日本潜水艦史

第二章 潜水艦の建造

  二 軍縮条約と潜水艦建造

1 中型潜水艦

 第一次大戦終結後、日本海軍は2回に亘る軍縮会議で米、英に対し
大きく軍備の制限を受けることになった。大正11年のワシントン条約
では主力艦の建造に、昭和5年のロンドン条約では潜水艦を含む補助
艦艇にも過酷な制限を課せられたのである。
 これにより海軍力の劣勢を補うため、決められた保有量の枠内で、
より強力で高性能な艦艇を建造しなければならない、こうした情勢の
もと潜水艦においても例外でなく、日本海軍独自の新しい発想による
技術確立に努力していった。
 明治末期より、海外の新型潜水艦を購入しながら技術習得に努めて
きた我が海軍は、大正4年頃に一応、自力での建造技術を確立するに
至った。日本海軍ではローブーフー型の複殻構造の利点を認め、これ
をモデルに独自の改良を加えた設計で、大正6年4月25日、呉工廠で
2隻の潜水艦を起工し、大正8年7月31日竣工させた。
 これが海軍中型、いわゆる「海中型」と呼ばれ、日本潜水艦の原点
となった潜水艦である。
 その後、海中型は逐次改良を加えながら「海中」2、3、4型と発展
し、それと並行して「特中型」が続いて建造され、昭和2年までに22隻
の中型潜水艦が整備され、昭和初期の海軍にあって、沿岸防備の任務
に従事、大きな役割を果した。更に特中型に於いては太平洋戦争中に
も訓練用潜水艦に使用されていた。

   @「海中型」潜水艦
 海中型、最初の1型2隻は大正5年度計画で建造され、大正8年に
2隻揃って竣工した。「海中1型」ではズルザー式2号ディーゼルを
搭載して、公試運転では、当時として最優速の19ノットの高速を記録
した。日本海軍は、既にこの頃から高速を目指していたのである。
 「海中型」では列国にさきがけ水上高速航行を狙い、一貫してスイス
製ズルザー式ディーゼル機関を採用し速力の増大を図っていたが、し
かし、此の海中型は艦型が改造されるに従い排水量が増大し、それに
対して機関の出力増加が伴わず、速力は次第に減少し「海中4型」では
16ノットまでに低下してしまった。
 高速を得るために採用したズルザー式ディーゼル機関であったが、
故障などが多く、長期の運転では安定性に欠ける難点があり、課題を
残していた。
 兵装面を見ると「海中1型」で隠顕式であった備砲、短8cm単装高
角砲を海中2、3型では艦橋後部に、4型では艦橋の前方に固定して
装備された。雷装は45cm発射管、艦首4門上部2門であるが、1型で
旋回式であった上部発射管は2型で再度の改良後、装備位置を1段下
げ固定式に改められ3型に継続された。4型に於いては上部発射管を
廃止したが艦首の4門は53cm発射管に換装され、雷撃時の威力を一層
強力なものにしている。
 海中2型は、大正6年度計画で3隻建造されたが、1型の竣工前に
着工されていたため、その就役中の使用実績などが加味されることが
なく、艦橋の大型化と上部構造物に多少の設計変更がなされたほどで
さしたる発展は無かった。しかし2型以後の型からは燃料塔載量を増
やし航続距離を海中1型より50%増大させた。
 海中3型は、大正6年度計画で6隻、7年度計画で7隻が着工した
が、従来の造船所以外に横須賀、佐世保工廠でも建造された。これは
当時進められていた、ズルザー式ディーゼルの国内生産及び諸装置の
国産化などと同時に、国内における潜水艦建造の技術が一定水準で普
及されていたからであろう。
 又「海中3型」が13隻も大量に計画されたことは、「海中型」がこの頃
安全潜航深度の増大に加え、実用性が安定してきたた事を示している
のだが、しかし艦隊随伴用潜水艦として必要な凌波性、航洋性と速力
の増大など用兵側の要求は多く、それに答えるには、まだ多くの課題
を抱えていた。
 大正7年度計画で建造中であった7隻のうち、あまり工事の進んで
いなかった「海中3型」3隻は、海中1〜3型での使用実績による設計
変更が加えられ「海中4型」として竣工した。
 この4型は、艦舷と予備浮力を増大し、航洋性の改善を図ると共に
艦橋の大型化と水上発射管の廃止により艦容は一段と近代化され、又
潜舵、横舵の強化で運動性にも余裕が出来、従来の「海中型」に比べ
実用性は飛躍的進歩を遂げた。
 海中4型で採用の53cm魚雷発射管は英国潜水艦L3型と同じ時期で
多分にL型の影響を受けたもので、「海中型」は外国で設計された在来
型潜水艦に比べ、攻撃力が増強されたが、性能も一段と進歩して艦隊
型潜水艦の先駆けとなった艦型である。
 しかし本艦型に於いても速力の増加は出来ず、中型潜水艦の限界を
感じた日本海軍は、これにより大型潜水艦の建造に向け研究を進めて
いくのである。
 大正年間、日本独自の技術開発を目指し建造されてきた中型潜水艦
も、昭和年間に入り世界の水準に達し、海軍の一端を担う戦力として
育ちつつあった。しかし、昭和5年のロンドン軍縮会議により潜水艦
の保有量までが制限されてしまい、之の対応策として個艦の性能向上
と、戦時における急速建造に適した量産型の試験艦を建造して、その
資料を確保しておこうとした。
 此れにより昭和6年度計画で、2隻の中型潜水艦が15年振りに建造
される事になった。昭和8年8月、1番艦が呉工廠、続いて9年には
2番艦が三菱神戸造船所で起工され、それぞれ昭和10年10月と12年5
月に竣工した。これが「海中5型」呂号33型と呼称さる呂号第33、34潜
水艦である。
 尚、「特中型」を5型とし、本型を「海中6型」としている書籍もある
が海軍公式記録では「海中5型」となっており、正式には5型が正しい
呼び方だと思われる。
 本艦型は量産型と位置付けしながらも、海大型の補助的戦力として
行動できるようにとの要望は、懸念された耐波性と凌波性の向上、又
艦橋の高さを大型潜水艦と同じ高さに引き上げて水上での監視能力を
同等のものにするなど、大型艦の性能に近づけようとするものであり
急速建造の設計とは相反するものであった。
 戦時急造の量産型としながらも特に注目すべきは、既成の中型艦が
建造を重ね改良を加えるに伴い、水上速力が低下して、最初の18ノッ
トが16ノットに低下したのに対して、本艦型では日本海軍が開発した
艦本式21号複動機関の採用で19ノットを得たことである。又航続力の
延伸は特中型で成功していたが、其れを更に延長したものになった。
 この「海中5型」の建造には、あらかじめ図面や材料を準備し、製造
工程及び艤装品の統制などと、戦時急造を想定しながら慎重に進めら
れて、実験艦的要素を多く含んでいた。しかし、公試の結果全ての面
で性能が良く満足できるもので、海中4型の頃よりも造機、造船技術
も著しく進歩し、中型艦でも隻数を整備することで相当の戦力となり
得るはずであったが、量産されることはなかった。
 僅か、排水量 700トンの中型艦として、速力においては世界の水準を
超越するものであり又、荒天時の航海実績では、耐波性及び凌波性に
於いて大型艦に勝る面があり、さらに操縦性能は水上、水中共に既成
艦中最も良好で、中型艦の発展に驚くべき成果を示した。
 兵装面では、魚雷発射管数4門は少ないと見た用兵者の評もあった
が、当時の列強海軍の其れと比較しても互角であり、艦型から見ても
相応のものであったと思われる。
 本艦型の優れた性能と、ドイツの中型潜水艦Uボートの活躍を見る
とき、此の「海中5型」の発展と建造に大いに力を注ぐべきでなかった
かと、後になって惜しまれる艦型である。

