黄金のサカナ
そこは小さな公園でした。
平凡な住宅地の中に、肩身が狭そうにひっそりと存在しています。いずみ第三児童公園という名前がついているけれど、それを正確に知っている人は、きっと誰もいないでしょう。
その公園は本当に小さくて、端から端までは二十メートルぐらい、幅は十メトルぐらいの細長い形で、道路に沿うようにあります。中には、小さな砂場と古い滑り台、そして風に吹かれるとギイギイと音をたてるブランコだけがありました。他に遊ぶものは何もない。
ここが他の公園と違うところは何もありません。ありふれた公園。
ただ、狭い敷地の中央に大きなあすなろの木があります。十メートルぐらいしかない横幅の真ん中のあたりにあったので、走り回るには邪魔だったけれど、それは本当に大きく、そして印象的なあすなろの木でした。だから街の人たちは、ここを「あすなろ公園」と呼びます。
ある月の美しい晩でした。
季節は春。生温かい風が強く吹いています。空気が肌に張り付くような、そんな不快な夜でした。
私がその公園へ入っていったのは、夜中の二時頃でした。あたりは闇。空には小さな光の群集。
家の近くにあるけれど、いつもは公園なんかには行きません。私には、全然まったく関係ない場所です。
それなのに、なぜ私はその夜に限って、そこへ行ったのか。わからない、わかりたくもない。
ただ、高志が吐いた台詞が私にまとわりついていて。息ができなくて、苦しかったことだけは、確かでした。
(おまえにとっておれって何なの?)
ナンナノト、イワレテモ……
(ふだんはぜんぜん話さなくて、二週間に一回ぐらい激しいセックスして、や<ることやったらさっさと別れて)
ナニガ、イケナイノ?
(結局おまえセックスしたいだけなんだろ? 性欲の処理をしたいだけなんだろ?)
アナタダッテ、ソウデショウ?
(おれはおまえの便所なのかよ)
ヒトリデヤルヨリ、キモチイイ……
(ただの淫乱だな)
……ジャア、アナタハ?
公園の中ではほっそりとした街灯が、控えめに光を放っていました。それは光の精霊の持つ、薄く透明な羽の鱗粉が漂っているような、そんな不安定で幻想的な灯りです。
あらゆるものが眠りのなかに沈んでいました。動いているものは私をのぞいて、何一つない。いいえ、私でさえも、ここには存在していないかのようでした。
街灯の明りは美しく、夜空は澄んでいます。それなのに、なぜかこの風景が静かすぎて虚しいものに感じられて、私はやけに疲れを感じました。
私を包む倦怠感はこの公園の風景の所為ではないかもしれません。私が自分で持込んだものかもしれない。けれどそれを指摘する人は誰もいないので。だから私はこう思います。私はこの公園の夜景に、疲れをおぼえたのだ、きっと。
そんな美しい無の空間の中に、ひとつの影がさしていることに私は気がつきました。
あすなろの木の下に、一人の男が立っています。彼は片手を幹にあて、あすなろの木を見上げていました。
まだ若い男でした。生温かい春の風に髪を揺らして。けれど体はぴくりとも動きません。まるで一枚の絵を見ているような気分でした。その空間だけでひとつの世界が完結していました。
「あなた、サカナでしょう」
突然後ろからかけられた声に、男はふり返りました。
男のすぐ後ろ、少し身体を動かしたらぶつかってしまうぐらい近くに、一人の男がいました。
少し年のいった中年の男でした。いつ来たのか、どこから来たのか、まったくわかりません。月の粒子から生まれでたような、とても静かな現われかたでした。
入り口付近に立っていた私は、そっと足を動かし、あすなろの木から少し離れた所にある木製のベンチに座りました。二人は私に気がつかない。粘着質な風の音だけが鼓膜を震わせる空間に、二人の声が響きました。
あすなろの木をずっと見つめていた若い男は、あまりに近くにいる中年の男に驚いて、少し後ずさりました。とん、とあすなろの幹にぶつかる。
「サカナでしょう」
中年の男はもう一度言うと、微笑みました。若い男は何も言いません。ただ、目の前にいる中年の男をじっと見つめていました。
中年の男は会社帰りのサラリーマンのように背広を着ていました。疲れた感じのする、惨めな印象を人に与える男でした。
何も答えない若い男にもう一度微笑みかけると、彼は若い男の後ろにあるあすなろの幹に、片手をつきました。
「この木はあすなろの木です」
「あすなろ?」
