日本潜水艦史

第三章 潜水艦の戦い

  一 太平洋戦争緒戦の活躍

1 開戦と日本潜水艦

 日本海軍は開戦時64隻、戦争中に126隻を竣工させて、合計190隻の
潜水艦を駆使して太平洋戦争を戦った。しかし、この潜水艦の戦いを
期待外れとか、たいした活躍がなかったなどと評価をする向きもある
が、決してそうではない。確かに太平洋戦争において、日本潜水艦の
働きは米海軍のそれと比べ、相手国の国勢を落とし込むまでの活躍は
出来なかったが、太平洋上いたるところにあって、その作戦に従事し
米海軍に与えた打撃は少なくない筈だ。又期待外れと言うなら、それ
を甘んじて受けよう、だがそれにはそれなりの理由があったのだ。
 そもそも、日本海軍が潜水艦の保有を決めたのは、日露戦争で日本
艦隊の主力戦艦6隻の内、初瀬と八島が露国の機雷に触れ一挙に2隻
が沈没、その失った戦力を補おうとした時である。その後、水上艦艇
の発達に伴う高速化で、その使用価値が疑問視され出していた頃、欧
州戦線での潜水艦は、専ら無武装の商船攻撃に向けられ大きい戦果を
挙げていた。しかし、日本海軍の潜水艦は当初と変わらず、一貫して
主力艦の攻撃を目標に発展させて来たのである。
 第一次世界大戦後、米英による主力艦の劣勢比率を課せられた日本
海軍は、潜水艦により主力艦の劣勢を補おうとする方針を決め、作戦
主要兵器として重要視、整備を急務とした。
 潜水艦を以て米艦隊の渡洋侵攻を迎撃する、いわゆる「漸減作戦」
に必要な、高速で長航続力の潜水艦建造に成功した日本海軍は、猛訓
練の結果、日本独特の作戦構想による潜水艦隊をつくりあげた。
 米、英、独の潜水艦は、偵察や通商破壊作戦を主な目的としていた
ため、性能は標準的で量産容易な艦を多数建造したが、日本海軍は、
決戦前に敵主力艦を襲撃、反復攻撃により、敵戦力の漸減を狙いとし
て、艦隊に随伴出来る速力と航続力、それに太平洋の荒天にも耐える
凌波性を備えた高性能な潜水艦を求め、多くの艦型が造られた。
 その中でも、列強海軍国で計画を取り止めた航空機搭載潜水艦に於
いては、日本海軍の独壇場で初期には小型偵察機を搭載したが、戦争
末期には攻撃機3機も搭載する潜水空母ともいう大型艦を戦闘に投入
した。他にも自動懸吊装置、重油漏洩防止装置等日本海軍独特の考案
による優れたものが作られた。
 このように世界の水準を優越した潜水艦が何故、太平洋戦争に於い
て期待外れの結果に終わったのか、これには多くの要因があるが端的
に結論を言うならば、潜水艦の活用法を間違えたのである。
 元来、敵主力艦を襲撃する「艦隊決戦用」として造られ、それを目的
に猛訓練を積んできた潜水艦隊に、多くを期待し過ぎて、多種多様な
任務を強要し、本来の特性を活かした隠密裡に奇襲する作戦に使用す
る事無く、急激に進歩を遂げた対潜兵器の中に、無謀とも言える強襲
突入を繰り返す事で、只いたずらに喪失を多くしてしまった。
 資源力が乏しい日本海軍は、少数精鋭主義で戦おうとしたが、予想
以上の消耗戦に生産が追いつけず、常に隻数の絶対不足で戦わなけれ
ばならなかった。平凡だが数を頼みとする米国の量産主義、強いては
物量戦に負けたと言っても過言ではなかろう。
 しかし、日本の潜水艦隊も黙って敗れたわけではない。各艦とも優
れた性能を全力で活かし、相当の戦果を挙げて連合軍に与えた打撃は、
我が軍の作戦を幾度となく有利に導いた。又商船撃沈が十数隻に昇る
艦も少なくなく、単独で空母も撃沈している。もし、初めから重点を
通商破壊の如く、適切な使用法に基づいて建造と訓練を重ねていたら、
更に、大きい戦果を挙げ得たことは疑いないであろう。
 優秀な造艦技術で建造された潜水艦は、列強海軍国のそれに優とも
劣らず、また乗員の技量も猛訓練により極限まで鍛えあげられていた
筈だからである。
 ただ潜水艦は遠洋まで出撃し、単独で撃沈されることが多く、潜水
艦の沈没は全員戦死がほどんとであり、それ故記録も残ることが少な
く、そのため残念にも確実な戦果が知られない事が多い。
 それでは、当時乗員だった方々の残された手記や、戦後発表された
米軍の史料の中から、その数少ない日本潜水艦の戦闘記録を、ひもと
いて行こう。