 海中1型(呂11型)
呂号第11 大正8年7月31日竣工 昭和7年4月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第12 大正8年9月18日竣工 昭和7年4月1日除籍 呉工廠で建造
 海中2型(呂13型)
呂号第13 大正9年9月30日竣工 昭和7年4月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第14 大正10年2月17日竣工 昭和7年4月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第15 大正10年6月30日竣工 昭和7年4月1日除籍 呉工廠で建造
 海中3型(呂16型)
呂号第16 大正11年4月29日竣工 昭和8年9月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第17 大正10年10月20日竣工 昭和11年4月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第18 大正10年12月15日竣工 昭和11年4月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第19 大正11年3月15日竣工 昭和11年4月1日除籍 呉工廠で建造
呂号第20 大正11年2月2日竣工 昭和9年4月1日除籍 横須賀工廠で建造
呂号第21 大正11年2月2日竣工 昭和9年4月1日除籍 横須賀工廠で建造
呂号第22 大正11年10月10日竣工 昭和9年4月1日除籍 横須賀工廠で建造
呂号第23 大正12年4月28日竣工 昭和10年4月1日除籍 横須賀工廠で建造
呂号第24 大正9年11月30日竣工 昭和10年4月1日除籍 佐世保工廠で建造
呂号第25 大正10年10月25日竣工 昭和11年4月1日除籍 佐世保工廠で建造
 海中4型(呂型)
呂号第26 大正12年1月25日竣工 昭和15年4月1日除籍 佐世保工廠で建造
呂号第27 大正13年7月31日竣工 昭和15年4月1日除籍 横須賀工廠で建造
呂号第28 大正12年11月30日竣工 昭和15年4月1日除籍 佐世保工廠で建造
     大正13年11月1日、二等潜水艦の総称より呂号の冠称を付加し、呂
     号第11〜呂号第28と改名。 
     大正13年3月19日、呂号第25(当時、第43潜水艦)は佐世保港外で
     訓練中軽巡洋艦「龍田」と衝突し沈没したが、後に引き揚げ再就役
     した。
 海中5型型 (呂33型)
伊号第33 昭和10年10月7日竣工 昭和17年10月5日除籍 呉工廠で建造
伊号第34 昭和12年5月31日竣工 昭和18年9月15日除籍 三菱神戸造船所

 A「特中型」潜水艦
「特中型」は「海中3型」と同年度に計画されたが、少し遅れて、大正
12年9月に一番艦が完成、続いて大正13年には3隻の、計4隻が竣工
した。
 兵装は海中4型と同じく53cm発射管を装備し、備砲は40口径12cm単
装砲を装備している。これは兵装強化型の艦船攻撃用潜水艦の試験的
艦型とも見られるが、従来型の「海中型」では、速力向上に努めてき
たのに反し、小型機関の搭載により出力を半減し、これにより生じた
余積に燃料タンクを増設、航続距離の増大を図った事から考え、長距
離偵察を目的とした巡潜の先駆的艦型であった感が強い。
 なを本艦型が就役した年度より、ハワイ方面の港湾偵察や哨戒を目
的とした訓練が、潜水艦隊で始められた事も興味深い史実である。

