佐伯好朗博士と「日ユ同祖」論



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 京都太秦(うずまさ)の秦(はた)氏をキリスト教に結びつけて論じた最初の人物は、佐伯好郎 博士(1871−1965)だといわれている。佐伯氏は、広島県廿日市(はつかいち)の生まれで、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語文学科を卒業後、1893年(明治26年)に渡米。1896年(明治29年)に帰国後、和仏法律学校(現在の法政大学)や東京専門学校の講師を勤め、1941年(昭和16年)に中国景教(キリスト教ネストリウス派)の研究で東京帝国大学より文学博士号を授与された人物である。東京文理化大学(現在の筑波大学)の学長に就任し、1947年(昭和22年)からの9年間は故郷である広島県廿日市市の市長も勤めた。

 太秦にある木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミタマ)神社(通称「蚕の社」)には、京都三鳥居の1つとされ、日本で唯一といわれていた「三柱鳥居」がある。秦氏の一族は、応神天皇の時代(4〜5世紀頃)に朝鮮半島より渡来してきた豪族だといわれている。その数、数千人とも、数万人ともいわれているが、彼らは、養蚕や絹織物、土木に関して高度な知識・技術を持っていたことが伝えられている。秦氏の本宗家は、大和ではなく山背=山城(やましろ)国の葛野(かどの)郡、紀伊郡を基盤としていたが、雄略天皇の時代(5世紀半ば)には京都の太秦に定住するようになったという。彼らは、その高度な治水技術を用いて、もともとは居住に適さない湿地帯であった京都を大規模に開発・整備し、794年(延暦13年)には平安遷都を実現させた。また、その技術を買われて、後に仁徳天皇陵のような巨大墳墓の構築に携わるようになる。秦氏は土豪であり、在地では隠然たる勢力を持っていたが、朝廷ではクラ(倉、蔵)を管理する下級役人であった。余談だが、今日、服部、畠山、田村、林、高橋、羽田などの姓を持つ人びとは、秦氏の末裔であるといわれている。

 佐伯氏は、1908年(明治41年)に発表した論文「太秦を論ず」において太秦に残る地名や遺跡などを根拠として「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を展開した。この学説は、一部の人びとから「日ユ同祖」論(日本人の先祖はユダヤ人であり、旧約聖書に登場する「失われた十支族」の末裔だなどとする説)を学術的に根拠づけるものとして大いに歓迎された。

 ここで、日ユ同祖論について少しばかり検討しておこう。日ユ同祖論を最初に唱えたのは、明治初期に日本に住み、日本人の歴史や風俗、習慣などを観察したスコットランド人の貿易商N.マックレオド氏であり、1875年に刊行した『日本古代史の縮図』の中で「日本人のルーツは、北方ユーラシア系のアイヌ民族、南方系の小人族、ヘブライ民族(ユダヤ人)である」と主張した(同氏は、1878年には「韓民族はノアの三男ヤペテの子孫」とも主張している)。また、ユダヤ教のラビ(教師)であり、『ユダヤと日本 謎の古代史』(産能大学出版部、1975)や『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史 失われた10部族の謎』(徳間書店、1999)の著者として知られるマーヴィン・トケイヤー氏(1936−)も、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を支持したが、彼の場合、秦氏を単にユダヤ人としたにとどまらず、モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した祭(御頭祭:おんとうさい)が諏訪大社に古来伝わっていること、イスラエルの契約の箱と神輿(みこし)の類似性、イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性、神主のお祓いの仕草と古代イスラエルの風習との類似性、イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性、その他さまざまなイスラエルの風習と日本神道の風習とが類似している点を指摘して、日本人の先祖はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔だと論じている。

 ヤコブ(後にイスラエルと改名)の12人の息子に起源を持つイスラエル12支族のうち、10支族からなるイスラエル王国は、アッシリア帝国によって前720年に滅ぼされた。このとき、アッシリアによって捕虜として連行された10支族のその後の消息は今日に至るまで不明である。 旧約聖書の中では、十支族は「創造主ヤーヴェに背いて偶像崇拝に陥ったイスラエルの民」であり、そのため彼らの国家は滅亡したとされている。なお、旧約聖書の 「エレミヤ書」や「エゼキエル書」には、「失われた十支族と二支族の合体」が預言されており、「失われた十支族が現れると終わりの日が近い」という終末預言とも関連づけられている。