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2 ハワイ海域と米西海岸

 @ 伊号第6潜水艦(巡潜2型)
 昭和16年11月初めから、軍港横須賀に集結していた第1、第2潜水
戦隊の潜水艦11隻は、11月16日から21日にかけて演習を装い分散して
母港を後にしていった。その第2潜水戦隊、第8潜水隊のなかの一艦
に「伊号第6潜水艦」がいた。
 出港後間もなく「当直員を残し全員集合」と艦内スピーカーが鳴り
出し、不意の集合にザワメク乗員に、艦長よ訓示があった。「日本は
米国に対し宣戦布告をする、本艦はこれよりハワイ哨戒海域へ向かう」
と、艦内に一瞬緊張が走った、しかし、それはすぐに歓声に変わった。
 当時の第2潜水戦隊は、特設潜水母艦「8さんとす丸」に伊号第7
潜水艦を旗艦とし、第7潜水隊(伊号第1、2、3潜水艦)、第8潜水
隊(伊号第4、5、6潜水艦)の巡潜型で編成されていた。
 横須賀を出撃後は、12月8日に予定されている真珠湾奇襲攻撃の先
遣部隊として一路ハワイ諸島オアフ、モロカイ、カウアイの各島付近
の散開地点に急いだ。任務はハワイ方面の米艦隊の監視と邀撃、また
日本軍の奇襲攻撃で撃ちもらし、逃げ出してきた米艦船を討ち取ろう
と言うのである。
 12月8日の奇襲攻撃は大成功に終わった、しかし肝心の空母が不在
で撃滅することが出来なかった。それ故、第2潜水戦隊は一ヶ月余り
もハワイ付近に残り米空母艦隊の動向を探っていた。果たせるかな!
 昭和17年1月12日夕刻、伊号第6潜水艦はハワイ南西500カイリ
で探し求めていた米空母発見!「主力大型空母サラトガだ」すかさず
艦長の号令が飛ぶ「魚雷戦用意」、敵はなにも気付かずに15ノットの
速度でにのんびりと航行している、好発射位置を狙いサラトガと並航
する。
 巡潜2型の伊号第6潜水艦は水上速力21ノットまで出せる、十分に
追い越すことも出来るのだ。「目標、空母、距離4,500、速度15ノット、
艦首発射管4、発射用意」しかし発射管4本のうち一本が故障だ、艦
首発射管3本に決め、艦長は潜望鏡で好機を狙う。
「よう〜い、てぇ!」3本の魚雷はサラトガ目指し突っ走る、艦内に
走る静寂のなか秒針が時を刻む音だけが響く、時をおいて「かぁ〜ん」
という甲高い金属音、続いて「グワ〜ン」爆発の轟音が伝わる。
 「命中だ!」。
 3本の魚雷のうち1本が「サラトガ」の左舷中央部に命中、爆発は
船腹をえぐり缶室3つを浸水させ、修理に4か月を要する損傷を与え
た。撃沈は出来なかったが「伊号第6潜」の初手柄である。

