日本潜水艦史

第二章 潜水艦の建造

  四 開戦後設計の潜水艦

1 開戦後の計画と建造

 昭和17年6月のミッドウェイー海戦での結果、日本海軍は艦船建造
計画を大幅に見直し、伊号型潜水艦の建造においても次のような変更
がなされた。
 軍令部要求は建造順序を、1.航空機、2.航空母艦、3.潜水艦、
4.対潜艦艇、5.その他の艦艇とし、潜水艦は着工済みを除き交通
破壊戦用一本にするという徹底したものであったが、改D計画で実際
に決定されたものは次の各艦であった。
 甲型6隻、乙型32隻、丙型40隻、潜特型18隻、潜中43隻、潜丁型11
隻、で左記のうち潜特型と呼ばれる潜水空母については全廃論もあっ
たが、4隻分は材料収集済みであったため、9隻だけを建造する事に
変更された。
 丙型は在来の思想によったものではなく、D計画の海大型10隻を中
止し、これに代わるものとして建造が決まったものである。又、偵察
機搭載艦を全廃し、新乙型は航空兵装なしのタイプにすべしとの意見
も多く出たが、結果的に潜水隊編制は、非搭載艦2隻、搭載艦1隻の
比率とし必要範囲で飛行機搭載艦の建造も続行することになった。
 これらの計画中にガタルカナル攻防戦が起こり、潜水艦での物資補
給が急務となったため、海大型程度の大きさで水雷、砲熕兵装を全廃
した輸送専用の「潜輸」型を18隻建造することになり、19年予算分11隻
が線表に追加された。
 しかし、戦局の推移はこのような中途半端な計画を廃し、徹底した
量産体制の確立に迫られ、昭和18年7月に新しい建造線表に移行が命
ぜられた。これは日本海軍にとって潜水艦建造計画を大幅に転換する
ものであった。すなわち、起工済みを除く甲.乙.丙.輸.潜特のす
べての建造を中止し、「潜戊」と呼ぶ新艦型の統一建造が計画された。
 この「潜戊」型潜水艦は平凡なタイプであるが、建造期間の短縮を
唯一の条件として設計されていた。だが、日本の国力はその建造さえ
許さぬほど弱体化しており、在来型での戦備続行は不可能となってい
た、結局、潜戊型は1隻も起工されることはなかった。
 この時期、敵の空母艦載機、護衛艦艇、電探などの対潜兵力が飛躍
的に増強され、潜水艦による従来どおりの攻撃法での水上艦艇攻撃は
困難になっており、ただいたずらに消耗を増やすだけであった。
 こうした状況下を鑑みて発表された潜水艦建造の新方針、新規建造
計画艦は、水中高速型の伊201潜型と波101潜型と呼ぶ小型の補給潜水
艦のみとなった。