若い男はこの中年の男を警戒するように、疑い深い表情で尋ねました。
「ええ、あすなろ。ないものねだりをする、切ない木です」
「…………」
「これはあすなろの木。それ以外の何物でもない。それなのに、この木はその事実を受けとめずに、ひのきの木になろうとしているんですよ。明日はひのきになろう。そう願って成長しているんです。……切ないでしょう?」
中年の男は、力なく笑いました。若い男は、それを見て少し表情を和らげます。
さあっと風が吹いてあすなろの葉を揺らしました。そのざわめきにひきつけられたかのように、二人の男はあすなろの木を見上げる。私はそんな二人を不思議と冷静な気分で眺めていました。
「あなた、サカナでしょう」
「ええ」
二人とも、あすなろの木を見上げたままでした。若い男が、ふっと視線を中年の男へと向けます。
「なぜわかりました? 私がサカナだと」
「匂い、ですね。海の香りがあなたからする」
そういうと、中年の男も視線を若い男へと向けました。
「あとは、……そう、あなたはあすなろに似ているから」
「あすなろに?」
サカナはひそやかに眉をよせました。
「ええ。サカナ以外の何者でもないのに、ないものねだりをしている」
二人の男は静かにみつめあいます。
「愚かだと思いますか? わざわざ陸に上がってきたサカナを」
サカナが尋ねました。男は苦しさを抑えているような、そんな渋い笑みを小さくこぼしました。
「愚かというよりも、切ないですね。陸の何がいいのでしょう。ここはあなたの生きる場所ではない」
「……それでも私は陸へ来てみたかった」
サカナはぽつんとそう呟くと、静かにあすなろの幹によりかかって座りました。男はサカナの目の前に立ち、彼を見下ろしていました。
あすなろの葉のざわめきだけが、きこえます。二人の声さえも自然のささやきのように、私には聞こえました。
「人魚姫を知っていますか?」
サカナは正面を向いたまま、男の方など見ずに、口を開きました。
「ええ」
男はサカナのことを見つめています。
「嵐の晩に助けた若い男に恋をして、人間になろうとした哀れな女です。自分の美しい声をささげ、王子のもとへと行き、姉妹たちの想いを無とし、海の泡になる。ないものねだりをしたがゆえの、切なすぎる話です。けれど、美しい。何物にも流されず、自分の意志で生きる。足を手に入れ、自分の足で大地を踏み締める。はかないけれど、つよい。……そう思いませんか?」
サカナは座ったまま顔をあげ、毅然と男を見上げました。
「確かに、そうかもしれません。ただ、人魚姫は知らなかった。王子がどんな男か。知らずに焦がれて、すべてを捨てた。貴方は人魚姫が何物にも流されないといったけれど、彼女は一番流されてはいけないもの、つまり恋に流されていたのですよ」
男は幼い子供をさとすように言いました。
「焦がれるというのは、どういうことなんでしょう」
いつのまにか風は止んでいました。サカナの声は静かに響く。
「私は、ずっとなにかに焦がれてみたかったんです。……いや、違う。私は恋に流されてみたかったんです」
二人はみつめあいました。サカナは少し挑戦的に、男は少し困ったように。
「海の中でも、できるでしょう?」
男は言い聞かせるように、ゆっくりとやさしく言葉を発します。
「海の中じゃ、あんなに切ない恋はできない。ただ、水に流されるだけなのです。だから、私は陸へあがった」
男は、静かな瞳でサカナをみつめています。
「あなたは、……不思議ですね。人魚姫があんなめにあったというのに。それでも、恋がしたい?」
「ええ」
再び風が吹き始めました。すこし、強い。ブランコがギイ、ギイ、と耳障りな音を立てます。
サカナはゆっくりと立ち上がり、服についた埃を丁寧に払いました。
「魔女のところへ行きました」
サカナの声はブランコの音にかき消されそうで、すこし聞き取りづらい。
「物語のとおりだったけれど、少しだけ違った」
その瞬間、強い風が公園の中を吹き荒れました。
視界を覆ってしまった自分の長い髪を片手で抑え、私が再び視力を取り戻したとき、そこは海の中でした。
ごうごうと音を立てるうずまき。花も咲かず、海草さえもない荒涼とした海底。薄気味悪いヒドラの群集。それにつかまって殺された動物の白骨。ぬかるんだ広場にいるあぶらぎったうみへび。