 特中型(呂29型)
呂号第29 大正12年9月15日竣工 昭和11年4月1日除籍 川崎造船所で建造
呂号第30 大正13年4月29日竣工 昭和17年4月1日除籍 川崎造船所で建造
呂号第31 昭和2年5月10日竣工 昭和20年5月25日除籍 川崎造船所で建造
呂号第32 大正13年5月31日竣工 昭和17年4月1日除籍 川崎造船所で建造
    大正13年11月1日、 呂号第29、 30、 32と改名。
     大正12年8月21日第70潜水艦、 淡路島假屋沖で公試運転中事故のた
     め沈没、同年10月18日、浮上後一度解体の上、大正13年12月20日、
     再起工、昭和2年5月10日竣工、呂号第31と命名。


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2 「海大型」海軍式大型潜水艦

 第一次大戦中に急速な進歩を遂げた潜水艦建造技術を、先進国より
導入しながら発展してきた日本の潜水艦も、海中型に於いては、我が
海軍独自の設計、建造になるもので「海中3型」に至りては技術的確立
を得た。
 しかし、用兵側の要求を満たすにはいまだいたらず、これにより中
型潜水艦の性能に限界を覚えた海軍は、大型艦の建造で高速と航続力
の延伸を図り、艦隊随伴型の建造に指向していったのである。
 海中型でなし得なかった性能を満たすために、設計陣に課せられた
要綱は水上速力と航続距離の増大、それに加えて優れた航洋性に運動
性などであった。この要望に応えるには必然的に艦型の大型化、大出
力機関の採用、又船殻耐圧構造や船体線図の全面的設計の更新などと、
多くの難問を克服しなければならず、設計者陣は新しい物を生み出す
苦労に向かい挑戦して行ったのである。
 大正11年のワシントン条約で制限を受けた主力艦の劣勢を、潜水艦
により補おうとした日本海軍は、次のロンドン条約では潜水艦の保有
量まで制限を受ける事になり、之れにより我が海軍は量より質と更に
優れた艦の建造を余儀なくされたのである。
 このような状況下に建造されたのが「海軍式大型」略称「海大型」
と巡洋型潜水艦、いわゆる「巡潜型」と呼称する大型潜水艦であり、
以後建造される艦隊型潜水艦の原型とも言える艦型であり、海大型に
おいは1型より7型まで35隻、巡潜型では1型より3型までの8隻、
又機雷潜型が4隻が就役した。
 潜水艦の発展は、沿岸防御から艦隊戦力の一端を担う艦隊型潜水艦
や、洋上で艦船を狙う通商破壊戦などと、使用方法も多様なものにし
たが、日本海軍では敵主力の漸減を主目的とする、高速で航洋性の高
い潜水艦を目指し建造して行った。

