カントの批判哲学について



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【「神の存在証明」に対するカントの批判】

 「あるものが存在するというのは最も基本的な属性である。神は完全なる存在だから、完全なる存在が最も基本的な属性を欠いているはずはない。したがって、神は存在するのだ」といった証明(カントのいうところの「存在論的証明」)に関連して、以前たまたまネットで見かけたWebサイトに「最低な存在は存在しない」という証明が載っていて笑えました。

 いわく「あるものが存在するというのは最も基本的な属性である。最低な存在は基本的な属性すら欠いているはずだ。したがって、最低な存在は存在しない」と。

 神の存在論的な証明に対して、カントは「お金があると考えるのと、実際にお金があるのとは違うじゃないか。お金を想像できたとしても、お金があるわけじゃない」といった批判を生真面目に展開しているわけです(ヘーゲルは「お金があると信じて行動するなら、その人の行動は変わるじゃないか」と批判を加えています)が、私にはネットでたまたま見かけた上記の批判の方がツボに入りました(笑)。

 ネットでキリスト者さんの開設しているWebサイトを調べてみた範囲でいえば、現代では「存在論的証明」のような思弁的な証明方法よりも、カントがいうところの「目的論的証明」の試みの方が多いように見えます。「この宇宙はすばらしい秩序を保っている」とか「生物の身体は信じられないほど精巧にできている」とかいう話から、「こんなものが偶然に出来あがったとは信じられない。そんなことを信じるのは、印刷工場で爆発があって、偶然に百科事典が出来あがると信じるようなものだ」とかいって、「だから、この世界をお創りになった神様がおられるのです!」(以下、聖書からの引用が続く)という展開ですね。

 あの手の証明で証明できるのは、カントが既に述べているように既存の材料から世界を作った存在がいるということでしかありません。砂漠に時計が落ちていて、その時計が偶然にできたと信ずる人はいないでしょうし、時計を作った職人がいるだろうと想像するわけですが、時計職人は既存の材料を組み立てたに過ぎません。目的論的証明で証明できる神様というのは、時計職人のような神様(デミウルゴス!)なのです。クリスチャンが信じているような神様ではありません。無から有を作るような存在、言葉の本来の意味での創造主というのは、あれでは証明できないのです。あの手の議論は、カントが指摘しているように、人間と人間が作ったものとの関係から類推したという他ないでしょう。

 確かに、人間を神様が創ったとしてしまえば、「人生の目的」は人間を創った神様が知っているわけですから、その目的に沿うように生きるのが正しいということになるでしょう。「人間は一体何のために生きるのか」とか「自分が生きている意味って何だ」とかいう疑念に対して、簡単な答えを用意してくれるわけです。人間が神様に創られたのではないとすると、人生には予め決められた目的などないことになります。ナイフにはナイフを作った人が使用目的を与えているわけですが、人間は目的もなくただ存在しているわけです。サルトルが「人間の実存は本質に先立つ」とか「人間は自由の刑に処せられている」とか述べたのも、「人間は神様によって造られた存在だ(から、人生の意味は創り主である神様によって予め与えられている)」というキリスト教的な被造物としての人間という見方やそこから導かれる人生観がかつては常識であったという社会背景を踏まえておかないとよくわからないと思います(ある年代以上の人たちにはある種の郷愁を覚えさせるようですが、サルトルって人は政治的にはいい加減の極致なんですけどね)。

 話を元に戻すと、「ある存在の背後にはそれを作った存在がある」という議論は大きな矛盾を抱え込んでいます。というのは、この議論を突き詰めていくと、「じゃあ、神様は誰が創ったの?」という疑問に行き着くからです。「神様を創った存在なんかない。神様はこの世界の始まりから終わりまで永遠に存在するお方です」とかいうのなら、「じゃあ、宇宙に創り主なんかいなくて、最初からあったと考えて、何がマズイのか」という反論に答えることはできないでしょう。せっかく、人間と人間が作ったものとのアナロジーに基づいて「世界の背後にはその創り主である神様がいる」というところまで辿りつきながら、神様のところで話を変えてしまって、論理が不徹底だからです。

 ついでにいえば、進化生物学に対して「無生物から生物が誕生したというのは無神論的だ」とか「唯物論的だ」とかいうクリスチャンが結構いる(中には、「唯物論=共産主義」という連想をして、「進化論は共産主義思想だ」といい出すクリスチャンもいます)んですが、(無生物からの生物の発生は化学進化と呼ばれるプロセスでのことであり、生物の進化のメカニズムを解明する進化生物学の対象ではそもそもない点はあえて目をつぶるとして)あの手の話は的外れといわざるを得ません。というのは、彼らは「原因」として神様を説明に持ち込みたがっているからです。進化生物学に限らず、およそ科学的な説明というのは原因として神様を持ち出したりはしないんですよ。例えば、「リンゴが木から落ちたのはなぜですか」と訊かれて、「それは神の愛です」なんて答えたりはしませんよね。科学的な説明というのは、原因として神様を持ち込まないのです。実際、神様を持ち出せば、何でも説明できてしまうでしょう。あれも神様、これも神様。でも、これでは説明したとはいえません。超常現象を何でもプラズマのせいにしちゃった物理学の先生もいましたが、あの人と変わらなくなります(まぁ、プラズマで説明可能な現象も中にはあるのかも知れませんが)。他の科学も神様を原因として持ち出していないのに、進化生物学が神様を原因として持ち出さないことだけを問題視するのはとてもおかしな態度といえます。神様を原因に持ち出さないのがマズイのなら、経済学でバブルの生成について説明するときに神様を持ち出さないのも「無神論的」「唯物論的」で誤りということになるでしょう。でも、そんなことをいうクリスチャンは見たことがありません。なぜですか?

