
民明書房刊
恋のダンスサイトとは
拳法において、身のこなしの素早さは最も重要であるが、
それを倍加させるための特に踊りを特化させたのが
この「恋のダンスサイト」である。
その原理はいたって単純であり、
ばねと体重による反発を利用力したものである。
これを開発した中国漢代の武術師範、
毛任具はこれを使って地上30米まで跳躍し、
当時の人々を驚嘆させたと言う。
ちなみに、
日本でも現在子供たちの間に流行したアイドルグループ
「モーニング娘。」の名前の由来は
この開発者「毛任具」(もう・にんぐ)に由来する事は言うまでもない。
(民明書房刊「ジンギスカンの末裔たち」より抜粋)
短放砲と富乳妄忍
中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義のなかには
三身一体の連携を極意とする奥義が二つある。
ひとつは「短放砲」もうひとつは「富乳妄忍」である。
短放砲は大、中、小の体格の者で構成され、中の者が敵の気をそらしている間に、
大の者が小の者を砲弾のように放り投げ敵にぶつけるという荒技である。
歴史上代表的な使い手は「知 瓶婆」「黒 江彩」「華 王倫」らである。
富乳妄忍はまさに三身一体の連舞であるが、途中で仲間割れを起こしたかのような寸劇を交え、
油断した敵の隙をつくのが持ち味である。
代表的使い手は「呉 糖巻」「安 打刑」「偉 地位」があげられる。
短放砲については2名で使っていたという記録もあるが、定かではない。
(民明書房刊 「集団戦術の歴史」より)
世苦死光波
中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義の中でも
最も習得が難しいとされていたのがこの「世苦死光波」である。
長い朝暁寺の歴史の中でもこの奥義を使いこなしたのは、
開祖である「妄 忍愚」と「知 瓶婆」の2名だけであったといわれる。
特に「知 瓶婆」は150cmに満たない身長ながら、
この奥義で百人組手を制し、師範代にまで昇りつめた。
奥義の仔細は定かではないが、
文献には「ソノ波動 緑色二シテ 是 浴ビシ者 脱力シスベテ傀儡ト化ス」とあり、
気功を用いた集団催眠のような奥義であったことが覗える。
(民明書房刊 「中国奇拳百選」より)
朝暁寺の分裂と統合
歴史上常に一枚岩の団結を誇っていた朝暁寺一派であるが、
一時期三派に分裂、抗争していたことはあまり知られていない。
時に玄穐十二年三月、
時の権力者突九帝が朝暁寺最強の拳士を決定する御前試合を開いたことがこの分裂のきっかけである。
元来実力伯仲であった朝暁寺の師範、
師範代たちはこの御前試合をきっかけに互いに対抗意識を強く持ち、独自の流派を開き分裂していった。
多くの流派が乱立したが、血で血を洗う抗争の結果大きく三派に統合され、
その後しばらくは三派抗争の時代が続いた。
分裂した三派はそれぞれ赤、黄、青の道着を用いていたことから、
「赤派」「黄派」「青派」と呼ばれていた。
最終的にこの分裂抗争は赤派の勝利に終わり朝暁寺は再び統一される。
しかしこの抗争により各派の棟梁(「呉 糖巻」「菜 通知」「偉 地位」)
らがその権力を強め、朝暁寺一派は分権政治の色彩を強くしていくことになる。
青派流と戯打
朝暁寺分裂時代の三派の中でも最大勢力を誇っていたのが、青派である。
青派流の特徴はその「御威!御威!御威!」という独特の掛け声と
「戯打」と呼ばれる独特の武具を用いていた点にある。
「戯打」がいかなるものであったかは定かではないが、かなりの重量であったらしく、
小柄な「知 瓶婆」などは逆にこの武具に振り回されていたという記録が文献に残っている。
歴史上「華 王倫」がこの「戯打」の名手であったらしく、
文献には「其レヲ 振回ス姿 貞子ノ如シ」とあり、鬼神のような活躍ぶりが覗える。
<「貞子」はどうやら中国民間伝承に登場する鬼神の一種のようである>
(民明書房刊 「拳法と武具発達の歴史」より)
妄無素と網異誤の抗争の歴史(1)
玄穐十一年七月、
時の拳法家「網 異誤」と武道集団「妄無素」による果し合いが行われた。
両者は共に中国東部手礼都の朝暁寺の出身であることで知られている。
「妄無素」は、当時最強の使い手だった「菜 通知」を中心に七身一体の攻撃を仕掛け、
「網 異誤」は師匠直伝の拳法を取り入れこれに立ち向かった。
結果は「網 異誤」の勝利に終わったが、
「妄無素」はこの敗戦を乗り越えて、以後、勢力を拡大していくことになる。
黄派の敗北と富乳妄忍同盟の暗躍
三派分裂抗争の中で当時最も勝利に近いと考えらていたのが黄派である。
黄派流の特徴は跳躍力を生かした攻撃にあり
「文!」の掛け声と共に10m以上跳躍したという記録がある。
黄派は当時朝暁寺の師範であった「菜 通知」を棟梁とし、実力的には他の二派を凌駕していた。
しかし、黄派は完全勝利を目前としながら
赤派の天才拳士「呉 糖巻」の潜在能力と「安 打刑」の裏切り、
そして青派残党の攻撃により敗北することになる。
この黄派潰しの一連の動きを裏で操っていたのが青派「偉 地位」であった。
この敗北で「菜 通知」は朝暁寺における絶対的地位を失い、
「偉 地位」ら「富乳妄忍同盟」の朝暁寺における政治的影響力が強まり、分権政治の時代が幕を開ける。
(民明書房刊 「朝暁寺一派の盛衰」より)
赤派の天才拳士・・・呉 糖巻
三派分裂時代に最も小勢力だったのが赤派である。
赤派はその地盤を固めるのが他の二派より遅く、朝暁寺の覇権を争う上で大きく水を開けられていた。
しかし、1人の天才拳士の登場から赤派の勢力は巻き返しを始める。
その拳士の名は「呉 糖巻」。
当時の朝暁寺師範代中最年少の拳士であった。
当初、「呉 糖巻」は三派分裂抗争に関心がなく中立の立場を保っていた。
しかし時代はこの天才拳士を放って置かず、本人の意思と関係無く赤派の棟梁に祭り上げられてしまう。
「呉 糖巻」を得た赤派は、
青派を打ち破り勢いに乗る黄派を倒し、朝暁寺の再統一を成し遂げる。
その後、「呉 糖巻」は朝暁寺の師範の座に就くが、あまり政治には関心が無かったようである。
文献に残る「呉 糖巻」のエピソードは「修行をしていたところを見たことが無い」であるとか
「寺の縁側で寝てばかりいた」といったものばかりである。
この辺が天才拳士と呼ばれる所以であろう。
しかしこの天才拳士も師匠にあたる「偉 地位」には頭が上がらなかったという。
意外な一面としてまめに日記を記しており、
彼女の綴った「赤派日記帖」は当時の世相を知る上で重要な史料である。
(民明書房刊 「驚愕!寝るだけで強くなる!?」より)
三派抗争と周辺異民族
