
ガタルカナル島争奪戦で、日本海軍が最も得意としてきた夜戦を封じ
たレーダであり、また小型化に成功した大馬力エンジンを搭載して、
高速で暴れ回る魚雷艇の出現であった。
 日本には未だこのような高性能エンジンの技術は無かった、第2回
訪独で持ち帰ったダイムラーベンツ製高速エンジンを目の前にしても、
模倣すら出来ない日本の技術者達は欧米との技術力の格差を思い知ら
された。ちょうどこの頃ドイツでは、ロケットエンジン搭載の戦闘機
が実戦に登場していた、日本海軍は此の最新兵器Me163戦闘機と
合わせて、ジエットエンジンBMW003を量産し、米国に対抗しよ
うとした。
 交渉にあたった駐在武官に、Me163と魚雷艇エンジンを要求す
る日本に、厳しい条件を突きつけてきた。ドイツで枯渇していた大量
の天然資源、それに加え巨額な滞貨の要求である。此の要求に応じモ
リブデン、タングステン、錫、生ゴムなどを満載し、又独国の優れた
最新技術を習得するための技術者7名を乗艦させ、第5回訪独潜水艦、
伊号第52潜水艦はシンガポールを出港した。
 ここで第一回の訪独から最後の訪独潜水艦となった伊号第52潜水艦
の航跡を振り返って見よう。

 A 第一回訪独潜水艦
 昭和17年4月、遠藤忍中佐艦長が率いる伊号第30潜水艦は、最初の
訪独潜水艦として内地を後にした。
 これまで同盟国独国との連絡には、陸路シベリア鉄道が主であった
が、独ソ開戦により使用が不能になり、船舶では連合軍の潜水艦によ
る魚雷攻撃に脅かされること大でった。最終的には、隠密行動のとれ
る潜水艦が同盟国とをつなぐ唯一の手段として選択された。
 伊号第30潜水艦は、特殊潜航艇(甲標的)による第二次特別攻撃隊の
先遣隊として、アフリカ東岸にある英国の要港、ジゴスワレスの偵察
任務も帯びていた。
 同艦はインド洋を南下、17年5月マダガスカル島東南方洋上で第一
任務の搭載機による飛行偵察を行い、情報発信後、愛国丸から最後の
補給を受け、いよいよ目的地ロリアンに向かうのだ。この海域は全て
敵の勢力圏内だ、伊号第30潜はアフリカに在る英航空基地からの攻撃
を警戒、大陸の南端、喜望峰を大きく回り込み大西洋に入り一路北上
目的地ロリアン軍港を目指した。
 昭和17年8月中旬、ドイツの占領下にあった海軍基地、フランスの
ロリアン港に無事入港し盛大な歓迎を受けた。日独両国間に機密兵器
の交流や貴重な物資の交換行われ、日本からは潜水艦自動懸吊装置や
日本製魚雷の設計図、小型飛行機などを譲り渡し、独国より機関銃、
対空電探などの新兵器を受け取りロリアン港を後にした。
 同年10月中旬、約2か月3万キロの苦難の航海の末シンガポールに
到着、補給を受けた伊号30潜水艦は日本に向けシンガポール港を出港、
無事任務を果たしたかにみえたが、不幸にも出港の際、同港外東3浬
の地点で英海軍敷設の機雷に触れ、不幸にも沈没の運命に遭った。
 しかし乗員の大部分は救助され、相当量の貴重品も揚収することが
出来た。内地にこそ帰還できなかったが、伊号第30潜の航海は潜水艦
による同盟国ドイツとの連絡路を確立し、その後も続けられた両国間
での機密兵器の交換など、交流の先駆者的意義は大きい。

 B 伊号第8潜水艦帰還せり
 伊号第8潜水艦は、小型偵察機を搭載、司令部施設を有する旗艦型
潜水艦で、巡潜型最後の艦として昭和13年12月に竣工した。
 開戦時はハワイ、オアフ島西方海面で作戦を指揮、その後ガタルカ
ナル島争奪戦を転戦、引き続きソロモン補給輸送作戦に従事し、南太
平洋で大いに活躍していたが、昭和18年5月、潜水司令部からの極秘