 ネットでちょっと調べるだけでも、「神の存在証明」をやりたがるクリスチャンが結構いることがわかりますが、ほとんどは18世紀に生きたカントがとっくの昔に論破したような内容です。神の存在証明をやるんだったら、せめてカントの議論ぐらいは知った上でやってほしいものです。あまりにも不勉強でしょう。まあ、ダーウィンの『種の起源』すら読まずに自分の勝手な想像だけで進化生物学を批判したつもりになってみたり、「私は本の虫と呼ばれていましたが、聖書が真実だとわかったので他の本は全部捨てました」なんて話をどこかの掲示板に誇らしげに書き込むようなアホなキリスト者さんには無理な話かもしれないですけど。


【カントの批判哲学についての覚書】

 ルネサンスの哲学からへ一ゲル哲学にいたる近世哲学史を概観すると、カントの哲学は分水嶺であるといわれることがあります。近世哲学はカント哲学以前と以後とに分けられるといってもよいでしょう。「すべての哲学はカントに流れ込み、カントから流れ出ていく」という言葉もあります。「カントは古い」なんてことをいう人もいますが、カント以降の哲学は結局カントをいかに乗り越えるかを何らかの形で意識したわけですし、簡単に「古い」といって済ませてしまうわけにもいかないでしょう。

 ただ、カントの『純粋理性批判』は、準備なしでいきなり読んでも恐らく意味不明でしょう。用語が見なれないこともさることながら、カントが何をどう問題にしているのかさえわからずに終わってしまうかも知れません。

 まず、カントが問題としているのは人間の認識能力であり、「人間の客観的な認識はいかにして可能なのか」というテーマです。カント以前の形而上学では、霊魂だとか神だとか世界の始まりだとかについて論じていましたが、そうした議論は全部失敗したとカントはいいます。カントによれば、従来の形而上学がことごとく失敗に終わったのは、人間の認識能力についてきちんと検討もせずに神だとか霊魂だとかを論じようとしたところに躓きの原因があったということになります。人間の認識はいかにして可能なのか、それが客観的であることはどうして保証されるのかという問題をカントは考えました。

 いま、目の前に赤い花があったとしましょう。我々には赤い花ですが、色の区別がつかないイヌが見れば灰色に映るはずです。またチョウが見れば違って見えるはずです。我々は「花が赤いから、我々は赤い花を見る」と思いがちですが、そうではありません。もし、我々人間が「花が赤いから、赤い花を見る」というのであれば、イヌが灰色の花を見るのは花が灰色だからということになります。花が赤いのか灰色なのかは花を見るのが人間なのかイヌなのかによるのであって、「花は本当は何色か」を問うてみても仕方のないことです。もちろん、「花は本当は赤いのにイヌは灰色にしか見えないのだ」という人もいるでしょうが、我々は可視光線の範囲でしかものを見ることができませんから、それよりも波長が長い光や短い光を見ることはできません。我々には真っ暗な部屋だと思われても、赤外線を見ることができる生き物にとってはこうこうと灯りがついているかも知れないのです。音についても同じです。人間の耳で聞くことができるのは、周波数が2万ヘルツぐらいまでの音だといわれています。それより周波数の高い音や逆に極端に周波数の低い音(超低周波音)も聞こえません。イヌ笛のように、イヌが聞こえる音を我々は聞くことができないのです。我々が「静かだなあ」と思っても、イヌにとってはうるさいかも知れません。匂いもそうですね。イヌにとっては臭っても、我々人間には何の匂いもしないのです。同じ世界を見ているはずなのに、それぞれが違って見ているとしたら、「本当にある」というのは一体どういうことなのでしょうか。

 ここまでの話は実は子どものときに私も考えたことがあります。人によって「あの色が好き」だとかいっているけど、本当に同じ色を見ているんだろうか、自分が赤だと思っている色をある人は緑だと思っているとか、そういうことはないんだろうかと考えたのです。こうした疑問は子どもなら誰しも一度くらいは抱いたことがあるかも知れません。ここまでだったら、子どもでも抱く素朴な疑問に過ぎず、哲学上の一大発見ではあり得ません。