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2 特型潜水艦

 昭和17年度、改D計画で水上攻撃機を搭載する潜水空母ともいうべ
き空前の大型潜水艦18隻が、最高の秘密である軍機扱いのもと建造が
決定された。
 これが伊 400型、略称「潜特型」と呼称され、当時の世界中どこの
海軍にも比肩する物が無い最大級の大型潜水艦である。また潜特型の
建造は、ただ大型艦というだけでなく、攻撃機を搭載して米国本土を
爆撃しようという壮大な構想によるもので、従来の小型偵察機搭載の
潜水艦とは全く目的を別にした特異なものであった。
 @ 潜水空母建造
 本艦型発想の起点になったのは、昭和17年9月9日米西沿岸で行動
中の水偵搭載潜水艦、伊号25潜の零式小型水偵が、二度にわたりアメ
リカ本土オレゴン州の森林に焼夷弾の爆撃を行い、日本機による雄一
のアメリカ本土爆撃と言う輝かしい戦果を上げたことに端を発した。
 隠密性をもつ潜水艦が米本土洋上煮に潜入し、水偵を発進させ行っ
た爆撃は、米国民にあたえた精神的ショックは効果であったが、これ
らの小型水偵では有効な爆撃が期待できず、それでは、威力の大きい
攻撃機を搭載した大型潜水艦で米国沿岸の要地に奇襲攻撃を行なおう
というアイデアが生まれたのである。
 開戦時、行動中の新鋭潜水艦甲、乙型は、実用化された航空機搭載
技術の確実さを実戦に於いて証明し、尚大型艦にも拘らず良好な潜水
性能を発揮していた事から、これらの実績を基に、さらに大型の航空
機を搭載する潜水艦の建造を可能なものにしようとした。
 時は昭和17年初期、各方面での作戦は順調に進み、全ての事が可能
であるかの如くの勢いで進撃、一気にこの戦争を決着させれると信じ
ていた時であった。この勢いが、どの海軍先進国も夢想だにしない、
潜水空母艦隊を現実のものにしたのである。 
 昭和17年1月13日軍令部より、攻撃機搭載艦の建造が可能か否かに
付いて問い合わせがあり、3月末艦政本部は建造可能と、概案を以て
答申、5月の本会議を経て略称「潜特型」の設計が決定された。これは
大型で特殊な艦の設計としては、前例のない異例の早さだった。
 昭和18年1月、「潜特型」の一番艦「伊号第 400」が呉工廠で起工され
続いて二、三番艦伊号第401、402潜は佐世保工廠で、さらに呉工廠、
川崎重工業泉州工場などで起工された。引き続き合計18隻の建造が予
定されたが、戦況の変化により昭和18年7月、新建造方針が出され、
未起工艦の建造は中止となった。
 昭和19年12月には、呉工廠で建造の一番艦「伊号第 400潜」が竣工し、
佐世保工廠の伊号第 401,402潜も昭和20年1月と7月に各々が竣工し
た。呉工廠での第二艦伊号 404潜は完成間近に空襲で被爆沈没、川崎
重工で起工された伊号第 405は、その直後工事中止となり解体された。
因って、建造計画18隻中終戦までに完成されたのは3隻のみである。
 軍令部からの要求案をまとめた設計の概要は、基準排水量 3,440トン、
備砲14cm単装砲2門、速力20ノット、航続力14ノットで42,000浬と、これだ
けでも前例のない数値であるが、さらにこの艦内に攻撃機2機を搭載
するものであった。しかし戦況の悪化により計画は変更され、本艦型
の建造予定18隻を、当時建造中の4隻だけに減じたため、一艦に2機
では攻撃力不足として、その補填に1機増やし、1隻に3機搭載する
ように改正された。
 本艦型の建造には当初より多くの技術的難問を抱えていた。それは
従来の甲、乙型が搭載する小型水偵より重量が約3倍もある攻撃機を
収容する起到式クレーン、射出機、さらにそれら2機(後に3機)を収納す
る巨大な格納筒と、その水密扉の開閉装置など、設計製作共に高度の
技術を要するものであった。又此のような特殊設備が施された艦容は、
極めて大型のものとなり、それらに生じる気密性、水中旋回力、安定
性と操縦性、潜航秒時の短縮、多様な状態での復原力など大型潜水艦
がもつ宿命的課題が数多く有った。
 A 再設計と艤装
 先に述べた事からも本艦型が、如何に特異な物であったかを知る事
が出来るだろう。しかも、それに搭載機を3機にする改設計が加えら
れたのである。
