日本潜水艦史

第二章 潜水艦の建造

  三 無条約時代の潜水艦

1 戦前の建造計画

 軍縮条約での制限を受けながら、敵主力艦の撃滅を目標に苦心を続
けながら建造、発展しつづけてきた日本海軍の潜水艦も、昭和6年度
の@計画による海大6型a(伊68-伊168型)に搭載された、軽量大馬力
の国産ディーゼル機関、艦本式1号甲8型の完成や、昭和9年度の巡
潜3型(伊7型)などのゲルマニア型脱却により、日本海軍独自の技術
を確立していった。
 このような時に無条約時代を迎え、制限を受けずに建造できるよう
になった日本海軍は、漸減作戦に適応する新型潜水艦の設計に着手す
ると共に、大量の建造、整備を計画した。
 昭和12年、無条約時代到来により日本海軍では、昭和12年度計画で
ある第三次軍備補充計画、通称B計画が実行に移された。
 この計画の中に水上艦艇では戦艦大和型を始めとし空母翔鶴型など
を含み、以下小艦艇に至っても全てが日本海軍技術の粋を集めたとも
いうべき優秀な艦ばかりであった。潜水艦においても例外では無く、
これに勝るとも劣らない優秀な大型高速潜水艦が計画され、世界でも
類例を見ない艦隊決戦を目的とした潜水艦隊の整備に着手した。
 この頃、海軍では巡潜型の速力増大と、海大型の航続距離の延伸に
成功により、両艦型の統合が図られると共に、条約明けで排水量など
あらゆる制限から開放され、艦の性能も拡大し大型化したため、従来
潜水母艦に置かれた戦隊司令部も潜水艦内部に移される様になった。
 このような情勢に合わせて日本海軍は、艦隊決戦の一翼を担うべき
有力な戦力の潜水艦を用兵上3種型式に分割し、これらより潜水戦隊
を編成しようと計画した。
 いわゆる甲型、乙型、丙型と呼ばれるもので、B計画では甲型2隻、
乙型6隻、丙型5隻の計13隻が建造される事になった。その新型高速
大型潜水艦、甲、乙、丙、3型式の特徴を見ると。
 甲型、司令部施設すなわち旗艦施設を有し、偵察機1機搭載。
 乙型、旗艦施設なし、しかし偵察機1機搭載。
 丙型、旗艦施設なし、偵察機の搭載なし、しかし魚雷兵装が強化さ
れている。
 此のうち、丙型は完成を急ぐため巡潜3型の線図を利用し設計され
たが甲、乙型に於いては基本設計から細部に至るまで十分に検討が加
えられ、新しく設計された。そのため起工、完成は丙型が最も早く、
続いて乙、甲型の順に完成し、全ての艦が開戦前に竣工した。これら
の艦は当時の列強海軍の水準を超えた、世界に誇れる優秀な潜水艦で
あった。
 日本海軍ではさらに、昭和14年度、第四次軍備充実計画(通称C計
画)で甲型1隻、乙型14隻、海大型10隻、同じ14年度丸臨計画で中型、
小型各9隻、開戦を目前にした昭和16年度丸急計画、開戦直後の丸追
計画などで甲型1隻、乙型9隻、丙型6隻、中型及び小型各9隻、潜
補型1隻、開戦後の改D計画で甲型2隻が建造された。
 しかし16年度以降の計画艦は着工時既に開戦後となり甲、乙、丙型
に搭載するべき大型機関の製造が追いつかず、多くの艦が出力の低下
を忍び小型機関を搭載し、それぞれの改型として竣工した。
 日本潜水艦の大出力複動機関「艦本式2号10型」ディーゼルは極めて
優秀なものであったが、本来の性能を発揮するには長年の経験と熟練
を必要とし、量産に適すものでなかった。このため、開戦後に建造さ
れた艦の多くは、本来の目的であった高速を捨て航続距離の延伸だけ
の、ごく平凡な潜水艦になってしまった事は残念である。


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2 甲型潜水艦

 甲型系の潜水艦は昭和12年度のB計画と14年度、C計画とで3隻が
開戦直後の16年度、丸追計画で1隻と17年度改D計画で2隻、計6隻
が建造され、それぞれ甲型、甲型改1、甲型改2と呼称され、昭和12
度の2隻は開戦前に、あとの全ての艦は開戦後に竣工し、順次戦線に
投入された。

 @ 甲型潜水艦
 昭和12年度B計画で甲型潜水艦2隻が建造され、昭和16年2月から
10月にかけ竣工した。これが甲型潜水艦「伊9型潜」伊号第9、第10
潜水艦である。続いてC計画でこれらの潜水艦に使用実績を考慮し、
詳細部に若干の改正を加えた伊号第11潜水艦が建造され、昭和17年5
月の開戦後に竣工をみた、此の3隻が甲型潜水艦と称される。
 甲型潜水艦は戦隊旗艦として行動するため司令部施設を有し、必然
的に強化された無線通信能力を持ち、さらに索敵能力を向上させるた
めに、巡潜型に次いで小型水偵を搭載した。水偵は91式から零式1号
水偵に変更されている。
 此の航空装備は従来の巡潜型と型式が異なり、後甲板より前甲板に
移された格納庫は1個にまとめられ、艦橋下の指令塔前に一体化した
構造部とし、又射出機はその直前の前甲板に連続して設置された。
 此の型式では機体組み立て時に波浪の影響を受ける難点が有るが、
水偵の組み立て発進までの秒時を短縮し、さらに前進航行中でも容易
に射出する事が出来るなど利点も多く、以後の日本海軍潜水艦では全
て此の航空艤装方式が標準型として踏襲されていった。
 兵装は主砲を巡潜3型と同じ40口径14cm砲を1門としたが、機銃は
25mm水密式連装機銃が始めて装備され、艦橋後と艦橋前格納筒上部に
各1基ずつ計4門備えられた。
 用兵上から見た艦の性能は、本艦に搭載された大出力12,400馬力の
「艦本式2号10型」ディーゼル機関により 23.5ノットの高速を発揮、又燃料
搭載量も増加し、16ノットで 16,000浬の航続距離を得る事が出来、速力、
航続力、共に用兵側の要望に十分に適うものであった。
 さらに大型潜水艦の致命傷と言われた潜航性能も、注排水装置やタ
ンクなどの配置及形状、並び船体全体に改良を加える事で著しい進歩
を見ることが出来た。
 潜航性能良好と言われた巡潜3型と比べ、大型化したにもかかわら
ず潜航所要秒時などはそれより短縮し、それは僅か50秒に過ぎずその
優秀さを示した。