 @前期、海大型
 大正10年4月、日本海軍で初めての大型潜水艦が呉工廠で起工され
た。これが、我が海軍が独自の構想により純日本式に設計された、海
軍式大型潜水艦の第一艦「海大1型」伊号第51潜水艦であであった。
 本艦の設計に当たり、用兵側が要望する20ノットの速力を得るため
に、当時「海中型」が採用していた高出力のズルザー式2号 1,300馬力
ディーゼル機関を、海中型の2隻分を搭載し 6,000馬力を発生させよ
うとした。従って前例のない主機4基の4軸艦となり、主機械配置、
内殻幅の拡大など設計上不利な難関に直面した。
 これには直径 4.5メートルの内殻を、2本並べる眼鏡型内殻と称す
る画期的な多殻式船体構造の採用により一応の解決を見たが、此の設
計には従来の中型艦より排水量が2倍にもなり、多くの難問が伴い艦
型決定には数回の改正が行われた。
 大正13年6月、竣工した「伊号第51」潜水艦は主砲45口径12.0センチ
砲1門、魚雷発射管を艦首6門、艦尾2門を装備して、用兵者の要望
に兵装、速力、航続距離は応じ得た。特に20,000浬にも及ぶ長大な航
続距離は後の巡潜型にも匹敵するものであったが、その他の性能では
決して満足するものではなく、いわば後日、建造される巡潜型と海大
2型への過渡期とも言える試作艦的性格のものであった。しかし本艦
の建造で得た実績は、次につづく大型潜水艦の発展に大きな影響を与
えた。
 大正14年5月、海大1型に次いで設計された「海大2型」伊号第52型
1隻が呉工廠で竣工した。
 本艦ではズルザー社製の新型大出力機関である 3,400馬力ズルザー
式3号ディーゼル機関2基を搭載、之れにより発生する 6,800馬力を
以て用兵上必要とされた水上走航速力22ノットを得ようとした。
 海大1型より航続力を抑え速力を重視した2型では、主機を2基搭
載2軸とした事のみならず船型、構造においても全く新規に設計され
船体も高速に有利なように、長/幅が13となる比値にされた。これに
より大型潜水艦として世界で初めて20ノットを超える実速21ノットの
高速走航に成功したのである。
 しかし、ズルザー式3号機関は使用実績に乏しく、まだ試作段階に
あったため、早くより幾多の故障を頻発し目標の22ノットには到達で
きずに実用最大速度19.5ノットに留まった。この主機の故障対策には
非常な努力が払われ、種々の改良を加えながら改善されていった。
 このように海大2型に於いても未だ試作艦の域から抜け出せずに居
たが、航続距離を忍び速力に重点をおいた日本独自の海大型と、この
頃ドイツからの技術導入により建造されつつあった航続力重視のゲル
マニア型である巡潜1型と併せ見たとき、海大型と巡潜型との特徴が
顕著に現れていた時期である。 後期に建造された5隻は設計に改良が加えられたため、前期型と後期
型に分けて「海大3型a」伊号第53型と「海大3型b」伊号第56型と
呼ばれた。
 海大3型では、2型で不調たったズルザー式3号ディーゼル機関を
ドイツ、マン社製ディーゼル機関の特長を取り入れて改造を加え、計
画速度も22から20ノットに抑えると共に機関出力を減少させ安定性を
期した。又、内殻板の増厚、昇降口の二重式ハッチなど、新しく制定
された方針により、安全対策を含む設計で船体と艤装に著しい改善が
施され、安全潜航深度も60メートルに増大された。
 海大3型bでは3型aに比べ凌波性改善のため艦首の形状を、これ
までのタートルバック式からゲルマニア型巡潜1型の単純な直線状に
改めシアーを大きくするなど、若干船型に改良を加えた他、補助発電
機室や賄い所、倉庫などの区画配置の変更がなされた程で、寸法や基
本性能等に大きな変化はなかった。
 海大3型が大した改良なしに9隻も建造された事は、本艦型に至り
艦隊型潜水艦としての性能が安定し、実用性がほぼ目標に到達出来た
からであろう。これを証明するように海大3型就役後、昭和5年の第
3次南洋巡行では40日間にもわたる長期行動を無事終了させている。
 この時期実施された3回に亘る潜水艦隊の遠洋巡航は、各艦の欠点
とか長所の摘発、又建造中の各艦型との比較による改良の促進等、艦
隊型潜水艦の確立には大きな意義を持つものであったが、また艦隊型
潜水艦の行動力に大きな自信を得たのでもある。
 この頃、日本海軍の大型潜水艦は急速に発展を遂げたのであるが、
国産されるようになった主機のヅルザー式3号ディーゼル機関は起動
及び低速運転時の作動が不安定で円滑性を欠くなどで、用兵側が要望
している、敵艦攻撃に必要な23ノットを得るにはまだ、多くの難問を
抱えていた。
 しかし本艦型は訓練中に事故で沈没した「伊号第63」を除いた全艦
が、艦隊にあっては猛訓練を重ね、太平洋戦争緒戦では第一線に投入
され活躍し、その後、老巧のため練習艦として使用され、終戦時には
健在であった。
 海大3型に搭載のズルザー式機関は改良を重ねられていたが、依然
として安定性に問題があった。このため当時就役していた巡潜1型に
採用し成功を収めた独国マン社製の、ラウシェンバッハ式2号機関の
搭載を決定し建造されたのが「海大4型」伊号第61型で、昭和4年か
ら同5年8月までに三菱神戸造船所と呉工廠とで3隻が竣工した。
 船型及び兵装などの設計面での変更は、耐圧強度向上を計るために
前部魚雷発射管室の形状を従来の長円断面から円形に改正、これによ
り前部発射管は6門より4門に減少されたが、その他基本寸法や性能
には大きな変化は見られない。
 主機関の変更により安定して運用が出来るようになった海大4型で
あるが、しかし本機関も運転時に一定の回転数(240〜320/分)で捩じ
り振動を起こす欠陥があった。

 A後期、海大型
 昭和4年12月、既成艦の実績を採り入れて、新規に設計された「海
大5型」伊号第65型3隻が三菱造船所、呉及び佐世保工廠で起工され
た。
 海大5型では再度ズルザー式3号機関を搭載したが、この機械には
故障解消のため、昭和4年頃には大改造を加えられ、安定したものと
なっていた。本艦型に於いては完全複殻とする船体線図の改正などと
併せ、水上最高速力22ノットを記録、ズルザー式3号機関の改造によ
る実用性の回復を示した。
 兵装面では、発射管4門は「海大4型」と同じであったが、88式無気
泡発射管の採用により、発射時の痕跡を発見されずに魚雷攻撃が可能
になった、又防空力を図り海大型で初の50口径10センチ高角砲を装備
した。その他、MV式水中聴音機や南方での作戦に備え空気冷却機の
設置など、等幾多の新装備による近代的性能と更に、安全潜航深度の
増大した本艦は用兵者に好評を得た。
 しかし、改造されたズルザー式機関の重量増加により、艦の浮上時
に船体が傾斜を生じるなどの、問題も残した。
 太平洋戦争では潜水艦隊の中堅として活躍、戦争末期には特攻兵器
「回天」を搭載し、特別攻撃隊の母艦として出撃した艦もあった。
 ロンドン条約下の、昭和9年から同13年にかけ、いわゆる条約型潜
水艦と称される「海大6型」8隻が竣工した。
 本艦型は当時ゲルマニア型より発展させていた巡潜2、3型と前後
して設計された新型潜水艦であるが、9年度計画による建造艦は艤装
兵装面でも改良が加えられたため、前期型と後期型に分け、それぞれ
を「海大6型a」伊号第68型、「海大6型b」伊号第74型と呼んだ。
 海大6型に於いては船型の著しい発達と併せ、本艦型より採用され
た我が海軍開発の、軽量大出力ディーゼル、艦本式1号甲8型 4、500
馬力複動機関2基により、長年にわたり切望されてきた戦術速度であ
る水上走行速度23ノットを得る事に成功し、更に航続距離においても
10ノットで14,000浬に延伸されたのである。
 後期型の海大6型bでは基本寸法には大差は無いが、溶接構造の部
分を多くし、又内殻板の厚さを増すと共に、助骨を内殻の外側に装着
する等、新方式の採用により安全潜航深度も85mまで増大した。
 更に外殻の燃料タンクを移動して、メインタンクの下部に設置、こ
れにより水上での復原力が向上し、重油搭載量が30%増加、航続距離
を延伸することができた。
 兵装面では、海大5型以来の備砲50口径10センチ高角砲は海大4型
と同じ45口径12センチ砲に換装され、発射管も故障が多かった88式か
ら新型の無気泡式95式発射管に換装された。
 この時期、速力向上に努めてきた海大型と、航続距離に重点を置い
て開発されてきた巡潜型は、共に速力と航続力の増大に成功、性能的
に同一化しており、以後の計画から統一が計られることに事になった。
 海大6型と同年度計画艦である巡潜3型に至り、艦隊型潜水艦とし
て完成された艦型となり、無条約時代に建造される甲、乙、丙型及び
海大7型など、太平洋戦争では第一線に出撃し、活躍した日本潜水艦
の母体となった艦型である。
 この「海大型」潜水艦は1、2型を除いた6型迄の23隻は太平洋戦争
で第一線に投入され善戦したが、3型の一部を除く全艦、戦没の運命
を辿った。