 その設計変更の要点は、飛行機格納筒を増加した1機分後方へ延長
を必要とし、これにより後部甲板の14cm単装砲を減じて、備砲は前甲
板の1門のみにしたが、後に25mm3連装機銃1基を増設した。さらに
シュノーウケル装置の採用や対艦、対空電探などの近代装備も施され
この改造による重量の変動対策として、外殻燃料タンクの位置を変更
した。
 これは戦時下での資材と労力の確保に技術的問題など、二重の難問
を克服のために非常な努力を強いる事になった。しかし最高潮に達し
ていた日本の潜水艦技術は、見事にその難問を解決し、攻撃機3機を
搭載する世界に類例のない潜水空母を完成させた。
 完成した本艦型は、建造中に幾回かの改正が加えられていたにもか
かわらず、排水量の若干増加と、速力の低下(水上20ノットが 18.7ノット、
水中7ノットが6.5ノット)をみた程度で、艦全体の性能を大きく低下させる
ものではなかった。
 又この 3,530トンの排水量は、今大戦中に建造された最大級の潜水艦
で有り、此の巨体が潜航中に受ける水圧も又大なるものがあり、其れ
に耐えるための船殻構造には、特別の考慮が払われた。
 これには、日本海軍が初めて建造した大型潜水艦、海大1型と同じ
内殻を二つ並べる眼鏡形状式を採用し、前部魚雷発射管室付近は縦型
に、中央部では横型に設置した。此の方式は、主機である艦本式22号
10型ディーゼル4基を、一区に二基宛て連結し4基並列に搭載するの
に好都合であり、又安全潜航深度を100mに強化する重量の増加を防ぎ、
艦の安定も向上させることが出来た。
 本艦型の、主要目的である航空装備の諸装置は、眼鏡型内殻の上部
に独立した状態で上甲板に半埋め込みの、式直径 3.5m、長さ30.5mの
格納筒を設け、これより艦首方向に向け、全長 26mにも達する長大な
4式1号射出機10型が延びていた。
 その格納筒には、浮舟を外し主翼、尾翼を折り畳んだ「晴嵐」3機を
収納し、内殻と完全に分離されていて、敵の攻撃による浸水があって
も本艦の生命を脅かすものでなかった。
 B 重武装と長航続力
 兵装面では、25mm3連装機銃3基、25mm単装機銃1基と日本潜水艦
中最多の対空装備を施し、又魚雷発射管も艦首一斉射線8門と、丙型
潜水艦以来の強力な雷装を装備した。魚雷搭載数は、3斉射分24本を
予定したが攻撃機の増加により4本減らし20本、攻撃用航空魚雷4本
にした。
 本艦の特異性の一つには、連続行動期間4カ月と 14ノットで37,500浬
という長大な航続距離がある。これは米本土の主要都市を攻撃出来る
のみならず、世界全ての要衝に戦略行動を行いさらに、余力で相当の
作戦行動が可能であった。又これに要する燃料の搭載料も膨大なもの
で、従来型の2倍強に達する、重油 1,750トンを内殻外と内殻内に各々
3/4、1/4とに分け搭載した。
 当時、日本海軍の潜水艦建造技術は世界の水準を超えたものであり、
その優秀な造艦技術が、結果的には18隻の予定が3隻しか完成できな
かったが、戦時下にもかかわらずこのような前代未聞の大型潜水艦の
建造をなし得たのである。
 しかし、戦局が悪化する中、かかる工程の複雑な特殊潜水艦の建造
に長期間を費やし完成した潜特型であったが、竣工時には既に活動の
場を失い、初期の計画であったパナマ運河襲撃を変更、ウルシー泊地
の奇襲攻撃に出撃したが終戦のため帰投、戦力として寄与することは
無かった。
 完成後にも整備と完熟訓練には相当の期間を要し、秘密保持のため
に偽装用の煙筒や帆柱など上部構造物を仮設し、水上艦艇如く見せか
けた艦もあったと言われる。
◎ 特潜搭載特殊攻撃機
 当初、攻撃用搭載機は、艦上爆撃機「彗星」を改造して使用する予定
であったが、昭和17年愛知航空機で特潜搭載用専用機として極秘裡に
新設計された特殊攻撃機「晴嵐」が採用された。
 本機は格納の効率を良くするため、主翼、水平尾翼、垂直尾翼共に
折り畳み式になった、単発、低翼複座で双浮舟の水上機である。攻撃
には魚雷を抱いての雷撃、又 800kg爆弾での急降下爆撃が可能であり、
この場合浮舟を離脱し航続距離と速力を増大することが出来た。
 ちなみに浮舟離脱時の速度は、米新鋭戦闘機グラマンF6Fに匹敵
するものであった。