 A 「甲型改1」潜水艦
 昭和16年、開戦直後の丸追計画で2隻の甲型が建造されることにな
り、昭和17年11月に1番艦「伊第12」が起工された。しかし此の時既に
戦時下にあり、大出力 ディーゼル機関の製造が困難なため、主機を変更
し、小型で比較的製作が容易な「艦本式22号10型」機関を搭載して昭和
19年5月に竣工した、これが「甲型改1」と呼ばれる「伊12型」潜水艦で
ある。2番艦の「伊号第13潜」が特殊攻撃機搭載艦に変更されたため、
本艦型は「伊号第12潜」1隻だけになった。
 「甲型改1」は兵装、船体寸度、艤装一般などに付いて「甲型」と同じ
であるが、主機の変更による出力5割強の減少で必然的に速力は水上、
水中共に低下した。しかし、小型機関搭載により生じた余積を燃料タ
ンクにして、燃料搭載量を増加させた結果、航続距離を飛躍的に延伸
する事が出来た。
 「伊号第12潜」が竣工し早々に戦線に投入されたが、本艦が就役した
昭和19頃は戦況も悪化しており、甲型潜水艦特有の旗艦施設を有効に
使用する事無く、初めての出撃で戦没した。

 B 「甲型改2」潜水艦
 昭和18年2月、丸追計画の2番艦「伊第13」が起工され、続いて17年
度、改D計画の「伊第14、15、1」も甲型改1になるべき建造計画が進
められていた。しかし、昭和18年後期に此の4隻を急遽、水上攻撃機
「晴嵐」2機を搭載する攻撃機搭載艦「甲型改2」「伊13型」として建造さ
れる事に変更した。
 これは改D計画の「潜特型」が、初期の計画である18隻から、4隻に
縮小された事の対応策で、此のため航空施設の艤装などは、潜特型に
準じた方式がとられた。従来の小型水偵より、はるかに大型の攻撃機
搭載のために強力なクレーンや射出機が装備され、さらに格納庫もこれら
を2機収容出来るように後方に大きく拡張し、艦橋はその上部左側に
寄せバランスを考慮して設置するなどの大改装工事が加えられた。
 この改装工事は上部重量と排水量の著しい増加を招き、復原力低下
や乾舷の減少を生じ、之れを防止するため大型の バルジを装着し対応
したが、そのための速力低下は拒めなかった。
 このように建造途中での改造には、幾多の矛盾と苦労が伴ったが良
くこれを克服し、「伊号第13、14潜」は昭和19年末、20年初旬に完成し
た。就役した「甲型改2」は改1型と性能、外観ともに異なり、むしろ
潜特型に類似した艦容である。大改造された艦型にもかかわらず正式
艦である潜特型に比べ、劣ることない性能であった。
 昭和20年7月11日トラック島に向け出撃したが、伊第13は消息が途絶え、
伊第14は終戦のため、攻撃機を発進させる事なく米海軍に捕獲され後
の2隻は完成直前で終戦になり未成のまま解体される運命を辿った。

 より優秀性を誇った甲型潜水艦であったが、当初想定された主力艦
隊どうしの決戦は行われず、漸減作戦など初期の目的に使用される事
なく不本意の戦場に投入され、「伊号第14」潜水艦を除く全艦が戦没し
て逝った。
      甲型  (伊9型)
伊号第 9 昭和16年2月13日竣工 昭和18年8月1日除籍 呉工廠で建造
伊号第10 昭和16年10月31日竣工 昭和19年10月10日除籍 川崎造船所で建造
伊号第11 昭和17年5月16日竣工 昭和19年4月30日除籍 川崎造船所で建造
      甲型改1(伊12型)
伊号第12 昭和19年5月25日竣工 昭和20年8月10日除籍 川崎造船所で建造
      甲型改2(伊13型)
伊号第13 昭和19年12月16日竣工 昭和20年7月15日除籍 川崎造船所で建造
伊号第14 昭和20年3月14日竣工 昭和20年9月15日除籍 川崎造船所で建造
伊号第15 昭和19年4月12日進水 工程90%で終戦、未成 進水迄泉州工場
伊号第 1 昭和19年6月10日進水 工程70%で終戦、未成 進水迄泉州工場
      伊号弟15、伊号第1の艦名は二代目である。