 ただ、仮に、秦氏が朝鮮半島経由で渡来したユダヤ人景教徒であったとしても、彼らを失われた十支族とするのは、無理があるだろう。キリスト教が生まれる700年以上も前に、ユダヤ教から離れて偶像崇拝を行う異教徒となり行方知れずになった十支族が、シルクロードのオアシス・ルートを経る間に、ネストリウス派のキリスト者(景教徒)になって日本に現れたという議論に説得力があるとは思えない。率直にいって、「日本人の先祖はイスラエルの失われた十支族」とする説は、麻原彰晃(本名「松本智津夫」)の空中浮遊写真を掲載してオウム神仙の会(後のオウム真理教)の信者獲得に大いに貢献した学研の月刊誌「ムー」辺りに載っているオカルト的人種論の一種であり、真面目な学問的検討に値するとはいい難い。UFO、ネッシー、雪男、心霊写真、ピラミッドパワー、超能力、星占い、タロット、ノストラダムスの大予言、惑星直列、富士山大爆発、ムー大陸などと同列なのである。

 例えば、「カゴメ紋はダビデの星」だといわれることがある。だが、六芒星が「ダビデの星」と呼ばれてユダヤのシンボルとなったのは、17世紀のヨーロッパにおいてである。「へロデ王宮の遺跡には菊文様が刻まれており、これは<失われた十支族>が古代日本に渡来して在来人を征服したという皇室のルーツを表している」などといわれることもある。しかし、「菊の御紋」が皇室のシンボルになったのは鎌倉時代以降のことである。「日本人の先祖はイスラエルの失われた十支族」とする説は、こうした歴史的経緯をあえて無視して、見た目の類似性から相関関係を紡ぎ出した空想の産物である。

 「失われたアーク(聖櫃)は伊勢神宮に保存されている」とか、「草薙剣(クサナギノツルギ)」および「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」とともに、宮中の賢所(かしこどころ)に奉安されている、三種の神器の1つである「八咫の鏡(ヤタノカガミ)」(本物は伊勢神宮の内宮に安置されており、宮中の賢所にあるのはその複製品)の裏面に、出エジプト記の中で創造主がモーセに答えて告げた自らの名である「我はありてあるものなり(Ehyeh Asher Ehyeh:エへィエ・アシェル・エヘィエ)」という言葉が古代ヘブライ文字で刻まれているといった噂も一部では信じられている。しかし、一体誰が伊勢神宮の奥にずかずかと入ってアークの存在を確認したのだろうか?古代ヘブライ語の分かる人間が「御船代」(ミフナシロ)を開け八咫の鏡を手にとって裏返して調べたことがあったのだろうか?(注)この手の噂は、UFOマニアがいう「NASAの極秘資料には、こんなことが書いてある」というのと変わらない。どうして、そんな極秘情報を一民間人に過ぎないUFOマニア氏が知っているのだろうか?一般人が容易にアクセスできるのであれば、それは極秘でも何でもない。まして、その情報が、UFOマニア氏のいうように米国の安全保障上死活的に重要だとすれば、UFOマニア氏がCIAに命を狙われることもなく平穏無事な日常生活を送っていられるのは、奇跡という他はない。

 いずれにせよ、「神輿(みこし)」と「契約の箱」、「山伏が額につけている兜巾」と「古代ユダヤ人が身につけた、律法が書いてある羊皮紙を納めた聖句箱(ヒエクリティリー)」が似ているとしても、そこに「偶然の一致」以上の意味を見出そうとするのは、こじつけ以外の何物でもないだろう。