 A 伊号第26潜水艦(乙型、伊15潜型)
 昭和16年11月19日、伊号第26潜水艦は、横須賀に集結していた第1
潜水戦隊の寮艦と別れ一足先に単艦、母港を後にした。任務は真珠湾
奇襲攻撃の先遣隊として、北方海域の要地偵察後ハワイ方面の米艦隊
監視および邀撃であったが、乗組員には防諜を考慮して出港後に知ら
された。艦長の訓示は「12月8日を以てアメリカと開戦する、しかし
その前に中止の電報が入ったら直ちに帰投せよ」というものであった
が、「そこまで行って帰れるか!」今まで猛訓練の成果を目にものを
見せんと、艦内の意気が挙がった。伊号第26潜水艦(伊26潜と省略)は
一路北方海域に向け北上を続けた。
 この、伊26潜は開戦劈頭より商船8隻撃沈、1隻撃破、ソロモン戦
では米空母サラトガを撃破、米軽巡ジュノーを撃沈するなどの活躍を
した武功高い潜水艦である。ここでは、そのうち開戦早々に挙げた、
米輸送船撃沈の一番手柄の話をしよう。
 出港後一週間も経つと、すでに警戒海域である、日中は潜航し夜間
に浮上、水上走航をしながら電池の充電を続けてきたが、北上するに
つれて外気の温度は極度に低く、零下30度にまで下がった。目前にア
リューシャン列島を見ながら、北方海域の要地偵察を開始した。
 最初にアツッ島、つづいてキスカ島に潜航して近ずき潜望鏡を上げ
観察するが異常なし、次にアダック島、最後はダッチハーバーの湾内
を潜望鏡偵察をするが特別な艦艇も在泊せず、何人かの警備兵が見え
るがさして緊張感もなし、日本艦隊の奇襲には気付いて無いようだ。
 安堵を胸に、偵察任務を終えた伊26潜は予定配備海面の米西海岸に
向け舵を南東にとった。南下するにつれ今度は逆に温度が上昇し始め
北方海域を抜け出したことが気温で判った。
 12月2日、「新高山登れ」12月8日を以て開戦をすると言う暗号電報
を受信、いよいよ戦争だ!緊張感高まる中、伊26潜は南下を続ける。
 12月7日、サンフランシスコ沖480kmに米輸送船を発見、まずは
手始めに撃沈しようと勇み立ったが、まだ開戦の通達を受けていない、
敵に気ずかれぬよう追跡をしながら相手の針路と速度を計測、日没を
待って浮上、夜間洋上を高速走航し先回りをして機会を狙う事にする。
 12月8日早暁、計算違わず、明るくなるにつれ昨日の米輸送船が、
艦尾方向水平線上に現れてきた。0230(日本時間、午前2時30分)総員
戦闘配置に付き、潜航して攻撃の時期を計る。潜望鏡深度にて、米輸
送船の船型、武装の有無などの詳細を観察、武装が無いのを確認した
艦長は、浮上し砲戦で沈めようと決めた(当時、日本の潜水艦は高価
な魚雷の使用に規制があり、商船、駆逐艦などでは1本、戦艦、空母
などの主力艦のみに全斉射6本が許されていた)。
 12月8日0330(午前3時30分)、ハワイ時間7日0730、開戦の時刻で
ある、艦長は急速浮上砲戦を発令「メインタンク、ブロー」伊26潜は
海面に浮き出るや否や、ハッチが開かれ、飛び出した砲員は艦首の砲
に取りついた。一瞬の出来事である、「射撃開始!」米船との距離約
千メートル、至近距離で並行しつつ左砲戦で射撃、初弾は無警告攻撃
を避け、威嚇の意味で標準を遠方に発射。
 米船からは乗員がボートで脱出するのが目視できた、続いて狙いを
定め数発発砲、輸送船の艦橋付近に火災発生するが、沈没のようす無
し。乙型潜水艦は14cm砲を主砲としており、軽巡のそれと大して変わ
らず、1門だけの破壊力を見れば駆逐艦よりも大きい、普通の商船な
ら数発で撃沈できるはずなのだが!更に、20数発射撃後、船体が傾斜
しながら沈下するを確認。
 米船は当然「SOS」を発信してるだろう、それにより敵の駆逐艦か
飛行機にでも来られては面倒、これ以上の長居は無用と沈没するのを
見ず潜航しこの場を離脱した。
 この船は、米国陸軍徴用の貨物船シンシア・オルソン号2140総トン
で、米軍が駆けつけたときは、まだ沈まずに横倒しのまま浮いていた
という。これが太平洋戦争で、日本潜水艦が敵艦船を撃破した初手柄
第一号であった。