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3 乙型潜水艦

 乙型潜水艦は条約明けの昭和12年度B計画による、巡潜、海大型の
統合型、甲、乙、丙型に属する大型潜水艦で、12年度B計画で6隻、
14年度C計画で14隻の合計20隻が建造された。続いて昭和16年度丸急
計画、丸追計画では主機を変更した、乙型改1、6隻、改2型が3隻
それぞれ建造され、乙型系列の艦は全部で29隻が就役した。
 これは、同型艦が少ないと言われる日本海軍の大型潜水艦のうちで
最も建造数が多く、又丙型改にも本艦型の船型線図が使用されている
ことなどを合わせ見ると、乙型潜水艦が如何に優秀な艦型であったか
の証でもある。
 乙型は日本潜水艦隊の主力として活躍したが、16年度計画艦などに
於いては完成が昭和18年中期から年末になり、戦況も悪化した戦線に
投入され、本来の目的に使用される事無く、又大きな期待をかけ搭載
した水偵も有効な活躍の機会に恵まれずに終わってしまい、伊号第36、
58潜の2隻を除いた全艦が戦没してしまった。
 昭和12年度のB、14年度のC計画で乙型「伊15型」20隻が建造され、
12年度の6隻は、伊号第15から第25潜水艦迄の奇数番艦で、昭和15年
から16年後半の開戦前に竣工し、14年度計画の艦は伊号第26から第39
潜水艦迄の連番艦14隻だが(伊26潜から37潜の艦名は当初、伊27から
伊49迄の奇数番を予定していたが建造中に変更された)伊号第26潜水
艦が昭和16年11月に竣工したのを除けば、後の13隻は開戦後の17年か
ら18年にかけて竣工した。
 乙型は甲型から旗艦施設を除いた艦型であり、25mm連装機銃が2基
から1基に減らしているが、基本的には同じ要領で設計されていた、
旗艦施設を不要としただけ、小型になり乗員も減少したが又航続力も
若干短少した。しかし巡潜の大航続力と海大型の高速航行力を持ち、
搭載機も零式小型水偵として哨戒、索敵、偵察力を強化し甲型と同等
な性能をもっていた。
 用兵的には司令部施設を有する潜水艦、即ち甲型潜水艦を旗艦とし
之れに従い、西太平洋上の米主力艦隊を監視しながら動静を把握しチ
ャンスを見て攻撃を加えるという言わば「漸減作戦」を第一の目的とし
て建造されている。この為に高速力と長大な航続力を備えて、さらに
甲型と同じく小型水偵を搭載して索敵能力の向上を図るなど、当時の
列強海軍でも類を見ない強力な大型潜水艦である。
 開戦初期には、此の高性能を充分に発揮して華々しい活躍をし日本
潜水艦中最も戦果を挙げた艦型である。

 @ 乙型改1
 開戦直前、昭和16年度丸急計画で乙型潜水艦6隻の建造が決定し、
準備されていたが、起工時が既に開戦後となり、搭載するべき大出力
機関「艦本式2号10型」ディーゼルの製造が追いつかず、巡潜3型と同
じ「艦本式1号10型」ディーゼルに変更して完成したのが、「乙型改1」
伊40型潜水艦で第40潜水艦を始めとし伊号第45潜水艦迄の連番艦6隻
で、昭和18年中期から年末にかけて順次竣工した。
 乙型改1の性能面では、主機関の変更により若干出力が低下したが
速力は良く23.5ノットを発揮し、乙型に比べ大差はなかった。
 なお戦争後期、潜水艦の喪失が激しい中、昭和20年迄健在であった
乙型改1の5番艦「伊号第44」潜水艦は、人間魚雷「回天」の搭載艦にな
るため格納筒、カタパルト等、航空施設と主砲を撤去し「回天」6基を
搭載する特攻作戦用の潜水艦に改造され、特別攻撃隊「多々良隊」を
搭載、沖縄海域に向け出撃した。

 A 乙型改2
 昭和16年、開戦直後の丸追計画による乙型潜水艦の主機関に、甲型
改1、2型と同じ経緯により小型の「艦本式22号10型」ディーゼル機関
を搭載し完成したのが「乙型改2」「伊54」型で、伊号第54、56、58潜水艦
の3隻が完成した。
 前者同様に、航続距離を延伸させたが最高速力は17.7ノットと大き
く減少した、又内殻板の使用鋼材を従来のDS鋼より加工効率の良い
MS鋼(軟鋼)に変更されたが、厚さを増加し鋼板の強度を補い、安全
潜航深度100mを保持した。
 このように16年度丸追計画による建造艦は戦時急造艦的感じが濃く
なったのは、乙型改2型も例外でなかった。しかし完成が戦争末期に
なった本艦型は、戦場より早くから切望されていた電探、「対水上用
22号電探」を竣工時から装備、又魚雷搭載量を2本増加19本とするな
ど実戦から得た戦訓を実施しながら、厳しい戦況に対抗しようと戦力
の向上に努めている。
 このような状況下に就役した、乙型系最後の艦「伊号第58」潜は、
建造時より主砲とその関連装置が撤去され、特攻兵器「回天」の搭載艦
として完成した。この伊号第58は昭和19年9月に竣工したが、時すで
に飛行機搭載艦として行動の機会が失われており、残された最後の作
戦「回天」戦に参戦、米重巡インデナポリスの撃沈などの殊勲を挙げ、
3回にも及ぶ出撃にもかかわらず無事帰還を果たした。戦力を完全に
保持し無傷で終戦を迎えた武功高き艦であった。

       乙型  (伊15型)
 伊号第15 昭和15年9月30日竣工 昭和17年12月24日除籍 呉工廠で建造
 伊号第17 昭和16年1月24日竣工 昭和18年12月1日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第19 昭和16年4月28日竣工 昭和19年4月30日除籍 三菱神戸 で建造
 伊号第21 昭和16年7月15日竣工 昭和19年4月30日除籍 川崎重工 で建造
 伊号第23 昭和16年9月27日竣工 昭和17年4月30日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第25 昭和16年10月15日竣工 昭和18年12月1日除籍 三菱神戸 で建造
 伊号第26 昭和16年11月6日竣工 昭和20年3月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第27 昭和17年2月24日竣工 昭和19年7月10日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第28 昭和17年2月6日竣工 昭和17年6月15日除籍 三菱神戸 で建造
 伊号第29 昭和17年2月27日竣工 昭和19年10月10日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第30 昭和17年2月28日竣工 昭和19年4月15日除籍 呉工廠で建造
 伊号第31 昭和17年5月30日竣工 昭和18年8月1日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第32 昭和17年4月26日竣工 昭和19年6月10日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第33 昭和17年6月10日竣工 昭和19年8月10日除籍 三菱神戸 で建造
 伊号第34 昭和17年8月31日竣工 昭和19年1月5日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第35 昭和17年8月31日竣工 昭和19年4月30日除籍 三菱神戸 で建造
 伊号第36 昭和17年9月30日竣工 昭和20年11月30日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第37 昭和18年3月10日竣工 昭和20年3月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第38 昭和18年1月31日竣工 昭和20年3月10日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第39 昭和18年4月22日竣工 昭和19年4月30日除籍 佐世保工廠で建造
        伊号弟21、伊号第23の艦名は二代目である。
       乙型改1 (伊40型)
 伊号第40 昭和18年7月31日竣工 昭和19年4月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第41 昭和18年9月18日竣工 昭和20年3月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第42 昭和18年11月3日竣工 昭和19年4月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第43 昭和18年11月5日竣工 昭和19年4月30日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第44 昭和19年1月31日竣工 昭和20年6月10日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第45 昭和18年12月28日竣工 昭和20年3月10日除籍 佐世保工廠で建造
       乙型改2 (伊54型)
 伊号第54 昭和19年3月31日竣工 昭和20年3月10日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第56 昭和19年6月8日竣工 昭和20年6月10日除籍 横須賀工廠で建造
 伊号第58 昭和19年9月7日竣工 昭和20年11月30日除籍 横須賀工廠で建造
        伊号第54、56、58の艦名は二代目である。