 日ユ同祖論は、国粋主義者の軍事的膨張主義を根拠づけることもある。日ユ同祖論の普及・浸透に大きな役割を果した1人は、酒井勝軍氏(1873−1940)である。彼は、山形県生まれで米国留学から帰国後、キリスト教の牧師となった。その後、陸軍情報部の嘱託としてシオニズム運動を調査するためパレスチナに派遣され、エジプトにもかなりの期間滞在した。帰国後、日本の超古代史の研究に没頭するようになり、1931年には自ら主宰する国教宣明団から『太古日本のピラミッド』を刊行して「日本こそピラミッド(比彌廣殿)発祥の地であり、エジプトのピラミッドも日本民族が建造した」という説を唱え、広島県庄原市木村山中の葦獄山が2万3000年前に造られたウガヤ王朝のピラミッドであると発表した。彼は「飛騨高山=高天原」説を唱えた他、「日本民族の先祖は、世界の根源的人種(原ユダヤ人)であり、超古代において日本は世界の中心であった」という独特の日ユ同祖論を主張したことで知られている。酒井氏は、昭和10年から16年まで月刊誌「神秘之日本」を刊行した他、全国で演説会を開いたり、レコードまで出した。酒井氏は、「ダビデ王の正統な子孫である日本の天皇こそが、来るべき救世主=キリストに他ならない。いわゆるキリストの千年王国とは、日本の天皇が世界を支配するという意味である。キリストの地上王国が実現されるためには、パレスチナの地にユダヤ国家が樹立されることが前提となっている。したがって、皇軍(旧日本軍)はパレスチナに進駐して、シオニストの独立闘争を軍事面から支援すべきである」といった主張を展開した。

 また、中田重治氏(1870−1939)も日ユ同祖論の旗振り役として知られている。中田重治氏は、元は日本メソジスト教会の伝道者であったが、米国シカゴのD.ムーディー聖書学院在学中に聖潔(きよめ)の恵みを受け、米国から帰国後1905年に東洋宣教会(後に「東洋宣教会日本ホーリネス教会」と改称)を設立して、その初代監督に就任した人物である。中田氏の率いた東洋宣教会日本ホーリネス教会は、国粋主義的傾向を強める彼の指導を巡る路線対立から1936年に「日本聖教会」(現在の「日本ホーリネス教団」)と「きよめ教会」(現在の「基督兄弟団」)とに分裂し、中田氏は再臨信仰を強調する「きよめ教会」を主宰した。中田氏は「日本には、太古にユダヤ人が渡来し、彼らと原住民との混血によって今日の日本人が生まれた。キリスト統治の千年王国のひな型として日本は今日まで連綿と続いてきた。これは神の摂理である。したがって、日本人には、神の選民であるユダヤ人を支援し、ユダヤ人国家樹立を成し遂げるべき民族的使命が神から与えられている」と唱えた。今日でも、池袋キリスト教会の久保有政氏(レムナント出版代表、レムナント誌主筆、レムナント・ミニストリー代表 聖書と日本フォーラム常任講師、日本民族総福音化運動協議会理事)や手束正昭氏(日本基督教団高砂教会主任牧師、日本民族総福音化運動協議会副総裁・事務局長、日本基督教団聖霊刷新協議会世話人代表、日本リバイバル同盟評議員)などは、日ユ同祖論を展開し、「秦氏は景教徒であり、秦氏が創建した日本は仏教国ではなく、キリスト教国であった」といった主張を繰り返している。

 このように、一部に熱狂的な支持者を持つ日ユ同祖論であるが、学界からは佐伯氏の「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は時代考証に関して批判を受けた。「イエスにおいて神性と人性とは混同しておらず、共存しているのだ」と説き、その立場からマリアを「神の母」と呼ぶことに反対したネストリウス派に関しては、431年のエフェソス公会議で「異端」と断罪され、その後、東方に布教活動を移したことが知られている。ネストリウス派の中国伝道に関する一次資料としては、明朝末期の1623年(天啓三年)に西安で発見されたと伝えられる「大秦景教流行中国碑」(通称「景教碑」、現在は西安郊外の金勝寺にある)が知られているが、景教碑によれば、ネストリウス派は、635年(貞観9年)に入唐し、当時の皇帝であった太宗の厚遇を受け、翌636年に波斯寺(745年に大秦寺と改称)を建立したとされている。すなわち、中国にネストリウス派のキリスト教が伝来したのは7世紀のことである。ところが、それ以前にすでに秦氏は朝鮮半島に住んでおり、しかも4〜5世紀頃には日本へ渡来してきていたことが分かっている。もし、秦氏が景教徒に改宗したとすれば、それは日本に渡来した200〜300年以上後のこととなり、時期的に辻褄が合わない。