朝暁寺の分裂時代を語る上で各派に協力していた周辺異民族の存在を無視することは出来ない。
青派は「嶺風亜族」と「彌牙族」
赤派は「堕尼得族」
黄派は「亜椰夏族」
をそれぞれ従え、戦力に組み込んでいた。
青派に属した「嶺風亜族」と「彌牙族」は言語の違いからコミュニケーションが困難な上、
元が陽気で平和的民族だったため、戦力にならなかったようである。
赤派に属した「堕尼得族」は幻の一族とよばれていた移動民族で、
言語は全く通じなかったものの、皆恐るべき体格とパワーを誇っていた。
特に赤波に協力した酋長は「悪炉波!」の掛け声と共に十数人を一度に吹き飛ばしたという。
黄派に協力した「亜椰夏族」は交易民族であったため、言語コミュニケーションが可能であった。
戦闘力のみならず、物資補給においても役に立つ亜椰夏族を黄派はかなり頼みにしていたようである。
実際、対青派戦の勝利は亜椰夏族の力が大きかった。
「〜にあやかる」という言い回しの由来はこの黄派と亜椰夏族の故事からきている。
(民明書房刊 「涙の亜椰夏乱舞」より)
(特別寄稿)番外編
阿羅死
中国東部手礼都には秘密の犯罪結社が存在した。
その名を「邪尼頭」といい恐るべき数の暴力で犯罪を行っていた。
その中でも有名な一派が「阿羅死」である。
その見境の無い所業に手礼都の住民は恐怖した。
事態を重く見た突九帝は朝暁侍の「妄無素」に討伐を依頼する。
激しい死闘の末、「妄無素」は「阿羅死」を倒し、手礼都はとりあえず平安を取り戻した。
この際「安 打刑」は「阿羅死」の一員「唖 井馬」を生け捕りにし食ったという伝説が・・・
民衆の噂話にはあったがどのように食ったかは定かではない。
ちなみに現在娘。板を覆う荒らしの由来は、この「阿羅死」から来ていることは言うまでもない。
(民明書房刊 「年下男の食いかた」より)
羅武魔神の大乱
時に玄穐11年9月、手礼都のみならず中国全土を震撼させた怪異がこの「羅武魔神」である。
この羅武魔神、古くは殷の時代の文献に出現しており妲妃と並んで殷滅亡の原因を作ったといわれた。
しかし後にこの魔神は道士である太公望に壷に封印され土中に埋められる。
しかし、手礼都の好事家がこの壷を発掘、
そして誤って割ってしまったためこの魔神は再び世に出てしまう。
復活した魔人は中国全土の覇権を高らかに宣言。
手始めに手礼都の王宮に向かって進撃を開始した。
暴れる魔神を止めるため手礼都、
そして周辺諸国の軍隊までも出動するがあっさりと全滅させられ手礼都は半壊滅状態となる。
最後の賭けとして突九帝は朝暁寺一派に救援を依頼、
朝暁寺の精鋭「妄無素」の8人が魔神退治に向かう。
王宮近くの湖のほとりで魔神と妄無素は対峙、
7日7晩に渡る死闘の末
「黒 江彩」が己の身を犠牲にして魔神の動きを止め
他の面々が生命を削って放った究極奥義「絶 短放砲」が魔神の急所を捉える。
魔神と黒 江彩は湖に沈み、二度と上がってこなかった。
大きな犠牲を払いながらも魔神は倒され、この事件で「妄無素」の名声は中国全土に知れ渡ることになる。
なおこの魔神は後の世の日本にも出現した記録が有り、
その時は「安倍晴明」以下7人の道士に倒されたとされる。
(民明書房刊 「みんなも社長さんも分かる陰陽道」より)
雌論氣燃火
朝暁寺の奥義の中でも比較的知られていないのがこの「雌論氣燃火」である。
この奥義は読んで字のごとく体内の「氣」を燃焼させて発火させる炎の拳であった。
この奥義の最大の特徴は「氣」を練る際の独特の構え「馬鈴理南の構え」と掛け声にあり、
「安!動!斗炉唖!」の掛け声とともに周囲は紅蓮の炎に包まれたといわれる。
現代バレエの動きはこの「馬鈴理南の構え」を源流としており、
バレエをする者を「バレリーナ」と称するのはこの構えに由来することはいうまでもない。
(民明書房刊 「初歩のステップ(戯曲「暗黒魔王」)」より)
妄忍愚硬皮
朝暁寺一派の奥義の中でも防御に特化した奥義がこの「妄忍愚硬皮」である。
この奥義は読んで字のごとく体内の「氣」を体表に集め、
皮膚を鋼のごとく硬質化するというものであった。
しかし「氣」のコントロールが極めて難しく、
習得できる者が少なかった上この奥義を使っている間は一切身動きがとれなかった。
この奥義が真価を発揮するのは、奥義「短放砲」を用いるときであり、
弾丸になるものはこの「妄忍愚硬皮」でまさに鋼の矢と化す。
代表的使い手はやはり「知 瓶婆」であり、独特の香辛料の効果で「氣」を集中させていたようだ。
この「硬皮豆」と呼ばれた香辛料が
現代における珈琲の原料「珈琲豆」の起源であることは最近知られたことであり、
珈琲の発祥の地は南米、アフリカではなく中国であるという説が現在では支配的である。
(民明書房刊「大嫌い大嫌い大好き・・・乙女の珈琲占い」より)
娘。塾「獲着伝」
日本の管理教育から外れた若者達を受け入れ教育しているのがこの私塾「娘。塾」である。
その厳しい教育方針は幾度となく物議をかもしている。
娘。塾年間行事の中で特に厳しいものがこの「獲着伝」である。
42.195kmを5人でリレーする所は通常の駅伝と変わらないが、
各々が甲冑の1部を身に付け、次の走者へと引き継いでいく。
最終走者はすべての箇所を身につけることになるのでその重さは50kg以上になる。
故に最終走者には強い下半身が要求される。
なお、この行事は古の中国「朝暁寺」の修行が源流のようである。
(民明書房刊 「ピンチランナー・・・乙女の太股大ピンチ」より)
品知乱菜
古代中国において「獲着伝」という武術大会が存在したのはあまり知られていないが、
玄穐十二年四の月に中国奥地の「火達仲」で行われた大会は、
時の拳法集団「妄無素」が戦ったこともあり武術書にその記録が残されている。
それによれば、「火達仲」の「獲着伝」は中国全土から五十五組もの猛者達が集い、覇を争ったという。
「妄無素」はもともと「獲着伝」に不慣れであったので苦戦が強いられた。
記録によると、副将「知 瓶婆」は「世苦死光波」で次々と敵を倒したらしいが、
大将「菜 通知」が武具の重みに苦しみ、結果は惨敗に終わった。
なお「菜 通知」は戦闘終了後、口から謎の液体を吐き出す新奥義を使い他集団を威嚇したと云われるが、
文献に残っておらず定かではない。
品格ある「知 瓶婆」の走りと、予定外の乱れを見せた「菜 通知」にあやかり、
この戦いは「品知乱菜」と名付けられ永く後世に語り継がれることになる。
一方、吟遊の才にも恵まれていた「妄無素」が愚にもつかないことをするべきではないという意見もあり、
「女吟愚」という言葉が生まれ、現在の「ジョギング」の語源になっている。
(民明書房「絶対にゴールするのだ」より)
今日の大東亜日報3面
朝暁寺十六傑、天挑五輪大武會に出場か?