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4 丙型潜水艦

 昭和12年の第三次軍備補充計画(通称B計画)では、甲、乙、丙型の
三種類の艦を計画、甲型は旗艦、乙型が偵察を主な任務として有利に
行動できるように諸施設が強化されてたのに対し、丙型は専ら攻撃を
専門とするよう強力な雷装を持つ潜水艦として建造された。
 昭和12年度B計画で5隻、16年度丸急計画で3隻、計8隻建造され
たのが丙型「伊16型」と称され、続いて開戦直後の丸追計画で、主機関
を小型の「艦本式22号10型」ディーゼルに変更した丙型改と呼称され
る「伊52型」が3隻、昭和18年12月から19年4月にかけて完成した。

 @ 丙型潜水艦
 丙型は本来乙型から航空施設を除き、所要の設計変更を加えた新し
い艦型を予定していたが、時期的に完成を急ぐため急遽、巡潜3型の
船体線図を流用して建造された。
 本艦型の大きな特徴は、旗艦施設や航空兵装を装備せず魚雷兵装を
強化した事にあり、魚雷搭載数を20本とし発射管を甲、乙型より2門
多い8門全てを艦首に集中して装備、全数発射、8射線による命中率
の向上が図られている。この発射管8門を全て艦首に設けると言う画
期的配置は日本潜水艦では初めての事であったが、巡潜3型では既に、
艦首発射管の下部に、発射管を想定した魚雷格納庫が2門、施されて
おり艦型そのままで、これには問題がなく、好都合であった。
 兵装を見ると雷装以外は乙型と同等であったが、14cm主砲が水偵用
格納庫を撤去した艦橋前部に移設されている。又性能面では主機関に
甲、乙型と同じ「艦本式2号10型」ディーゼルを採用し、航空施設こそ
持たないが、あらゆる面で高性能を発揮し甲、乙型に劣らず、世界で
最も強力な武装を持つ潜水艦であり、日本海軍の大きな戦力として活
躍した。
 B計画の5隻「伊号第16、18、20、22、24潜水艦」は開戦前に竣工し、
「甲標的」搭載艦としての施設が施された、之れは、前部甲板に移設し
た14cm主砲跡に設置し、ここに「甲標的」1基を搭載するものであった。
 緒戦には、之を搭載、真珠湾攻撃や敵の港湾、泊地に潜む艦船攻撃
に出撃し戦果を上げた。

 A 丙型改
 昭和16年度、丸追計画による3隻の丙型潜水艦は、乙型から航空施
設を除いた船体線図をそのまま使用して建造、丙型改(伊52型)と呼称
された。これにより魚雷発射管は艦首6門になったが、艦橋前の航空
施設の跡に14cm砲1門搭載し、艦橋前後に各1門、計2門と主砲が強
化され巡潜1型に類似した兵装になっている。
 本艦型も、甲、乙型の丸追計画艦と同様、高出力主機械の生産不足
により、製作容易な艦本式22号10型機関を搭載、速力低下の代償に航
続距離が延伸することで忍んだ。
 この丙型改の3隻は航空施設を持たないだけで、艦型又性能面でも
乙型を踏襲しており、従って「乙型改2」より航空施設を除き代わりに
14cm砲1門増した船舶攻撃を目的とした艦型と見ることが出来る。
 なお2番艦伊号53潜水艦は竣工後、艦橋前後の備砲2門を撤去して
特攻兵器「回天」6基の搭載設備を施すため改造工事を受けると共に
近代戦に対応するため22号電探を装備し終戦時まで健闘し続けた。

      丙型 (伊16型)
 伊号第16 昭和15年3月20日竣工 昭和19年10月10日除籍 呉工廠で建造
                           (船体は三菱神戸)
 伊号第18 昭和16年1月31日竣工 昭和18年4月1日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第20 昭和15年9月26日竣工 昭和18年12月1日除籍 三菱神戸 で建造
 伊号第22 昭和16年3月10日竣工 昭和17年12月15日除籍 川崎重工 で建造
 伊号第24 昭和16年10月31日竣工 昭和18年8月1日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第46 昭和19年2月29日竣工 昭和20年3月10日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第47 昭和19年7月10日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第48 昭和19年9月5日竣工 昭和20年5月10日除籍 佐世保工廠で建造
       丙型改(伊52型)
 伊号第52 昭和18年12月8日竣工 昭和19年12月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第53 昭和19年2月20日竣工 昭和20年11月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第55 昭和19年4月20日竣工 昭和19年10月10日除籍 呉工廠で建造
  伊号第52、53、55の艦名は二代目である。
  伊号第53は昭和21年4月1日五島沖で米軍により海没処分。