 B 伊号第168潜水艦(海大6型a)
 昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で連合艦隊の航空戦隊は思い
もよらぬ不覚をとり、真珠湾攻撃の精鋭、第1航空戦隊、赤城、加賀、
第2航空戦隊の蒼龍、飛龍を一挙に失う大打撃を受けたのである。
 日本海軍は、米海軍の拠点ミッドウェーを攻略、米機動部隊を誘い
出し一挙に撃滅せんと5月27日、連合艦隊の総力をあげて瀬戸内海の
桂島を出撃した。
 第1航戦と第2航戦を基幹とする機動部隊は6月5日ミッドウェー
西方230浬の地点に到達、攻撃隊を発艦させたが、すでに暗号解読
により日本軍の来襲を察知していた米機動部隊は、第一次攻撃隊の収
容時期を見計らい襲いかかって来た。
 奇襲を受けた航空戦隊の赤城、加賀、続いて蒼龍が大火災を発して
戦闘不能、0730(日本時間午前7時30分)ただ1隻だけ残って奮闘する
「飛龍」に、「筑摩」索敵機から米空母群の正確な位置を知らせてきた。
 この報に接し、第2航戦司令官山口多聞少将はただちに敵空母攻撃
隊を編成した。
 0758、小林大尉を指揮官とする99艦爆18機、零戦5機からなる第一
次空母攻撃隊を発艦、0910、艦爆隊は敵空母ヨークタウンを攻撃、大
火災を発生させた。
 1031、収容した第一次ミッドウェー攻撃隊のうち、稼働可能な残存
機のすべてを集めた、97艦攻10機、零戦6機の第二次空母攻撃隊を発
艦させた。97艦攻雷撃隊は、さらにヨークタウンを攻撃、魚雷命中さ
せ航行不能に陥れた。この空母にとどめを刺したのが伊号第 168潜水
艦である。
 「伊号第168潜水艦」は第3潜水戦隊、第12潜水隊に所属。昭和17年
5月23日、ミッドウェー攻略作戦の先遣隊として第3潜水戦隊旗艦、
伊号第8潜水艦と第11、12潜水隊の寮艦5隻と共に呉を出撃した。
 伊 168潜の任務は、ミッドウェー島の飛行場を艦砲射撃し、米機動
部隊を誘い出すと言うものであり、6月5日、同艦は作戦どうりに敵
飛行場を主砲50口径88式10cm高角砲で数発射撃後、潜航退避した。
 しかし、その頃すでに味方空母3隻は戦闘不能に陥り唯一隻、飛龍
のみが奮闘、敵空母ヨークタウンに打撃を与えていた。その飛龍も、
1403、突如、真上から敵急降下爆撃機、数十機の爆撃を受け被弾炎上、
空母なき残存の機動部隊は、夜戦を決意し追撃せんとするが艦隊司令
部はこれを静止、攻略作戦を中止反転を命ずる。
 6月7日早朝、第3潜水戦隊司令官より、飛龍の攻撃で損傷を受け
退避中の「敵空母を捕捉撃沈せよ!」の命を受けた伊 168潜は直ちに
行動開始、まもなく曳航されてる敵空母ヨークタウンを発見した。
 だが空母の周りには駆逐艦数隻が護衛している、即攻撃とは行かな
い。敵は曳航しているため速度は鈍い、雷撃の好射点を狙い奮闘する
こと9時間、3ノットの低速で機会を狙う。
 1000(午前10時)頃、駆逐艦の護衛網をかいくぐり、わずか 900メー
トルの近距離まで接近。
 前部発射管全4門「発射用意」続いて「射(テーッ)」の号令で4本
の魚雷が射ち込まれた。
 伊 168潜は急速潜航、深度70、潜航安全深度ぎりぎりで身を潜める、
轟音1発、続いて2、3発、4本発射の内2本は、空母左舷中央部の
艦底近くに命中して大穴を開けた。後の1本は空母に横付けしていた
駆逐艦ハンマンに命中、これを撃沈した。ヨークタウンは深い部分の
破口から高い圧力で海水が一気に缶室まで浸水、沈没。
 その直後より、怒り狂ったような駆逐艦の爆雷攻撃を半日以上も受
けたが、沈着冷静な名艦長、田辺弥八の操艦により虎口を無事脱出に
成功、見事に帰還した。
 これはミッドウェー海戦で日本海軍が挙げ得た唯一の戦果であり又
潜水艦が敵空母沈めた初手柄でもあった。伊 168潜はその後ソロモン
戦でも、米重巡チェスターに再起不能の損傷を与えている。

