科学の方法



[ HOME ] [ カルトの話(1) ] [ カルトの話(2) ] [ カルトの話(3) ] [ 科学の方法 ] [ 進化論 ] [ 流木のリンク集 ]


1.科学の方法

 科学的認識の成立過程、仮説と実験に関する覚書です。


2.科学の限界

 中谷宇吉郎氏の『科学の方法』(岩波新書、1958)からの抜粋です。科学における「再現可能性」の意味が分かると思います。


3.聖書と科学

 とある掲示板でのキリスト者の方々との議論です。私が批判している「裏返しの科学万能主義」とは何かが、これでよく分かると思います。


4.ノアの洪水は本当に起きたのか?

 上記「聖書と科学」における私の見解に対して、何人かのキリスト者の方から「聖書に書かれている歴史は科学的に正しい」との反論を受けました。例えば、「ノアの洪水は本当に起きた」といった主張です。しかし、ノアの洪水が起きたと科学的に証明されているのでしょうか?また、それによって進化論が否定されるのでしょうか?


5.どうして「大地は平らではない」と分かったのか?

 今日では、「大地は平らだ」と考える人たちはほとんどいません。大地が丸いことは小学生でも知っている常識です。しかし、世の中には「本当は大地は平らであり、頭の硬い科学者はその事実を認めようとしないのだ」と主張する人々もいます。ここでは、大地が平らではなく、丸いとされた古典的な証拠をいくつか挙げることを通じて、科学の方法、すなわち、反証可能な仮説を立てて、それを実験によって確認していくというやり方について紹介してみたいと思います。


6.『聖書』における2種類の創造説

 創造科学を支持する皆さんは「聖書に書かれている天地創造は科学的に正しい」と主張します。しかし、聖書には矛盾する2種類の創造説が述べられています。創造科学を支持する人たちは、一体どちらの創造説を科学的に正しいというのでしょうか?


7.聖書と科学(2)

 こちらのコンテンツを見て、メールを下さる(福音派の)キリスト者さんたちへのお返事をまとめてみました。

8.聖書と科学(3)

 旧約聖書の民数記第22章には、占い師バラムの乗ったロバが人間の言葉を喋ったとあります。聖書の記述を「歴史的な事実である」とする(福音派の系統の一部の)キリスト者さんたちは、この話も史実だとするわけですが、「ロバが喋った」と言い張るのがキリスト教信仰なのでしょうか?

9.カントの批判哲学について

 インマヌエル・カントは『純粋理性批判』の中で人間の認識能力について論じ、その観点から神の存在証明への批判を行っています。今日、一部のクリスチャンのWebサイトで述べられている「神の存在証明」なるものは、結局のところカントがとっくの昔に徹底的に批判してしまったものの焼き直しに過ぎません。

10.沈黙する神〜奇蹟とクリスチャン〜

 イエスをキリスト(救い主)だと心で信じて、口で告白する人はクリスチャンと呼ばれます。では、なぜ彼らはイエスを救い主だと信じられるのでしょうか。一部のクリスチャンは「聖書の中でイエスは数々の奇蹟を起こしています。だから、わたしはイエスをキリストだと信じるのです」といいます。イエスを奇蹟をバンバン起こしたスーパーマンのように捉えるクリスチャンは少なからずいます。というか、日本ではそういうクリスチャンがむしろ多数派のようです。そういう立場だと、奇蹟を起こさない神、沈黙する神というのは信じられなくなるでしょう。

11.聖書は事実の集大成だから信じる価値があるのか

 一部のキリスト者(クリスチャン)は「聖書に書かれていることは事実です」といいます。私は以前から「あなた方のいう『事実』というのは、キリスト教信仰を与えられているあなた方にとっては疑い得ない本当のことだという意味であって、世間一般でいうところの事実というのとは意味が違うのではないか」と指摘してきました。しかし、「聖書に書かれていることは事実です」と主張して止まない人たちは「いいえ、事実です。ビデオに録画できるような事実です」とかいい張るわけです。