先日開催が発表された天挑五輪大武會に中国伝説の武術寺である朝暁寺チームが
出場する可能性があることが本誌記者の取材で明らかになった。
政財界の実力者、藤堂兵衛氏主催によるこの大会には既に日本の男塾チームの出場
が決まっており両者の激突が期待される。
矢鞭野郎
「矢鞭野郎」とは、古代中国に伝わる伝説の七匹の悪魔のことを指す。
文献に「背には白色の羽をはやし、食物を貪り食らうこと悪鬼の如し」とある通り、
毎日のように人家を襲い食料を食い荒らすという悪行を行っていたらしい。
魔物達は、弓矢やムチなどの武器を使用していたことから、
やがて「矢鞭野郎」と呼ばれるようになり、民衆の恐怖の対象になった。
「矢鞭野郎」が暴れ出して一ヶ月ほど経ったとき、耐えかねた人々は退治を試みる。
魔物の住処には結界が張ってあり近付けないので、
その近くに全く同じ外観の別の入口を用意して誘い込み、
中に用意した巨大な壺に「矢鞭野郎」を封じ込めて退治したという。
その後、その壺から採れる「矢鞭野郎」のエキスは、極上の茶であることが判明し、
当時の上流階級の間で盛んに飲まれた。
この飲料こそが、現代の「飲茶楼(ヤムチャロウ)」の発祥なのである。
また、魔物達の墓場となった壺は「別戸墓獲」と呼称され、
これが今で言う「ペットボトル」の語源となっていることは言うまでも無い。
(民明書房刊「あとあじスッキリ、おまけでガッカリ」より)
酎 裕姐〜伝説の酔拳
「菜 通知」の前に朝暁寺の師範の座に就いていたのが「酎 裕姐」である。
「酎 裕姐」は中国拳法史上でも5本の指に入る酔拳の使い手であり、
酒が入ると誰も手がつけられなかったという。
しかしその酒量の多さが祟ったのか体を壊し、
26歳の若さで朝暁寺師範の座を「菜 通知」に譲り渡した
(この際酒の勢いで決めたという説がありこれが後の三派抗争の引き金となる)。
三派抗争時は自らの責任を感じたのか、影で赤派結成、抗争終結に動く。
その後は朝暁寺の長老に名を連ね、後進の指導に当たったという。
また、朝暁寺の影流といわれる「六暴家裏主斗」の伝承者の座を「丙 卦道」と争ったとも言われ、
結局伝承者の座は「丙 卦道」に譲りわたしたものの、
以後も好敵手として朝暁寺裏手の原野「夷坂野」で9度に渡る戦いを繰り広げた。
人々はこの戦いを後に「夷坂野闘九」と呼び語り継いだ。
(民明書房刊 「ドランクモンキー〜酒ぐらい飲ませてや!」より)
「羽多晩」と「地 四尊」
中国武術史上、圧倒的な武力を誇っていた「妄無素」だが、
その武芸を披露するのは殆ど「手礼都」に於いてのみで、
他の地方に出向くことは少なかったらしい。
しかし「帝美意絵州」で開催される「羽多晩」という武会には不定期であるが参加し、
かなりの活躍をしていたという。
この「羽多晩」は、「多 火産」と「名 改訓」の両名によって定期的に運営されており、
大規模なものなると「徒苦晩」と称されることもあった。
また「名 改訓」という名が記すとおり、
「羽多晩」では参加者の名前を改造して独自の呼び名を作る風習があり、
「妄無素」の「黒 江彩」もここでの呼び名が一般化した一例であるという。
(ちなみに学会では、実際の命名は主に「多 火産」の方が行っていたとする説が有力である)
また、古来中国に於いて、宴や軍議などでの席順は、非常に重要な意味を持っていたが、
これは「羽多晩」でも例外ではなく「妄無素」も幾度と無く席次を争った記録がある。
この席獲りにおいて常に異様な力を発揮していたのが「華 王倫」こと俗称「地 四尊」であった。
「地 四尊」の猛勇ぶりはすさまじく、たとえ破れたとしても見るものを魅了せずにいられなかった。
蛇足だがこの「地 四尊」には「喜怒哀楽の四つの感情を地で行うのは尊敬に値する」
という意味が込められていて、本人はそれを知らなかったというのだから面白い。
(民明書房刊「母さんニックネームが好き」より)
今日の大東亜日報3面
朝暁寺チーム、1回戦突破!
先日冥王島で行われた天挑五輪大武會予選1回戦で朝暁寺16傑と馬悪人愚16闘士が対戦、
朝暁寺チームが危なげなく勝利し、1回戦を突破した。
なお2回戦では沖縄代表の握太亜頭16舞踊士と対戦する模様。
「妄無素」と「雄妄」
中国全土にその名を轟かせていた「妄無素」。
ある日一人の小柄な若者が朝暁寺の門をたたいた。
当時の師範は「菜 通知」。
自分の2〜3倍はある師範から稽古をつけてもらい、瞬く間に腕を上げた。
あまりにも稽古熱心だったので、師範より「席取り」の名をもらう。
しかし、この若者がいつも素っ裸にまわし姿で稽古していたので、
手礼都の住人は「御素妄さん」と呼んで親しんだ。
数年の修行を経て故郷に帰った若者は新しい武道集団を結成し開祖となった。
故郷の人々は、女性の武道集団「妄無素」に対抗して、
新しい男の武道集団を「雄妄」と呼んだ。
時が経つに連れて彼の心の中で抑えきれない思いが湧き上がってきた。
稽古熱心な自分とは正反対に寺の縁側で寝てばかりいた「呉 都餡」と
仲間内で呼ばれていた「呉 糖巻」への恋心。
「安 打刑」に描いてもらった似顔絵を懐に忍ばせて谷町通いの日が続いた。
行く店行く店でその絵を出しては『「呉 都餡」です、「呉 都餡」です』と絡むので、
どこの店主も金を取ることはなかった。
これが悪習となり、今でも「ごっつあんです。」の一言で、
谷町を渡り歩いている「席取り」が後を絶たない。
(民明書房刊 私を変えた一言「土俵には金が埋まってるべ」より)
「御素妄さん」はその後三派抗争の際、師匠のいる黄派に付くか憧れの
「呉 糖巻」のいる赤派に付くか悩んだ末、赤派に付いたといわれています。
その際の彼の活躍ぶりは「赤派日記帖」に詳しく記されています。
このように「菜 通知」から「呉 糖巻」に乗り換えた者達が多く居たことも
黄派敗北の一因であるといわれています。
「知 瓶婆」「黒 江彩」「華 王倫」の三者は、お互いを鍛え合い共に歩んできた
同朋であったため、その絶妙な調和は必然であり、他を大きく凌駕していた。
魅了される人々は多く、彼らの関係から「鍛歩朋」として広く慕われていた。
(注釈:その奥義名から「短放砲」とする記述もある。 別献「集団戦術の歴史」参考)
後に「黒 江彩」は自らの将来に疑問を抱き、手礼都を去ることになった。
別説に『深夜、過酷な修行のしすぎで腰痛になり破門を免れなかった』
とする言い伝えもあるが定かではない。
そのこともあってか、間もなく彼らの活躍は衰退したかのょぅ(こみ之T=。
ι力丶ιTょか~ら■●■●■●■●■●■●■●■●■●・・・・・・・・
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謝辞:保存状態の悪い古文書のため、この後の記述について解読不能であったことを
この場を借りて御詫び致します。ご了承ください。
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(民明書房刊 「鍛歩朋の暇乞い〜栄枯盛衰〜」より)
殴弟子怨〜入門試錬
朝暁寺に入門するものが必ず通らねばならぬ試練がこの「殴弟子怨」である。
「殴弟子怨」ではまず、師範が入門希望者の「氣」を観る。
ここで大半のものが脱落する。
第二に拳の「型」を見る。
拳の型は「夏 仙聖」師範代によって厳しく審査される。
第三に「実戦」である。これは現役拳士相手のまさに実戦組み手であり
殴られても当然、死者すら出ることもあった。
これに怨みを抱く入門希望者の遺族も多かったという。
これが「殴弟子怨」の語源であることはいうまでもない。
この「殴弟子怨」多いときは二万五千名もの入門希望者が詰めかけたといわれ
下は10歳児までも参加したという。
「殴弟子怨」は原則的に一般公開で行われるが、
「知 瓶婆」「安 打刑」「偉 地位」が入門した際の
「殴弟子怨」だけはなぜか公開されておらず記録も残っていない。
歴史上永遠の謎である。
ともあれこの「殴弟子怨」も厳しい修行のスタート地点でしかないのである。
(民明書房刊 「出来レースやないで」より)
「偉 地位」と「呉 糖巻」
時に玄穐11年8月、朝暁寺の「妄無素」追加殴弟子怨が行われた。
厳しい審査の末、入門を許されたのは「呉 糖巻」只一人であった。
この「呉 糖巻」当時の朝暁寺の長老たちをして”頭一つ抜けている”と言わしめる程の天才であった。
たとえ天賦の才の持ち主とはいえ、朝暁寺での修行、生活一般を教える指南役が必要である。
ここで指南役に名乗りを挙げたのが当時頭角を表しつつあった師範代「偉 地位」であった。
「呉 糖巻」は当初、寝坊、雑務をサボるなど当たり前の問題児であったが
「偉 地位」の寝食まで供にする真摯な指導により最低限の作法は身につけたという。
(相変わらず修行はサボっていたようだが)
寺の中で唯一自分を見捨てずに受け入れてくれた「偉 地位」に「呉 糖巻」は
師弟として以上の思慕の情を抱いていたらしく、
「赤派日記帖」には「偉 地位」に対する思いが切々と綴られている。
「今日ノ貴方ハ少シ優シク感ジマシタ。
初メテ稽古ヲツケテクレタ日ノコトヲ覚エテイテクレマシタ。
モウスグ貴方ハコノ寺ヲ出テシマウケレド、次二会ウ時ニハ修行シテモット強イ私ト手合ワセシテクダサイ。 ソシテ(以下欠損の為読めず)」
時に玄穐12年5月、「偉 地位」は新たな戦いの地を求めて朝暁寺を旅立った。
その後の彼女については今後の文献の解析で明らかになるだろう。
果たしてこの師弟の物語はどのような結末を迎えたのであろうか?
