2 特型潜水艦
昭和17年度、改D計画で水上攻撃機を搭載する潜水空母ともいうべ
き空前の大型潜水艦18隻が、最高の秘密である軍機扱いのもと建造が
決定された。
これが伊 400型、略称「潜特型」と呼称され、当時の世界中どこの
海軍にも比肩する物が無い最大級の大型潜水艦である。また潜特型の
建造は、ただ大型艦というだけでなく、攻撃機を搭載して米国本土を
爆撃しようという壮大な構想によるもので、従来の小型偵察機搭載の
潜水艦とは全く目的を別にした特異なものであった。
@ 潜水空母建造
本艦型発想の起点になったのは、昭和17年9月9日米西沿岸で行動
中の水偵搭載潜水艦、伊号25潜の零式小型水偵が、二度にわたりアメ
リカ本土オレゴン州の森林に焼夷弾の爆撃を行い、日本機による雄一
のアメリカ本土爆撃と言う輝かしい戦果を上げたことに端を発した。
隠密性をもつ潜水艦が米本土洋上煮に潜入し、水偵を発進させ行っ
た爆撃は、米国民にあたえた精神的ショックは効果であったが、これ
らの小型水偵では有効な爆撃が期待できず、それでは、威力の大きい
攻撃機を搭載した大型潜水艦で米国沿岸の要地に奇襲攻撃を行なおう
というアイデアが生まれたのである。
開戦時、行動中の新鋭潜水艦甲、乙型は、実用化された航空機搭載
技術の確実さを実戦に於いて証明し、尚大型艦にも拘らず良好な潜水
性能を発揮していた事から、これらの実績を基に、さらに大型の航空
機を搭載する潜水艦の建造を可能なものにしようとした。
時は昭和17年初期、各方面での作戦は順調に進み、全ての事が可能
であるかの如くの勢いで進撃、一気にこの戦争を決着させれると信じ
ていた時であった。この勢いが、どの海軍先進国も夢想だにしない、
潜水空母艦隊を現実のものにしたのである。
昭和17年1月13日軍令部より、攻撃機搭載艦の建造が可能か否かに
付いて問い合わせがあり、3月末艦政本部は建造可能と、概案を以て
答申、5月の本会議を経て略称「潜特型」の設計が決定された。これは
大型で特殊な艦の設計としては、前例のない異例の早さだった。
昭和18年1月、「潜特型」の一番艦「伊号第 400」が呉工廠で起工され
続いて二、三番艦伊号第401、402潜は佐世保工廠で、さらに呉工廠、
川崎重工業泉州工場などで起工された。引き続き合計18隻の建造が予
定されたが、戦況の変化により昭和18年7月、新建造方針が出され、
未起工艦の建造は中止となった。
昭和19年12月には、呉工廠で建造の一番艦「伊号第 400潜」が竣工し、
佐世保工廠の伊号第 401,402潜も昭和20年1月と7月に各々が竣工し
た。呉工廠での第二艦伊号 404潜は完成間近に空襲で被爆沈没、川崎
重工で起工された伊号第 405は、その直後工事中止となり解体された。
因って、建造計画18隻中終戦までに完成されたのは3隻のみである。
軍令部からの要求案をまとめた設計の概要は、基準排水量 3,440トン、
備砲14cm単装砲2門、速力20ノット、航続力14ノットで42,000浬と、これだ
けでも前例のない数値であるが、さらにこの艦内に攻撃機2機を搭載
するものであった。しかし戦況の悪化により計画は変更され、本艦型
の建造予定18隻を、当時建造中の4隻だけに減じたため、一艦に2機
では攻撃力不足として、その補填に1機増やし、1隻に3機搭載する
ように改正された。
本艦型の建造には当初より多くの技術的難問を抱えていた。それは
従来の甲、乙型が搭載する小型水偵より重量が約3倍もある攻撃機を
収容する起到式クレーン、射出機、さらにそれら2機(後に3機)を収納す
る巨大な格納筒と、その水密扉の開閉装置など、設計製作共に高度の
技術を要するものであった。又此のような特殊設備が施された艦容は、
極めて大型のものとなり、それらに生じる気密性、水中旋回力、安定
性と操縦性、潜航秒時の短縮、多様な状態での復原力など大型潜水艦
がもつ宿命的課題が数多く有った。
A 再設計と艤装
先に述べた事からも本艦型が、如何に特異な物であったかを知る事
が出来るだろう。しかも、それに搭載機を3機にする改設計が加えら
れたのである。
その設計変更の要点は、飛行機格納筒を増加した1機分後方へ延長
を必要とし、これにより後部甲板の14cm単装砲を減じて、備砲は前甲
板の1門のみにしたが、後に25mm3連装機銃1基を増設した。さらに
シュノーウケル装置の採用や対艦、対空電探などの近代装備も施され
この改造による重量の変動対策として、外殻燃料タンクの位置を変更