命令で内地に呼び戻された。
 伊号第8潜水艦、内野信二艦長に下された命令は、遥々アフリカ南
端を回り大西洋を北上し、ドイツへ重要物資を搬送せよと云う重大な
任務であった。これは敵制圧下の海洋を、大よそ往復6万キロも敵に
発見されず航海する、考えただけでも超難事であった。
 昭和18年6月初旬、伊号第8潜は内野艦長指揮のもと 127名の乗員
と共に第二次訪独艦として呉港を出港。インド洋を横断しアフリカの
南端に近づいた同艦は、海流の早い南極寄りの航路をとり喜望峰近く
にある英航空基地を牽制し大西洋に入った。
 この頃大西洋方面での連合国の対潜警戒は非常に厳重になり、多く
のドイツ潜水艦Uボートがこの洋上で沈められていた。慎重な警戒を
続けつつ北上、いちばん危険な海域であるフランス西岸ビスケー湾も
潜り抜け、二ヶ月以上も航海の末8月下旬に、目的地ロリアン基地に
到着した。
 盛大な歓迎を受ける中、日本側からはアルミニュム、錫、生ゴムな
どの天然資源を引渡し、ドイツからの譲渡物件の搭載を終えて、9月
には整備、補給を受け、一路日本を目指し3ヵ月の帰途についた。途
中、大西洋上の赤道付近で爆撃を受けるなど幾度かの危機に遭ったが、
其の都度、巧みな操艦で此れを切り抜け、安全圏へと急いだ。
 昭和18年12月21日、伊号第8潜は内野艦長以下 127名の乗員と共に
往復6万キロにもおよぶ航海の末、無事内地に帰還した。
 ドイツから持ち帰った物品は直ちに呉港で揚陸された。ボールベア
リング、高速艇図面、電波探知機など56種目の内、ダイムラーベンツ
社製魚雷艇用高速エンジンMB-501に、海軍は特別の関心を示した。
 三菱工業丸子工場に運びこまれた同エンジンは、解体されて精度の
調査を開始した、結果は、到底真似のできない精度の高さに驚かされ
ると同時に、技術の格差を痛感させられた。このことが高速エンジン
開発で遅れていた海軍に、伊号第52潜水艦による第5次訪独を決定さ
せる事になる。

 B 第3、4次訪独艦
 伊号第8潜が帰還したとき既に、第3次、4次の訪独艦が出港して
いた。
 昭和18年10月13日、伊号第34潜水艦は訪独任務第3艦として、伊号
第8潜水艦に遅れること4ヵ月、呉を出港して、第2次訪独艦の時と
同じく物資搭載のためシンガポールに寄港、11月11日出港したが13日
ペナン島ムカ岬灯台の沖1,800m(マレーシア沖合)で、待ち伏せていた
英潜水艦トウラスの魚雷攻撃を受け沈没、85人が犠牲になった。
 その翌月、11月には訪独第4艦として伊号第29潜水艦が呉を出港し
た。艦長は米空母ワスプを撃沈、操艦、襲撃法では右に出るもの無し
と謳われた木梨鷹一中佐である。
 同艦も同じくシンガポールに寄港して、ドイツに渡すべくタングス
テン鉱、ゴムなどの天然資源を積載した他、駐独武官などの要人20名
を乗せて12月16日、シンガポールを出立。
 約3ヶ月にもおよぶ苦難の航海に堪え忍び、翌年3月11日ロリアン
に入港、交流物資の積み下ろしを終え、休養、補給を受けた後、4月
16日帰途についた。
 7月14日、90日間もの航海を乗り切り、無事シンガポールへ入港し
た。此処でドイツから受領した、水銀、ラジューム等の資源のほかに
Me 163ロケット戦闘機、Me 262ジエット戦闘機の設計図といった重要
物資、重要書類の内、機密度の高い航空機の図面等だけは、非常時を
考慮して航空機に託した。
 7月22日、シンガポールを出港、呉に向かった。半年ぶりの日本で
ある、7月26日午後には、比島も過ぎ台湾の南方バーシー海峡を北上