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5 海大7型潜水艦

 昭和14年度通称C計画で海大型10隻の建造が決定され、一番艦伊号
第76潜水艦が昭和15年6月に起工され、昭和17年8月から18年10月迄
に伊号第176(建造中に伊76を改名)から185潜水艦の連番艦10隻が完成
した。
 海大型の建造は昭和9年度計画で海大6型b(伊74型)が建造されて
以来久々のことであり、海大6型b(伊74型)の改良型とも言える本艦
型は海大7型(伊176型)と呼称された。
 海大6型bと比べ、艦全体の性能などには大した進展が見られない
が、操縦性の安定や急速潜航秒時の短縮などには著しい進歩が有り又
船体の広範囲に電気溶接が施され、量産を容易にしている。主機には
出力が若干低い、艦本式1号乙8型を採用したが速力の低下は見られ
ず、兵装面では13mm連装機銃に代わり25mm連装機銃に強化し、雷装は
艦尾発射管を廃止、艦首のみ6門として本艦型より初めて新型の95式
無気泡発射管が、装備された。 
 此の時期、既に海大型と巡潜型の性能向上型である新型潜水艦、甲、
乙、丙型の建造が進行中であり、それに対し艦型的には旧式とも言う
べき海大型10隻もの多数が計画されたのは、なぜか疑問を持たれると
こであるが、しかし昭和14年頃は国際情勢の悪化と共に、日米間にも
不穏な感じが強まっており、早急に海軍力の整備を必要とした時期で
あり、手慣れた艦型の建造で早期完成を図ったものと思われる。
 確かにB、C計画で新型潜水艦が建造中であるが、此の両計画では
乙型が計20隻に対し、魚雷戦を主とした丙型は5隻だけであり、魚雷
攻撃により漸減攻撃を目標としてきた潜水艦隊では、攻撃主流の潜水
艦をさらに早急に建造する必要があったのである。
 本来、海大型は水上速力の増長を主眼として開発されてきたが6型
bに於いても23ノットに止まっており、新型艦の23.6ノットには及ば
なかったが、しかし建造実績の豊富にある本艦型は丙型の隻数不足を
補い急造、整備するには絶好の艦型であったのだ。
 これを裏ずけるように、昭和16、17年にかけて大量の丙型潜水艦が
計画されたが、海大型の継続艦はその後の計画には上らなかった。此
の事実から見て海大7型は、丙型の戦力を急遽補おうとする目的のた
めの艦型であったと見る事が出来る。

       海大7型  (伊176型)
 伊号第176 昭和17年8月4日竣工 昭和19年7月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第177 昭和17年12月28日竣工 昭和20年3月1日除籍 川崎重工で建造
 伊号第178 昭和17年12月26日竣工 昭和18年9月1日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第179 昭和18年6月18日竣工 昭和19年4月15日除籍 川崎重工で建造
 伊号第180 昭和18年1月15日竣工 昭和19年7月10日除籍 横須賀工廠建造
 伊号第181 昭和18年5月24日竣工 昭和19年4月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第182 昭和18年5月10日竣工 昭和18年12月1日除籍 横須賀工廠建造
 伊号第183 昭和18年10月3日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 伊号第184 昭和18年10月15日竣工 昭和19年8月10日除籍 横須賀工廠建造
 伊号第185 昭和18年9月23日竣工 昭和19年8月10日除籍 横須賀工廠建造
  伊号第176は建造中の昭和17年5月20日、伊号76より改名。


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6 補助目的と試験艦

 昭和12年、B計画で多くの新鋭艦艇が建造された中に混じり一隻の
試験的潜水艦が極秘のうちに建造され、昭和13年8月完成した。昭和
15年度の追加計画、昭和16年度戦時建造計画で潜水艦の大量整備を行
なうなか、大型潜水艦の兵力不足を補うため、中型潜水艦36隻と小型
潜水艦18隻と、さらに輸送を主任務とする大型潜水艦3隻が含まれて
いた。
 しかし実際に建造されたのは中型18、小型18隻と輸送用大型潜水艦
1隻に止まった。

 @ 中 型(呂35型)
 中型潜水艦の建造は、昭和6年度に戦時急速建造に適する艦型の実
験目的で、海中5型2隻が建造されていたが、その後の兵器、造艦の
発達は戦術などにも著しい変化を生み、本艦型の建造には全く新しい
設計が必要であった。この海中6型とも言える、新型の中型潜水艦が
通称「中型」と呼称される「呂号第35」型である。
 昭和15年度追加計画(丸臨)で9隻が開戦直前に起工、昭和18年中に
竣工、昭和16年戦時建造計画(丸急、丸追)の各8隻と1隻は開戦後の
起工になり昭和19年後半に竣工、計18隻が完成した。
 中型は急速建造に適する艦としながらも、艦隊決戦時には大型艦の
補助的戦力として中距離を高速で行動できる性能が望まれ、これには
主機に艦本式22号10型ディーゼルを搭載することにより、約20ノットの速力
と16ノット時で5,000浬の航続力を得た。此の航続距離は、特型駆逐艦に
匹敵するものであった。
 船体構造に呂号型では、始めての外舷弁の二重方式を採用し鋼材の
厚さを増すなど多くの改良が加えられ、安全潜航深度が増大した。又
艤装の簡易化、電気溶接の使用範囲を拡大し、さらに建造所を特定す
ることで連続建造を容易にして建造期間を1年から1年半に短縮する
ことが出来た。
 完成した「中型」は、公試運転で航洋性などでは大型艦に勝る点もあ
り、すこぶる優れた性能を示した。これは海中5型で成功修めた艦型
に、さらに再設計し改良を加えたのだから、当然の事だとも言うべき
であろう。
 計画時には主力艦隊どうしの決戦に際し、大型潜水艦の補助的役と
位置ずけられながらも、完成されたとき既に戦況は悪化し初期の目的
に活躍する場を失い、激変する熾烈な戦場に投入され、本来想定もし
なかった多様な作戦に酷使された。
 特に米軍の圧倒的戦力の下、厳重な警戒網を潜り抜け行動する局地
戦に於いて、其の優れた性能を発揮し良く善戦し、最も実用的な艦と
して好評を博した。戦場に投入されてからの実績を見るには、優秀な
性能故に過酷な作戦を強いられ消耗が激しかったが、本艦型は日本海
軍が建造した潜水艦のうちで、最も優秀で使用価値が高いとの評価を
得、より多くの建造が望まれた艦型である。
 昭和17年度、改D計画で43隻の中型潜水艦が計画されながら、其の
価値を知る由もない一部の用兵者の、戦力が中途半端だとする主張に
よる艦型の変更等で、急速建造の軌道に乗った中型の建造を打ち切り、
後に戦線での評価を聞き建造再開を図った時既に遅く、戦況の悪化等
で計画に支障を来し、その後中型は建造される事は無かった。
 本艦型と同じクラスにあたる、ドイツ潜水艦Uボートの活躍を見た
時、これを補助的なものとせず、独自で行動する場を与え適切な作戦
に使用していれば、本艦の性能から見てより多くの戦果が期待できた
艦型であっただろう。
 尚、本艦型19隻中、呂号第50潜を除く全艦が熾烈極まる戦場に出撃
し短期間に戦没した。