 海大1型(伊51型)
伊号第 51 大正13年6月20日竣工 昭和15年4月1日除籍 呉工廠で建造
      除籍後、廃潜水艦3号と仮称。
海大2型(伊52型−伊 152型)
伊号第 152 大正14年5月20日竣工 昭和17年8月1日除籍 呉工廠で建造
      除籍後、廃潜水艦14号と仮称。戦後播磨造船所で解体。
 海大3型a(伊53型−伊 153型)
伊号第 153 昭和2年3月30日竣工 昭和20年11月30日除籍 呉工廠で建造
伊号第 154 昭和2年12月15日竣工 昭和20年11月20日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第 155 昭和2年9月5日竣工 昭和20年11月20日除籍 呉工廠で建造
伊号第 158 昭和3年3月15日竣工 昭和20年11月30日除籍 横須賀工廠で建造
      伊号第 153.154.155は昭和21年5月に伊予灘、伊号第 158は同年
      4月、五島沖で海没処分。
 海大3型b(伊56型−伊 156型)
伊号第 156 昭和4年3月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 呉工廠で建造
伊号第 157 昭和4年12月24日竣工 昭和20年11月20日除籍 呉工廠で建造
伊号第 159 昭和5年3月31日竣工 昭和20年11月20日除籍 横須賀工廠で建造
伊号第 60 昭和4年12月24日竣工 昭和17年3月15日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第 63 昭和3年12月20日竣工 昭和15年6月1日除籍 佐世保工廠で建造
      伊号第 156.157.159は昭和21年4月1日五島沖で海没処分。
      伊号第63は昭和14年2月2日豊後水道水の子水道付近で伊号第60に
      衝突され沈没、昭和15年1月23日浮上させる。
 海大4型(伊61型−伊 162型)
伊号第 61 昭和4年4月6日竣工 昭和17年4月1日除籍 三菱造船所で建造
伊号第 162 昭和5年4月24日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱造船所で建造
伊号第 164 昭和5年8月30日竣工 昭和17年7月14日除籍 呉工廠で建造
      伊号第61は昭和16年10月2日壱岐水道烏帽子灯台南西で木曽丸と
      衝突沈没。伊号第 162は昭和21年4月1日五島沖で海没処分。
       伊号第64は昭和17年5月25日亡失認定前の同年5月20日、伊号
      第 164と改名。
 海大5型(伊65型−伊 165型)
伊号第 165 昭和7年12月1日竣工 昭和20年9月15日除籍 呉工廠で建造
伊号第 166 昭和7年11月10日竣工 昭和19年9月10日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第 67 昭和7年8月8日竣工 昭和15年11月1日除籍 三菱造船所で建造
      伊号第67は昭和15年8月29日南鳥島沖で訓練中事故のため沈没。
 海大6型a(伊68型−伊 168型)
伊号第 168 昭和9年7月31日竣工 昭和18年10月15日除籍 呉工廠で建造
伊号第 169 昭和10年9月28日竣工 昭和19年6月10日除籍 三菱造船所で建造
伊号第 70 昭和10年11月9日竣工 昭和17年3月15日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第 171 昭和10年12月24日竣工 昭和19年4月30日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 172 昭和12年1月7日竣工 昭和17年12月15日除籍 三菱造船所で建造
伊号第 73 昭和12年1月7日竣工 昭和17年3月15日除籍 川崎造船所で建造
 海大6型b(伊74型−伊 174型)
伊号第 174 昭和13年8月15日竣工 昭和19年6月10日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第 175 昭和13年12月18日竣工 昭和19年7月10日除籍 三菱造船所で建造
(機雷潜型は昭和13年6月1日、海大型は昭和17年5月20日より、従来の艦名に
 百桁番号を付加して呼ばれ、次いで建造された海大7型に於いても、全て百桁
 番号を付加した艦名が命名された。 例 伊号第53−伊号第 153) 