(民明書房刊 「世界の秘密結社〜第23巻『いちごま会』」より)
「妄無素」究極奥義「自作自演」
基督暦2000年前後、突然始まった瓦版において頻繁に行われた「自作自演」。
同じく1970年初頭、若い吟遊詩人達によって始まった「自作自演」。
富乳妄忍同盟及び青派の棟梁であり、
中国全土にその名を轟かせていた「妄無素」全盛期の真の指導者「偉 地位」が、
玄穐12年4月、朝暁寺を去る時に残した謎の言葉「自作自演」。
時の権力者突九帝が新たに召喚した若き拳士達があまりに不甲斐なかったのか?
唯一の直弟子である赤派の天才拳士「呉 糖巻」を独り立ちさせるためか?
あるいは突九帝に変わり自分自身が帝になるためか?
今もこの論議は続いている。
いずれにせよ「偉 地位」が朝暁寺を去る時に、
「自作自演」で会える日をの言葉を残していることより新たな文献が掘り起こされるだろう。
(民明書房刊 「バイバイ ありがとう サヨウナラ」より)
「四 素射」と「米愚留」
「四 素射」。第四回殴弟子怨で「妄無素」に追加された四拳士の一人として知られる。
加入当初から古参「妄無素」戦士に勝るとも劣らない力量を誇っていたらしいが、
その力の源は一説によると「米愚留」という食料にあったという。
「米愚留」とは「四 素射」の故郷に代々伝わる戦闘時の非常食で、その原料や
製法などは一切、秘中の秘とされていた。
「四 素射」はこの「米愚留」を食し、なんと三体の分身を作り出す奥義を持って
いたという。三体の分身はそれぞれ「厳辞異」「非意太亜」「零故」と呼ばれていて、
すべてが独自に全く異なる拳を使う。分身を含めた四人で敵を包囲し「怒寸!」の
怒声と共に敵を瞬殺するという恐るべき戦術を使っていたらしい。その勇猛な
戦い振りは、時の皇帝突九帝をして「天才的也」と言わしめたという程。
元々は、四身一体の拳術を使うことから「四 私射」と呼ばれていたが、
師匠の「知 瓶婆」によって「四 素射」に改名されたという記録も残っている。
(民明書房刊 「ベーグル普及委員会埼玉支部広報誌」より)
「哀憂為酒」を呷って繰り出される酔拳は各人の特技を活かし、多種に渡っていた。
「四 素射」は体内の気を掌に集めて一気に放出する技を得意とし、
特に強靭な頭部による頭突きは対峙する者を威圧したが、
御前試合では惜しくも失敗し、額から流血の末敗戦した。
「妄無素」の中でもまだ未熟であった「乃 納魅」は
独自の型を持たず、正統派酔拳を継承していた。
腕を頭上に振りかざし、首を左右に揺らしながら体を沈め、
再び元の体位に戻るという、相手の意表をつく動きを徹底していた。
しかしその未熟さ故、それ以上の動きをすることはなく
繰り返すのみに留まったため、動きを読まれ敗戦に終わった。
「中 裕姐」による酔拳の継承者の中で、
最も畏れられていたのが「亜 威盆」である。
「亜 威盆」が発する超高音の声とともに相手の体が
真っ二つに切断され、即座に死体と化してしまうという
伝説の技「体切二死体」を「中 裕姐」に伝授されていたのである。
無論「亜 威盆」はこの技を御前試合にて繰り出したのだが、
完全にこの技を体得していなかったために失敗し、敗戦した。
「体切二死体」は、正しい音程による発声が必要であったという・・・。
(民明書房刊 「知られざる酔拳の秘奥義」より)
「新生短放砲〜御投刃衆」
これまで大中小3人による連携奥義と思われていた「短放砲」であるが、新たに発掘された文献から
小柄な体格の者もう一人を加えた4人による連携も存在することが判明した。
この4人による短放砲の仔細は未だ解明されてていないが今回の文献研究で帽子と傘状の暗器を用いる
技の存在が明らかになっている。
この技は「御投刃衆」と呼ばれ、読んで字の如く4人が一斉に敵に向かって暗器を投擲するものであった。
文献に残るこの技の代表的使い手は「華 王倫」「知 瓶婆」「李 活乳」「亜 威盆」である。
この4人が呼吸を合わせての傘状の暗器の投擲、受け渡しはほぼ百発百中であり見事なものだったという。
しかしながら連携奥義全体としての4人による「短放砲」には慣れぬ内はややギクシャクしたものがあった
ようで「張切当日、履高下駄大失態」と、失敗を記した文献も残っている。
(民明書房刊「古代における欧州と亜細亜の文化交流〜パスタの起源は中国だった!」より)
「李 活乳」
「李 活乳」は第四回殴弟子怨で追加された拳士の中で
最も体術に秀でた武道家であった。弐番孟板の書物に散見される、
「ソノ歌稚拙ナレド、コト舞踏ニオイテ才ヲ発揮セシメリ」
というくだりは「李 活乳」に関するものだという説が有力である。
その体術は、七日に一度開催されていたという「茶令妄忍」なる
忍術の修行道場にていかんなく発揮された。
「長野天挑五輪大武會」の閉會式を司ったという伝説の忍者
「欽 茶無」が開祖とされる歩行術を「李 活乳」は体得していたのである。
(道場の名は「欽 茶無」の名を冠して創設されたと言われる)
完全に気配を消し去り、「静カナルコト唖ノ如シ」とも謳われたその姿は
「茶唖身」と呼ばれ、忍びの極意として語り継がれていった。
(ちなみに上記くだりは、彼女が喋ったときの周囲の反応のことを謳った
とする説もあるが、真偽のほどは定かでない)
その歩行術の極意は、玄穐十二年十二月に勃発した
「恋愛革命」において兵卒の間に広く伝授されていくことになる。
その極意を啓蒙するための号令、「歩意!」は
革命の乱世にあって最も広く普及した言葉であったという。
(民明書房刊 「挑戦、それは、バラドルへのプロローグ」より)
妄無素の拳士たちの私生活の多くは謎に包まれているが、
なかには結婚し子までもうけた者もいたらしい。
黒江彩という拳士は西洋における最も主要な体術である「蛮怒」の
「怒羅夢」の使い手であった神夜なる者との恋と妊娠が原因となり
朝暁寺を追われたとある。ただ彼女に関しては、
”民明書房刊 「みんなも社長さんも分かる陰陽道」”に
おいて非常に美化された形での記述が残っているが、現実は拳士たちの
恋愛を禁じていた朝暁寺の長老や突九帝が、恋愛を原因として
追放するという形では世間体が悪いので歴史家たちに改ざんさせたようである。
同様の改ざんと思われる書物には彼女が「福蝕出財名亜」なる拳技を極めるため
朝暁寺を出たという記録もある。
また、黒江彩に関する数少ない伝承としては彼女が、「赤流威!」なる奇術
の使い手であったことを紹介している。この奇術がいかなるものであったかは
書物は黙して語らぬがどうやら気合の声の一種であったらしく、聞くものは
なぜか苦笑してしまう類のものであったらしい。
(民明書房刊「鼻ピアスの現代的位相とその変遷」より)
「知 瓶婆」の成長
いかに卓越した「知 瓶婆」の才能をもってしても、
奥義「世苦死光波」(民明書房刊 「中国奇拳百選」参照)
の習得に至るまでには想像を絶する修行をくぐりぬけてきたという。
「偉 地位」「安 打刑」らとともに朝暁寺に入門したばかりの頃など、
才を発揮する十分な場は与えられず、同期生の三人で寄り集まっては
師範代の「中 裕姐」に対する怒りの感情を込め、
「腐殴裕!、音痴裕!」などと言い合っていた。
(その事実を知っていた兄弟子達は、