      中 型  (呂35型)
 呂号第35 昭和18年3月25日竣工 昭和18年12月1日除籍 三菱造船所建造
 呂号第36 昭和18年5月27日竣工 昭和19年8月10日除籍 三菱造船所建造
 呂号第37 昭和18年6月30日竣工 昭和19年4月30日除籍 佐世保工廠建造
 呂号第38 昭和18年7月24日竣工 昭和19年4月30日除籍 三菱造船所建造
 呂号第39 昭和18年9月12日竣工 昭和19年4月30日除籍 三菱造船所建造
 呂号第40 昭和18年9月28日竣工 昭和19年4月30日除籍 三菱造船所建造
 呂号第41 昭和18年11月26日竣工 昭和20年5月25日除籍 三菱造船所建造
 呂号第42 昭和18年8月31日竣工 昭和19年8月10日除籍 佐世保工廠建造
 呂号第43 昭和18年12月16日竣工 昭和20年4月10日除籍 三菱造船所建造
 呂号第44 昭和18年9月13日竣工 昭和19年8月10日除籍 三井造船所建造
 呂号第45 昭和19年1月11日竣工 昭和19年7月10日除籍 三菱造船所建造
 呂号第46 昭和19年2月19日竣工 昭和20年6月10日除籍 三井造船所建造
 呂号第47 昭和19年1月31日竣工 昭和20年3月10日除籍 三菱造船所建造
 呂号第48 昭和19年3月31日竣工 昭和19年10月10日除籍 三菱造船所建造
 呂号第49 昭和19年5月19日竣工 昭和20年5月25日除籍 三井造船所建造
 呂号第50 昭和19年7月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 三井造船所建造
 呂号第55 昭和19年9月30日竣工 昭和20年5月10日除籍 三井造船所建造
 呂号第56 昭和19年11月15日竣工 昭和20年5月25日除籍 三井造船所建造
    (註 三菱は神戸造船所 三井は玉野造船所で建造。)
 呂号第50は昭和21年4月1日、五島沖で米軍により海没処分。

 A 小 型(呂100型)
 昭和15年度追加(通称丸臨)計画で、南方の航空基地がある離島防御
用という、従来の潜水艦と全く違う使用目的の、局地用小型潜水艦が
9隻、続いて昭和16年戦時建造計画の丸急計画で9隻が建造され昭和
18年3月から19年1月末迄に計18隻が竣工した。これが「小型」と呼ば
れる「呂号第100」型潜水艦である。
 本艦型の建造も中型と同様に、戦時急造に適する艦型が求められ、
排水量も其れよりさらに小型の 500トン強として、建造期間は短縮さ
れ約1年で完成させることが出来た。
 主機関には500馬力の艦本式24号6型ディーゼルを2基搭載 1,000馬力
の出力で14.2ノットの水上速力を得た。船体は小型のため耐波性を重
視して艦首乾舷を高め、艦橋も大型のものにするなど航洋性を考慮し
たが、急速建造に主眼を置き過ぎた本艦型には、耐波性を始め速力、
航続力共に充分なものでなかった。しかし潜航での速力と航続力は大
型艦なみの性能を有していた。
 兵装は主砲を廃止し25mm連装機銃1基のみとしたが、雷装は中型と
同じ4門の53cm発射管を装備した。これは海中より内殻の直径が10%
強も縮小された本艦型には重装備過ぎ、居住性を苦しいものにしてい
た、特に南洋での行動に搭乗員はきつい艦内生活を強いられた。
 艦内には冷却機を設け熱帯での作戦に対処したが、満足できるもの
でなく、まして長期の行動には耐えれるものでは無かった。本艦型は
局地防衛用として計画されながら、戦況の悪化は其れを許さず広範囲
な海域で酷使されたのは中型と同じであり、全艦が短期間で失われて
いった。
 この事実は戦前に計画された潜水艦全般に言える事であるが、戦局
の急変的な展開により本来の使用目的を見失しなった事と、当時とし
ては予想もしなかった消耗戦で潜水艦の兵力が不足した事が、適切な
作戦での使用法を誤らせ、性能を超える過剰な作戦を強要し、これが
艦の持つ性能を充分に発揮することを妨げ、また其の期待された戦果
を挙げる事と無く戦没していった潜水艦を考えるとき、無念の一言で
は言い表すことが出来ないであろう。