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3 ドイツ式潜水艦

 これまでの潜水艦は、その先進国より各種の優れた艦型を購入して
研究をしてきたのに、欧州でも一歩先んじていたドイツ潜水艦の技術
導入がなかったことに疑問をもたれるであろうが、この頃、独国は露
国と同盟関係にあり、わが国とは国交がスムーズに行っていなかった
からである。
 しかし、第一次世界大戦で英国の同盟国として独国と戦い、戦勝国
となった日本は、優秀な性能を以て連合国を脅かしていたドイツ潜水
艦Uボート7隻を戦利艦として引き渡しを受けることになった。
 日本に回航されてきたドイツ潜水艦は、徹底した調査、研究が行わ
れたが、その結果、各種装置の操作が簡易で、確実に作動する優れた
機能や応急設備など、潜水艦に必要とされる基本的なもの全てが、日
本潜水艦の其れよりも遥かに優秀であることを認めた。
 同じ頃、我が海軍では、はじめての大型潜水艦「海大型」の建造に
着手していたが、いまだ試験艦的域より脱却することが出来ず研究を
重ねていた。これにより日本海軍は、ドイツ式潜水艦の優れた技術を
模倣し、我が海軍が用兵上最適と着目した巡洋型と機雷潜型の二型式
を国産化しようとしたのである。
 その第一の型式が、独国ゲルマニア社でテッヘル博士を主任として
第一次世界大戦の末期に設計された高性能大型潜水艦U142 型、いわ
ゆる巡洋型潜水艦であった。ただちに同社より図面を購入、大正12年
3月12日、「巡潜1型」伊号第1型潜水艦が川崎造船所で起工された。
 その巡潜1型を建造中の大正13年12月、敗戦のため潜水艦の建造を
停止しされ、手腕を振るえずにいたゲルマニア型潜水艦の設計者テッ
ヘル博士を招聘、約5ヶ月間にわたり、我が国の潜水艦関係者は熱心
な技術指導を受けることができた。この間に受けたゲルマニア型潜水
艦の技術は、次いで建造された巡潜2、3型及び発展途上にあった海
大型にも活用され、ここに、確立しつつあった日本の潜水艦技術は、
独国の優れた技術が加わることで、完璧なものとして完成されたので
ある。
 昭和の初期に、一躍発展を遂げて列国強の注目を集める事となった
日本潜水艦の陰には、テッヘル博士とドイツの潜水艦専門技術者達の
熱心な指導によるとこが大であったことは当然である。事実、当時の
潜水艦では、海大型よりゲルマニア型、又海中型より英式L型の方が
遥かに実用的で好成績で有り、之れは主機である独国マン型、英国の
ヴイッカース型機関の優秀性に因をなし、次いでは的確な艤装方式に
依るものであった。
 しかし我が技術陣も貴重なる多くの経験及び努力により、精密工業
化学工業の発達に伴なって、潜望鏡、水密測距義、主電動機、二次電
池などに於いても、国内で優秀な物を生産出来るようになった。又、
主機に関しても、用兵者の要望により高速潜水艦を追及し続ける我が
海軍では、信頼性では英国ヴイッカース式を第一としながらも、高速
を求めるため、出力の大きいスイスのズルザー式を採用し故障と闘い
ながら改良を加えて、遂に大出力機関、艦本式1号ディーゼル機関を
完成させるに至った。このことは内燃機関系技術陣の努力が高く評価
されて良いだろう。
 かくして昭和も十年代になると、先進国であった米、英、仏を驚愕
させる潜水艦を次々と竣工させた日本海軍は、これを以て世界最強と
謳われる潜水艦隊を編成していったのである。
 之れはお世辞抜きにして、自他ともに認める世界最優秀な潜水艦隊
であり各列強国の注目を集めるには十分であった。この事実を証明す
るかのように、東京に在る主要海軍国の各国大使館付きの海軍武官が
全て潜水艦の専門家であったと言われており、この事がらからにして
も、うかがいしることが出来よう。

