モーニング優駿。

(よし!いいスタートだわ!)

いつものように真っ先にゲートを飛び出して、2コーナーのカーブへと差し掛かる。
なつみが手綱を動かすまでもなく、すんなりと先頭に立つと、
どんどん後続との差を広げて行く。
ターフビジョンに差が映し出されたのか、スタンドからはどっと大歓声が飛ぶ。
その差はおよそ20馬身。
馬も気分よく逃げている。

長い向こう正面を走り抜け、なつみは第3コーナーへと差し掛かった。

(よーし!これでもらったかな?)

その刹那、馬はわずかにバランスを崩した。
そして次の瞬間、なつみはもっとも味わいたくない感触を手綱から、そして全身で感じた…
「バキッ!!」

―美浦トレーニングセンター 3:00a.m.―

(はっ!)

なつみは目を覚ました。パジャマが汗でぐっしょりとぬれている。

(ああ…またあの夢か…)

なつみがよく見る夢。
今から3年前、
女性騎手としてデビューしたばかりの彼女に、初めてのG1タイトル、
そしてあふれんばかりの名声をプレゼントしてくれた稀代の逃げ馬、サイレンスアスカ。
その最期となったレースである天皇賞(秋)の夢であった。

(私もまだ吹っ切れてないんだなー。……あ、調教付けないと。)

なつみは手早く身支度を済ませ、厩舎へと向かった。
今日はその、天皇賞(秋)の日である。

「おはよう!なっち。今日は何に乗るの?」
「あ、おはようございます!…今日は一鞍もないんですよー。」
あの事故以来、なつみは極端なスランプに陥った。
どうしても、勝負どころで一瞬躊躇してしまうのである。
童顔に似合わぬ大胆な騎乗で勝ち星を重ねてきたなつみにとって、
その一瞬のためらいは即成績に反映してしまう。
それ以来お手馬も1頭減り、2頭減りしてゆき、
いまでは騎乗がない日も珍しくないほどまでになってしまった。
「なっち、おはようさん。どや?調子は。」
「あ、つんく先生…」
「そんなにいい馬だったら…私なんかより紗耶香とか矢口に乗ってもらった方が…」
「何を遠慮しとんねん…んー、まあ、しゃあないか。とりあえず鞍上は未定や。
 もし乗る気になったら、いつでも声かけてくれ。ほなわしは府中行くから、な。」

(つんく先生…どうして私なんかに…)

なつみは複雑な心境だった。
つんく師にいまでも気にかけてもらっていることをうれしく思う反面、
そんなにいい馬に乗せてもらって、
その馬の才能の芽を自分が潰してしまうかもしれないことに抱く漠然とした恐怖。

(どうしたらいいんだべ…)

調教も終わり、厩舎へ戻るなつみの足取りはこころなしかゆっくりであった。

「なっち!どうしたの?」
「あ、圭ちゃん…あれ、どしたのさ?今日は騎乗ないの?」
「う…悪うございましたねぇ。
 毎日王冠で失敗したせいでイエロースカイブンおろされちゃいましたよーだ。」
「あ…ごめん…」
「いーのいーの。私にはまだG1には早いって事よ。
 それに、今日はみっちーが乗るって言うから。今日はテレビ観戦。」

保田圭。
なつみの競馬学校での同期。
だが、活躍馬にはめぐまれず、今回もお手馬から下ろされてしまっている。

「へー、みっちーが乗るんだ!どうなるかなぁ・・・」
「なっちもいっしょに見るでしょ?」
「うん。」


― 東京競馬場 3:25p.m. ―

(よっしゃ!やっと巡ってきたチャンス!圭坊には悪いけど…絶対ものにするでー!!)

平家みちよ。
なつみたちの同期で競馬学校を主席で卒業するも、
落馬事故のため長期にわたって騎乗出来ない日々が続いていた。
苦しいリハビリに耐え、ついにG1の表舞台に登場。

スターターが台上に上がる。大歓声。

天皇賞(秋)GI。ファンファーレが響き渡る。

(よし!スタートはまずまずやね!)

いっせいにゲートを飛び出す18頭。
平家鞍上のイエロースカイブンは4、5番手。絶好の位置どりである。
そして…どよめき。
(なんや?・・・逃げ馬が出遅れたんかいな。)

レースは淡々としたペースで進んで行く。
イエロースカイブンは折り合いもついて、手応えもいい。
長い向こう正面も終わり、各馬は第3コーナーへと進んで行く。

(これは・・・いけるか?)

― 同時刻 美浦トレーニングセンター ―

「ねえねえなっち!みっちーいいよ!行けるかもよ!」

そのころ、なつみと圭は、厩舎の大仲(休憩室)でテレビ観戦していた。
「さあ第3コーナーを回っていよいよ勝負どころ!先頭ラブシードのリードはほとんどなくなってきた!
 イエロースカイブンが並びかけていく!4コーナーに差しかかって先頭は3、4頭だ!」

「きゃー!!!みっちー!!!」
「圭ちゃんも人がよすぎるっしょ…自分が下ろされた馬なのに…」
「え?なっち、なんかいった?」

「さあ、直線に向いて先頭はイエロースカイブン!」

― 東京競馬場 ―

4コーナーを回って先頭に立ったイエロースカイブンと平家。
府中の直線は500m。しかし馬の手応えはいい。

(よっしゃ!これなら押し切れる!)

平家は右ムチを1発いれた。
鋭い反応をみせるイエロースカイブン。
後続との差は約3馬身まで広がった。
「さあ、残り400m、坂にかかった!
 しかしイエロースカイブン、脚色は衰えない!
 リードを保っている!」

(やった!ついにうちもGI初制覇や!)

「残り200メートル、坂を上りきって先頭はイエロースカイブン!
 しかし大外からすごい脚!
 一気に差を詰めている!これは・・・」

(え?なんやなんや?)