心を鬼にして厳しい指導を余儀なくされていた状況を
「可愛クナレナイ我哉」と嘆いていたという)
その後、秘めた才能を見出された「知 瓶婆」に、徐々に活躍の場が与えられる。
「世苦死光波」の原型となる「目盛青春光波」を習得した「知 瓶婆」は、
当時棟梁であった「菜 通知」の補佐を努める大役に抜擢された。
その後、技を繰り出す際に多大なの熱量を体内で消費しなければならない
「真夏光波」も習得し、苦難の末「世苦死光波」の体得に至った。
「真夏光波」の習得には兄弟子である「華 王倫」さえも挫折し、
その熱量で「熱射病」にかかったという逸話は有名である。
(民明書房刊 「光波の多様でメラニン増加」より)
「妄無素」の試練
玄穐十三年一月、「妄無素」の巡業修行の様子が民衆に公開された。
常に行動を共にしていた「妄無素」が数人づつに分かれて行動し、
定められた宝物を授かってくる、という試練が
「藤 井穴」大人によって申し渡されたのである。
師範代であった「酎 裕姐」はその自覚を問われ、
単身で巡業に出るという試練を与えられる。
その移動手段には「倍背鋼」(民明書房刊「モーリングよりツーリングを!」
参照)が藤大人から与えられたが、「富乳妄忍」ほど倍背鋼を乗りこなせていなかったのは、
空腹に耐えかねた「酎 裕姐」がやっとの食糧に夢中でありつくあまり、
倍背鋼を置き去りにしていたことからも明白である。
また、「李 活乳」「呉 糖巻」「菜 通知」らは
三人で大海原に漕ぎ出し、「干烏賊」という護符を授かる試練を与えられた。
(なお、このとき使用された「津根」なる乗り物は、
現代における「ふね」の原型となっていることは語るまでもない)
余談ではあるが、キーキーと甲高い声で喋る「李 活乳」を猿に、
魚の化身であると崇められていた「呉 糖巻」を河童に、
満場一致で「菜 通知」を豚にそれぞれ見立てて
この巡業を記した作品が後に「西遊記」として広く知られることになる。
(民明書房刊 「驚愕!!河童も船酔いする昨今」より)
「四 素射」の「妖知恵気裸乳四」
「天才的也」とうたわれた「四 素射」の秘儀がこの「妖知恵気裸乳四」
である。これは、奇妙に折り曲げられた腕と指を、「妖知恵気裸乳四!」の
掛け声とともに敵の目の前に突き出す技である。この技は毎週日曜の朝の
「爬炉母似」なる演武会において上演されていたのだが、朝寝坊な手礼都の民は
この技を痛撃されてようやく目を覚ましたという。
また、不治照尾において同時刻に上演されていた「藁手飯友」なる演武会を
つれづれなるままに見ていて、「妖知恵気裸乳四!」を見逃した人々が
その悲しみと悔しさに一人では耐えきれず、
「友人皆アツマリテ語リ明カソウ也」とつづった書物も発見されている。
ところで、まだ修行を始めて日の浅かった「四 素射」の秘儀「妖知恵気裸乳四」
が、あまりにも強烈な威力を発揮することをいぶかしがった師範代の「酎 裕姐」
がその技をつぶさに観察したところ、どうやら「呉 糖巻」が後ろから
密かに棒と球の組み合わせや紐状の布で支援していたことが発覚した。
このように「呉 糖巻」と「四 素射」は友情を超えるほどの絆で
結ばれていたのだが、この二人の仲の良さをうらやましがり、さらに「四 素射」
に密かに恋焦がれていたという「李 活乳」が「四 素射」にあてた恋文が
このたび発見された。だが、その恋文のほとんどは時代の経過とともに解読不可能
となり、ただ一行のみがこのたび歴史家たちによって解読された。
「愛スル人ヨ…」
(民明書房刊「十五歳、少女三人イケナイ恋愛」より)
「唐王家」
演武会「爬炉母似」では多種に渡る競技が繰り広げられ、
参加者達は日々鍛錬に努めていた。
過酷と言われた競技の中でも、最も熾烈を極めたものが
「唐(から)王家」の御前試合として行われた「羅須斗怖令頭」である。
王家の御前試合であるこの競技は、一対一ではなく多数の選手が同時に闘う、
「王家対戦」(西洋で言うバトルロイヤル)形式にて執り行われていた。
複数の相手と対峙するという過酷さもさることながら、
参加者の士気を否応無しに高めていたのは、敗者に課せられる懲罰であった。
敗者となった者は爆弾と共に狭い檻に閉じ込められ、葬り去られていたという。
さらには死への恐怖を痛感させるため、爆発までの秒読みまで行われていた
ということからも、唐王家の武道に対する辛辣なまでの敬意が伺える。
やがて唐王家の衰退とともにこの忌まわしき懲罰は消えていくことになるが、
その名前は多数で互いの歌唱力を競い合うという「カラオケ」として
現代まで語り継がれている。
また、カラオケ屋にて店員が「お時間の方、残り10分となっております」
と知らせるのは、爆発への秒読みの名残りであることを知る者が
少なくなったことは、時代の移り変わりと言えよう。
(民明書房刊 「自爆女王『知 瓶婆』」より)
「亜未異護」
江戸時代中期に跋扈した魔剣とも、それに宿った妖魔の名とも伝えられている。
野心家の老中・誇霧徹により相模にて見出され、世にはびこった。
体重計が気になるなど人の不満や心の隙に付け入る大変危険な存在である。
これを調伏せんと若年寄・寺田浪花守が集めた妄忍愚七人衆が立ち上がるものの、一度は完敗、
「殴弟子怨」で一人選ばれた眠り某を加えた八人が「羅武真紫印」と言う秘技でようやく退治し、
京のさる場所に地中深く封じ込められた。
これを開けば天下騒乱間違いなしと大変恐れられたとのことである。
(民明書房刊「お江戸の夜はミラクル・ナイト♪」より)
「超骨屠羅武」
「偉 地位」「安 打刑」「呉 糖巻」らは、奥義「超骨屠羅武」により、
その戦力僅か三人にして偉業「魅里怨」を成し遂げた。
途中で仲間割れを起こしたかのような寸劇を交えて
油断した敵の隙をつく技(民明書房刊「集団戦術の歴史」参照)の中で、
すでに「邪無拳」(民明書房刊「ああ矢口様!小さいってことは便利だね」参照)が
この頃から取り入れられていたという事実は、中国史学界に大きな驚愕を与えた。
超骨屠羅武の習得までには想像を絶する過酷な修行があった。
「呉 糖巻」は師範代の「夏 仙聖」から腹筋の増強を命じられ、
また「怖羅封膚」という円形の武具を用いた鍛錬のほか数々の修行のために、
三人だけの山篭りを行ったと伝えられる。
そのあまりの過酷さに、「偉 地位」が高熱で病に伏してしまったほどである。
苦難の末完成した超骨屠羅武の殺傷力は凄まじく、
でん部による左右への同時攻撃などの連携技もさることながら、
各人固有の繰り出す技が対峙する者を震撼させた。
「偉 地位」の「斧憎身出洲寝」、「安 打刑」の「宇々々出洲寝」、
そして特筆すべきが「呉 糖巻」が繰り出す、両腕を広げて体を激しく回転させ、
手刀で相手の頚動脈を横から切り裂く「横頸出洲憎悪」である。
これらの技の名は西洋にまで伝え渡り、
その凄まじさから畏敬の念をとともに"death"という言葉が生まれたことは
英語圏の国々の小学校で教わる常識である。
(民明書房刊 「ドンキホーテで買えるパーカー一覧」より)
心優しき拳士「安 打刑」
拳術、舞踊、歌唱力とともに、一般に容姿の美しさも必須条件とされていた
「妄無素」の拳士たちであるが、その条件に照らして言えば「安 打刑」の