    小 型  (呂100型)
 呂号第 100 昭和17年9月23日竣工 昭和19年2月5日除籍 呉工廠で建造
 呂号第 101 昭和17年10月31日竣工 昭和18年12月1日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 102 昭和17年11月17日竣工 昭和18年7月15日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 103 昭和17年10月21日竣工 昭和18年11月1日除籍 呉工廠で建造
 呂号第 104 昭和18年2月25日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 105 昭和18年3月5日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 106 昭和17年12月26日竣工 昭和19年8月10日除籍 呉工廠で建造
 呂号第 107 昭和17年12月26日竣工 昭和18年9月1日除籍 呉工廠で建造
 呂号第 108 昭和18年4月20日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 109 昭和18年4月29日竣工 昭和20年6月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 110 昭和18年7月6日竣工 昭和19年4月30日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 111 昭和18年7月19日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 112 昭和18年9月14日竣工 昭和20年5月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 113 昭和18年10月12日竣工 昭和20年5月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 114 昭和18年11月20日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 115 昭和18年11月30日竣工 昭和20年5月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 116 昭和19年1月21日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
 呂号第 117 昭和19年1月31日竣工 昭和19年8月10日除籍 川崎重工で建造
     呂号第112.113.114.115.116.117は進水まで川崎重工泉州工場で製作。

 B 試作71号艦
 昭和13年8月、呉工廠水雷部内の機密工場内で1隻の特殊潜水艦が
完成した。これが昭和12年度B計画で、海軍の最高秘密である軍機の
もと、建造された小型水中高速艦、仮称「71号艦」と呼ばれた試作艦で
ある。
 本艦の目的は、航空基地のある南方離島防御用の実験艦しているが
実際には、当時海軍で特殊潜航艇の名でで知られる甲標的の前身「A
標的」が実験に成功し、続いて甲標的の研究を進めていた時であり、
この特別な目的を持つ潜航艇の開発が、本艦の実験により関連付けら
れ発覚するのを恐れたのと、又本艦の水中高速艦という特殊性に着想
していることを秘匿する為のものではなかったのか。これには南方離
島間を行動する局地戦では、さほどの高速を必要としない事から容易
に推測される。
 この日本海軍で初めての水中高速試験艦は、排水量約200トン、艦首に
45cm魚雷発射管3門を装備し、A標的の拡大型とも言えるもので、船
体の接合部には全て溶接が使用され、水中での高速力を得るため魚雷
を大型にしたような形状をし、横舵操縦の単殻方式とした全艦複雑精
巧な精密機械の如き設計であった。
 動力には、A標的で成功した特A型電池を改良した新型の軽量で大
容量二次電池「特B型」と小型軽量の1,800馬力電動機を採用、推進器
には魚雷と同じ二重反転式を採用した電気推進艦であった。
 当初の計画では、独国の ダイムラー・ベンツ600馬力ディーゼルを搭載、水上
18ノット、水中25ノット、の速力を目標としたが、この予定した電池充電用
ディーゼル機関が輸入不能になり、敢えて国産の 300馬力小型ディーゼルを
搭載して完成した。
 昭和13年8月、呉工廠の全休日の閑間を狙い隠密裏、海上に浮上さ
れ極秘の中、昭和15年まで繰り返しあらゆる試験が行われたが、成績
は予定の計画を下廻る水上13ノット、水中21.3ノットの速力であった。
 これは主機関変更での出力低下による二次電池の充電不足によるも
のであり、又減速歯車匡の潤滑法が不適切な点に因を発した焼き付け
事故にもあった。
 本艦は構造が余りにも複雑過ぎ、整備が困難な事や、走航試験では
凌波、耐波性共に満足出来るものでなく、さらに視界不良などの難点
が指摘されたが、しかし本艦は実用性を無視した実験艦であり、これ
に改良を加えることで、多少の波浪にも堪え十分に行動出来る可能性
を確認した。この様に、画期的な水中高速潜水艦としての着想に基ず
く試験艦の目的を十分に果たした本艦は、昭和16年夏、艦籍に編入さ
れる事なく極秘裡に解体された。
 而して、この第71号艦こそ列国に先駆けたものであり、又この実験
で得た貴重な実績は、我が海軍での水中高速艦の発展に大いに貢献し
戦争後期に建造された潜高型(伊号201型)に活かされたのは言うまで
もない事である。
 此処で興味深いのは、水中で高速を要求される今日の潜水艦が魚雷
を大きくした涙滴型の、一軸艦に変貌しているのを見るとき、本艦の
構想が如何に先んじていたものかと思わざるを得ない。

       試作 71号艦
 試作71号艦 昭和13年8月21日竣工 昭和16年入籍せず解体 呉工廠で建造

 C 潜捕型(伊351型)
 昭和16年度戦時建造計画の内(通称丸追)で3隻の特殊潜水艦が計画
された。この潜水艦は従来型の様に攻撃を目的としたものでなく、前
線への補給を主任務とする前例のない大型艦で、略称「潜補型」と呼称
された「伊351型」潜水艦である。
 昭和17年9月に艦型が決定されたが、特殊な構造を要求される船体
のため更に長時間の検討を必要とし、昭和18年5月呉工廠で起工され
昭和20年1月28日、一番艦の「伊号第351潜」が竣工した。
 二番艦「伊号第 352潜」は19年4月に進水したが、工程90%で空襲の
ため沈没、三番艦は戦況の悪化により、起工される事なく建造が中止
され結果的には「伊号第351潜」一隻だけが就役した。
 本艦型の計画時には、太平洋上で米主力艦隊との決戦が想定されて
おり、その進攻してくる米艦隊を、飛行艇による遠距離哨戒で早期に
発見し、迎撃或は襲撃態勢を整えようとするものであった。飛行艇に
洋上で航空燃料や爆弾、魚雷等の消耗品の補給さらには搭乗員の交換
も行なうための、補給中継基地ともいうべき大型潜水艦を計画した。
 然し実際には戦局の変化により飛行艇への燃料補給は実験のみで、
洋上補給装置は装備される事なく、離島航空基地に対する補給用に一
部設計変更され完成した。
 本艦の最大の特色は、軽質油運搬潜水艦、即ち高オクタン価の航空機用
ガソリンを500キロリットル搭載する事で、其の軽質油の漏洩防止又漏洩による
危険防止、特に戦闘時の爆雷攻撃の衝撃による艦内への漏洩は致命的
なものであり其の対策には慎重を極めた。
 これには外殻と内殻の間に隔壁を設け、其の中殻ともいうべき隔壁
と外殻の空間を軽質油タンクとした。このように軽質油タンク部分を
三重にした特殊構造の潜水艦は世界にも類例を見ないものであろう。
 計画時の輸送物件は、軽質油500キロリットル、250キロ爆弾20個、91式魚雷
15本その他各種機銃弾などで、4000トン級揮発油運搬艦の半分くらいの
補給能力を有しており、排水量は 2,800トン強に達し、当時建造された
最大の潜水艦であった。
 なお建造中に 14センチ主砲を撤去し、8cm迫撃砲の装備など、再度の
設計、変更により若干排水量が減少し竣工したが、この潜補型潜水艦
の使用目的に、一貫したものが無く、安易に変更を重ねた結果、就役
を遅れさせ、戦力としての貢献には見るべきものが無かったのが残念
な艦型である。