     潜特型 (伊400型)
 伊号第400 昭和19年12月30日竣工 昭和20年9月15日除籍 呉工廠で建造
 伊号第401 昭和20年1月8日竣工 昭和20年9月15日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第402 昭和20年7月24日竣工 昭和20年11月15日除籍 佐世保工廠で建造
 伊号第404 昭和19年7月7日進水 昭和20年6月4日工事中止 呉工廠で建造
 伊号第405 昭和19年9月27日起工 その後工事中止解体 川崎重工泉州で建造


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3 丁型(潜輸大)

 @ 丁型潜水艦
 ミッドウェー海戦直後の昭和17年度改D計画で、陸戦隊及び兵器、
食料などを、潜水艦により隠密裡に輸送しようと計画したのが、略称
「丁型潜水艦」(潜輸大)と呼ばれる「伊号第 361型」で、昭和18年初頭に
第1番艦が起工、19年5月以降10月迄に11隻(伊号第361−371潜水艦)
が竣工した。
 当初、丁型は人員 110名と兵器などの物資を艦内に約62トン、艦外に
20トンを積載し、艦上には上陸用舟艇、いわゆる大発に所要の改造を施
した特殊上陸用舟艇を2隻、搭載して強襲上陸に使用する予定であっ
た。しかし、建造途中にガタルカナル島戦での戦訓から兵員の輸送を
断念し物資輸送専用に変更になり、潜輸型とも呼ばれた。
 丁型(伊 361潜型)は、全長対全幅とその比率は8.3対1というズン
グリした船体が特徴で、急増に適するように設計され、主機、補機な
どは既成のものを流用し、ブロック建造により、建造期間は1年程に
短縮された。
 基準排水量は1,440トン、14cm砲1門を有し水上速力13ノット、航続
距離は10ノットで15,000浬である。又、潜行中の航続力延伸を狙い、
倉庫の一部を電池室に充てた結果、3ノットで 120浬までと、延伸に
成功した。これは日本潜水艦の内で、最も長大な水中航続力を有する
ものであった。
 さらに建造中、艦橋側面を逆三角形に傾斜させ、レーダーの探知波
が反射しにくいように改正すると共に、昭和20年には、主機の片方に
水中充電装置(シュノーケル)を装備し、潜航状態での課電を可能にし
た。このような改良により丁型潜水艦は、従来の潜水艦よりもかなり
性能を向上させたものになった。
 完成時では、物資搬送用大型通船2隻を艦上に積載し、使用時には
艦を沈下してこれを浮上、艦尾より進水できるようにした。又物資揚
陸用には特殊な電動揚荷装置を設けた。丁型(伊号361型)は物資の輸
送を主任務としながらも、敵と遭遇した際はこれに攻撃を加えられる
よう発射管2門を有している。(註)しかし2番艦以降は雷装を廃止
して物資搭載能力を増大した輸送専用潜水艦に変更した。
 註(従来の潜水艦に関する文献や資料によると、この伊 361型は
   2番艦伊 362潜以降、雷装を廃止したとなっているが、最近
   元乗員、及び造船に関係した方々の証言より、雷装廃止は伊
   372潜以後の艦、すなわち昭和19年度計画の伊号 372、373潜
   のみであったと判明された。)
 昭和19年10月、三菱神戸で建造された丁型、伊 370潜は艦の一部に
特攻兵器「回天」搭載のための改正を加えて、備砲を撤去した甲板上に
「回天」5基(前部2、後部3)を搭載した、攻撃型潜水艦に変貌した。
又、昭和19年度計画艦、伊号 372潜は艦首発射管を起工時より廃止し
て艦内搭載物資を25トン増加し、さらに水中航続力を増大している。
 A 丁型改
 昭和19年度計画の7隻のうち1隻は、艦内搭載量の増大を図り少し
の改修を加えただけで「丁型」伊号第 372潜として建造されたが、更に
昭和19年4月、輸送量を増し、その上、航空揮発油 150`gの輸送を
可能にするようにとの要求が有り、再度設計に改修を加え建造された
のが、略称「丁型改」と呼ばれる「伊号 373型」潜水艦である。
 本艦は水上航続力の減少を忍び、外殻に軽質油を搭載し、其の漏洩
防止のためタンク部に特殊な構造が採用されていた。
 制空権を失い、前線航空基地への燃料輸送に苦慮していた状況を打
開しようとした苦肉の策であったが、計画6隻のうち2隻が起工され
終戦までに1番艦の伊373は竣工したが、2番艦の伊374は途中で建造
が中止された。
 兵装面では、潜補型と同じ8cm連装迫撃砲2基を搭載した。これを
備砲としたのは潜補型と丁型改のみで、潜水艦では異色の兵装とも思
える。又丁型改においても水中での性能、水中航続力を重視し、1号
15型電池 360基で3ノットで 100浬とし、安全潜航深度においても丁
型の75mから100mに増大している。
 初期に完成した各艦は、就役後暫くは輸送任務に従事したが、昭和
19年後期、昭和20年に入ると戦局も悪化、最後には人間魚雷「回天」を
搭載し、特別攻撃隊として使用するよう企図されるに至った。
 改D計画による11隻と、昭和19年度計画分の2隻が終戦までに竣工
したが、うち6隻は回天搭載設備が施され「回天」特別攻撃隊用潜水艦
として出撃して征った。戦時中に計画された潜水艦中で戦力に寄与し
た数少ない艦型である。