存在は疑問が残る。当時の多くの証言からは彼女が不美人であったことは
疑いの余地がないことである。また、その舞踊の実力と歌唱力に反し、
全ての演舞会で一度も中心(選他阿)になったことがないことから、やはり
彼女の容姿が大きく劣っていたことは間違い無いだろう。
されど、顔の造作とは対照的にその心は優しく美しいものであったという。
「偉 地位」が、さらなる修行のため朝暁寺を出る時も、
「富乳妄忍ハ永遠ニ、三人也!」と「葡萄姦」での「最終演舞会」に
おいて涙ながらに叫んだのは、その優しさのあらわれであろう。
さて、その「安 打刑」が、使った拳技に「模在躯」なる技がある。
この技は、
「躯ガソコニ在ルカノゴトク模シタ技」
と文献には残るが、具体的には不明な点も多い。その唯一の使用例が、
「個々夏」たちの出身地である「歯猥」なる島国で、早朝「藤 井穴」大人に
修行のため奇襲攻撃を受けた際に、
「模在躯カケテ下サイヨ〜(`.∀´)」と発言したことである。
これは、「安 打刑」が、自らの顔が、しかもノーメイクの寝起きの不美人な顔が、
公共電波に乗るのを恥じたために、「(美しい顔が)そこに在るように模す」
ことを希望して発言したというのが通説である。だが、我々「安打汚太」学派は、
これとは異なる学説を持つ。それはつまり、整っていない顔面の造作
そのものが凶器となり、多くの人間を殺傷してしまうことを、「安 打刑」自身が、
よく理解しており、無用の殺生を避けるためにあえて、彼女自身が
「模在躯」を希望したのではないであろうか、という説である。
そして、そんな優しさこそが、「圭ちゃん、萌え〜」となる原因であると
思われるのだが、その学説は広く支持されず「安打汚太」たちはどこに行っても
奇異の目で見られるかネタにされるのが現状なのである。
(民明書房刊「富津漁港漁獲高年鑑、1980年度版)より」
「偉地位汚太」
玄穐十二年五月、「偉 地位」が究極奥義「自作自演」
(民明書房刊「バイバイ ありがとう サヨウナラ」参照)
を体得すべく朝暁寺を去ってからというもの、
「妄無素」は語るに及ばず、取り残された「偉地位汚太」なる親衛隊の
士気低下は否めることができなかった。
偉地位汚太の構成員は「偉 地位」への忠誠心が特に厚く、
組織を解散せぬまま連日連夜寄り集まり、「座通団」を開いていた。
そんなある日、一人の武器商人が現れ、戦力増強にと二つの武具を紹介した。
まずは防御力を高めるための「須令盾」という盾が差し出された。
すぐさま偉地位汚太は多くの須令盾を実行した、もとい購入した。
さらに攻撃力増強の矛として、「地耶矛」(またの名を「紗耶離矛」)の紹介を受け、
偉地位汚太は須令盾と地耶矛で次第にその版図を広げていった。
そうした偉地位汚太の勢力拡大を快く思わなかった男が「自 治厨」であった。
反目を顕にする「自 治厨」に対し偉地位汚太は、
「地耶矛ニ貫キ通セヌ物ナシ、
須令盾モマタ、イカナル刃モ跳ネ返ス最強ノ盾也」
と脅しをかけた。すると「自 治厨」は、
「ナラバソノ地耶矛ニテ、ソノ須令盾ヲ(以下略
(民明書房刊 「故事成語辞典 【矛盾】」より)
「貪邪羅」
群雄割拠する玄穐の乱世にあっては、
武道集団「妄無素」の戦力たるや引く手数多の活躍ぶりであった。
当時、妄無素をはじめとする武道家を戦力として雇う場合、
「義屋羅」という報酬を支払うのが通例であったが、
各々が一騎当千の戦力に値する妄無素の義屋羅ともなると、
全員を一度に雇うことはよほどの富豪にしか叶わぬ所業であった。
そのため妄無素は位の高い官僚に雇われることが多かったことから、
義屋羅ではなく「救僚制」の報酬で雇われていたと伝えられる。
全員を一度に雇えない者たちは、妄無素を数人に切り分けて雇うという
方法をとっていたが、妄無素の中でも実力のある者は活躍の場が多く、
すぐには雇えないという状況が問題となっていた。
そこで、誰を雇うかを互いに平等に決するため考案されたのが
「貪邪羅」というやりとりであった。
それぞれ不要な武道家を捨て、他人の捨てた武道家を
「本!」という発声とともに自分のもとに引き入れるという、
ある種人身売買ともいえる行為がなされていたのである。
奥義「名羅拳」「体切ニ死体」等の使い手「亜 威盆」や、
「歩意!」で知られた「李 活乳」らは
その実力から貪邪羅で売買されることが多かったが、
その重圧に「亜 威盆」は耐えることができず、
若くして額の毛髪が後退していたという事実には驚嘆するばかりである。
現代の無垢な子供達が歌う童謡「モニの子ハゲでドンジャラほいっ!」
の背景には、こうした哀しい物語が隠されていたのだ。
(民明書房刊 「おいきたろう、恵からアガってどうすんねん!」より)
「玉蜀黍空風」
類い稀なる才能と実力を持ち合わせた「菜 通知」に関して、
「妄無素」の集団武闘においてしか力を発揮していないことを
不憫に思っていた者は少なくなかった。
そこで突九帝は「菜 通知」に対し、妄無素からの独立を密かに言い渡していた。
そこで「菜 通知」は「乳余憶」という地にて単身修行を行い、
集団武闘とは違った個人技を次々と体得していった。
大地をも砕くといわれた蹴り技「祖呂遮身蹴」や、
相手を灼熱の炎に包み込む「死暗封椎江霧朱通炎」、
そして、風を巻き起こして相手を吹き飛ばす究極奥義「玉蜀黍空風」などである。
玉蜀黍空風の威力は神業として怖れられ、
「ソノ風、神ト無邪気ニ遊ブガ如シ」と比喩されたほどである。
ところが独立を目前にした矢先、突如として妄無素の二人の拳士が朝暁寺を去った。
「黒 江彩」(民明書房刊「鼻ピアスの現代的位相とその変遷」参照)
と
「偉 地位」(民明書房刊「バイバイ ありがとう サヨウナラ」参照)である。
そうした状況下で、さらに妄無素の戦力が減ることを危惧した突九帝は、
やむなく「菜 通知」の独立を見送ることを余儀なくされてしまった。
(一説によれば、「菜 通知」の予期せぬ体重増加のため、
独立に見合う実力が発揮できなくなったことが原因ともされるが、詳細は不明である)
いずれにしろ「菜 通知」の落胆ぶりははかり知ることができないものであったが、
そんな折に「菜 通知」を励ましていたのが、同郷の「華 王倫」であった。
その友情に関し、「菜 通知」は次の言葉を残している。
「優シイ『華 王倫』ガ勇気ヲクレマシタ」
(民明書房刊 「最後の砦、スパモも終了」より)
「王総労」
「御投刃衆」等、数多くの集団戦術を体得していた「短放砲」だが、
その戦術のイロハを記した「王総労」という指南書の存在は一般には
殆ど知られていないのが現状である。
当時印刷技術がまだ無かったにもかかわらず「短放砲」はこの指南書を
数千部も発行し、中国の主要な都で配布していたというのは驚嘆に値する。
「華 王倫」が編集の指揮を担っていたことから「王・総・労」との名が
付けられていたが、当の本人は会議を欠席することが多く、実際に場を
仕切っていたのは副将「知 瓶婆」だったらしい。
他に「李 活乳」は武術家の悩みに対する指導、「亜 威盆」は中国各地に
伝わる奇拳怪拳の紹介を担当していたと記録にある。