 @ 巡潜型潜水艦
 巡潜1型はゲルマニア型である「U142 型」の図面を引用し、魚雷
発射管と備砲の口径を日本の制式に変換しただけで、艦型は原型その
ままであった。しかし燃料搭載量の増加により延伸された航続距離は
24,400浬にも達し、これは米艦隊の集結するハワイはもとより、米国
西海岸までを往復し更に長期にわたる作戦行動にも余裕が有ることを
示唆していた。この行動力は、渡洋作戦を意図する米海軍に大いなる
脅威を与えるには十分であった。
 巡潜1型5隻の内、最終艦である昭和2年度計画艦の「伊号第5」
潜水艦では、偵察力の向上をねらい小型水偵のを搭載を決定し、その
格納筒を艦橋の後方に設けた。その後、昭和8年6月には艦橋後部に
射出機が設置され、これにより完全に航空機搭載型潜水艦の第一番艦
となった。又この工事の際に後部の14センチ砲は撤去された。
 昭和7年に巡潜1型の使用実績により根本的に改良を加えられ建造
したのが「巡潜2型」伊号第6潜水艦である。巡潜2型では、まだゲル
マニア型の原形を留めているが、潜航深度の増大及び水中抵抗を減少
させるため線図の改正など改良を加え、主機には日本海軍独自の設計
による、艦本式1号甲7型ディーゼル機関を搭載した純日本式巡潜で
ある。
 この艦本式1号ディーゼル機関はズルザー式3号又ラウシェンバッ
ハ式2号機械の出力が3,000 馬力に対し同重量で4,000 馬力を発生さ
せることが出来、これにより公試運転で水上速度21.3ノットを得る事
が出来た。本艦は水偵用射出機を新造時より装備した世界で初めての
潜水艦であり、又南方での長期作戦行動を考慮し、居住性やその他多
くの点に於いて改善が加えられた艦であった。しかし水偵実用化には
種々の不便なこともあり、艦橋後方に搭載予定の高角砲は中止された。
 昭和9年、呉工廠と川崎造船所で「巡潜3型」伊号第7型潜水艦2隻
が起工され、昭和12、13年にそれぞれ竣工した。
 巡潜型も3型に至っては、これまでのゲルマニア型から完全に抜け
出し、日本海軍独自の戦術思想の基に設計され、従来の艦とは船型や
性能を全く異にした世界でも類を見ない大型潜水艦であった。また、
艦隊決戦を想定して、司令部施設を設けた旗艦型潜水艦であって他に
も、独自の機能を備えていた。
 主機には巡潜2型の艦本式1号甲ディーゼル機関7気筒を更に大型
にした10気筒の艦本式1号甲10型を2基搭載し11,200馬力を発生させ
之れにより水上速力23ノットの高速を得た。又旗艦としての諸施設を
設け更に通信能力の強化及び居住性の著しい改善が加えられた。
 排水量も一段と増大したが、其れにもかかわらず潜航の所要秒時は
1分20秒程で、水上水中での運動性も極めて良好であり艦型、速力共
に世界に比肩するものが無い画期的な潜水艦である。
 兵装面では、艦尾発射管を廃止し艦首6門にし、他に発射管に換装
出来る魚雷格納庫を設け艦首8門に備え、魚雷は新式95式魚雷20本を
搭載した。備砲は用兵側の砲戦能力強化の要求によって、日本潜水艦
では異例の14センチ連装砲塔を装備することになった。航空兵装では、
新型の「呉式1号4型」射出機を搭載し水偵の発進及び、収容も容易
に出来るようになり又格納庫や諸設備も改善され、水偵の完全実用化
に成功した。
 巡潜型の変貌の様子を大別すると、1型ではゲルマニア型「U142」の
設計を日本式に制式化しただけで原型はそのままであったが、後期型
伊号第5ではには射出機を後日搭載したが、固定式格納庫を艦橋後部
左右に各一個設け水偵1機を搭載した。
 2型では、新造時より射出機を装備、格納筒は昇降式に改善されて
船体線図も高速化に適応した型に更新、日本海軍開発の艦本式機関を
搭載しゲルマニア型より脱却した純日本式である。
 3型は旗艦設備を持ち、艦型速力共に増大した大型潜水艦で内殻板
に20mmDS鋼を使用、安全潜航深度100 メートルになった。尚、本艦の
設計は後日建造される、丙型潜水艦に引き継がれている。

 巡潜1型(伊1型)
伊号第 1 大正15年3月10日竣工 昭和18年4月1日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 2 大正15年7月24日竣工 昭和19年6月10日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 3 大正15年11月30日竣工 昭和18年1月20日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 4 昭和4年12月24日竣工 昭和18年3月1日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 5 昭和7年7月31日竣工 昭和19年9月10日除籍 川崎造船所で建造
 巡潜2型(伊6型)
伊号第 6 昭和10年5月15日竣工 昭和19年9月10日除籍 川崎造船所で建造
 巡潜3型(伊7型)
伊号第 7 昭和12年3月31日竣工 昭和18年8月1日除籍 呉工廠で建造
伊号第 8 昭和13年12月5日竣工 昭和20年8月10日除籍 川崎造船所で建造

B 機雷潜型
 巡潜型と同じ経緯により建造が決定された第二の艦型は、戦利艦の
の内、日本海軍では未開発の新式機雷敷設装置と優れた航洋性に注目
した潜水艦、U117型をモデルとして建造されたのが、略称「機雷潜型」
「伊号第21」型潜水艦で、大正13年第一番艦が川崎造船所で起工され、
昭和3年12月までに全艦4隻が竣工した。
 本艦型はドイツより技術導入を目的に、招聘した技術者の協力を得
て建造されたのは巡潜型と同じであるが、南方での作戦行動を考慮し
て冷却装置搭載の他は、備砲と発射管を日本海軍制式に変更しただけ
で、実質的にはドイツ式潜水艦を模倣しただけの艦型であった。
 しかし低速であった事を除くと航洋性は良好で性能も安定し、戦前
には水偵搭載の試験艦に、又戦時中には飛行艇への燃料補給艦に改造
された艦もあって、使用成績は極めて良かった。
 雷装は艦首発射管4門のみにし、艦尾発射管を廃止、代わりとして
機雷敷設筒を設け、搭載した機雷42個は之れより敷設することが出来
た。低速のため活動は地味なものであったが、太平洋戦争緒戦期には
蘭印方面での敷設作戦に参加し活躍した。

      機雷潜型(伊21型−伊 121型)
伊号第 121 昭和2年3月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 122 昭和2年10月28日竣工 昭和20年9月15日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 123 昭和3年4月28日竣工 昭和17年10月5日除籍 川崎造船所で建造
伊号第 124 昭和3年12月10日竣工 昭和17年4月30日除籍 川崎造船所で建造