       丁型(伊361型)
 伊号第361 昭和19年5月25日竣工 昭和20年8月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第362 昭和19年5月23日竣工 昭和20年4月10日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第363 昭和19年7月8日竣工 昭和20年11月10日除籍 呉工廠で建造
 伊号第364 昭和19年6月14日竣工 昭和19年12月10日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第365 昭和19年8月1日竣工 昭和20年3月10日除籍 横須賀工廠建造
 伊号第366 昭和19年8月3日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第367 昭和19年8月15日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第368 昭和19年8月25日竣工 昭和20年4月10日除籍 横須賀工廠建造
 伊号第369 昭和19年10月9日竣工 昭和20年9月15日除籍 横須賀工廠建造
 伊号第370 昭和19年9月4日竣工 昭和20年4月10日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第371 昭和19年10月2日竣工 昭和20年4月10日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第372 昭和19年11月8日竣工 昭和20年9月15日除籍 横須賀工廠建造
       丁型改(伊373型)
 伊号第373 昭和20年4月14日竣工 昭和20年9月15日除籍 横須賀工廠建造


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4 潜高大型

 太平世戦争中期、昭和17年も終わり頃になると、米軍の対潜戦術は
極度に進歩し、日本海軍の潜水艦は行動に大きな制限を受けるように
なった。これに対抗するため水中性能を向上させ、特に水中での速力
を重視し水上性能を犠牲にした、従来の潜水艦の概念を離れた艦型が
計画された。
 昭和18年度計画で、8隻が建造されることになった水中高速潜水艦
略称「潜高大型」と呼称された 伊201潜型潜水艦がそれである。これは、
現在の主要国が保有する潜水艦では極く当然のことであるが、当時と
しては全く斬新な構想による新型艦であった。
 最初の要求は水中速力25ノットで、排水量は 1,000トンが検討され
たが、技術的見地から、結果は水中20ノット、水上は16ノットに決定
された。しかし設計が進むにつれて、水上性能の犠牲にも限度があり
且つ、又電探装置等を艦橋部に設置することにより、水中での抵抗が
若干増す事などの弊害もあり、結局、水中19ノットに変更された。
 兵装は発射管を艦首に4門、25mm単装機銃(隠顕式)2基であり、
急速潜航秒時は30秒で、かなりの機敏さであった。
 仮称艦名4501号艦型(略称、潜高大)いわゆる、伊 201潜型の設計
には、甲標的や試作71号艦建造の実績で、水中高速艦に関する資料は
蓄積されており、建造は迅速に進められた。
 一番艦を昭和20年3月に起工、翌年5月に完成した。第一艦を起工
以後、おおむね毎月1隻の目標で着工、工事には内殻を工場内で特別
の装置を使用し分割の形で製造、組み立ては大型台車で船台に運んで
繋ぎ合わせるブロック法式として、接合部はドイツの技術を導入した
全溶接にするなど、合理化を採用した。
 主機関(水上用)は小型駆潜艇に採用していたマ式1号 1,500馬力を
2基 2,750馬力、水中では5,000馬力と、水上での2倍であった。
 一番艦、伊号 201潜の公試運転では、マ式1号ディーゼルの性能が
高いが故に、構造が複雑になり故障が続発し、また水中最高速力が約
17ノットで計画より遥かに低かったのは、水中全力航走時の艦の安定
に問題があり、若干の日時があれば解決の見とうしは立っていた。
 伊 201潜は昭和20年2月竣工し、以後終戦までに伊号202、203潜の
3隻が完成した。後続の伊 204は完成直前に空襲で沈み、2隻が艤装
中、そのほか船台上に2隻があったが20年3月以後、現場工事は中止
していた。
 本艦は、竣工後も改良すべき所があり、実戦に参加する事無く終戦
を迎えることになったが、何れも若干の日時があれば解決可能と認め
られるもので、これが完成の暁には、米海軍に大きな脅威を与えるべ
く画期的な艦であった。

      「潜高大」型(伊201型)
 伊号第201 昭和20年2月2日竣工 昭和20年11月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第202 昭和20年2月12日竣工 昭和20年11月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第203 昭和20年5月29日竣工 昭和20年11月30日除籍 呉工廠で建造
 伊号第204 昭和19年12月16日進水 工程90%で爆撃、沈没 呉工廠で建造
 伊号第205 昭和20年2月15日進水 工程80%で工事中止  呉工廠で建造
 伊号第206 昭和20年3月26日進水 工程85%で工事中止  呉工廠で建造
 伊号第207 昭和19年12月27日起工 工程20%で工事中止  呉工廠で建造
 伊号第208 昭和20年2月17日竣工 工程5%で工事中止  呉工廠で建造