 C 第7潜水隊と伊号第25潜
 昭和16年12月8日、ハワイのオアフ島とカウアイ島の間に配備され
て開戦を迎えた第7潜水隊の伊号第1、2、3潜水艦の3隻は、同じ
監視任務に付いていたが、真珠湾攻撃後には、第2段作戦として湾内
の敵艦船を誘い出すため、16年12月31日ハワイ諸島の要衝に艦砲射撃
を加えた。
 伊号第1潜はハワイ島ヒロを砲撃、伊号第2潜、マウイ島カフルイ
港を砲撃、伊号第3潜はカウアイ島ナウィリウィリ港を砲撃。12月末
に監視区を引き上げるまでに、カウアイ海峡に潜航し商船など船舶3
隻を撃沈の戦果を挙げた。
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 昭和17年9月9日、伊号第25潜水艦は米国西海岸のオレゴン州の沖
にいた。「急速浮上、飛行機射出用意、メイン.タンク.ブロー」の
号令で、潜水艦は闇の洋上に浮上する、ハッチから飛び出した乗員は
真っ暗の中無言で、丸い長い格納筒から、胴体、主翼、プロペラと、
分解された部品を次々と引き出して、カタパルト上の胴体に手際良く
組み付けていく、この間に艦長より飛行命令を受けた搭乗員、藤田信
夫飛曹長(操縦)奥田兵曹(偵察)は挙手の礼を交わし座席にすべり
込む、最後に尾翼を組み立て完了とともに整備長の合図で、発動機の
試運転開始、この間約7分の出来事である。
 ウオームアップが出来たとこで「発射用意 テーッ」で射出された
零式小型水偵は真っ暗闇の洋上に吸いこまれるように消えていった。
 この米西海岸オレゴン州、山中への焼夷弾夜間爆撃は、小型水偵で
あったが、唯一の米本土爆撃として知られている。