した。
これは戦時下での資材と労力の確保に技術的問題など、二重の難問
を克服のために非常な努力を強いる事になった。しかし最高潮に達し
ていた日本の潜水艦技術は、見事にその難問を解決し、攻撃機3機を
搭載する世界に類例のない潜水空母を完成させた。
完成した本艦型は、建造中に幾回かの改正が加えられていたにもか
かわらず、排水量の若干増加と、速力の低下(水上20ノットが 18.7ノット、
水中7ノットが6.5ノット)をみた程度で、艦全体の性能を大きく低下させる
ものではなかった。
又この 3,530トンの排水量は、今大戦中に建造された最大級の潜水艦
で有り、此の巨体が潜航中に受ける水圧も又大なるものがあり、其れ
に耐えるための船殻構造には、特別の考慮が払われた。
これには、日本海軍が初めて建造した大型潜水艦、海大1型と同じ
内殻を二つ並べる眼鏡形状式を採用し、前部魚雷発射管室付近は縦型
に、中央部では横型に設置した。此の方式は、主機である艦本式22号
10型ディーゼル4基を、一区に二基宛て連結し4基並列に搭載するの
に好都合であり、又安全潜航深度を100mに強化する重量の増加を防ぎ、
艦の安定も向上させることが出来た。
本艦型の、主要目的である航空装備の諸装置は、眼鏡型内殻の上部
に独立した状態で上甲板に半埋め込みの、式直径 3.5m、長さ30.5mの
格納筒を設け、これより艦首方向に向け、全長 26mにも達する長大な
4式1号射出機10型が延びていた。
その格納筒には、浮舟を外し主翼、尾翼を折り畳んだ「晴嵐」3機を
収納し、内殻と完全に分離されていて、敵の攻撃による浸水があって
も本艦の生命を脅かすものでなかった。
B 重武装と長航続力
兵装面では、25mm3連装機銃3基、25mm単装機銃1基と日本潜水艦
中最多の対空装備を施し、又魚雷発射管も艦首一斉射線8門と、丙型
潜水艦以来の強力な雷装を装備した。魚雷搭載数は、3斉射分24本を
予定したが攻撃機の増加により4本減らし20本、攻撃用航空魚雷4本
にした。
本艦の特異性の一つには、連続行動期間4カ月と 14ノットで37,500浬
という長大な航続距離がある。これは米本土の主要都市を攻撃出来る
のみならず、世界全ての要衝に戦略行動を行いさらに、余力で相当の
作戦行動が可能であった。又これに要する燃料の搭載料も膨大なもの
で、従来型の2倍強に達する、重油 1,750トンを内殻外と内殻内に各々
3/4、1/4とに分け搭載した。
当時、日本海軍の潜水艦建造技術は世界の水準を超えたものであり、
その優秀な造艦技術が、結果的には18隻の予定が3隻しか完成できな
かったが、戦時下にもかかわらずこのような前代未聞の大型潜水艦の
建造をなし得たのである。
しかし、戦局が悪化する中、かかる工程の複雑な特殊潜水艦の建造
に長期間を費やし完成した潜特型であったが、竣工時には既に活動の
場を失い、初期の計画であったパナマ運河襲撃を変更、ウルシー泊地
の奇襲攻撃に出撃したが終戦のため帰投、戦力として寄与することは
無かった。
完成後にも整備と完熟訓練には相当の期間を要し、秘密保持のため
に偽装用の煙筒や帆柱など上部構造物を仮設し、水上艦艇如く見せか
けた艦もあったと言われる。
◎ 特潜搭載特殊攻撃機
当初、攻撃用搭載機は、艦上爆撃機「彗星」を改造して使用する予定
であったが、昭和17年愛知航空機で特潜搭載用専用機として極秘裡に
新設計された特殊攻撃機「晴嵐」が採用された。
本機は格納の効率を良くするため、主翼、水平尾翼、垂直尾翼共に
折り畳み式になった、単発、低翼複座で双浮舟の水上機である。攻撃
には魚雷を抱いての雷撃、又 800kg爆弾での急降下爆撃が可能であり、
この場合浮舟を離脱し航続距離と速力を増大することが出来た。
ちなみに浮舟離脱時の速度は、米新鋭戦闘機グラマンF6Fに匹敵
するものであった。
潜特型 (伊400型)
伊号第400 昭和19年12月30日竣工 昭和20年9月15日除籍 呉工廠で建造
伊号第401 昭和20年1月8日竣工 昭和20年9月15日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第402 昭和20年7月24日竣工 昭和20年11月15日除籍 佐世保工廠で建造
伊号第404 昭和19年7月7日進水 昭和20年6月4日工事中止 呉工廠で建造
伊号第405 昭和19年9月27日起工 その後工事中止解体 川崎重工泉州で建造