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5 局地用小型潜水艦

 @「潜輸小」型
 昭和18年頃から、南方に点在する基地も連合軍の制空権下に墜ちて
水上艦艇で前線への輸送が困難になっていた。軍令部は昭和19年2月、
最前線基地への局地輸送を目的とした近距離輸送用として小型潜水艦
12隻を建造するよう指令した。これが略称「潜輸小」波号 101型潜水艦
である。
 基準排水量は 370トンという小型で、速力水上10、水中5ノットで
兵装は25mm機銃1挺のみ、主機関は製造の容易な中速 400馬力ディー
ゼル1基1軸とした。潜航中の電源には当時最優秀といわれた、1号
17型、又は1号22型蓄電池を搭載して小型艦ながら 2.3ノットで46浬  船型過小で航続距離がすくないが、安全潜潜航深度は 100mを維持
し、又急速に搭載物資を揚陸する色々の装置が設けられ、搭載能力も
排水量に比べてて大きく、搭載物件60トンと割合多量でった。
 小型潜水艦であるが戦訓を参考に、実戦に適応した性能を備えよう
とし多くの工夫が施されていた。
 建造には、全溶接構造とブロック方式を採り入れ、艤装は潜水艦と
しては最も簡易化する事で工期を6カ月ほどに短縮し、川崎重工と三
菱神戸で急速建造、昭和19年6月以降に起工され、11月より終戦まで
に10隻が完成したが、2隻が未成であり、波101−112潜と命名された。
 第1艦が完成した昭和19年11月頃には、戦局がも切迫、早期完成の
何隻かが、硫黄島や父島の輸送作戦に従事したが、実際の輸送任務に
使用される機会は少なく、本土決戦に備えて若干隻は特攻兵器「蛟龍」
の母艇として、これに洋上で魚雷等を補給するように改造され、又一
部の艦は軽質油運搬用に改造工事が実施中で終戦を迎えた。

     「潜輸小」型  (波101型)
 波号第101 昭和19年11月25日竣工 昭和20年9月15日除籍 川崎重工で建造
 波号第102 昭和19年12月6日竣工 昭和20年9月15日除籍 川崎重工で建造
 波号第103 昭和20年2月3日竣工 昭和20年11月30日除籍 川崎重工で建造
 波号第104 昭和19年12月1日竣工 昭和20年9月15日除籍 三菱神戸で建造
 波号第105 昭和20年2月15日竣工 昭和20年11月30日除籍 川崎重工で建造
 波号第106 昭和19年12月15日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱神戸で建造
 波号第107 昭和20年2月7日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱神戸で建造
 波号第108 昭和20年5月6日竣工 昭和20年11月30日除籍 川崎重工で建造
 波号第109 昭和20年3月10日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱神戸で建造
 波号第110 昭和20年1月12日進水 工程95%で終戦    川崎重工で建造
 波号第111 昭和20年7月13日竣工 昭和20年11月30日除籍 三菱神戸で建造
 伊号第112 昭和20年4月15日進水 工程95%で終戦    三菱神戸で建造
      川崎重工での建造は、進水までは川崎重工泉州工場で行われた。

 A「潜高小」型
 昭和19年末、戦況いよいよ切迫し本土決戦をもって、抗戦しようと
する海軍は、当時、決戦用兵器として「蛟龍」の量産を決定していた
が、これでは航続力が小さく局地防御に止まってしまい、より行動力
が大きく、水中性能の優れた小型潜水艦の整備を軍令部は切望した。
それが通称、潜高小型(仮称艦名、第4911号艦型)波号 201型潜水艦で
ある。
 昭和19年末に、約一ヶ月の短期間で艦型が決定し、急遽設計に移さ
れ翌20年初頭には量産体勢に入り、4ヶ所の造船所で特攻兵器に準ず
る扱いで建造される事になった。最初 750トンと 500トン案が検討さ
れたが、量産を考慮して最小の 320トンとして、敏速に設計を終了さ
せ一番艦を昭和20年3月に起工、同年5月に完成させた。
 急速建造のため全溶接ブロック構造にして、あらゆる点で簡易化を
図り建造を容易にした。主機は潜輸小型と同様、中速 400型ディーゼ
ル1基で一軸艦とし、速力は水上10.5、水中13ノットで、航続距離は
10ノットにて約 3,000浬であった。
 兵装は前部に発射管2門、魚雷4本を搭載し 7.7mm単装機銃1基を
艦橋上部に装備した。艦型は水中操縦性を重視、特攻兵器「海龍」の
場合と同様に、艦首にあった潜舵を船体中央部に移し、従来の潜水艦
とは異なる形状になった。
 完成公試の結果、水中速力13.9ノットを発揮し水上速力も13ノット
に達した。資材が窮屈になってきた時期に急造したため、大規模な簡
易化が払われたにもかかわらず、急速潜航秒時は極めて短く、操縦性
も非常に良好であり充分な性能を保持し、乗員にも好評であった。
 79隻の建造を予定していたが、終戦までに10隻が完成、37隻が建造
中で、戦時計画艦として最も短期間に戦力化された。あと少し戦争が
続いていたならば、さらに相当数が竣工して、恐るべき威力を発揮し
得るはずの艦であった。