していた。此処までくると日本の制空権内で目指す内地は、もう目の
前である。気の緩みか!海峡を水上航行する伊号29潜を、米潜水艦ソ
ドーフイッシュが狙っていたのに気が付かなかった。
 米潜の発射した魚雷3本が命中、瞬時にして沈没。艦外に投げ出さ
れた3名のほか、艦長木梨鷹一中佐、以下全乗員が艦と運命を共にし
た。6ヵ月の難航の末、日本を目前にした北緯20度10分、東経 121度
50分の地点であった。

 C 最後の訪独潜水艦
 昭和19年4月23日、シンガポールを出航した第5次訪独艦、伊号第
52潜水艦の予定の航路はインド洋を横断、大西洋を北上し、ロリアン
基地まで3万キロの難航海である。
 伊号第52潜は右にスマトラ島左にジャワ島を見ながらスンダ海峡を
抜けインド洋に乗り出した、此の海域では日本の制海制空権が及ばず
インドに基地をもつイギリス海軍は、たびたび日本の艦船を襲ってい
る、昼間は全て潜航して夜間のみの走航であった。
 同艦には、艦長小野大佐ほか乗員 118名と通訳1名、技術者7人が
乗っていた。深夜に空気を入れ替えのため浮上するとき以外は酸素の
消耗を防ぐため、出来るだけ横になり続けるのが日課になっていた。
 日本出発して2ヶ月半、アフリカ最南端喜望峰の海上に到達、此の
付近は英軍の航空基地が幾多も点在している、そこからの攻撃を警戒
し南極よりに大回りする航路を進んだ。
 昭和19年5月20日、喜望峰を周り大西洋に入った、ここ大西洋では
当時、ドイツ潜水艦Uボートと連合軍の間で、激戦が繰り広げており
此の年だけでも 245隻のUボートが撃沈されていた。
 危険水域に入った潜水艦を守るため、ドイツ海軍から提案があった。
「日本の潜水艦は無事ドイツに到着し任務を完了した」の偽情報を発表
して潜水艦の位置を撹乱し作戦を成功に導こうという戦術である。
 ベルリンの駐在武官から海軍大臣にあて電文が打たれた。しかし、
米軍は当時、日本軍が発信する暗号通信を傍受しハワイなどの基地で
解読に成功しており、東京の軍務局とベルリンの駐在武官とが交信す
る暗号電文は全て筒抜けであった。
 既に、シンガポール出港時に積み込んだ交換物資の内容や同地から
乗り込んだ技術者の人数、名前までも知られていたし、此の偽通信も
傍受されて、計画の全容は知られていた。米軍は潜水艦の動きに興味
を示し伊号第52潜水艦の動きを追い続けていのだ。
 昭和19年6月4日、伊号第52潜水艦は、赤道を越え北半球に入って
から、対潜哨戒網をかわし、目指すロリアン港に向けて北上を続けて
いた。訪独潜水艦はドイツの駐在武官から発信される短波無線を深夜
浮上して受信、其の指示により行動していたが、6月8日、到着を一
月前にして、連合軍のノルマンデー上陸によりロリアン基地が孤立化
したとの情報が入る。
 翌9日新しい指令が届いた。「6月22日、21時15分にドイツ潜水艦
と合流、レーダー逆探知装置を受け取れ、位置北緯15度、西経40度」
であった。
 伊号第52潜水艦は目的の合流地点に向う。しかし、米軍は此の情報
を解読、速やかに対潜部隊の移動を命じていた。派遣された米海軍の
航空母艦ボーグはスペインの遥か西の沖合から一気に南下、日独両国
の潜水艦は品物引き渡しのため必ず姿を現すであろう、其の機会に狙
いを定めた。
 6月22日、伊号第52潜水艦は合流地点に到着したが、ドイツ潜水艦
が見つからない、攻撃を恐れて浮上しないのか、現場到着が遅れてい
るのか、待ち続ける。
 翌23日20時20分、ドイツ潜水艦 U530は海面に浮上してきた、ゴム