そのとき、外から一陣の疾風が駆け抜けた。
「大外からレッドダイアリー!イエロースカイブンを捉えた、そして一気に交わした!
 先頭はレッドダイアリー、そのまま1馬身半差をつけてゴールイン!」
「出遅れたレッドダイアリー、最後の直線でものすごい脚を見せました!
 レッドダイアリーと後藤真希、天皇賞(秋)を制覇しました!」

(なんやあの脚は…しかも、真希の馬、逃げ馬やったんちゃうの?)

馬を止めにかかりつつも、平家は馬上で半ば放心していた。
後藤真希…今年デビューの新人でありながら、その大胆な騎乗で勝ち鞍を伸ばしている、
脅威の新人。
そして平家は、見事なまでにそんな彼女のパフォーマンスの引き立て役になってしまったのであった。

― 美浦トレーニングセンター ―

「ええっ!うっそお!・・・・・・」
「あれって・・・真希の馬だべ?逃げ馬のはずっしょ?」

テレビでは、勝利騎手インタビューを流している。
「見事、天皇賞(秋)をレッドダイアリーで制しました、後藤真希騎手です!」
「ありがとうございましゅー。」
「逃げ馬のレッドダイアリー、最初に出遅れたときにはどうでしたか?」
「えっとぉ、あれは作戦なんですよぉ。先頭に立つレースをしてた馬ですけどぉ、
 ほんとうは後ろから言ったほうがいいんじゃないかって。」
「・・・・・・そうですか。道中最後方でしたが、では不安はなかったと。」
「いやー、どんな馬でもレース中は不安ですよー。」
「・・・・・・まあ、そうでしょうが。では最後に、ファンの皆さんへ一言。」
「これからもがんばりまーしゅ。」

「ねえなっち、作戦だってさ。うそばっかり。たまたま上手くいっただけだよねぇ?」
「・・・」

(いや、真希だったらやりかねないっしょ。あの子は…)

なつみは、自分が乗っていたサイレンスアスカと重ね合わせながら考えていた。
サイレンスアスカも、4歳までは素質馬といわれながら後方からのレースで負けを繰り返してきた馬である。
自分の騎乗のときに逃げ戦法をとってそして数々の栄冠を勝ち取ってきたのだから…
もっとも、いきなりGIの舞台でその戦法を取ったわけではなかったが。

「なっち?なっち!」
「・・・あ、ごめん圭ちゃん。なっちちょっとぼーっとしてたさ。」
「もう!最近いつもこうなんだから・・・」

ともかく、後藤真希、GI制覇である。

― 翌々日 美浦トレーニングセンター ―

後藤真希の衝撃の天皇賞制覇から2日後、月曜の全休日も明けた火曜日。
なつみは朝の調教も終え、厩舎地区を歩き回っていた。
騎手、その華やかな側面とは裏腹に彼女らも個人事業主である。
よりいい馬に乗せてもらうためには日ごろの営業活動は欠かせない。
ましてや、最近不調のなつみにとっては調教師の方からお呼びがかかるなんて事はまずない。
つんくから「期待馬にのってくれ」などといわれるようなことは、むしろ例外である。

そうして、厩舎廻りを一通り終えようとした頃、なつみはつんく厩舎から出てくる人影を見た。

(!・・・・・・あれは・・・真希?!)

「・・・・・・すからね。じゃ、つんく先生、よろしくお願いしまーす。」
と言うと、真希はなつみの姿を認めたのか、小走りに駆け出していった。
話の内容は完全には聞き取れなかったが、どうやらなつみに聞かれてはまずい話らしい。
あわててなつみもつんく厩舎へと駆け込む。

「つんく先生、真希はなんでここに?」
別につんくは慌てるそぶりも見せずなつみに向き直る。
「なんや、見てたんか。いや、あんなあ・・・」
つんくの話によると、真希はつんくがなつみに「乗らんか?」といっていた
期待の新馬に、「私を乗せて!」と売りこみに来ていたらしい。
「なんせ後藤の奴、『安倍さんは私なんか乗れないって言ってたんですよね、じゃあ私が!』
 なんて言うてもうえらい勢いや。大変やってんで〜。」
「それで、つんく先生…」
「まあ、今のところは未定や。でもな安倍…」

「でもな安倍、おまえがあくまで乗る気がないならあの馬は後藤のお手馬や。
 こないだの天皇賞も勝ったし、あいつはもはや完全に一流どころのジョッキーなんやからな。」
なつみの胸にふつふつとある感情が湧き上がってくる。言葉では表現し切れない、なにかが・・・・

一瞬の間があって、なつみははっきりと、力強く答えた。
「つんく先生、私に乗らせてください!」

「わかった。」つんくはそういうと前歯を輝かせた。
「ほな、馬を見てもらおうかな。安倍、お前見たら絶対びっくりするで。」
というと、つんくはなつみを伴って馬房へと向かった。

「こいつや。」
なつみには信じられない光景がそこにあった。
毛色といい、流星といい、両前足のハイソックス(要するに白いのである)といい、
3歳馬でまだ幼げな様子をのぞけば、「あの馬」にうりふたつだったのである。

「どや?びっくりしたやろ。」なつみは声もない。
「父サンデーサイレンス、母アスカ。そう、サイレンスアスカの全弟や。」

(この馬を・・・私に・・・)

「せやからお前に乗ってもらいたかってん。な?分かるやろ?」
なつみはいつしか涙目になっていた。そして大粒の涙をぼろぼろこぼす。
「おいおい・・・今から泣いてどないすんねん。この馬で泣くのはGI勝ったときやで?」

「つんく先生・・・ありがとうございます・・・」
そして新たな戦いが始まるのである。