      潜補型(伊351型)
 伊号第 351 昭和20年1月28日竣工 昭和20年9月15日除籍 呉工廠で建造
 伊号第 352 昭和19年4月23日進水 昭和20年6月22日沈没 呉工廠で建造
 伊号第 353 未起工
          伊号第352は工程90%で呉工廠で被爆沈没。


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7 開戦前の計画と誤算

 昭和初期に確立した潜水艦の「基本的用法」いわゆる漸減作戦に従い
それに適応すべき潜水艦の開発に努めてきた日本海軍は、無条約時代
を迎えた事により、その制限から開放され自主的防衛計画による潜水
艦戦力の拡大を図り大量の建造計画が進められた。
 これは長年、堪え忍んで来た、防衛に必要な絶対数の不足を一挙に
補充、整備しようとするもので、昭和12度の第三次補充計画(略称B
計画)14年度軍備補充計画(C計画)、15年度、追加計画(丸臨計画)、
16年度戦時建造計画(丸急、及び丸追計画)の内容を見ると、大型潜
水艦67隻、中型54隻小型18隻にも及ぶ膨大な建造計画であった。
 これは、海大型と巡潜型を統合した新巡潜型とも言うべき、長大な
航続力をもつ大型高速潜水艦、甲、乙、丙型や、洋上での補給基地的
役目をもつ新型の大型補給潜水艦「潜補型」をも含むもので、既に就役
中の海大型潜水艦と合わせると、大型艦だけでも90数隻に達したので
ある。
 当時軍令部では米主力艦隊の出撃を牽制する為、潜水艦の三直配備
すなわち、作戦、往復、整備、を立案しており、これを行なうのには
一直3戦隊、計9個の潜水戦隊を必要としていた。これらの建造計画
により、これに充当する隻数が一応確保できたとした状態で、開戦を
迎えるに至った。
 昭和15、16年にはB計画の最新鋭艦、甲、乙、丙型が相次いで竣工
し、C計画の海大型、甲、乙型は既に進水を終え、竣工間近にあり、
さらに丸臨計画の中、小型潜水艦は起工され船台にあった。
 太平洋戦争を目前に控え、続々と建造される大型高速型潜水艦によ
り編成された潜水戦隊こそ、世界無比のものであり、艦隊決戦の一翼
を担う戦力として十分に期待できるものであった。当にこの時期こそ、
わが国の潜水艦に於いて、造艦技術、戦力整備共に発展充実し、最も
華々しく輝いていた時であったであろう。
 日本海軍は ワシントン条約で主力艦に制限を受けた時より、その戦力を
補うために潜水艦の活用に力を注ぎ「基本的用法」を確立し訓練の目標
としてきた。それは、米主力艦の動静を監視、出撃があれば、それを
追躡し反復攻撃を加え、敵戦力の漸減を図り機を見て主力艦決戦に引
き込もうとするものであった。
 しかし、太平洋戦争は予想に反し、日本海軍航空隊の真珠湾奇襲攻
撃により始められ、我が機動部隊は米太平洋艦隊主力に壊滅的打撃を
与えた。この攻撃の成功は米戦艦部隊の行動力を奪い、長期に亘り太
平洋への進出を阻んだが、又それは皮肉にも、長年第一の目標として
訓練を積んできた米主力艦に対する「漸減作戦」をも葬り去ったのであ
る。
 これにより海戦様式が一変し、最大の目標を失った潜水艦隊には、
早急な対応策が必要とされたが、邀撃作戦を重視する日本海軍は依然
として方針を変えず、建造計画においても変更される事はなかった。
 緒戦においては優秀な性能を良く発揮し、哨戒、攻撃に大きな戦果
を挙げた日本潜水艦隊であったが海戦様式と戦局の激変は、その活躍
の場を奪い使用法までも変えていったのである。
 特に昭和16年度計画艦が就役し戦場に投入された頃には、圧倒的物
量を誇る米海軍は電探や水中探信器等の新兵器に加え空母艦載機と護
衛艦艇による対潜攻撃法を飛躍的に進歩させ、従来の潜水艦をもって
する攻撃法では、敵の艦船に打撃を与えることが困難になっていた。
 だが、制空権を失い戦局の悪化に苦しむ日本海軍は、鼠輸送と呼ば
れた離島に対する補給作戦や、機動部隊の終結する防備厳重な泊地へ
の攻撃など、何れも開戦前では予想もせず、訓練にもなかった局地戦
に大量の大型潜水艦を投入していった。
 これは、本来艦隊型として建造され、鍛えあげてきた大型潜水艦に
とって全く自由を奪うものであり、その優れた性能も発揮できずに、
米海軍の進歩した対潜兵器の前に、多くの潜水艦をただ消耗する結果
になってしまった。
 昭和19年末、戦況は極度に悪化し日本海軍の水上艦艇は行動力を失
いつつあった、この様な状況下で建造中の伊号第58と、既に就役中の
伊号第36,37,44,47,48,53,56,165潜水艦は、特攻兵器「回天」の母艦に
改造され、必殺兵器である「回天」を搭載、特別攻撃隊として出撃し
て行き、大きな戦果を挙げつつも、多くの艦が海底へと散って逝った。


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