魔女の家は、難破して死んだ人間の白骨でできています。暗い家の中、巨大なヒキガエルが、サカナを見ていました。粘着質な感じがする中で、なぜか美しい澄んだ歌声が響いていました。
『 あんたがなにを求めてきたかは、わかっているよ』
しゃがれた、海の魔女の声。
『大昔の馬鹿な人魚のお姫さんと同じように、魚のしっぽを捨てて、二本の足が欲しいと言うんだろう』
魔女はそのだらんとたれた胸元にヒキガエルを引き上げました。
『惚れ込んだ人間もいないくせに、馬鹿な真似は止めた方がいいよ。人魚のお姫さんがどうなったかなんて、知っているのだろう』
『それでもいいです』
魔女を見つめるまっすぐな視線。魔女はサカナの方を見ずに、ぐるぐると巨大ななべの中身をかき回しています。長く、重い沈黙。どこかから流れてくる繊細な歌が、水を揺らしました。
『 美しい歌声だろう?』
嘲笑うような声。
『これはあのお姫さんからもらった声さ。持ち主はもう泡となって消えたのに、声だけは永遠に歌い続ける。……馬鹿げた話だ』
『貴方が奪い取ったのでしょう、人魚姫から』
『奪った? いいや、これは正当な取り引きさ。何の代償も無しに願いをかなえられると思っている奴を、私は信用しないだけさあね』
魔女はそう言って、抱えていたヒキガエルをぐつぐつと煮立った鍋の中へとほうり込みました。硝子のような透明な歌声に、ヒキガエルのぐえっという醜い悲鳴が重なる。
サカナは顔もしかめずに、一連の動作を眺めていました。
『あんたからもきちんと支払いは頂くよ。そうだね、あんたの鱗はとてもきれいだね。この海の中であんただけが持つ、黄金色の鱗だ。私はそれをもらうよ。それでもいいのかい?』
『 ええ。お願いします』
『 鱗をはぐと、とてつもなく痛いよ 』
『 かまいません。今とりますか?』
魔女はじっとサカナを見つめました。黒いフードから少しだけ見えるしわだらけの顔。
どのくらいたったのでしょう。魔女は深いため息を吐くと、疲れたように口を開きました。
『 あんたは若いんだね。若くて、何が幸せなのかなんてわかりゃしないんだろう。それはそれで、幸せなことだね。……いいかい、私と賭けをしよう』
『賭け?』
『ああ。おまえがもし陸に上がって、人間の女と愛し合ったら、互いに相手のことしか考えられなくなって、坊さんの前で夫婦約束をしたなら、おまえの支払いはただにしてやるよ。けれど、そうでなかったなら、私はおまえの美しい黄金色の鱗をもらうよ。そしてあんたは再び魚にもどるんだ。鱗を持たないみじめな魚にね』
サカナは魔女にいったことについて、じっくりと考えているようでした。
もとから代償を払うつもりで来たのですから、魔女の提案は悪いことではないように、私には思えました。
それでもサカナは、ためらうようにして尋ねました。
『 なぜ、貴方はそんな賭けを持ち出すのでしょう』
魔女は小さく笑いました。
『 さあさね。でもまあ、いつもおんなじじゃ、あきちまうからね。ほら、薬ができるよ。これをもって、陸へでも行って飲むんだね』
そう言うと、魔女はその長い爪で自分の胸元を傷つけ、流れ出る黒い血をその薬の中へと混ぜました。
『さあ、行ってきな、若いサカナの坊ちゃん。あんたが、人間の女に手ひどく裏切られるのを、待ってるよ』
薬を壜に詰めサカナへ押し付けると、魔女は奥の部屋へと入っていってしまいました。
サカナは自分の手の中にある緑色の壜をぼんやりと見つめると、さっと身を翻して、魔女の家を出ました。魔女の気が変わらないうちに、と思ったのでしょう。
「そうして、あなたはやってきたのですね」
中年の男の声がやけに大きく聞こえて、私はびくっとしました。
ここはあすなろ公園。何の変哲もない、平凡なありふれた公園の中でした。
「恋は、できそうですか」
「さあ」
サカナは微笑みながら、立ち上がりました。
「今日、来たばかりなので、わかりません。でも、きっとできる」
男はじっとサカナを見つめました。
「あなたがそういうのなら、そうかもしれません。けれど、あなたは知ることになりますよ。ないものねだりをするということが、どんなに馬鹿げたことか」
そう言うと、男はサカナの前から消えてしまいました。
春の風が湿気を含む夜でした。
一人で立っているサカナは、もう絵ではありませんでした。呼吸をして生きている、夢見る生物。
私はそんなサカナをしばらく眺めた後、音を立てないように静かに立ち上がりました。
今夜はもう家へ帰りましょう。