 ここでは、あるキリスト者さんを例として、その人が「事実」という言葉で一体何を表そうとしているのかを見てみます。もっとも、この方の議論にはおよそ一貫性というものがありませんので、読んでいても意味不明かも知れませんが。

 なお、この方は医学的には治るとされていて、実際治った例もある病気を「不治の病」だといい張り、「不治の病が治ったのだから、これは神癒である」とも主張しているわけです。どうも、この方は「その病気は不治の病ではない」という点にポイントがあるにもかかわらず、「病気は治っていない」とか「神癒なんてあり得ない」とか私が主張しているかのように勝手に話を捻じ曲げて反発しているようです。相手の主張に賛成するか反対するかはともかく、相手が何をいっているかぐらいいい加減に理解してほしいものです。まぁ、思い込みの強い人というのは、他人のいっていることに対して聞く耳を持たないものではありますから、別に驚くには値しませんが。

 それから、この方は旧約聖書の中でハゲ頭を小さな子どもたちに笑われた預言者エリシャが呪いの言葉を口にし神がそれに応えて2頭のクマに子どもたちを引き裂かせたという出来事を「神の愛」といい、カナン攻略の際の虐殺や略奪も「神の愛」だと主張しています。今になって、「誤解されるような書き方をした」とか弁解を始めていますが、この方の場合、書き方、表現方法がまずくて「誤解」を招いたのではなく、書いている中身がそもそも間違っていたのです。この方は自分の間違いを率直に認めることでプライドが傷つくのがイヤなようで、こちらの問い掛けから逃げ回ったり、ぐだぐだといい訳を繰り返してきたわけですが、「誤解されるような書き方をした」とかいうスリ替えは止めてほしいものですね。見苦しいだけです。

 なお、この方は「子どもたちをクマに引き裂かせるようなことを神の愛だなんて誰が信じるでしょう」といっておきながら、その2週間後には再び「あれは神の愛だったのです」という立場に逆戻りしました。もう滅茶苦茶ですね。そのくせ、「議論にならないのは(流木が)とんでもない方向に話をするから」みたいに相手に責任転嫁までするわけです。ここまで自分に都合よく話を捻じ曲げられる人というのは珍しい気もしますが、これに近い人たちはキリスト者の中には見られます(「見られます」というのは、「全員がそうだ」と決めつけているのではありません)。

12.議論のできない人たち〜勘違いキリスト者の典型例〜

 世の中には、批判と悪口との区別がついていない人たちがいます。議論は意見の交換ですし、その過程で激しいやり取りになることもそんなに珍しいことではありません。しかし、それは相手のことを「心が小さい」とか「腐った人間」だとか決め付けることとイコールではありません。そういうのは人格攻撃です。相手のいっていることにまともに反論できないからといって、相手を「心が小さい」とか繰り返し罵るしかできないようでは、議論をすることができないと判断せざるを得ません。

 私は、キリスト教信仰(とは限りませんが)のポジティヴな面も認めた上で、ネガティヴな面をどうすれば抑えることができるのかを考えてきました。私がキリスト教について論ずるとすれば、当然、興味・関心はキリスト教のネガティヴな面にあるわけです。ところが、キリスト者の中には私がキリスト教のポジティヴな面にほとんど触れない点を不愉快に感ずる方がおられるようで、「キリスト教のポジティヴな面にも触れるべきだ」とかピントの外れたことをいい出す人たちもいます。キリスト教のポジティヴな面に触れたければ自分がそうすればよいのであり、キリスト教のネガティヴな面をどうやって抑えるかを考えている相手にそれを求めるのは全くおかしな話です。しかし、一部のキリスト者は「キリスト教のネガティヴなことしかいえない」などと一方的な思い込みで非難したりします。