 こうした矛盾点については、佐伯氏も認めている。しかし、「秦氏はネストリウス派のキリスト教徒であり、かつユダヤ人であった」という信念は終生変わらなかったと伝えられる。事実がどうであれ、佐伯氏にとっては「秦氏がネストリウス派のユダヤ人であった」という説は魂の真実だったのだろう。

 なお、1948年(昭和24年)に、「民俗学研究」誌において「大和朝廷を樹立したのは、中国の東北地区(旧満州)の松花江や嫩江の辺りに住んでいた東北アジア系の騎馬民族(夫余族)である。彼らは、1世紀末ごろに北方大陸から南下して朝鮮半島に入り、そこで高句麗を建国し、さらに百済など半島南部の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)を服属させて辰王国を建てた。その後、3世紀末頃には加羅(加耶)を本拠地として対馬、壱岐、筑紫へと上陸して九州を征服。そして、5世紀初頭(応神天皇の頃)、畿内の大阪平野に進出して大和の豪族を従え、大和朝廷を作った」とする「騎馬民族征服王朝」説を発表した東京大学の江上波夫博士は、佐伯氏の弟子に当たる。江上氏の「騎馬民族征服王朝」説については、一時大変なブームとなったが、1991年(平成3年)に刊行された佐原真氏の『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)その他をはじめ、古代日本史学や考古学などに関する日本の関係学会においては「考古学的・文献学的な裏付けが何もない」「過去の試行錯誤的仮説の一つ」として否定的である。



(注)八咫の鏡について

 八咫の鏡については、「見た人がいる」とか「私が見た」という話がある。有名なところでは、「初代文部大臣の森有礼は伊勢神宮で八咫の鏡を見た。そして、古代ヘブライ文字で<我はありてあるものなり>と書かれているという秘密を漏らしたために、彼は暗殺されたのだ」という噂話もある。この噂話の変種としては、「初代文部大臣の森有礼は、伊勢神宮に奉安されている八咫の鏡に古代ヘブライ文字で<我はありてあるものなり>と書かれていることを知り、八咫の鏡を公開しようとしたから暗殺されたのだ」というのもある。しかし、詳しく検討してみると、八咫の鏡にまつわるそれらの話はかなり怪しいといわざるを得ない。

 森有礼が暗殺されたのは、彼が伊勢神宮に参拝した際に、靴のまま本殿に上がりこんだとか、ステッキで本殿の御帳(布覆い)をハネ上げて中を覗き見ようとしたという記事がイラスト入りで新聞(東京電報新聞[新聞「日本」の前身])に載ったからである。むろん、木場貞長氏(森有礼の秘書官をしていた人物で、伊勢神宮参拝に同行して一部始終を目撃していた)が『南国史叢』第四輯「森有礼先生を偲びて」に書いているところによれば、実際にはそのようなことはなく、森有礼はトラブルなく伊勢神宮の参拝を終えたのだが、彼の急進的な教育改革にかねてより反発していた守旧派はこの記事を鵜呑みにして「何たる不敬!」と激怒して暗殺に至ったというのが真相である。事実無根の先の不敬記事が掲載された背景には、内務省の所管であった暦の制定が、文部省の所管に移って、東京帝国大学でこれを作成することになったことが挙げられる。従来、暦は神社本庁で出版して全国に授与しており、その収入は神宮司庁配下の各神官たちの生計費の大部分に充当されていたので、神社側としては大問題だったわけである。既得権を奪われた神社側から改革派の急先鋒であった森有礼は相当に恨まれていたのだろう。森有礼が伊勢神宮絡みで1887(明治20)年の帝国憲法発布の日の朝に永田町の自宅玄関前で西野文太郎(内務省土木局に勤務する山口県士族)に出刃包丁(一説には匕首)で腹部を刺され、翌日の深夜に死亡したのは事実だが、西野の遺書(斬奸状)には、凶行に及んだ理由について「(伊勢)神宮は神聖尊厳の大廟である。二年前に森文部卿が神宮に参拝した折り、靴のまま神殿に上がり、ステツキで御簾(みす)をはね上げたることなど不敬の極み」云々とあった。つまり、森有礼が暗殺されたのは八咫の鏡とは無関係なのである。