ボートを使いレーダ逆探知装置の引渡しを終え、すぐにも取り付け作
業が開始されるはずであった。
 6月23日13時50分、米空母ボーグから発艦したアベンジャー雷撃機
が突然襲撃してきた、此れは上手く躱し被害を受けなかった。続いて
第二波の攻撃が、24日1時から開始された。攻撃は米海軍で開発され
た最新電子兵器、音響探知機ソノブイである。
 4方に投下したソノブイが潜水艦のスクリュー音を感知し、それを
受けた攻撃機が位置を算出、対潜爆弾を投下するものであった。此の
新兵器の攻撃には、流石の伊号第52潜水艦も耐えることが出来なかっ
た。
 致命的損傷を受けた伊号第52潜は、2回の爆発を残し、スクリュー
音を消した。 上がり、其の中には潜水艦のものと思われる多くの漂流物が漂ってい
た。北緯15度16分、西経39度55分、大西洋ビスケー湾の海底5,000mの
海底に乗員 126名と共に伊号第52潜水艦、今も眠る。
 これまで、都合5隻の潜水艦が訪独の任務についたが、無事帰国で
きたのは、その内唯一隻、伊号第8潜水艦のみであった。ほか4隻は
無念にも内地まで帰投できず、海底へと消えていった。
 今回の訪独を以てドイツへの隠密作戦は打ち切られた。


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2 特攻作戦と酸素魚雷

 @「特攻」への道
 ここで言う“特攻”とは前述した「特殊潜航艇」(甲標的)による
“特別攻撃隊”とは意を異にする特別攻撃隊である。前者は作戦後の
帰還には万全を期しての出撃であるが、後者で言う特攻隊とは、始め
から生還を期せずしての出撃であり、十死零生の作戦である。
 開戦より続く、数ヵ月の破竹の進撃は、日本陸海軍首脳部を有頂天
にし、戦力をも計らない戦線の拡大は、後方からの補給路を断たれて
脆弱さを暴露しだした。
 ソロモン消耗戦で制空権を失った日本海軍は、南洋離島への補給を
潜水艦に託たが、それは潜水艦の戦力不足に拍車をかけ、さらに航空
兵力、水上艦艇も一大消耗戦の泥沼に引き込まれていった。
 昭和18年中頃、悪化の道をたどる戦況を打開するため、前線で戦う
若い海軍士官の間では、必殺必中の兵器、いわゆる、特攻兵器の構想
が描き出され、海軍省に具申する者が出た。
 戦局が悪化するのに伴い、このような気運は上昇の一途をたどり、
若い指揮官らは血書嘆願をもって事を運んで行ったが、しかし、まだ
この時期では、航空機による特攻同様、下部からの提案は拒否されて
いた。
 これと同時頃、甲標的の乗員であった若い海軍士官黒木博司中尉と
仁科関夫少尉の両名は、18年の秋、P基地で特殊潜航艇の艇長として
訓練を続けていたが、もはや特殊潜航艇では戦局打開の決定的兵器と
して、能力不足であり、必死必殺の非常手段によらなければとうてい
日本を救うことはできぬと考えはじめた。
 彼らは魚雷を自ら操縦、敵艦に体当たりする構想を発案、軍令部に
血書嘆願を出した。だが、これもまた、軍令部第一部、第一課の藤森
康男少佐を通して事の次第は、永野軍令部総長に報告されたが、永野
総長は即刻「それはいかんな」と明言し、ただちに却下したと言う。
 しかし、この頃、前線での戦いは、一方的に悪化の一路をたどり、
昭和19年2月初旬には、ギルバート群島に続きマーシャル群島も陥落
し、その要衝クェゼリン島やメジュロ環礁を前進基地として使い始め
た敵機動部隊は、南方における日本軍の根拠地トラック島、サイパン
を攻撃範囲に収めた。
 大本営では、ただちに「竜巻作戦」を発動、この機動部隊を奇襲せ
んとしたが、特四内火艇をもってする本作戦は、兵器の劣弱さも加わ