 さて、「感覚器官の制限によって我々は客観的な実在を知ることができない」というのなら、「我々の認識は主観的で不確実なものだ」という結論になるでしょう。ところが、カントはそうはいいません。我々が外から何らかの感覚的な刺激を受けたのは確かだとしても、それを赤い花などなどだと我々が認識できるのは、感覚器官が受け取った刺激をそう認識できる能力(感性と悟性)が元から我々に備わっているからだとカントはいうのです。対象に認識が従うのではなく、認識に対象が従うことで初めて客観的な認識が可能となるというカントの立場は、従来の議論を根本的に覆すものであり、「コペルニクス的転回」と名付けられています。

 カントによれば、人間は「物自体」(ディング・アン・ジッヒ)を認識することはできません。人間が認識できるのは「現象」だけです。人間は現象だけを客観的に認識できるとしたのです。カント以前の哲学は人間がカントのいうところの「物自体」を認識できるとしていましたし、カント以降の哲学でもカントのいう「物自体」を何とか排除しようとしました。

 カントのこうした議論以前に、哲学の分野ではイギリス経験論と大陸合理論という2つの大きな立場が対立していました。経験論を代表するのはベーコンであり、ロックであり、ヒュームに至って懐疑論という形で完成をみます。合理論の代表的な論客はデカルトであり、スピノザであり、ライプニッツでしょう。経験論は人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」のようなものであり、人間の認識は全部経験に由来する感覚的なものだ(「感覚のうちにないものは知性のうちにない」)と説いて、因果関係などもその立場から説明しようとしました。一方、合理論は生得観念を認め、真の認識は経験に基づかない先験的な理性の働きによるとします。「直角三角形の内角の和は180度だ」といった普遍的な命題は経験的に得られたものではないだろうというわけです。感覚や感性による認識はいわば程度の低い認識だと合理論ではされたのです。

 カントは「すべての認識は経験とともに始まるが、だからといって、すべての認識が経験によるのではない」とします。経験が我々に与えるものはバラバラな印象に過ぎず、それをまとまった認識として成立させるのは、先験的な形式(時間認識、空間認識あるいは因果関係など)であるとし、両者の統合によって認識は初めて普遍性・客観性を獲得できるとしました。「すべての認識は経験とともに始まる」という点では経験論的立場といえますが、先験的認識を認めるのは合理論的立場といえます。カントの哲学は経験論と合理論との統合なのです。カントは、経験論では自然科学や数学などの普遍性や原因結果といった概念がどこの文化にも共通に存在しているという事実が説明できないとしつつ、合理論では世界は自らが持つ理性によって正しく認識されることになって独我論に陥ってしまうと批判しました。「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である。悟性は何ものも直観し得ないし、また感性は何ものをも思惟できない。感性と悟性とが合一してのみ認識は初めて成立するのである」とカントはいいます。素材を提供する感性だけでもダメ、形式を与える悟性だけでもダメ。両者が一体となることで初めて客観的な認識が可能となると説いたのです。悟性は「内容を持たない形式」であり、この形式(範疇:カテゴリー)に無秩序な素材としての経験を取り込むことで認識が成立するとしたのです。これが先に述べた「対象によって認識が規定されるのではなく、認識によって対象が規定される」ということの意味です。認識の「材料」は経験によって与えられますが、それを認識するための「形式」を与えるのは我々人間の側なのだというのです。逆にいえば、人間が知ることのできるのは、感覚器官が刺激として受け取り、カテゴリーに基づいてまとめ上げることができる対象だけであり、それ以外は認識できないし、そうした現象の背後にある「物自体」は認識することはできないということになります。

 このカントの認識論は、多分初めて読んでも何だかわかったようでわからないと思いますが、いわゆる沈黙の10年間(教授就任論文から『純粋理性批判』刊行までの10年ほど、カントは著作らしい著作を出していないのでこう呼ばれます)にカントが友人と交わした書簡などから考えると、神の認識(神様が認識する場合)を考えてみるとある程度ヒントが得られそうです。例えば、神様の場合、「光あれ」と考えれば、実際に光があるようになります。神様の場合、思惟が対象を産み出します。産み出された光に対して神様は創造主という立場になります。創造主ですから、光の客観性は当然に保証されます。ところが、神ならぬ有限な存在者である人間の場合、この世界は自分が創造したものではありません。にもかかわらず、人間の認識に客観性があるとすれば、それは人間の側に形式を与える能力(感性と悟性)が備わっていて、世界をその形式に沿って認識するのだというわけです。その形式は人間すべてに共通であり、その意味でそうして得られた認識は「客観性」を持つとカントはいったのです。人間が現象の創造主になることによって現象のア・プリオリな認識が可能となるということもできます。ロックやライプニッツらの立場は対立しつつも、認識が対象に依存しそれを「模写」するだけだとしている点では同じでした(模写説)。一方、カントは、対象が認識に依存すると考えたわけです(構成説)。


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