 また、中田重治氏が率いる「きよめ教会」で発行されていた機関誌「きよめの友」(1948年5月10日付)に、同教会の牧師である生田目俊造(いくため・しゅんぞう)氏の「神秘日本」と題する投稿が載り、その中で「青山学院の左近義弼博士が八咫の鏡に古代ヘブライ文字が書かれており、<我はありてあるものなり>と刻まれていたのを確認した」という話が紹介されている。少し長くなるが、引用してみたい。なお、文中に「恩師」とあるのは、既に故人であった中田重治氏のことを指している。


 恩師の命もあつたので恩師なきあと遺命を守つて今日までこれを秘して置いたが最早時代も変つた今日、公開してもよいと思う。否今こそ語るべき時であると信ずる。(中略)私はどうしても日本人の中には何か神秘的なものがあると感ぜられる。今より語らんとする事によつてわが民族がこの神の選民と驚くべき関係にある事を悟り、これよりして真の神を見出し信ずる者があるとすれば幸いである。(中略)その日の恩師夫人は常になく厳(おごそ)かに語り出ずるには『今より語る事は必ず口にも筆にも上すべからず』と先ず堅く断られて話し出された。その当時の情勢としてはこれは必然の事である。御話は斯うである。昨日A学院のS博士が突然わが聖書学院に来訪されて非常に厳かなる事を語られた。宮中のいとやんごとなき所に、古(いにしえ)より神体と仰がれ給う鏡があつた。その鏡の裏に現わされてあつたものがはじめは模様とのみ見られたがそれは模様にあらずして驚くべし、ヘブル語である事が明かになつた。さあ大変賢き所の鏡にヘブル語が刻まれてある。然(さ)れば日本においてヘブル語の権威者は誰かという事になつた。そこで選ばれたのがA学院のS博士である。早速御召出しに相成り厳秘の裡にその写しを示された。博士がこれを拝見するに、正にヘブル語にして、旧約聖書出埃及三章一四節「我は有て在る者なり」と刻まれてあつた。博士は厳かさにただ恐れ慄(おのの)いた。もとより写真に撮る事も写すことも、口外も許されぬ事なれど、我が恩師のかねてよりユダヤ人問題に関してその名高ければ早速来られて恩師にのみその厳かなる秘密を打ち開けられたものであつた。恩師また信仰の子供である我等に親しくこの秘密を明かされたのであつた。祖国日本民族覚醒の祈りの為に。ああ如何におごそかなる思いを以てこの奇しき伝を聞いたことであろう。ああこれ神秘なるかな奇なるかな。然ればとて吾人が今直ちに我が祖国の歴史をヘブルにさかのぼらんとするにはあらねども、わが日本が「ただの国にあらざる事」だけは信ぜられる。やがて神の国の来らん時一切は明かさるるであろう。不肖この神秘を知らされて以来信仰はまた大きく新たにされたものである。この朝の家拝は終始わが念頭を去らない。恩師の信じたものを堅く信じて来た。鏡に印刻された神の聖名「我は有て在る者なり」はまた吾が脳裏に深く刻まれたのであつた。(中略)(出埃及三章一節−十五節)鏡には即ちこの神の聖名が刻まれていたのであつた。(中略)ああ尊き神の聖名!! 『我は有て在る者なり』 日本に於て最も尊ばれたる所にて最も尊きものに最も尊き聖名が刻まれてあつたのである。この国に建国以来この神の聖名は秘められていたのであつたろうか。『汝われを知らずといえどわれ名をなんぢに賜いたり』(イザヤ書四十五章)とは如何にこの時に適切なる聖言であろう。『エホバは日なり盾なり』と三千年の昔わが日本とイスラエルを結び給いし奇しさに心がおどる。云々


 文中で「A学院のS博士」とあるのは、青山学院の左近義弼博士のことである。この投稿が掲載された時点では、左近氏は既に故人であり、本当にこのようなことがあったのかを本人に確認することは誰にもできなかった。