り結局未成に終わってしまった。
 これら一連の作戦を見守っていた黒木、仁科の両人は、再度上京し
軍令部に対し、当作戦にこそ嘆願中の兵器が有効である旨を説いた、
意見書を持参し熱願した。激化する戦況の中、特攻兵器の採用を上申
し続ける青年士官達、この苦渋の選択に困惑する海軍上層部に決定的
事態が起きた。
 昭和19年2月17日、スプルアンス提督が指揮をする大機動部隊は、
568機を搭載する9隻の空母群をもって、トラック島に襲いかかった
のである。
 17日早朝から18日の、二日間にわたる大空襲は、徹底したもので、
日本軍は飛行機 325機、在泊する輸送船、油槽船などの船舶約20万ト
ンを失い、その他にも多数の海軍艦艇が被害を受けた。
註(巡洋艦那珂、香取、駆逐艦舞風、文月、追風、太刀風、駆潜艇24号、29号、
  魚雷艇10号沈没、時雨、松風、秋津州、明石、宗谷、波勝、駆潜艇20号、
  伊10号、呂42潜水艦が損傷、)

 そのほか陸上では、燃料、糧秣その他、多量の軍需資材の焼失と、
陸上施設にも大被害を蒙り、海軍最大の根拠地トラック島は完膚なき
までの壊滅的打撃を受けた。
 19年2月に入り、マーシャル諸島の失陥、トラック大空襲と23日の
マリアナ諸島の襲撃など、一連の大事によって衝撃を受けた海軍中央
部は、19年2月26日、遂に黒木・仁科両名の上申する兵器「人間魚雷」
の試作を呉海軍工廠の魚雷実験部に下命した。
 19年4月、艦政本部及び航空本部の技術陣に軍司令部は、非常手段
による兵器の開発を要望してきた。「これだけあれば必ず頽勢を挽回
できるが、もしこれがなければ必ず敗ける」と称し、9種類からなる
特殊な攻撃艇と兵器の「緊急実験」が順次に提案された。
 @からHと仮称されたが、その中完成したのはCとEだけで、試作
の上、一応完成はしたが実用には供し得なかったのがHである。これ
らに後日、Cは震洋、Eは開発中“丸六金物”と呼ばれた「回天」で
あり、Hは震海と命名された。
 その他は完成に至らなかったが何れも特攻又は特攻に準ずるもので
あり、作戦の大要を握る軍令部が、海軍省に対して提出した、まさに
非常事態を背景にしての異例の要望であった。
 併しこの時点では、全ての兵器に脱出装置が考慮されていた。

 A 特攻兵器の採用
 昭和19年4月、軍令部より特攻兵器の試作が各部所に下令された時
すでに黒木、仁科両人の提唱する「人間魚雷」は、魚雷設計の権威渡辺
清水技術大佐主任の下に、鈴川薄技術大尉、楠厚技手、有坂技手らに
より呉工廠大入工場の極秘部所で研究、試作が始められていた。
 19年3月には、進級して黒木大尉、仁科中尉になった両者は、4人
の技術者とともに、E、丸六金物と呼称される特攻兵器を、それから
約5ヶ月間、昼夜をいとわず設計、試作に苦心を重ねた末、7月初旬
漸く、試作兵器3基が完成した。
 これが後日、米海軍を恐怖の渦に陥れた呼称「回天」と名付けられ
た特攻兵器である。もっとも、最初は、接敵し進路を固定した時点で
搭乗員はハッチより艇外洋上に放出され、魚雷のみが敵艦に命中する
ことを条件として、脱出装置が考慮されていた。
 特攻兵器の生産を決定させたのが、マーシャル失陥によるトラック
島の大空襲なら、この兵器の使用を決めらせたのは、昭和19年6月の
サイパン陥落とマリアナ沖海戦の完敗に有ると言えよう。
「特攻」への道のりは、兵器の完成とともに、作戦及び組織の面にお
いても、今や上層部からの伝達的型式となり、日を追う事、加速的に
進められて行った。