      「潜高小」型  (波201型)
 波号第201 昭和20年5月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第202 昭和20年5月31日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第203 昭和20年6月26日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第204 昭和20年6月25日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第205 昭和20年7月3日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第207 昭和20年8月14日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第208 昭和20年8月4日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第209 昭和20年8月4日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第210 昭和20年8月11日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
 波号第216 昭和20年8月16日竣工 昭和20年11月30日除籍 佐世保工廠建造
   波号第206.212〜215号までは工程75%〜95%、217〜247号までが、それ
   ぞれ工程90〜5%の状態で船台上にあった。尚、波号211号は工程40%
   で終戦を迎えたが、GHQの指令により戦後も工事続行、昭和21年4月
   進水、同年5月6日紀伊水道で海没処分。


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6 特攻兵器

 @ 「海竜」
 「特攻兵器」とは、読んで字のごとく特攻隊、即ち特別攻撃隊が用い
る兵器である。この特別攻撃隊の名称が使われたのは太平洋戦争緒戦
に行われた、真珠湾、シドニー及びジゴスワレス港に対する、甲標的
による港湾強襲突入が敢行された時で、前者を第一次、後者を第二次
特別攻撃隊と称したのが始まりである。
 当然、危険度は高いが生還と収容には万全が施されたもので、太平
洋戦争末期に行われた出撃後、生還を期さない特攻隊とは意を異にし
たものであった。昭和19年に入り悪化する戦局のなか、幾つかの特攻
兵器が考案されたが、全てが生還を前提としたもので、ここで述べる
「海竜」は無論、人間魚雷と呼ばれた「回天」でさえ例外ではなかった。
又、如何に苦境に瀕した状況でも、生還を期さない作戦などは、日本
海軍に存在しなかったのだ。
 しかし、レイテ沖海戦で、航空機による体当たり攻撃が敢行される
に至り、愛国心に燃える若人達は、製作面倒な脱出発射装置は取りや
め、弾頭ごと直接体当たりする方針に進み、戦争末期には「回天」の如
き過大な戦果を上げ、米軍に最も恐れられた兵器の出現となった。
 この小型潜水艇「海竜」と称される「特攻兵器」は昭和18年初頭に、
工作学校教官浅野卯一郎(機関中佐)により考案された二人乗り有翼
潜水艇で、着想から実験、製作までを同一人の手で完成させた、艦艇
兵器としては類を見ないものである。
 潜水艦はタンクの注排水により浮力を調節し浮沈するが、小型潜水
艇に翼をつけ、飛行機が補助翼の操作により上昇、下降するの如く、
水中を軽快に行動し、潜航、浮上を瞬時に出来るよう考案されたもの
で、着想は飛行機に基ずくものであった。小型で量産に適し局地防備
用には最適の水中高速潜水艇と思われたが、艦政本部が兵器とするの
に消極的であり、採用迄に多くの時間を費やした。しかし、水槽での
実験等を繰りかえし行い、成算があることが確認され、昭和19年横浜
工専(現在の横浜国立大学.工学部)の製図室で生徒らの手により線図
がひかれた。
 同年4月、軍令部より発せられた特攻戦備計画にB(まる三)金物の
略称で採り入れられ、5月に設計完了、久里浜の工作学校において、
SS金物の名称で試作に着手、8月には試作第一号艇が完成した。
 昭和20年4月、沖縄戦が始まると同時に量産が発令され「海竜」の
名で本土決戦用兵器として5月28日正式採用、蛟龍の戦力不足を補充す
るため多くの建造所で全力を挙げて急造された。
 二人乗りの小型潜水艇という点では、甲標的と似ているが前者の46
トンに対し海竜は19.3トンという身軽さであり、量産も容易に行われ
た。水上走航用主機械は、入手容易な統制型小型ディーゼル、野戦重
砲を引く索引車の機関を採用し、複雑な操縦装置は双発爆撃機「銀河」
の廃品を流用した。
 海竜は発射管を設けず、艇体下部の2本のレールに45cm魚雷を発射
筒と共に装備し、火薬ロケットでそれを射出する外装離脱方式だった
が、魚雷製造能力の関係で一部の艇は発射筒を廃止し、艇首の燃料タ
ンク部分に炸薬 600kgを装備した純然たる特攻艇となったが、中には
発射筒と炸薬の両方を搭載した艇もあったといわれる。
 小型で構造及び機構ともに比較的簡単なため、早くも4月末には横
須賀工廠では工作学校の協力で 110隻が完成し、終戦迄には 224隻が
完成、約207隻が建造中であった。
 海竜は量産により、その実際性能は当初の期待より次第に低下した
が、しかし水中翼によって相当の荒天でもセイルが水没せず、運動は
軽快だった。量産に成功した海竜ではあったが、空襲の激化と艤装品
調達の遅延から整備が遅れ、実戦に参加する事なく終戦を迎えた。