 さらに、よくあることですが、議論を勝ち負けのように間違って捉えています。勝ち負けだと誤解すれば、相手の主張に自分が思うように反論できずに突っ込まれたりすると不愉快になって「心が小さい」だの「腐った人間」だの人格攻撃に走ってしまうのです。挙句は「意見が違うから議論しません」みたいなわけのわからないことをいい出したりもします。意見が違うから議論するのであって、意見が同じなら議論する意味も必要性も最初からありませんよね。ああいうのは全く理解に苦しむ態度です。

 結局、この方の場合、「キリスト教への批判は自分の弱いところを見つめるのに役に立ちます」とかカッコイイことをいっておきながら、実際にはキリスト教の暗部を真っ直ぐに見ることができないのです。だから、キリスト教の過去の忌まわしい歴史や一部のキリスト者の愚かしい言動に触れられると気分が悪くなって、相手に対して「キリスト教の負のことしかいえない」とかいい出すことになるのです。批判は歓迎といいながら、実際に批判されると逆ギレしてしまうというのは、本当に情けない話です。

13.勘違いキリスト者の迷妄ぶり

 「キリスト教否定論入門」の掲示板「信じる者は騙される」に日本語として意味不明な証を繰り返し書き込んでこられたキリスト者さんの迷妄ぶりをご紹介します。この方は言葉の意味をきちんと考えもせずにその場の気分であれこれおっしゃったり、本来意見の交換である議論を勝ち負けだと誤って捉えた上で負けまいとしていい逃れをされるので、前後矛盾しまくった議論に陥っています。私以外の他の掲示板参加者からもその点について指摘を受けて、「みなさんのおっしゃる通りです。本当です」とか反省しているかのようなことを書き込まれましたが、実は全然反省などしていなかったのです。要するに、とりあえず謝ることであの場を逃れようとしただけだったのです。過去の行動パターンからして多分そうだろうと予想していましたが、本当にその通りの反応でした。

 この方は「流木は『神癒なんかない』といっている」とウソを繰り返してこられましたが、今度は「流木は自分は聖書についてよく知っているといっている」とかいい出されました。こんなウソまでついて議論に勝ちたいのでしょうか。呆れます。ここまでご自分のケチなプライドにこだわる人がどうしてキリスト者なのか本当に不思議です。まあ、信仰を恵まれたことでへりくだり柔和な人となる場合もありますが、この人のように自分が信仰を恵まれたのは自分が優れているからだとか勘違いして信仰を恵まれていない非キリスト者を見下す場合もあるわけです。そういう「悪い実」をどうやれば抑えることができるのかを考えるのも私の課題の1つです。

 なお、「悪い実」を結んでしまった勘違いキリスト者さんに自分の勘違いぶりを気づかせることは誰がやっても無理ですから、私はそんなことは最初から意図していません。勘違いキリスト者さんとコミュニケーションをとって、彼らを更正させてやろうなどと考える人がいたら、そんなことは時間と労力のムダだといっておきましょう。あの手の勘違いキリスト者さんは死ぬまであのままですよ。

14.議論のできない人たち(2)

 議論をする上では、言葉に世間一般で使われているのとは異なる自分なりの特殊な意味を込めて使う場合、自分がどういう意味でその言葉を使っているのかを明確にする、前後で矛盾することをいわない、これまでの主張を大きく変える場合はその理由をきちんと示す、簡単に調べればわかるようなことは調べるといった最低限のルールというものがあると思います。これは私が勝手に決めたローカルなルールというわけではなく、議論をする上では当然の大前提だと考えますが、必ずしもそう思わない人もいるようです。議論をする上で相手に上記のようなことを求めるのは「横暴」なのだそうです。ある人が言葉を世間一般で使っているのとは異なる自分勝手な意味で使おうが、前後で話が矛盾しまくろうが、簡単にわかることすら調べなかったとしても、その人は良識を持って議論しているのであり、そういう態度の相手との間で建設的な議論が可能だというわけです。果たしてそんなことが本当にできるのでしょうか。



先頭へ
<前頁
次頁>