 昭和19年7月10日頃には、軍令部の要請を受けた海軍省軍務局によ
る提案で、特攻基地隊としての「第一特別基地隊」が呉鎮守府内に編入
され、すぐさま、続いて8月30日には海軍省の人事、及び教育、各局
長との連名により、横須賀、呉、両鎮守府宛て要員選抜及び教育に関
する申進が発付された。
 9月13日になると「海軍特攻部」が海軍省内に発足し、海軍中央の
諸機関の部局より、それぞれの要人達が参加して大組織を形成すると
言った具合に、事は順調に進められていった。この様にして水上及び
水中特攻が、戦力としても作戦としても、正式に容認された形の中で
拡大されていった。
 昭和19年8月16日、海軍上層部において、特攻兵器使用に関する、
討議が行われた際に、草鹿連合艦隊参謀長は「必死の戦いであるので
成果の上がる兵器を持たせてやりたい」と述べるとともに「十分の一
の生還方途を考えてもらいたい」との希望を述べていた。
 また井上成美海軍次官は、捨て身戦法の有効なことを認めつつも、
「脱出装置」の準備について発言するところがあったと言う。
 まだこの段階では、これまでの作戦を通して海軍伝統の、九死一生
を以て限度とする作戦思想が、海軍中央部の指揮官達の心底に根付い
ていた。いかなる作戦においても事を起こす場合、十死零生ではなく、
一割りの生還を以て命令とするのが帝国海軍の伝統で有った。
 しかし、戦況の悪化はそれを許さなかった。
 昭和19年9月17日、サイパン陥落後、次に来るべき戦場、フィリピ
ン防衛戦に発動される「捷一号作戦」をめぐって、軍令部では、関係
幕僚が集まり戦備の「緩急順序」に付いて討議が交わされた。
 この時「特攻兵力」が既に「航空兵力」「航空基地防空」に次いで
戦備の第三番目に上げられていた。
 19年7月に試作完了していた人間魚雷「丸六金物」(後の回天)には、
搭乗員の脱出装置は外されていた。もとより十死零生の兵器は許され
なかった。しかし、10月下旬「捷一号作戦」の発動にともない、航空
機により体当たり攻撃をする「神風特別攻撃隊」が、志願許可されるに
及んで「人間魚雷」もまた同じく、特攻作戦への取り扱いを受けるよ
うになった。

 B「回天」と酸素魚雷
 昭和19年7月「丸六金物」の呼称で完成された「人間魚雷」は、窮地
に追い込まれ新しく発案されたものでなく、既に日米開戦の前、昭和
8年頃に、岸本大佐の着想により研究されていた。
 日米関係が一触即発の時期、もし日米艦隊決戦が起きるならば劣勢
比率を課せられいる日本艦隊は、不利な戦いを強いられる事になる。
この打開策が「魚雷を人間が操縦して必中を期する」という「丸六金物」
いわば、特攻兵器の考えその物であった。
 しかし、海軍はこれを認めず、更に研究を進めた結果「洋上決戦に
先立ち母艦から発進、小型の隠密性を活かし可能なだけ敵艦に接近し
敵主力艦を奇襲攻撃、その後は母艦に収容」という、小型潜航艇の形
で認可された。これが「甲標的」特殊潜航艇となって完成したのであ
る。
 この「甲標的」発想の要因をなした人間魚雷そのものを兵器として
実現させたのが、大浦崎第一特別基地隊(P基地隊)で甲標的の修練
に励む青年将校、黒木博司大尉と仁科関夫中尉であった。
 昭和18年暮、ソロモン消耗戦で敗退の一途をたどる友軍を憂う彼ら
の脳裏には、戦勢を挽回する新兵器を模索していた。
 今、自分らが訓練している「甲標的」では急激に進歩する近代戦に
到底対応する事は出来ない、これに代わる、高速で且つ強力な兵器を
必要とするのだ。
 黒木中尉と仁科少尉(階級当時)は、各鎮守府の兵器庫に累々と積ま