 A 人間魚雷「回天」
 昭和19年2月17日、南方最大の海軍基地、トラックが米機動部隊の
大空襲を受け壊滅的打撃を受けたことで、軍令部は艦政本部及び航空
本部の技術陣に対し「之れだけあれば必ず戦局を挽回出来るし、之れ
なくしては必ず負ける」という特殊な攻撃艇と兵器九項目を、@(まる
一)からH(まる九)の仮称で提案してきた。
 このうちEと呼ばれるのが後に「回天」と命名されるのだが、これよ
り一年先、後退ぎみの戦勢を打破する兵器として、人間魚雷の構想が
黒木博司中尉(回天実験中殉職)、竹間忠三大尉らの青年将校により
司令部に提出されていた。
 人間魚雷は、昭和19年2月26日試作が訓令され、呉工廠大入工場の
極秘区画で秘匿名称E金物の名で、魚雷設計の権威渡辺清水技術大佐
を主任として、鈴川薄技術大尉と数人の技手らで3月始め設計試作を
始めた。
 後に「回天1型」と命名されたE金物とは、動力に93式改3型魚雷を
ほどんとそのまま使用、これに操縦装置となる外筒と特眼鏡を施し、
頭部に1,500kg の炸薬を充填、人間の操縦により必中を期した強力な
水中特攻兵器で、関係者の中では単に「筒(トウ)」とも呼ばれていた。
 原計画では、接敵して針路を固定し、搭乗員はハッチより艇外洋上
に脱出する緊急脱出装置が付加されていた、だが実用化の際には廃止
され、生還不可能の兵器となっていた。
 1型は魚雷の酸素を燃料にして走行、全長14.7m、直径1m射程は
30ノットにて23km、12ノットでは78kmにも達した。これと並行して、
全長16.5m、直径1.35m、主燃料を過酸化水素と水化ヒドラジンとした
6号機械を搭載し、射程は40ノットにて25km、20ノットでは83km走航
する回天2型の生産も進められ、更に1型と同じ燃料で、6号機械を
搭載して40ノットにて27km、20ノットでは62kmの「回天」4型や電気
推進の「回天」10型も開発されたが、量産が困難なため計画だけで中断
された。
 回天の搭乗員は1型1名、2、4型は2名でいずれも頭部に炸薬を
1.5t以上を装填、通常の魚雷の500kg に比して数段と大きい破壊力を
秘め、小艦艇ならば一発轟沈を期し得るものであった。
 製作主務は艦政2部(水雷)で、筒体の製造に4部(造船))が又2、
4型の主機械たる6号機械の設計製造に5部(造機)が当たったが2型、
4型では、主機械たる6号機械の量産が間に合わず、本体部が約200
基完成しただけで陸上実験を終了した時に終戦となった。
 因って実戦に供したのは1型のみで、昭和19年11月20日のカロリン
群島ウルシー泊地攻撃を初陣として、その後、敵の電探、水測兵器に
制圧され不振を極める潜水艦戦、最後の望みを託され、独り「回天」の
みはよく敵基地に潜入、あるいは洋上において敵船団攻撃等で戦果を
挙げ、米海軍を恐怖の淵に陥れた。
 終戦迄に約 420基が完成、本土決戦に最も期待された兵器であり、
又洋上で最後まで戦い続けていた唯一の兵器であった。


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