童貞喪失の定義について

【問】先日、彼女と念願の初Hをしました。初めてだったので、なかなかうまくいかず、結局、自分のペニスを彼女の膣口に押し当てた時点で発射してしまい、挿入するには至りませんでした。彼女はまた今度頑張ればいいよ、となぐさめてくれたのですが、僕は果たして童貞を卒業することができたのかどうかが気になります。童貞喪失の定義というものはどうなっているのでしょうか?(東京・K夫)

【答】意外に思われるかも知れませんが、童貞喪失の定義については、第2次世界大戦中までは世界どの国においても極めて曖昧なものでした。それは誰もそんなことを気にしていなかったからであります。
 ラジオやテレビジョンの普及によって、バラエティに富んだ性愛嗜好が比較的多く見られた欧米においてさえも、大戦の終戦までは男と女が裸になればやることはひとつ、というたいへん大雑把な見方が支配的で、童貞喪失の定義などというものは全く人々の興味の対象とならなかったのです。
 一番最初に童貞喪失の定義が問題として提起されたのは、これも意外なことですが、米軍占領下の日本でした。1947年11月に発行された雑誌「根無葛」創刊号(葛社発行、3号で休刊)において、東京帝大国文学科に在籍していた山根勝(1920ー1995、後に毎日新聞社文芸部長)が「童貞喪失と処女喪失」というタイトルで、論文を書き(これは日本国内では全くと言っていいほど、話題にならなかったのですが)、当時、東京でGHQ民政第6課に勤務していたリチャード・S・スミス(1899−1982、知日家として知られ、後にニクソン政権で首席補佐官)が合衆国で紹介し、様々な学者を巻き込んでの一大論争となったのです。
 退役後の1949年、故郷のオクラホマ州立大学に教授として迎えられたスミスはオクラホマ州立大学紀要論文において、所謂「接触説」を唱えました。
 接触説とは、男性器が膣口に触れた瞬間をもって童貞の喪失と見なす、というもので、これは膣への男性器の侵入の有無を問うていない点で、旧来の漠然とした童貞喪失観(男と女がやることは挿入に決まっているという考え)に支配されていた合衆国社会に一大センセーショナルを巻き起こすことになります。
 作家ゲイリー・P・アダムズ(1879−1962、天文学者ウォルター・S・アダムズの弟、代表作「壊れた皮膚」ハヤカワ文庫)はこの接触説を全面的に支持した一人です。アダムズは女性との性交に失敗したことでコンプレックスを抱いている男性が多いことを指摘し、膣への挿入を果たせなくても童貞を喪失していると社会的に認定することで、そうした男性たちの救済を図るべきだと主張しました(1950)。
 教育学者のロバートソン(英・1902−1971)やカルザック(独・1892−1968)らもアダムズと同様の理由で接触説を主張、彼らは「ヒューマニスト的接触説派」と位置づけられています。
 一方、産婦人科医のエレルト・シュミット(独・1912−)は1957年、論文「天に至りし時」(岩波文庫)の中で接触説に対して全面的な異議を唱えます。シュミットは童貞の男性と処女の女性とが性交した場合、童貞の喪失と処女の喪失とは同時に発生するべきだと主張しました。これが「挿入説」です。挿入説は先述した漠然たる童貞喪失観を理論づけたものであったため、保守層を中心として多くの支持を得ました。
 さて、1958年にはAWC(全米婦人啓蒙委員会)の代表マーガレット・ベッティ(1907−1968)が男女平等の観点から挿入説を支持しました。ベッティは男性が男性器を女性の膣口に接触させるだけで童貞を喪失することができるのに対して、女性の処女喪失は処女膜が破瓜される必要があるため、男性に決定権が委ねられているのが不当であるとし、男性の童貞喪失も男性器の挿入という女性の協力が必要な事象を成立要件に含めるべきだとしました。これを「同権的挿入説」といい、全米の婦人の支持を集めました。
 1961年にはアメリカ西部諸州で上院議員ハリー・ウィルソン(民主党、カリフォルニア州知事など歴任)の長女ジャクリーヌ・ウィルソン(1939−)が挿入説を州条例で規定するように求めた運動を開始します。この運動は当初好意的に見られていました。というのは、この時期にはベッティの「同権的挿入説」が女性だけでなく、リベラルな男性知識層にも広く浸透していた上に、ジャクリーヌ自身に父親譲りのカリスマ性があったからです。