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4 甲標的・特殊潜航艇

 @「甲標的」の着想と建造
 「甲標的」一般には特殊潜航艇の呼び名の方が良く知れているが、
これは、真珠湾攻撃に参戦していたたことを、国民に知らせる大本営
発表に「特殊潜航艇をもって編成せる、我が特別攻撃隊は」と用いられ
たのが始まりで、海軍としての正式名称ではない。
 試作段階にあった「甲標的」は、機密保持のため「対潜爆撃標的」「A
標的」とか「TB模型」と呼ばれ、又関係者の間では単に「的」と呼ばれ
ていた。だが試作改良型2隻を建造以後その名称は一定して「甲標的」
と呼ばれるようになったのである。
 昭和7年頃から、日本軍の大陸進出に対して、海外での対日感情は
悪化し、特に我が国に対する米国の経済制裁は厳しく、国内の交戦派
の運動に加え、日米間では風雲急を告げる状態だった。
 この日米開戦を考えるとき、ワシントン並びにロンドン軍縮条約に
よる対米比率の劣勢を補い、又やがて来る無条約時代での建艦競争に
対し、生産力で劣る日本海軍が有利に事を進めるために、我が海軍独
特の着想と技術により生まれたのが、世界無比の巨艦「大和」であり、
又一方では、極めて精密、且つ高性能の小型潜水艇である「甲標的」で
あった。
 昭和8年、日米関係が険悪化するこの時期「魚雷を人間が操縦して
必中を期する」という考えが海軍部内外で起こり、具体化する研究が
行われるに至った。
 洋上決戦に先立って母艦から発進して敵主力艦を奇襲攻撃しようと
いう発想のもとに、着想者岸本大佐以下、朝熊中佐(造兵、水雷)、
名和中佐(造兵、電池)、山田中佐(機関、電動機)中佐らの協力で計画
が進められた。これには、最高機密(軍機)として、特定の技術者間だ
けで急速設計に着手したが、その中には搭乗員の収容可能が絶対条件
として含まれていた。
 昭和9年、早々設計を終わり、呉工廠で試作された二隻の「的」と
呼ばれる試作艇は、夏には早くも宿毛湾外での外洋実験に出た。
 試作艇は魚雷型船体で二重反転式推進器を採用、全長23.9m、直径
1.85m、主電動機は重量1.50トン、出力 600馬力、速力水中24ノット、
全力で50分航走後、微速で約8時間航走し得るものであった。
 魚雷発射管2門、魚雷二本搭載、搭乗員は2名、自動深度保持装置、
電池ガス吸収法はバラジューム触媒法、小型転輪羅針儀等の特殊装置
が装備されていた。始めは司令塔のない魚雷型だったが、実験の結果
小さい指令塔を設けて満足な成績を得るに至った。
 昭和13年、呉工廠で改良型2隻が建造されたが、以後の改良艇には
本格的司令塔を設けて潜望鏡を高めると共に、乗員の出入りの便利さ
を図ったが、水中抵抗が増し結果、速力は19ノットに低下した。

 A 甲標的と特攻兵器
 昭和14年には本格的な実験訓練を開始し、更に昭和15年には呉工廠
で量産に入り、昭和16年の開戦までに20隻が完成され、又16年春には
本来の目的である母艦からの発進が「千代田」で行われ成功を収めてい
た。
 「甲標的」の初陣は、洋上襲撃訓練の傍ら、本艇のあらゆる使用法を
検討していた故岩佐直治中佐による、泊地襲撃にも使用可能でである
との進言が、上司を経てこれが取り入れられ、真珠湾攻撃への参戦で
あった。続いて、昭和17年5月末に英軍基地のデイエゴ・スワレズ港
及びシドニー港に対する泊地攻撃が敢行された。
 これらの攻撃から得た戦訓により幾多の改良を加えられた甲標的は
逐次量産されたが、孤立するキスカ、ソロモンなどで、局地防御用と
して使用されると、電池の自己充電装置がないのが致命的欠点となり
小型発電機を装備した。
 従来の艇を甲型と称し、この充電装置を装備した第一艇を乙型と呼
び、乙型の量産型を丙型と称した。その後、丙型はセブ島を基地とし
て戦争末期に敵輸送船団を攻撃し、相当の戦果を挙げた。
 昭和18年末には、著しく性能が改善された丙型であったが更に局地
防御用として根本的に改良し、自己充電装置を格段に強化した丁型が
研究され、第1艇は20年初頭実験を了した。
 本艇に至り、技術主務部は水雷より造船に移行し、本土決戦に備え
量産に適するようにブロック接手に改正し、難易な二重反転推進器及
び関連装置も廃止した簡易方式をとった。その成績はすこぶる優秀で、
用兵者の満足する処であり、早速に特攻兵器「蛟龍」と命名され、終戦
までに甲、丙型約75隻、蛟龍110隻の完成を見た。
 因みに、改型になるに従い乗員も丙型で3名、丁型では5名と増え
ていった。
 対米に比し、経済力で劣る日本海軍が開戦を予期し採った造艦整備
策が皮肉にも、現実に起きた日米戦争では、開戦期に大和型の建造に
海軍の多大の労力を費やしただけで、戦力になんの寄与することなく、
戦争末期に甲標的の建造に全力を向けられた事実を見るとき、大艦巨
砲主義は既に去り時代は、潜水艦と航空機に入れ替わって居たことを
思い知るのである。


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