この「王総労」が配布される日は、是非とも手に入れたいという武芸者達により
中国各地で長大な列が出来たという。その熱狂ぶりは凄まじく、「王総労」が遠く
我が国に伝来した際に、形容詞「恐ろしい」の語源になったとも言われている。
この「王総労」日本でも評価は高く、「藤原紀香(ふじわらののりか
871〜?)」
などの平安貴族も愛読していたらしい。
(民明書房刊 「編集長・休みだと・あいぼん野放しイイ感じ!」より)
差魔奈異
玄穐十年五月、「知 瓶婆」「偉 地位」「安 打刑」という新たな三戦士を
加えた「妄無素」が編み出した戦術の一つ。それが「鎖魔奈異」である。
前陣に手練の戦士、後陣に新米の三名を配した陣形は非常に攻守に優れていた
という。しかし「差魔奈異」の真の恐ろしさはその連携攻撃にあったらしい。
まず「大機雷」という攻撃を三度続けて上段に放つ。対峙する者は皆四度目を
予測して身を構えるが、今度は一転して「大隙」という大技を中段に繰り出す。
大抵の者は上段を防御しているので、そこに文字通り大きな隙が出来てしまい、
最後の攻撃を腹部にまともに食らい呻き声と共に地に沈んだという。
なお、多彩な前陣の攻撃に比して、後陣の三名には「報友」及び「有恩忠」
という二種の支援行為しか許されていなかった。これは実力主義の「妄無素」
では当然のことで、「早く一人前の戦士になりたい」という願いから、
三名は寝る間も惜しみお互いに枕を投げ合うという鍛錬を続けていたという。
ただこの枕投げに関しては、当時三名を厳しく指導していた「酎 裕姐」への
鬱憤晴らしだったという諸説も存在すると付け加えておこう。(民明書房刊
「光波の多様でメラニン増加」参照)
また、ある文献には、異民族の武術集団である「個々夏」もこの「鎖魔奈異」を
真似て使用していたものの完全には使いこなせず、強さでは「妄無素」には遠く
及ばなかったとの記録が残っている。
(民明書房刊 「スマイルは3つでもタダです」より)
「覇秘差魔」
第四回殴弟子怨で追加された四人の拳士達が、
最初に参加した戦術が、この「覇秘差魔」であった。
「差魔奈異」(民明書房刊「スマイルは3つでもタダです」参照)と同様、
新入りの四拳士は「阿嫌々」及び「廃々」の二種の支援攻撃を担当していた。
記録に残る中では「妄無素」最大の人数にて繰り出すこの戦術は、
師範代の「酎 裕姐」を中心に配置し、それを取り囲むように
「発破羅覇之発場」という陣を組む秘奥義「翔拳凱奢乃巣戯摸徒散」が
他を圧倒していた。加えて、「知 瓶婆」が繰り出す跳び蹴りは、
著名な格闘家であるブルース・リーの載拳道のルーツとなっている。
しかしながら、技の完成を見てから僅か四日にして
「偉 地位」が朝暁寺を去ったため、最大威力の覇秘差魔を目にした者は
ごく僅かである。妄無素の技の一部始終を記した、「風呂妄書」にも
この技は記載されているのであるが、「偉 地位」に関する記述は少なく、
まるで最初から存在していなかったかのような記述から「偉 地位」を
見つけるのは至難の業とされている。
こうして完全型の覇秘差魔は、時代とともに人々の心から消えてゆくことになるが、
その芸術的な身のこなしから派生した動きは民族舞踊として後世まで継承され、
婚礼の儀に若い女性が披露する踊りとして現代でも目にすることができる。
その踊りは、技を繰り出す際のかけ声に由来して「パラパラ」と呼ばれ、広く親しまれている。
(民明書房刊 「お前たちも一緒にゾナパラ踊るゾナ!」より)
「王得怒の戦い」
玄穐十ニ年十月、「虚塵国」と「代英国」という二つの大国が天下を二分しての
戦争を行ったのはあまりにも有名な話であるが、時の武術集団「妄無素」も
この戦いに関与していたという史実は一般にはあまり知られていない。
とは言っても「妄無素」は直接戦地で戦ったわけではなく、合戦の前に行う
「始球の儀」という儀式にのみ参加したらしい。これは、名のある武術家が白球を
的に向かって投げるという儀式である。戦を前に緊張した兵卒達に武術家の勇姿を
見せることで軍全体の士気を高めるという狙いがあったようだ。
「妄無素」は元々、練習試合「御音妄」の一種目である「猛輪具」という
競技において白球を投げる訓練を日々積んできていることもあり、「始球の儀」の
大役に選出されることとなった。「妄無素」を代表しこの儀を勤めた「呉 糖巻」だが、
投じた球は方向こそ合っていたものの、的まで距離が届かず、皆からは失笑がもれた。
このことが原因かどうかは定かではないが、「代英国」はこの後四日続けて敗れ、
「虚塵国」に天下一の座を奪われてしまった。「呉 糖巻」の名前は、このとき影で
ささやかれた「誤投負け」という陰口が転じたものだとする学説もある。
また投球に自信のあった「華 王倫」は「自分が投げていればこんなことには
ならなかった」と怒りをあらわにしていたという。このことから「虚塵国」と
「代英国」の二国間の戦を後に「王得怒の戦い」と呼ぶこととなる。
(民明書房刊 「城島さんのサインがフォークだったんですよ」より)
「菜 通知」余話
拳闘集団「妄無素」において中心的存在であった「菜 通知」には、
いくつかのエピソードが残っている。
「選他阿」の変更、「派跡輪利」などの「妄無素」の拳士たちにとって、
その実力評価の象徴とも言える決定事項は、文章によって通知されるのが
普通であった。ところが、「哀憂為酒」において、唐突に「選他阿」が
「呉 糖巻」に変更になり、また「菜 通知」には「祖呂派跡」が一つも
与えられなかった。この、彼女にとっては屈辱的な決定事項は、事前に全く
「通知」の無かったものであり、これ以来、いくつかの文献に彼女の名を
「菜 通知」ではなく、「無 通知」と記されることとなった。
もっとも、「無 通知」と呼ばれるようになったのは、そのムチムチした
身体をあらわした擬態語であるとも言われているが真相は定かではない。
また、次のような話もある。
「無 通知」は夜毎、朝暁寺を抜け出し、いずこかへ雲隠れすることが頻繁であった。
どうやら、「御塩」なる恋人のもとへと通いつめていたらしいのだが、本人たちは
恋愛関係にあることをかたくなに否定し、夜な夜な西洋仕掛けの電子玩具に興じていたと
言い訳していた。後に、「無 通知」が極度の肥満によりその容姿が著しく衰えるにつれ、
「御塩」にも捨てられることになる。
長い時を経て、世界中に広まるその西洋仕掛けの電子玩具は,
そんな彼女の衰えていく有様を評して次のような名前で知られることになる。
「婦劣捨」と。「婦人」ノ(容姿が)劣リ(男に)捨テラレル、と文献は語っている。
これこそが我々が日々、手にしてる「プレステ」の語源であることは、
言うまでもないだろう、とまで言ってしまったらさすがにこじつけであろうか。
(民明書房刊 「それでもイカ食べちゃうだべさ(
● ´ ー ` ● )」より)
「般恥裸」
「亜 威盆」が得手としていた奥義「般恥裸」は、中国武術史上において有名な技の一つである。
「般恥裸」は特に「炉離恨」なる流派の使い手に対して効果的であったという。
「御投刃衆」(民明書房刊「古代における欧州と亜細亜の文化交流
〜パスタの起源は中国だった!」参照)において
不完全ながら「般恥裸」の原型となる技を身につけ、「魅尼妄忍