 しかし皮肉なことに、そのジャクリーヌのカリスマ性がこの運動自体を歪めるようになっていきます。現在、ジャクリーヌ研究の専門家たちの多くがその理由をジャクリーヌ自身に魅力がありすぎたからだと指摘しています(山下政人「20世紀のカリスマ〜ジャクリーヌ・ウィルソン」北大路書房)。すなわち、運動に中途から加わっていった者の多くが運動の支持者ではなく、ジャクリーヌ本人の妄信的な支持者となっていたのです。
 この結果、ジャクリーヌの運動は段々と迷走していきます。そして1965年のロサンゼルス暴動の際、ジャクリーヌの側近がロサンゼルス市庁舎を占拠し、挿入説の法制化を求めた事件を契機にして、ジャクリーヌたちは「狂信的挿入説派」と位置づけられることになり、その後、運動は瓦解してしまいます。なお、ジャクリーヌは1972年、知名度を生かし、この年逝去した父の地盤を引き継いで上院議員に転身、1992年大統領選挙ではクリントンの選挙参謀となります。
 さて、挿入説の育ての親と言えるベッティはジャクリーヌの派手な運動に対して地道な活動を続けていました。が、1968年、講演先の西ドイツ・ドルトムント市でドイツ人青年に暗殺されてしまいます。犯人の青年はドイツ接触説の権威カルザックの教え子でした。そして、カルザック自身、狂信的挿入説派のアメリカ人の青年によって、講演先のニューオリンズ郊外で暗殺されてしまいます(1968)。
 この2つの暗殺事件は学会を恐怖のどん底に陥れます。接触説や挿入説が学説だけの問題ではなく、命にかかわる問題となってしまったからです。これ以降、学会においては童貞喪失の定義に関する問題は一種のタブーとなり、童貞喪失の定義にとって冬の時代を迎えることになります。そして、この問題が再び論じられるようになるまで、10年の月日を要したのです。
 1982年、ソビエト科学アカデミーのレオニード・サハロフ(1938−)は「射精説」を唱えます。サハロフは「男性が男性器を女性器に挿入する目的は射精に他ならない」と主張しました。ソビエト政府はこれを支持するよう東欧諸国に求め、ルーマニアでは憲法が改正されました(1984)。
 冷戦ムードの中、なかなかサハロフの射精説は西側諸国においては採用されませんでしたが、1984年、オリンピック後のロサンゼルスで起こった婦女暴行事件の裁判で陪審が射精説を採用したことで注目を集めます。   
 言うまでもなく1984年のロサンゼルスオリンピックを、ソ連を初めとする東側諸国はボイコットしています。これは、1980年のモスクワオリンピックを西側諸国がソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議してボイコットしたことによる報復処置なのですが、そのように冷戦というものが政治に関心の薄い庶民にも目に見える形で具現化されたと言う意味で、冷戦ムードが最高潮に達した時期とも言えるわけです。そうした時期にソ連の学者の説が陪審で採用されたことは世論に衝撃を与え、そしてその衝撃は学会、そして政界へと
波及します。
 元々、この婦女暴行事件は全米の注目を集めた事件でした。白人青年の容疑者(被害者は黒人女性だった)を白人ばかりの陪審員が裁くと裁判で、当初から被告人に有利な判決が出るのではないかと憶測が飛んでいました。そして、事実、陪審は白人青年を無罪とするために「被告人は女性の膣内に男性器を挿入したものの、射精するに至らず(中略)学会の定説たる『射精説』によればこれは強姦に該当しない」(陪審による意見陳述書)としたのです。
 これに対して、黒人層は激しく反発、この結果として合衆国の歴史の暗部を象徴する「ロサンゼルス血の木曜日事件」が起こりますが、これについては詳しく述べる必要はないでしょう。そして、それ以来、童貞喪失の定義は合衆国においては、再びタブーとなるのです。
 一方欧州においては、1998年にフランス社会党のホープと言われるロベール・オッセン(1958-)が童貞喪失定義に関する国際会議の開催を提唱し、翌1999年にはベルギー・ブリュッセルにおいてEU諸国代表を集めた会合が行われました。EUにおいてはその後も各国の次官級の折衝が根気強く行われています。
 童貞喪失の定義についてはいまだ結論が出ていないのが現状です。しかし、それは人類にとってあまりにも不自然なことと思われます。とりわけわが国においては政府の無為無策によってこの問題が放置されている状態で、早期にこの問題に対する取り組みを行わなければ、この分野における主導権をEU諸国に完全に奪われ、「童貞後進国」となることが確実です。

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