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3 東南アジアと北方海域

 @ 第5潜水戦隊の活躍
 第5潜水戦隊は、第28、第29、第30潜水隊の3隊から編成さ開戦と
同時に東南アジア方面に進攻してくる、日本攻略部隊に協力する命を
受けていた。開戦時、日本海軍の潜水艦隊(第6艦隊)は、第1、第2、
第3潜水戦隊をハワイ方面、第4、第5潜水戦隊は東南アジア海域に
進出させ、敵の情勢監視を任務としていた。
 ハワイ方面の作戦は大成功に進み、同時に始まったアジア南方進行
作戦も順調に進みつつあった。この南方の島々は天然資源の宝庫で、
日本が戦争を続けてていくのには、絶対にこの地域を手中に収め石油、
アルミ、ゴム等の資源を日本本土に送らなければならない。
 しかし、これには大きな難題があった、この天然資源が豊富な島々
のほとんどが英、仏、蘭国の植民地なのだ。当然、英国は日本軍の攻
略部隊の前に、新鋭戦艦2隻を送り込み進撃を阻止せんとした。
 従来、英国の東洋艦隊は大型艦でも一万トン級巡洋艦であり、それ
が一挙に英海軍の虎の子とも言える、新鋭不沈戦艦プリンス・オブ・ウ
ェールズと高速戦艦レパルスの2隻を派遣してきた。
 日本海軍の南方派遣部隊には、この2大戦艦と互角に戦える艦はい
ないのだ、上陸作戦を進めていた日本軍は危機に立たされた。しかし、
英戦艦の出撃をいち早く察知した第5潜水戦隊、伊号第65潜水艦から
の報告により接触し続けた伊号第59潜水艦の情報より、第一航空部隊
が発進させた攻撃隊はこれを捕捉、撃沈してしまった。
(詳しくは
マレー沖海戦をクリック)
 大きい勢力は排除できたが、まだ小勢力の米、英、濠、蘭の連合軍
が日本の進行を妨害してくる、そこで第5潜水戦隊は、これから攻略
すべきジャワ、ボルネオ島方面の油田地帯上陸作戦に協力、連合軍の
襲撃に備え警戒任務に就いた。
 昭和16年12月25日、第5潜水戦隊、第30潜水隊の伊号第66潜水艦は、
中国南部の海南島より南シシナ海を南下、ボルネオ(現カリマンタン)
島の北岸クチン沖を警戒航行中、水平線彼方に敵らしき艦影発見。
「潜航!」
 日本海軍の見張り員は優秀であった、鍛えられた肉眼に、優れた光
学兵器(15cm見張り用双眼鏡等)の使用で、たいていの場合敵よりさき
に発見戦いを有利に導くことが出来た。
 レーダーの出現で立場が逆転したが!
 「魚雷戦用意!」潜望鏡深度で敵艦の様子をうかがう、敵は何も知ら
ずに近ずいてきた「オランダ潜水艦だ!」、「射(テーッ)」魚雷1本が
発射された雷跡は吸い込まれるようにオランダ潜水艦に向かう。
「グゥワ〜ン」艦内に爆発の衝撃が伝わる、「轟沈」だ! オランダ
潜水艦は呆気なく沈んだ。
 この潜水艦はオランダの「K16号」潜水艦で、前日24日の戦闘で我が
駆逐艦「狭霧」を雷撃により撃沈していた。伊号第166潜水艦は「狭霧」
の仇を見事に討ち取ったのである。又「K16号」の撃沈は、日本潜水艦
が、敵の軍艦を沈めた日本海戦史上、初の出来事であった。