邪無拳臂四」
(民明書房刊「ああ矢口様!小さいってことは便利だね」参照)で
ついにその奥義を完成させた。「般恥裸」の破壊力たるや凄まじく、
「実強磐」という実に強靭な磐をも飛ばしてしまう程の威力であった。
「亜 威盆」との連携を多様していた「乃 納魅」もまたこの「般恥裸」を体得し、
それは玄穐十三年早々に開催された「覇炉腑魯」なる大武會で炸裂した、
「魅尼妄忍
邪無拳臂四」において観衆の目にさらされた。
「般恥裸」は使い手の個性によっては不得手とする者もおり、
「空瑠」で「御徒胡摩江」と言われた「四 素射」には到底使いこなせぬ奥義というのが定説であった。
ところが「四 素射」は人知れず修行を積み重ね、
とうとう「般恥裸」を超える究極奥義、「般喪炉」の完成に至ったのである。
神々しいまでの輝きを放つ「般喪炉」は、「炉離恨」以外の流派の者にも絶大なる震撼を与えた。
「四 素射」からまさかこのような究極奥義が生み出されたということに対する驚嘆は、
その動きになぞらえた「ゾンビが鷹の子を生む」という諺として現代まで語り継がれている。
(民明書房刊 「そぉとぉ強引な売り出し戦略、見事にハマる」より)
「保自底舞」と叫びつづけた「李 活乳」
その女性的な面影と立ち居振る舞いから、あるいは本当に女性
だったのではとの伝説が諸所に残っている「李 活乳」であるが、
例え本当に女性だったとしても、それでもなお尊敬すべき真の闘士であると
皆が認める理由が、この「保自底舞」である。
「常ニ自分忘レズ、ソノ心ザシを保持シ、ドン底ナ時ニコソ、士気ヲ鼓舞スル」
あらゆる困難に見舞われた時も、「保自底舞」と連呼する事で、
消え入りそうになる皆の勇気を奮い起こしたとされる。
「李 活乳」に関するもう一つの興味深いエピソードに「知闇」がある。
古代中国において、この世の全ては陰と陽の二つからなるとされていた。
表裏一体という言葉もあるように、真にその力を発揮しようとするには、
外面と内面が分離していてはいけない、
物事の負の面もあえて知ろうとしなければならない、
そのような教えが「知闇」である。
「保自底舞」によって前向きである事の強さを示した「李 活乳」は、
当然の事ながら「知闇」を習得済みであり、
「李 活乳」自体を畏敬の念をこめて「知闇」と呼ぶ場合すらある。
後世この二つの事例もとに、
「魔力を持った歌・文句」(ラテン語において)という意味や、
「女性的な魅力・美しさ」という意味の「チャーム」という言葉が生まれたのは、
周知の事実である。
(民明書房刊 「チャオ! プリティ長島でした」より)
「焼 吟南」と「音場放月刀」
「妄無素」の歴史を語る上で案外と忘れられがちなのが「焼 吟南」だろう。
「焼 吟南」は「六暴家裏主斗殴弟子怨」の難関を突破し初代「妄無素」
を結成した五人衆の中でも最年少の拳士として知られる。
体躯にこそ恵まれなかったものの、大人顔負けの非常に堂々とした闘いぶりで、
実戦においてその実力を如何なく発揮していたという。
入門して間もない頃参戦した「芽茶池」という戦において、大技
「邪衣暗斗素淫具」を三度にわたって食らいながらも決して倒れず
闘いぬいたという武勇伝は、今でもよく語られるところである。
さて「菜 通知」と共に「妄無素」の主力戦士だった「焼 吟南」だが、
勉学を極めるためにやがて「妄無素」を離れることとなる。
玄穐十一年四月、「焼 吟南」が「妄無素」を去る際に「妄無素」の七名は
「音場放月刀」という伝説の宝刀を贈ったとされている。文献によると、
これは三日月型の形状をした刀で、投げるとやがて元の場所に戻ってくるという、
今でいうブーメランの様な武器だったらしい。
これには「焼 吟南」への「いつの日か帰って来て欲しい」という願いが
込められていたという話であるが、残念ながら「焼 吟南」がその後
「妄無素」に復帰したという記録は残っていない。
(民明書房刊 「おなじ13さいとはおもえないのれす」より)
「酎 裕姐」の脱退
玄穐十三年二月、酔拳の達人として知られていた「酎 裕姐」は、
「妄無素」師範代としての自らの力を試すかのごとく、
集団武闘とは違った独自の奥義「紅椰子名魅陀幌里」を完成させた。
「亜 威盆」「乃 納魅」らが「般恥裸」で「炉離恨」流の者達を
一網打尽にしていたのに対して、「紅椰子名魅陀幌里」は「音菜野色氣」を発して
「炉離恨」流以外の者を次々と打ち負かしていたという対極的な技である。
「酎 裕姐」が発する「音菜野色氣」は五大陸にまで影響を及ぼしたとされ、
太陽系、銀河系、大宇宙、さらには「神聖域」という聖なる場所にまで響き渡り、
果てには「泥江鵺」なる妖怪をも屈服させていたという。
「紅椰子名魅陀幌里」を繰り出す際には、虎と猪の牙から作られる武具、
「虎猪貴王具」が用いられていた。「酎 裕姐」は己の能力を最大限に発揮するため、
自ら鍛造した「虎猪貴王具」を愛用していたとされる。
のちに、その「虎猪貴王具」に隠された秘密が解き明かされることになる。
「虎猪貴王具」は、「焼 吟南」の「音場放月刀」と同じく
「妄無素」を去る決意を固めた「酎 裕姐」の忘れ形見であったのである。
その事実は「酎 裕姐」が金色の道着に身を包んで臨んだ「貴遮開圏」における
大武會で明らかとなった。
その後の「酎 裕姐」の消息についてはまだ不明な点が多くあるが、
一説には「妄忍愚桝駆」と名を変え、しばしば「妄無素」の前に
姿を現していたとされるが詳細は定かではない。
(民明書房刊 「俺のメール、ANNで一通も読まれず」より)
忘れ去られし拳士「丙 卦道」
「妄無素」が最初の「殴弟子怨」である「六暴家裏主斗殴弟子怨」の落選者たちから
創られたことはよく知られているが、その勝者である「丙 卦道」はその後、実に
悲劇的な生涯を送ることになる。拳士たちの実力評価の基準でもある「御離婚茶亜徒」に
においても常に「妄無素」の後塵を拝すことになり、次第に世間からもその存在を
忘れ去られていくことになる。だが、大武會「覇炉腑魯」、「媚娼徐尼希」への地道な出演や
「哀鎖餓」での「酎 裕姐」との一年近い修行の成果からか、遂に究極奥義「血極 倍、倍、倍」
を完成させた。
この技は、三年近くないがしろにされひのめを見なかった
自らの境遇を激しく巨大な怒りにかえ、体中の血液を一点に集中させることから始まる。
それを二人の付き人の拳士たちとともに、ヒラヒラと動かした両手のひらから
放出させ、「倍!」の一声で二倍、四倍、八倍と徐々に威力を増していく技であった。
だが、悲しいかな、「覇炉腑魯」の全面的な援助を受けたこの技も全くヲタどもに
対して殺傷力を発揮することが出来ず、拳士としての力量を問われた「丙 卦道」
は完全に表舞台から去ることとなってしまう。「倍!、倍!、倍!」などと言ってる
うちに本当に自分たちからバイバイしていなくなってしまいそうないきおいの「丙 卦道」
を称して、当時の歴史家たちが、既に女の盛りは終わった、と彼女のことを
「丙 卦道」ではなく「閉 経道」と史書に記しているのを見るのはなんともやりきれないほど
悲しいものである。
(民明書房刊 「パッシモニでも何でもいいからウチを使ってぇな」より)