 元海軍大佐の犬塚惟重(いぬづか・これしげ)氏を会長として1952年頃に結成された「日猶懇話会」(顧問には、佐伯好郎氏も名を連ねている)が、1953年1月25日に「在日ユダヤ民会」の幹部であったミハイル・コーガン氏の自宅で開いた例会には、ヘブライ語が堪能なことでも有名であった皇族の三笠宮殿下も臨席していた。ホーリネス教会の尾崎喬一牧師が「八咫鏡」に古代ヘブライ文字が刻まれているという話を紹介したしたところ、三笠宮殿下が「真相を調査してみよう」と語ったと、同席していた「東京イブニングニュース(Tokyo Evening News)」紙の支局長が翌日(1953年1月26日)付の同紙にスッパ抜いた。標題は、“Mikasa Will Check the Hebrew Words on the Holy Mirror!” (三笠宮が聖なる鏡にあるヘブライ文字を調査する!)というものだった。しかし、三笠宮殿下がその後調査の結果を発表したという話は聞かない。

 『ユダヤと日本 謎の古代史』(産能大学出版部、1975)のpp.126-128においてマーヴィン・トケイヤー氏は、この件に関して次のように述べている。


 初め私が三笠宮に会ったとき、伊勢の大神宮に保存されているという八咫鏡のうしろに、ヘブライ語の文字が書かれているといううわさは本当かどうかということを尋ねてみた。(中略)三笠宮がそのとき答えたのは、彼自身それを報道した新聞記事の内容をよく知っているということであった。しかし、伊勢の大神宮に現在保存されている三種の神器については、非常に厚い秘密の壁に取り囲まれており、非常に神聖なものであり、非常に神秘的なものであり、三笠宮自身その八咫鏡を見たことはないということであった。また、三笠宮が自分の目で八咫鏡を見ることも許されていないということであった。彼の兄である天皇陛下も、また八咫鏡を実際に見たことはないということであった。現在生きているだれもが、八咫鏡を見ることは不可能なのであるということであった。だから、現在生存している人間であれば、その鏡のうしろに三つのヘブライ語が書かれているということを確認できるはずはないということであった。


 さて、ここで日付に注目してほしい。「青山学院の左近義弼博士が八咫鏡に古代ヘブライ文字で神の名が刻まれていることを確認した」という説を紹介した生田目俊造氏の「神秘日本」という投稿が「きよめの友」誌に載ったのは、1948年のことだった。生田目氏は、その話を中田重治氏から聞かされたといっているのだから、左近義弼氏が八咫鏡を調べたのは中田氏が存命中のことでなければおかしい。中田氏は1939年には亡くなっている。したがって、調査が行われたのなら、その時期は1939年以前のはずだ。

 ところが、「東京イブニングニュース」紙に、八咫鏡に刻まれているヘブライ文字を三笠宮殿下が調査すると報じられたのは、1953年のことである。時期が全く合わない。

 しかも、マーヴィン・トケイヤー氏によれば、三笠宮殿下は「現在生きているだれもが、八咫鏡を見ることは不可能なのであ」り、「現在生存している人間であれば、その鏡のうしろに三つのヘブライ語が書かれているということを確認できるはずはない」と述べているのである。八咫鏡に古代ヘブライ文字が刻まれていると気がついて、青山学院の左近義弼氏を調査のため宮中の賢所に招いたのは一体誰だったというのだろうか?そもそも、一目見て「あっ、古代ヘブライ文字だ!」と分かる人間が日本に何人いるのだろう。

 生田目俊造氏が中田重治氏から聞かされたのは、「日ユ同祖」論に心酔していた中田氏の妄想ではなかったのだろうか?そして、生田目氏によって広められた中田氏の妄想が「東京イブニングニュース」紙の記事やそれを元にした海外の報道などと交じり合って、「三笠宮殿下が、八咫鏡に刻まれている古代ヘブライ文字のことで青山学院の左近義弼博士を宮中の賢所に調査のために招き、<我はありてあるものなり>と書かれていることが確認された」という話ができあがったのではないだろうか?