れる「九三式魚雷」に着目した。二人の構想は、この魚雷を改造し、
自由に操縦出来る一人乗りの「人間魚雷」を造り、必死必中の攻撃を
せんとするものであった。
 再三の上申のすえに、19年2月漸く試作が下令され、7月に完成を
見た(前項で記述の通り)。それは、水中特攻兵器E金物或は、関係者
の中では単に「筒」とも呼ばれ、日本の誇る「酸素魚雷」をそのまま
動力とし、頭部に 1.5トンの炸薬をそうちゃく、乗員はそれを操縦す
る必殺兵器であった。
 実験の結果「酸素魚雷」の特性を偉観なく発揮、航跡を残さず高速
で走航し、頭部炸薬 1.5トンの爆発力は、中型艦なら一発で轟沈せし
める驚異的なものであった。
 敵に知られず、自由に操り敵艦に命中する此の兵器こそ、甲標的と
は比較にもならぬ強力なもので、まさに、救国の兵器とした海軍では
これを「回天」と命名した。
 それでは、此の「回天」考案の源になった酸素魚雷とは如何なるも
のであったのか、回天を知る前に、日本海軍極秘兵器の酸素魚雷に付
いて知っておかなければならない。
 そもそも、魚雷の推進力となるのは、空気中の酸素が、動力機関の
燃料を燃焼させ、その出力で推進機を駆動して走行するのだが、空気
中に含まれる酸素の量は4分の1弱だ、残りは気泡になり海中に放出
され、これが青白い尾を引く航跡となってしまう。
 それでは空気の代わりに100%の純酸素を用いるなら燃焼後の酸素は
炭酸ガスとなり、海中に融解してしまい航跡を残さない、しかも空気
室一杯に詰め込まれた純酸素は、当然、航続距離を数倍に延伸して、
燃焼時の瞬発力を大きくさせ、高速を発揮させる。
 良い所尽くしである。ところが、そうは簡単に行かないのだ。純度
の高い酸素は強力な爆発物で、火気は無論のこと油気に触れただけで
も大爆発を起こす厄介者である。それ故、海軍列国では35%の濃度を
以て限界としていたが、唯、魚雷の先進国、英国だけは50%での使用
に成功していた。しかし実用前に爆発事故を起こし、それ以後は危険
兵器とし製造を断念してしまった。
 唯一、日本海軍のみが、大八木静男大尉を中心にして、酸素魚雷の
完成に向け邁進していた。昭和7年、不眠不休の努力の末50%の酸素
での走行に成功した。速力40ノット、射程2万メートル、これはもう
世界の一流品であった。だが、劣勢な主力艦戦力を、決戦前に水雷戦
を以て有利に導こうとする水雷用兵の権威、岸本鹿子治大佐は満足し
なかった。
 更に、魚雷設計の天才、朝熊利英中佐が加わって、岸本、大八木の
3名により、苦心に苦心を重ねる事3年、遂に完全な酸素魚雷を完成
させた。
 実験の結果、最高速力は50ノット、36ノットならば4万メートルを
突っ走しると言う驚異的魚雷であった。
 昭和11年、高速が故に起きる障害などに改修を加え、完全なものと
なった魚雷は、海軍正式兵器として採用「九三式酸素魚雷」と命名さ
れた。
 念のため、その性能を米英大海軍の代表的魚雷に比較してみると
   国 名  直径 cm  速力 nk  射程 m  爆薬 kg
   日本   61    36   40,000  500
   米国   53    32    8,000  300
   英国   53    30   10,000  320
 「九三式酸素魚雷」の逸脱した優秀さは一目瞭然である。

    酸素魚雷の詳細についてはHP「日本国と日本海軍の栄光」
    連合艦隊の激闘・
碧き殺人者 をご覧下されば幸いです。


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