 A 呂号第 61潜水艦
 昭和17年6月5日、日本軍はミッドウェー攻略作戦と併行して北方
海域にある、アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島の攻略作戦も
実施した。しかし、ミッドウェー作戦の思いもよらぬ大敗で、連合艦
隊は前面引き上げを考えたが、米軍の北方よりの脅威に備えるために
アッツ、キスカ両島の作戦のみを実施、一日遅れで、この両島攻略に
成功した。だが、占領して数日も経たぬうち、早くも米軍の反撃は始
まった。
 昭和17年6月12日、米海軍機カタリナ双発飛行艇2機がキスカ島を
襲った。この空襲によりキスカ湾に在泊していた、北方警備を任務と
する第5艦隊の駆逐艦「響」が右舷艦首水線上に被弾、破口を生じ、
軽巡木曽も至近弾により損傷、その他の艦船も少なからずの被害を受
けた。さらに7月5日には、第1艦隊より編入され、攻略作戦の時か
ら北方警備に従事してきた、第1水雷戦隊、第21駆逐隊の「子の日」
が、アッツ島の南方洋上で、米潜水艦トライトンの雷撃を受け沈没す
るなど、米軍の反抗も激しいものがあった。
 このような時、第7潜水戦隊が北方部隊に増援されてきた。本来こ
の第7潜水戦隊は南方部隊の第8艦隊に所属し、トラック島の防衛を 北方防備に派遣されたのである。任務は、唯一、第5艦隊の目として
働いていた水上機母艦君川丸と協力、日本本土からの輸送船を攻撃し
てくる米艦隊の撃滅である。
 飛行場のないアッツ、キスカ島では、水上機母艦の搭載する零式3
座水上偵察機と、台湾から進出してきている航続距離 4,000kmを誇る
97式大艇が、哨戒、偵察の主力をなしていた。
 果たせるか! 零式3座水偵はアトカ島ナザン湾に停泊する米水上
機母艦を発見「アトカ島ナザン湾に大型艦停泊中」を第5艦隊に向け
打電した。この報告を受け、直ちに第7潜水戦隊より呂号第61潜水艦
が出撃、アトカ島の東岸にあるナザン湾に潜入を試みる。
 警備は以外にも手薄で苦もなく敵艦発見、 800メートルまで接近し
「魚雷発射!」
 昭和17年8月31日、呂号第61潜水艦は「アトカ島ナザン湾ニテ、米
飛行艇母艦ヲ雷撃、コレヲ撃破」を打電、その後、連絡が途絶えた。
 戦後、米軍の情報によると、飛行艇母艦は新鋭の「キャスコ」で、
この時魚雷3本の攻撃を受けたが、1本が艦中央部の機関室に命中。
浸水による沈没を避けるため艦長は、浅瀬に艦を乗り上げ沈没を防い
だ。「キャスコ」は当時、アッツ、キスカ島に爆撃を続けていたPB
Yカタリナ双発飛行艇の母艦とし、燃料や弾薬の補給又搭乗員の休養
の場を提供していた。この「キャスコ」が離礁するには2週間を費やし
て、その間のカタリナ飛行艇による、偵察、哨戒任務に大きな支障を
来たした。
 この呂号第61潜水艦は、英国で設計されたL型潜水艦最後の型式で、
これを三菱造船所がライセンス生産したものであって、大正13年2月
竣工の艦令既に18年にも成ろうかという老巧艦であった。だが、性能
の優秀さと開戦以来の潜水艦戦力の不足が、この老艦を戦場に駆り出
していたのだ。
(L型潜水艦の詳細はL型潜水艦の建造 ここをクリック)
 話を戻そう、呂号61潜は飛行艇母艦「キャスコ」を雷撃後、ナザン湾
を潜航のまま速やかに脱出。明けて翌9月1日朝、浮上して航行中を
米軍基地哨戒機に発見され爆撃を受けたが、これは急速潜航で何とか
逃れることが出来た。
 しかし!更に米駆逐艦レイドの爆雷攻撃を受けて被爆、これ以上の
潜航は不可能と判断した艦長は浮上しての砲撃戦を命じた。
 主砲を以て交戦するも、わが方は8センチ砲1門 6.5ミリ機銃1丁
と手持ちの機銃数丁だけだ。浮上した潜水艦は駆逐艦の敵ではなかっ
た。砲戦開始後、数分にして早くも敵弾が命中、善戦したが呂号第61
潜水艦はついに武運尽き、長年日本海軍の潜水艦隊にあって親しまれ
てきたその姿を海中に没した。
 アリュウシャン列島アトカ島ノース岬南東、北緯52°36′西経173°
57′の海底に「呂号第61潜水艦」いまも眠る。


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